【小預言書から学ぶ】主を求めよ、そして生きよ!(2013年2期SSガイド本より)

目次&この記事について(書籍情報・引用元情報)
目次

この記事について

*本記事はズドラブコ・ステファノビッチ(英:Zdravko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第1課 霊的姦淫(ホセア書)

第1課 霊的姦淫(ホセア書)

預言者ホセアは、イスラエルの歴史における最も繁栄した時代の終わり、イスラエルが紀元前722年にアッシリアに滅ぼされる直前に仕えました。当時、神の選民はもはや主だけでなく、カナン人の神バアルにも仕えていました。

小預言書の初めに置かれているホセア書は、この背信の時代における預言的宣言の中心的な問題について扱っています。霊的姦淫にかかわらず、神はなおもイスラエルを愛されるのでしょうか。彼らの罪と来るべき裁きにかかわらず、神はなおも彼らに対して目的を持っておられるのでしょうか。

ホセアの個人的な物語と預言とは、その書の中で不可分に結びついています。預言者が自分の不実な妻を赦し、喜んで受け入れようとしたように、神は喜んで御自分の民を受け入れてくださいます。

私たちはホセアの経験と、強情なイスラエルに対する主の扱いから、何を学ぶことができるでしょうか。

奇妙な命令

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ」(ホセア書1:2、3)。

長年にわたって、聖書学者たちはこの命令の性質について議論し、次のように問いかけてきました。「ゴメルは売春婦だったのか、それとも単に不忠実な妻だったのか。彼女はホセアと結婚する前から不道徳だったのか、それとも結婚後に不忠実になったのか」

はっきりしたことはわかりません。しかしながら、次のことは確かです。主がホセアに、また彼を通して語られたとき、人々の関心をホセアの物語から、イスラエルに対する神の愛の物語に向けようとされました。ゴメルはイスラエル人だったので、預言者ホセアに対する彼女の結婚の物語は、イスラエルに対する神の契約の物語と一つに融合しています。

ホセアの物語と、神のイスラエルに対する経験との間には、いくつか重要な共通点があります。人間的な見方をすれば、ゴメルはホセアに対して不義を犯していました。霊的な見方をすれば、イスラエルは神に対して不義を犯していました。ゴメルの不道徳が夫の心を傷つけたように、イスラエルの偶像崇拝は神の御心を悲しませました。ホセアは、絶望と破綻した結婚生活に耐えることを求められました。彼は公的な怒りと不名誉を受けたに違いありません。しかし、ゴメルの不実を経験すればするほど、イスラエルに対する神の苦しみと欲求不満についての彼の理解は深まりました。

問1

神はしばしば、説教以上のことをするようにほかの預言者たちに求めておられます。次の聖句を読み、預言者の行為が御自分の民に対する神の扱いをどのように象徴しているか説明してください。イザ20:1~6、エレ27:1~7、エゼ4:1~6

霊的姦淫

ホセアの妻ゴメルが彼に対して姦淫を犯したとき、ホセアは裏切りと屈辱、不名誉の苦しみを味わいました。彼の苦しみを見た隣人や友人に、ホセアは言葉と行為を通して神のメッセージを伝えました。神の妻であるイスラエルも、ちょうどゴメルと同じでした。選民イスラエルは霊的姦淫を犯していたのでした。

預言者エレミヤは神の不忠実な民を、神からあらゆるものを与えられているにもかかわらず、多くの愛人と共に生活した「売春婦」にたとえています(エレ3:1、新国際訳)。同様に、預言者エゼキエルは偶像礼拝に陥ったイスラエルを、本当の夫から離れた「淫行の妻」と呼んでいます(エゼ16:32)。それゆえに、偶像礼拝は聖書の中で霊的姦淫と見なされているのです。

問2

ホセア書2:8~13を読んでください。ここに、どんな警告が与えられていますか。私たちセブンスデー・アドベンチストはどんな意味で、原則においてこれと同じことを行っている危険がありますか。

「穀物、新しい酒、オリーブ油」という表現は申命記の中でも(申7:12~14)、イスラエルの民がモーセを通して与えられた神の約束に従って豊かに与えられていたイスラエルの主要な産物を表すために用いられています。ホセアの時代には、イスラエルの民は、神への感謝を忘れ、周辺諸国と迎合していたために、神によって与えられたこれらの賜物を偽りの偶像にささげていました。これは、私たちに与えられた賜物を本来意図されていないことのためではなく、主の奉仕のために用いるべきことについての強い警告です(マタ6:24)。

「神は、御自分の祝福に対する私たちの忘恩と感謝のなさをどのように見なされるだろうか。誰かが私たちの贈り物を軽視したり、誤用したりするのを見ると、私たちの心と手はその人に対して閉ざされるだろう。しかし、日ごとに、年ごとに神の憐れみ深い賜物を受けている者たちは、神の賜物を誤用し、キリストがその命をささげられた魂を無視している。神が、御自分の目的を支えるために、また御国を建設するためにお貸しになった資金が家や土地のために投資され、高慢と放縦のために浪費され、与え主である神が忘れられている」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』12月7日、1886年、英文)。

