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この時点で、ヨナの物語、ヨナの冒険は終わります。じつに読みごたえのある物語、驚きに満ちた冒険でした。
しかしながら、ヨナ書の物語は終わりましたが、そのメッセージと、それが聖書の正典に加えられた理由は終了したわけではありません。
イエス御自身、地上で働いておられたときに三度、大魚の腹の中のヨナについて語っておられます。明らかに、イエスにとって、ヨナ書のこの部分は重要な意味を持っていました。イエスが『マタイ』と『ルカ』の福音書の中でヨナの経験にふれていることからすると、それが私たちに何かを教えていることは明らかです。
今回は、イエスが優柔不断な預言者ヨナについて言われたこと、またイエスがヨナを用いて重要なメッセージを伝えようとされた理由について学びます。
「よこしまな時代」
「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタ12:40)。
第1週の研究でも学びましたが、イエス御自身、ヨナ書の記録、特にヨナが大魚の腹の中で海中を旅するという「信じがたい」部分を真理であると信じておられました。事実、イエスはマタイ12章、同16章、ルカ11章でヨナに言及しておられます。これらはみな同じ文脈において語られたものです。
マタイ12:38~45、16:1~4、ルカ11:29~36を読んでください。これらの言葉はどんな背景において語られましたか。それらに共通していることは何ですか。イエスが「よこしまな時代」に言及されたのはなぜですか。シェバの女王とニネベの人々が出てくるのはなぜですか。
文脈から考えると、これらは多くの点でヨナの経験の繰り返しになっています。ヨナ書全体を通じて、与えられたしるし、警告、神の恵みの現れに応答しているのはヘブライ人でない異教徒たちです。ただ一人のヘブライ人であるヨナはそれらを拒んでいます。イエスはここで同じような人々に出会わされました。これらの人々は、ヨナと同様、イエスをもっと理解していなければならない人々でしたが、実際には理解していませんでした。イエスはヨナに言及することによって、もし信仰をもって従うなら明らかな実物教訓となる真理を彼らに語っておられたのでした。
このことは、大いなる光とその光にともなう大いなる特権を与えられることは全く救いの保証にはならないことを教えています。表面的な「真理」、つまり神と神の性質に関する一連の事実を知ることはそれだけでは何の意味もありません。
しるしを求める
ヨナに関するイエスの発言はどんな質問が発端になっていましたか。イエスがこのように強く応答されたのはなぜですか。マタ12:38、16:1参照
『マタイによる福音書』の初めの16章には、重い皮膚病を患っている人のいやし(マタ8:2~4)、百人隊長の僕のいやし(5~13節)、中風の人のいやし(マタ9:1~8)、盲人のいやし(27~31節)などの奇跡があります。ほかにもいろいろあります。それにもかかわらず、人々はさらなるしるしを求めました。
上記の数々のしるしは、イエスが人々に対して強く応答された理由に関してどんなことを教えていますか。ルカ16:31参照
神を信じたくない人はいつでも何らかの理由をつけて神を信じようとしません。本人が心から信じたいと思わない限り、神にはどうすることもできません。
たとえば、突然、神の御子イエス・キリストが世の罪のために死んでくださったという文字が、全世界のすべての人に見えるように超自然的な方法で大空に映し出されたと想像してください。それがいかに奇跡的で、大いなるしるしであったとしても、神の御子イエス・キリストが世の罪のために死んでくださったと信じるためには、なお信仰が必要です。しかしこのような力強いしるしでさえ信じたくない人にとっては何の説得力もありません。
十字架上のキリストの贖いの死は、過去において起こった歴史上の出来事です。私たちは現場にいて、それを見たわけではないので、信仰によってそれを受け止めるしかありません。ほかにどんな方法がありますか。信仰とは「証明されない」ことを信じることですから、つねに疑念の余地があります。
「ここに、ヨナにまさるものがある」
イエスはマタイ12:41、42で人々に興味深いことを語っておられます(ルカ11:31、32参照)。「ここに、ヨナにまさるものがある」。「ここに、ソロモンにまさるものがある」。前後関係からすると、イエスはここでこれらの人々の態度をニネベの人々およびシェバの女王の態度と比較しておられます。
列王記上10:1~13を読んでください。シェバの女王はソロモンの知恵に接して、どのように応答しましたか。同じように、もしイスラエルの民が主に忠実であったなら、主のためにどんなことを成し遂げることができましたか。申4:5~8、8:17、18、28:11~13参照
