第17課 死の彼方

目次

死の現実

「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1章31節)。

天地創造後の地球は、とても美しいものでした。空とぶ鳥にも、野をかざっている花にも、牧場の動物にも、人間にも生きる喜びがあふれていました。しかし人間が神から離れたときに、生命の喜びは失われ、罪の結果は自然界にもあらわれてきました。それまで自然は神の品性をあらわしていたのですが、罪が入ってからは、悪の性質もあらわすようになりました。人間は自然を通して、神の姿とともに、罪の結果に対する警告を受けるようになりました。

罪のもたらした最大ののろいは死でした。ある人は「死を恐れる必要はない。私たちは死にあうことはない。私たちが死ぬときは、もはや何もなくなるのだから」と言いました。また、「人間は子どもを生むことによって、自己の一部をいつまでも伝えることができるのだから、死を恐れる必要はない」と言った人もいます。

戦後、戦犯者としてフィリピンに残された人々の中に、聖書を熱心に研究した方々がいました。収容所を訪問した宣教師の話によると、すでに死刑の宣告を受けている人もいて、毎週の集会出席人数が1人、2人と減っていったそうです。刑の執行は3時間前に知らされたとのことですが、それでも彼らは死を見つめて熱心に聖書の光を求めました。信仰を持った人々は心に平安と、希望をもって死にのぞむことができましたが、それでも眼前に控えた死は厳粛な問題です。

しかしいつか必ず直面する死というこの厳粛な事実を、だれも否定することはできません。そしてそのときになって、だれに助けを求めても、たとえ巨万の富を積んだとしても、どんな方法をもってしても、人間は死をまぬかれることはできないのです。

死は冷酷な人生の事実です。しばらくの間、私たちはそれを忘れていることができるかもしれません。しかし死はいつかその研ぎ澄ました刃を、私たちの心臓に突きつけるのです。私たちの切なる哀願、渾身の努力や抵抗、嘆きに一顧をも与えず、人生のすべてを葬り去ってしまうのです。

「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)と聖書は告げていますが、その事実の厳粛さは、これに直面した者のみが知るのです。

死とはなにか

そもそも死とは何でしょうか。人間が初めにつくられたときの記録が、創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と書かれています。すなわち人間の体は、土の中に見いだされる元素から構成され、神が「命の息」をお与えになって生ける者となったのです。

伝道の書12章7節に人間の死についての描写があります。「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」。この「霊」というのは何なのかを調べてみると、やはり「命の息」という意味です。したがって人間が死ぬときには、つくられたときの反対に、肉体から「命の息」、すなわち神からきた人間を生かしている生命が取り去られるのです。

死という状態は、聖書の中で眠りといわれています。すなわち無感覚な状態なのです。

死後の霊魂について、いろいろな考えがあります。しかし聖書は「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」(伝道の書9章5、6節)と言っています。一般に、死んですぐ天国に行くと考えられているのは、聖書の教えではありません。

降霊術は死者の霊と交信ができると主張していますが、それは本当の死者の霊ではなく、悪霊の働きです。「あなたがたのうちに……占いをする者、……易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ……死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである」(申命記18章10~12節)。

聖書のみが間違いのない標準です。霊の働きが、神からのものか、悪の霊からのものなのかは、聖書によって判断しなければなりません。

よみがえり(復活)

愛する兄弟を失って、深い嘆きに閉ざされていたマルタに向かって、イエスは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11章25節)と言われました。

土の中に落ちて種が朽ちるときに、新しい生命があらわれてきます。死を思わせる冷たい冬が去って、生命の活動する春が訪れます。自然の移り変わりは、私たちに復活の事実を教えるのです。

「朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである」(コリント人への第一の手紙15章42~44節)と聖書は教えています。

イエスは人間の罪を贖い、人間が死を克服する道を開いてくださいました。罪を贖われた人々は、イエスの再臨のときに、よみがえらされてイエスのもとに移されるのです。イエス自ら死からよみがえり、その保証となってくださいました。これは私たちの限りない希望です。

またイエスの再臨のときまで生きていた罪を贖われた人々は、永遠に朽ちない体に栄化されて、よみがえらされた人々と共に、イエスのもとに召されるのです。

聖書の中にもう一つの復活が示されています。それは罪を悔い改めなかった悪人の復活です。イエスの再臨のとき、よみがえった義人と栄化された義人が1000年間、天において過ごしたあと、再創造された地上に降りてくるとき、悪人はよみがえらされ、神の言葉が真実であったことが明らかにされて、ついに滅ぼされます。罪人を誘惑したサタンもその使いたちも完全に滅ぼされて、そのあとに罪の痕跡のない新天新地(神の国)が来るのです。これが救われた者が住む新しい世界となります。

イエスの十字架のかたわらで、その死を見届けた婦人たちは、安息日が過ぎ去るのを待って、日曜日の朝早くイエスの墓を訪れました。香料をその体に塗るためでした。彼女たちは道を急ぎながら、イエスのあたたかな愛にあふれたみ業、やさしい言葉をなつかしく思い起こしていました。しかしもう彼女たちの心の太陽は沈んでしまって、そこには限りない悲しみの夜がきていました。「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」(マルコによる福音書16章3節)などと語り合いながら、墓に来てみると、すでに石はころがしてありました。イエスは墓の中にはおられなかったのです。天使は「あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。……イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう」(マルコによる福音書16章6、7節)と告げました。