回復の約束

問3

ホセア書2章を読んでください。神がここで御自分の民に与えておられる基本的なメッセージは何ですか。この章に、福音がどのように啓示されていますか。

ホセアのメッセージは、受ける価値のない民に対する神の不動の愛という深い真理を提示しています。ホセア書2章はイスラエルの背信についての主の長い講話を含んでいて、それが御自分の民に対する神の不動の愛と対比されています。刑罰の後に、夫は妻を荒れ野の旅に導き、そこで二人は再婚します。

こうして、この章は裁きを超えた将来の描写をもって終わります。そのとき、神はイスラエルに以前のように御自分を愛するように求められます(ホセ2:12~15)。野の獣はもはや妻のぶどうやいちじくの木を食い荒らすことがなくなり、新しい契約の伴侶となります(ホセ2:18)。加えて、すべての子らに新しい名が与えられます。それは、神が喜んで御自分の民の過去の罪を癒し、赦してくださることを表しています。

問4

神は無償で私たちの罪をお赦しになります。赦しはどれほどの代価を神に要求しますか。この教訓はホセアにどれほどの個人的代価を要求しましたか。ホセ3:1、2

イスラエルにおいて男子として成長したホセアは、族長の社会にあって特権的な地位を享受することになっていました。しかし、この特権には大きな責任が伴っていました。古代イスラエルの男子にとって、父親の異なる子どもを自分の子として受け入れることはもちろん、不忠実な妻を赦し、再び受け入れることは大変なことだったでしょう。自分の妻と子どもを守り、社会的な反対に耐えることは、人生の経験の中でも最も困難な経験の一つだったはずです。

それでも、ホセアは彼女を「買い取り」ました。ある意味で、神も人間のために同じことをしてくださったのです。しかし、その代価は十字架上のイエスの死でした。したがって、イエスの十字架をながめることによってのみ、神が罪によって生じた滅びから私たちを「買い取る」ためにどれほどの代価をお払いになったかをよりはっきりと理解することができます。

イスラエルに対する告発

ホセア書4:1~3は、神について、イスラエルを告発し、訴える(ヘブライ語、“リブ”)方として描いています。選民が神の前に有罪とされたのは、契約条件に従って生きなかったためでした。真理と憐れみ、神についての知識が、神に対するイスラエルの独特の関係の特質となるべきものでした。ホセア書2:20~22[口語訳2:18~20]によれば、これらは神が契約の更新において御自分の民に与えられる贈り物です。

しかしながら、罪のために、イスラエルの生活にはこれらの恵みの贈り物が欠けていました。ホセアがあげている数々の罪は、イスラエルを無秩序の瀬戸際に追いやりました。宗教指導者、祭司、預言者もイスラエルの堕落した生き方に対して責任を負っていて、その責任を問われました。彼らの責任は重大でした。もし彼らが虐待と対峙せず、不法行為を断罪しなかったなら、彼ら自身、神によって断罪されるのでした。

旧約聖書においては、偶像礼拝は最も重大な罪と考えられていました。なぜなら、それは民族と個人の生活における主なる神の役割を否定したからです。乾燥した気候のために、イスラエルの地に雨が降るかどうかは死活問題でした。イスラエル人は、命を与える雨のような祝福がバアルから来ると信じるようになっていました。そこで、彼らは外国の神々のために神殿を建て、不道徳を礼拝の中に取り入れ始めていました。

同時に、社会的な不法が国に蔓延していました。イスラエルの裕福な人々はアッシリアに貢ぎ物を納めるために農民から搾取しました。多くの人が詐欺や不法行為を行いました(ホセ12:7、8)。平和と繁栄に満ちた時代が政治的、社会的混乱に満ちた時代に変わったのはそのためです。国家は全面的な混乱状態に陥る瀬戸際にありました。

「神に仕えると公言する哀れな金持ちは憐れむべき存在である。彼らは神を知っていると言いながら、その実、神を否定している。そのような者たちの闇はどれほど深いことであろうか!彼らは真理を信じると公言するが、その業は自分の言葉と一致していない。富を愛する心が人を利己的で、苛酷で、横暴にしている。富は力である。富を愛する心は、しばしば人のうちにある高尚で崇高な性質を堕落させ、麻痺させるだろう」(エレン・G・ホワイト『教会へのあかし』第2巻682ページ、英文)。

悔い改めの訴え

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)。

ヘブライ語の“ホセア”という名前は「主は救われる」という意味で、“ヨシュア”、“イザヤ”、さらには“イエス”という名前と関連があります。預言者は民に、罪を拒み、主なる神のうちに避難するように呼びかけています。神が彼らの創造主であり、贖い主だからです。神の裁きの目的は、罪人の命と力が立ち帰るべき方である神から来ることを彼らに思い起こさせることにありました。このように、裁きについての警告と宣言の中にあってさえ、ホセア書は人間の悔い改めと神の赦しの主題について語っています。