キリストはここで、「今の時代の者たち」を異教徒と、さらには御自身をソロモンおよびヨナと比較しておられます。つまり、キリストは次のように言っておられたのです。ニネベの人々は、決して模範的な信仰の持ち主とは言えないヨナの言葉を聞いて悔い改めた。しかし、ここに神御自身の御子がいるのにあなたがたはなおも悔い改めることを拒んでいる。異教徒であるシェバの女王は、罪深い、死すべき人間であるソロモンの知恵を聞くためにやって来た。しかし、神の御子があなたがたのところにやって来たのに、あなたがたはなおも耳を傾けようとしない。
イエスはどんな意味でソロモンやヨナよりも優れたお方でしたか。ヨハ1:1~4、8:58、コロ1:16参照
私たちの知りうる真理の中でも最も深遠で素晴らしい真理は、神御自身がイエス・キリストにおいて人となられたことです。神はキリストを通して罪深いこの世に降り、自ら罪深い、死すべき人間と一つになることによって、私たちにすばらしい希望と慰めを与えてくださいました。
強い言葉
イエスは柔和、親切、愛、赦しに満ちたお方ですが、これらの出来事に描かれているイエスは少し違います。たとえば、マタイ16:1を読んでください。この質問をした人々の動機について考える時、イエスがなぜあのような応答をされたのかがわかります。もちろん、キリストが地上の働きにおいて叱責と酷評に満ちた強い言葉を語られたのはこれが最初ではありません。
マタイ23章を読んでください。イエスはだれを、どんな理由で叱責しておられますか。マタイ23章における叱責と12:38~41における叱責との間にはどんな共通点がありますか。
イエスはマタイ23章で何度も、指導者たちを「ものの見えない者たち」と呼んでおられます。したがって、彼らにマタイ12章にあるようなしるしを与えたとしても全く無意味でした。ものの見えない者たちには見えないからです。たとえイエスが重い皮膚病の人をいやし、死者を復活させ、悪霊を追い出されようとも、これらの律法学者やファリサイ派の人々は見ようとはしなかったでしょう。見ることを望まなかったからです。
イエスは彼らの罪と堕落を指摘することによって(マタ23章)、彼らがなぜ見ることを望まなかったのかを明らかにされました。もし彼らが見ていたなら、もし彼らがイエスのなされたしるしと不思議とを見てイエスを受け入れていたなら、彼らは自分の生き方と行いを根本から変えねばならなかったでしょう。それは彼らの望むところではありませんでした。同じ原則が今日の多くの人々にも当てはまります。彼らが真理を拒むのは、知的な理由からではなく、むしろ生き方を変えたくないからです。
「大地の中」
イエスは律法学者やファリサイ派の人々の霊的盲目を強く叱責しながらも、なお彼らに忠誠を求めておられます。例え神であっても、人々を強制的に従わせることができないからです。現在と同様、当時も、主に対する奉仕は自由意志から出たものでなければなりませんでした。そうでなければ、奉仕は隷属であって神の望まれるところではありません(もし神が隷属を望まれるなら、人間を自由意志を持った道徳的存在者として創造されなかったはずです)。このようなわけで、イエスがヨナの物語をお用いになったのは、御自身の死、葬り、復活について教えるためでした。それらが実際に起こった時、彼らがイエスの言葉を思い出して、イエスを信じるようになるためでした。ヨナはヨナ書2:2で、「陰府の底から、助けを求めると」と言っています。「陰府」という言葉は「墓」または「地下界」を意味するヘブライ語のシェオルから来ています。ヘブライ語では、それは「死」と同じ意味です。ヨナは魚の腹の中で、自分が死んだと考えました。しかし、その後、復活しました。彼は死の運命から救われたのです。
次の聖句を読んでください。イエスがヨナの物語を御自分の経験の「しるし」としてお用いになったのはなぜですか。マタ26:61、27:62~64、マコ14:58、マタ28:6、マコ16:6、ヨハ21:14、使徒2:15、ロマ4:24、25、Ⅰコリ15:3~5、Ⅱコリ4:14、エフェ1:20
ヨナはイエスの象徴としてはいかにも弱々しい存在です。それにもかかわらず、イエスはヨナの物語を、御自分が経験すること、つまり「陰府」にくだり、それから「命」に復活することの象徴として用いておられます。イエスは世の罪の重荷を負って死に(「陰府」にくだり)、ヨナを「陰府」から引き戻された同じ神によって再び命に復活されました。
まとめ