「イエスはよみがえった」。この事実の前に、悲しみは、驚きと大いなる喜びに変わりました。彼らは復活についてのイエスの言葉を思い起こしました。

「イエスの復活」の知らせは、恐れと失望に閉ざされていた弟子たちの間に広がっていきました。そしてイエスがたびたび、彼らの間に姿を現されるにつれて、喜びと確信がよみがえっていきました。イエスは死を滅ぼしてくださったのです。人類の最後の敵である死は、イエスの力によって征服されたのです。復活の主は、彼らの生活の基調となりました。

もしイエスが復活されなかったなら、キリスト教は一片の道徳的教えに終わっていたかもしれません。そしてキリスト教は、人生の最大の悲劇である死の問題を本当に解決することはできなかったでしょう。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)と聖書は教えます。罪の解決なくしては、死の問題を解決することはできなかったのです。イエスは罪を悔い改めて、神に来る者にゆるしを与える道を十字架によって開いてくださいました。そして、自ら死からよみがえって、贖われた者の初穂となられたのです。

「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」(コリント人への第一の手紙15章51~57節)との言葉は、確かに奥義です。神の力と限りなき愛は、この奥義を成就しました。信じてイエスに来る者は、だれでもこの奥義にあずかることができるのです。私たちが地上で別れた愛する人々と再び主のみもとで再会することができるのです。そしてそこには、もはや「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みも」(ヨハネの黙示録21章4節)ないのです。

再臨の待ち方

『わが涙よわが歌となれ』は、原崎百子さんの病床日記です。牧師である夫の原崎清氏から肺がんであることを知らされてから、亡くなるまでの44日間の記録です。治癒不能の肺がんであることを知った原崎氏は、妻に本当のことを知らせるべきかどうか約3か月間悩み続け、ついに真実を告げました。

病床日記はその日から始まっています。百子さんはその夜、次のように書いています。

「今日は私の長くはない生涯にとって画期的な日となった。私の生涯は今日から始まるのだし、これからが本番なのだ。私は今本当に正直にそう思っている。今日をそのような日にしてくれた清に、その勇気と決断と愛とに、どんなに感謝していることか! ……ありがとう、ありがとう、よく話してくださったわね。かわいそうに! さぞつらかったでしょう、つらかったでしょう」。

同じ夜、彼女は「愛する子どもたちへ」と題して次のように記しています。

「お母さんは自分の病気を知っている。やがてもっともっと肉体の苦しみがおそいかかってくることも覚悟しています。そしていつかこの肉体が死ぬことも。それもずっと先のこと、というわけにはいかないでしょう。だけど、もっとよくお母さんにわかっていることは、そのこと全体を通して、いえお母さんの生涯全体を通して、神さまは真実でいらっしゃる、神さまの愛はますます大きく深くお母さんを包んでいてくださる、そして何よりもキリストがお母さんと共にいて神の国へと伴ってくださるということ。……

どうか、キリストの道を歩み、右へも左へもそれないでください。そのことのために、この母の苦しみを、涙を、叫びを、祈りを、信頼を、感謝を、踏み越えて進んでいってください」

その翌日の日記に、彼女はやっておきたいこと、やりたいこととして、教会学校のこと、礼拝、聖書研究・祈祷会への出席のことなど具体的に列挙して、最後に「いつも通りの『お母さん』でいよう」と記しています。

彼女は自分の決意通り、一日一日を牧師の妻として、教会員として、そして母として精一杯生きていくのです。

しかし、がんの進行と共に呼吸困難があらわれ、体力も衰弱してくるのです。死の四日前の日記にはこう記されています。

「神さま、できないことがどんどんふえています。トイレまでも人の手をかりることになりました。息も自分の力だけではできません。四六時中、酸素ボンベにビニールの管でつながれています。神さま、まるで仔犬のようでございます。ときどきキャンキャンふうふう言うのまでも。でも神さま、目が見えます。耳もきこえます。字もかけます。口で歌えなくても頭と心とでさんびかが歌えます。風を心地よいと感じられます。人のやさしさをうれしいと思えます。冷たい麦茶も、とてもとてもおいしゅうございます。考えられます。感謝できます。祈れます。『あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、す』と、区切りながら言うことができます。時がわかり、日がわかります。……

神さま、私は生きております。こんなにも充実して。神さま、何よりうれしいのは、神さまを信じ仰ぐことができることです」

この4日後、容態が急変する中、声にならない声で、賛美歌「神はわがやぐら」を歌い、「キリスト!」と叫んで、あとは指で「ニヨルカイホウ(解放)」と書き残し、臨終を迎えたのでした。

死を前にしても、神を信じ感謝しつつ、このような充実した生を生き抜くことができたということは実に奇跡としか言いようがありません。よく知られている聖書の言葉、詩編23編の「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とのみ言葉の真実性をあかしするものでした。

私たちがたとえ「死の陰の谷」を行くことがあっても、聖書は「神が共におられること」を約束しているのです。たとえ死に至ることがあっても、死を超えて希望を見いだすことができるのです。

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