第9課 光をかがやかす

目次

1.マザー・テレサ

おじさん、わたしたち、おじさんに神様のことをずいぶん教えていただいて、神様がいらっしゃるということもしんじられるようになったし、イエス様がわたしたちをすくってくださったということがわかったわ

それに、ほんとうの幸せはイエス様をしんじ、イエス様にしたがっていくことだということもわかりました。だから、これからは友だちにもイエス様の話をしてあげようと思っています

それはいいことだね。イエス様は、わたしたちがもっている光をかがやかすことをのぞんでおられるよ

光をかがやかすって、どういうこと?

神様からごらんになると、この世界は神様を知らない人が大ぜいいる暗い世界なのだよ。神様を知っている人はあかりをもっている人といえるね。イエス様は「わたしは世の光である。わたしにしたがって来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と言っておられるよ。

わたしたちはこのあかりをかくしておかないで、人々の前にかがやかさないといけないのだよ。きょうは光をかがやかした人の話をしてあげよう

マザー・テレサは1910年にユーゴスラビアの農家に生まれ、しんこうのあつい、やさしい両親に育てられて成長(せいちょう)しました。18さいのとき、一生を、自分の楽しみや幸福のためにではなく、人にほうしするために神様におささげしようと決心し、宣教師(せんきょうし)としてインドのカルカッタにいきました。

カルカッタのロレット修道会(しゅうどうかい)でしばらく勉強した後、キリスト教の高等学校で教えるようになり、何年か後にはそこの校長先生にまでなったのでした。

インドには何十万人という、まずしい中でもとくにまずしい人たちがいて、道ばたやはしのたもとなどでくらしています。またハンセン氏(し)病の人たちもたくさんいます。スラム街(がい)のまずしい人たちを見ているうちに、マザー・テレサは、自分の仕事はこの人たちを助けることにあるのではないだろうかと感ずるようになりました。

この思いはだんだんと強くなり、ついにかのじょは修道会(しゅうどうかい)の許可(きょか)をえて、まずしい人たちを助けるはたらきを始めたのでした。

ほんのわずかなお金と薬しか持っていなかったにもかかわらず、自分のできることから始めようと、マザー・テレサは一人でスラム街(がい)に入って行きました。はじめは子どもたちに書き方や衛生(えいせい)(手のあらい方、体のあらい方など)を教えたり、病気の人を治療(ちりょう)したりしていましたが、そのうちお金の援助(えんじょ)をしてくれる人や手つだいをしてくれる人がでてきて、保育所(ほいくじょ)を開いたり、死を待つ人の家を開いたりするようになりました。今では2千人ちかくの修道女(しゅうどうじょ)や修道士(しゅうどうし)たちが、しっそな衣服(いふく)や食事もいやがらずに、マザー・テレサを助けてインドかくちでまずしい人たちのためはたらいています。

マザー・テレサは次のように言っています。
「わたしたちの役目はただまずしい人やめぐまれない人を助けることではないのです。苦しんでいる人、病んでいる人のところへ光をはこんであげるのです。よろこびをとどけてあげるのです」

マザー・テレサのはたらきは世界中の人人の注目をひき、1979年にはノーベル平和賞(へいわしょう)がじゅよされました。 

2.やさしい看護師(かんごし)さん

あるキリスト教の病院に、からだの不自由なおじいさんが入院していました。おじいさんは手や足がふるえるので、一人で食事をすることができません。毎食、看護師(かんごし)さんがスプーンで口まで食物をはこんであげていました。でも頭もゆれるため、食物が口にうまく入らずにこぼれてしまうことがよくありました。それでも看護師(かんごし)さんはやさしいまなざしで、にんたい強く食べさせてあげるのでした。

この光景(こうけい)をむかいの部屋で毎日見ている人がいました。そして、このように心のやさしいクリスチャンの看護師(かんごし)のいる病院を、自分の町にもたてたいとおもいました。大金持ちだったのこの人は、退院(たいいん)してから多額(たがく)の寄付(きふ)をして、自分のきぼうを実現(じつげん)させたのでした。

3.毎日の生活をとおして

おじさん、マザー・テレサも、そのクリスチャンの看護師(かんごし)さんも光をかがやかした人なのね

そうだね。わたしたちにはマザー・テレサのような献身的(けんしんてき)なはたらきはできないかもしれない。でも、イエス様を知って、イエス様の命の光をいただいた人は、みんな光をかがやかすことができるのだよ

あるわかい女の人は、「あなたはだれの説教(せっきょう)でイエス様をしんじるようになったのですか?」とたずねられて、「だれの説教(せっきょう)でもありません。わたしはおばの生活を見て、イエス様にしたがいたいと思うようになったのです」と言ったのだよ。

またある人は、「わたしはとても悪い不健全(ふけんぜん)な生活をしていました。でもわたしの友だちがイエス様をしんじてからぬすみをやめ、うそを言わなくなり、親切になったのを見て、この宗教(しゅうきょう)には何かあると思って教会に来るようになったのです」と言ったそうだ

それでは、おじさん、光をかがやかすというのは、ただイエス様の話を人にするということだけではなくて、わたしたちの毎日の生活をとおして光をかがやかすということなのだね

そうだよ。話を聞いてしんじない人でも、クリスチャンの生活を見てイエス様をしんじるようになる人が大ぜいいるよ。「あなたがたは、世の光である……あなたがたの光を人々の前にかがやかし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイによる福音書5:14、16)

4.イエス様に、にる者となるには

なんだか、わたし、心配になってきたわ。あんまり模範的(もはんてき)な生活をしていないから

自分で模範的(もはんてき)な生活をしようと思ってもなかなかできないね。でもイエス様のような人になりたいとねがって、イエス様を毎日見上げていると、だんだんかえられるのだよ。イエス様の弟子の一人ヨハネは、わかいときは短気で「かみなりの子」とよばれていたのだよ。だが、後にはあいの使徒(しと)とよばれるようになった。イエス様と交わっている間にかえられたのだね

弟子は師(し)に、にてくるんだよね


 

イエス様を見上げて生活するということは、イエス様と交わって生活するということね。でもイエス様はもうこの世にはいらっしゃらないから、とうやって交わるの?

しぜんの中にあらわされている神様のあい、聖書(せいしょ)の中にしめされている神様の教えや、イエス様の生活などのことを考え、おいのりしたりしているうちに、わたしたちもだんだんかえられていくのだよ

まとめ

イエス様をしんじている人は光をもっています。イエス様は、わたしたちがこの光をかがやかずことをのぞんでおられます。光をかがやかすというのは、イエス様の話をしたり、毎日の正しい生活をとおして、イエス様をあかしすることです。

たからのことば

あなたがたは、世の光である……、あなたがたの光を人々の前にかがやかかし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイによる福音書5:14、16

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
また、一部をひらがな表記に変更しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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