「重要な点は、ヨナが何ひとつ奇跡を行わなかったのに、ニネベの人々が『悔い改めた』ことである。彼らはヨナ自身の権威にもとづいてヨナの言葉を受け入れた。ヨナの言葉が彼らの心に罪の自覚をもたらしたからである(ヨナ3:5~10参照)。律法学者とファリサイ派の人々の場合も、これと同じことが起こるはずであった。キリストの語られた言葉が明らかに彼の権威についての確信に満ちた証拠を伴っていたからである(マコ1:22、27参照)。しかし、これらの言葉に加えて、キリストは多くのすばらしい働きをなされた。これらの働きは、キリストの言葉が真実であることのさらなる証拠であった(ヨハ5:36参照)。これらの証拠があったにもかかわらず、律法学者とファリサイ派の人々は自分たちに与えられた証拠を信じようとしなかった」(『SDA聖書注解』第5巻398ページ)。
イエスは、御自分が「三日三晩」大地の中にいることになる、と言われました。しかし、イエスは金曜日の夕に葬られ、日曜日の朝に復活されました。これはまるまる三日三晩、つまり完全な72時間ではありません。このことからも明らかなように、「三日三晩」という言葉は自動的に、きっかり72時間を意味するわけではありません。むしろ、それは、たとえば(ここでは)金曜日、安息日、日曜日のように、単に三日を意味する慣用句です(ルカ23:46~24:3、13、21参照)。それは必ずしも、完全な24時間からなる金曜日、完全な24時間からなる安息日、完全な24時間からなる日曜日を意味するわけではありません。イエスはまた、ほかのところで、御自分が「三日で」からだの神殿を建て直す(ヨハ2:19~21)、あるいは「三日目に復活する」と言っておられます(マタ16:21)。これらの表現も「三日三晩」と同じ意味です。つまり、イエスは三日の期間にわたって十字架にかけられ、復活するという意味です。これらの日のうちで完全な24時間は安息日だけです。イエスは金曜日の夕に十字架にかけられ、安息日を墓の中で過ごし、日曜日に復活されました。
ミニガイド
ファリサイ派の人々の立場
マタイによる福音書12章41、42節でイエスは、旧約時代の二種類の人物を登場させて、これらの人物の態度と、キリストの多くのわざと宣教を耳にしながら、信じようとせず、もっぱら「しるし」「天からのしるし」(ルカ福音書11章)を要求する律法学者、ファリサイ派の人々の不信仰な態度とを比較しておられます。
一つは、今期ずっと学んできたヨナの説教を聴いて悔い改めた「ニネベの人々」と「律法学者、ファリサイ派の人々」との違いです。ニネベの住民たちは異邦人であったにもかかわらず、見ず知らずの外国人、しかも敵国から来た人、自分たちが信じてもいない神の預言者と称する男を迎え入れたのです。大魚のお腹に3日間も呑み込まれていたなどと、とても信じきれない体験を語る男、その男がこれまた「お前たちは悪い人間だ。悔い改めなければ40日間で国が滅びるぞ」ととてつもないかくい威嚇の言葉を大声で叫ぶのです。自分たちのプライドを傷つけるような耳障りのよくない話を聴いて、それを神の言葉として捉え、素直に悔い改めた事実です。もう一つは、列王記10章に描かれている「シェバの女王」の例です。紀元前千年頃、ソロモンは、イスラエルの歴史上かつてなかった程の繁栄を国にもたらし、国土も領土を広げ、紅海に面したエジオン・ゲベルに貿易港を設け、盛んに諸外国に向けて、貿易を開始しました。現在のイェーメンにあたるアラビア半島南端のシェバという国の女王も、早くから貿易を行っていたので、ソロモンの進出は、商売敵とも言うべき者の出現で、大いに痛手を負っていました。噂によれば、ソロモンはなかなかの名君とのこと、いっそ彼に直接会って、直談判しようとはるばるエルサレムに向かい、数々の難問を解決したという人物です。シェバの女王にとって、ソロモンは外国の商売敵ともいえる人物です。シェバの女王は、女の身でありながら知恵を求めて「地の果てから」やって来ました。
この二つの旧約聖書の事例を挙げて、キリストはファリサイ派の人たちが、どれほど有利な恵まれた場所に立っているかを指摘されます。彼らは、聖書に精通しているベテランです。そして、彼らの目の前におられる方は、外国人でもなく、敵国の人でもない、自国民ユダヤ人です。そして、あからさまに、福音の真髄を開示してくれているのです。はるばる遠地に赴く必要もなく、まさに「ヨナに勝るもの」「ソロモンに勝るもの」として眼前に立っておられます。風の便りではなく、なまの声を聞き、数々の奇跡を見ることができているのです。ニネベの住民のように、自分たちの非を指摘されて素直に悔い改めたら、素朴な畏れの心がひとかけらでもあったら、キリストの前にひれ伏したでしょう。
噂を聞いて、知恵を求めたシェバの女王の求道心が少しでもあれば、悪霊を追い出された主の力を見ただけで、神の指をキリストのうちに見いだしたでしょう。この時点では、まだ主の復活は起きていませんでした。復活を知らなくても、学問的に納得できなくても、イエスを信じることはできましたし、信じなければならなかった。これが彼らに対するキリストの主張でした。
*本記事は、安息日学校ガイド2003年4期『ヨナ書』からの抜粋です。