預言者は「知ることを拒んだ」ために罪のうちに滅びようとしている民に(ホセ4:6)、神を深く知り、神の永遠の原則に従って生きるように勧告しています。民を反逆に導き、最終的に裁きをもたらす結果になったのは、彼らが、神を知ることに欠如したからでした。

対照的に、彼らは信仰と服従によって自ら主を知ることができるのでした。この知識は密接で、親密なものです。結婚が繰り返し主の求められる関係の象徴とされているのはそのためです。

クリスチャンの生活がおもに生ける神との関係から成り立っている理由もここにあります。主が、人々に御自身を知り、彼らのための主の御心に従うように求められるのはそのためです。

罪の問題は神と人間との間に恐るべき分離をもたらしました。しかし、十字架上のイエスの死によって、各人が主と親しく歩む道が開かれました。それどころか、私たちは自らのために主を知ることができます。

問5

神について知ることと、神を知ることとの間には、どんな違いがありますか。この違いは私たちの毎日の生き方にどのように現れてきますか。もし誰かから、「どうしたら神を知ることができますか」と尋ねられたなら、あなたは何と答えますか。次の聖句は「神を知る」ことの重要性について何を教えていますか。出33:12、13、エレ9:23、ダニ11:32、Iヨハ2:4

さらなる研究

「ホセアは、自分の個人的な運命が神の悲哀の反映であり、自分の悲しみが神の悲しみの反響である事実を、時の経過とともに認めるに至った。神の悲哀に対する同情の行為としての、この同じ苦しみの中にあって、預言者[ホセア]は神の命令によって結んだ結婚の意味を悟ったことであろう。……

イスラエルの聖なる配偶者[神]が経験されたことを自分自身の生活において実践することによって、預言者は神の立場に同情することができた。結婚は象徴や礼典というよりも、むしろ教訓であり、例話であった」(エイブラハム・J・ヘスケル『預言者』56ページ、2001年、英文)。

「約束の地において、イスラエルが神に忠誠をつくしたときに与えられた祝福が、悔い改めて、地上の神の教会に加わるすべての者に回復されるという神の計画を、ホセアは象徴的言葉によって十部族に語ったのである。主は、ご自分がイスラエルにあわれみを示すことを望んでいることを述べて、次のように言われた。『わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう』(ホセア書2:14、15)」(『希望への光』503ページ、『国と指導者』上巻265ページ)。

第2課 神の葛藤(ホセア書)

第2課 神の葛藤(ホセア書)

御自分の民に対する神の愛の関係について語るときに、聖書記者がよく用いる方法は比喩を使うことです。比喩は、すでに知られていることや身近なものを通して、あまり知られていない主題について深い内容を伝えます。比喩は象徴であって、そのもの以外の何かを説明するために用いられます。

御自分の民と神の関係に関して、最も一般的に用いられる聖書の二つの比喩は、夫と妻、親と子についての比喩です。前回は、夫と妻の比喩について学びました。今回は、もう少しホセアの比喩について学びます。最も多く用いられているのが親と子についての比喩です。

ホセアが比喩を用いたのは、イエスがたとえによって教えられたのと同じ理由からでした。第一に、生活の中の身近なものを通して神についての真理を説明するためであり、第二に、毎日の生活の中で実践することのできる重要な霊的原則を人々の心に印象づけるためでした。

愚かで、悟りがない

問1

「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求めあるいは、アッシリアに頼って行く。彼らが出て行こうとするときわたしはその上に網を張り網にかかった音を聞くと空の鳥のように、引き落として捕らえる」(ホセ7:11、12)。前後関係を念頭において、これらの聖句を読んでください。ここに、どんな警告が与えられていますか。これらの聖句から、どんな原則を学ぶことができますか。

エフライムはヨセフの第2子の名前でした。エフライムはイスラエルの北王国の主要な氏族の名前だったので、この名前が王国全体に適用されています。ユダという名前が南王国に適用されたのと同じです。上記の聖句において、イスラエルは容易に鳥猟者の網にかかる、悟りのない鳥にたとえられています(エレ5:21比較)。この意味において、イスラエルが他国の援助に頼ることは神に対する反逆行為でした。

なぜでしょうか。強力なアッシリア帝国や野心的なエジプトと同盟することは、これら二つの超大国によって崇められている神々の優越性を認めるようにイスラエルに要求することになるからです(イザ52:4、哀5:1~6参照)。彼らに従うことは、必然的に、主から離れることを意味します。彼らに必要なのは、主に立ち帰り、悔い改め、主の戒めに従い、偽りの神々と決別することでした。これが彼らの唯一の希望でした。異教徒と政治的な同盟を結ぶことではありませんでした。

「パレスチナという位置そのもののゆえに、イスラエルはこれら二つの古代帝国の侵略にさらされていた。……これら強大な帝国が争っていた魅力的な獲物はナイルの肥沃な流域とユーフラテスとを結ぶこの交通路であった。イスラエルとユダの両王国はこの国際的な紛争に巻き込まれ、二つの敵対国に挟まれていた。絶望のうちに、神に対する霊的な信頼のないままに、イスラエルはまず一方に、次に他方に支援を求めた。それはイスラエル自身の国家的安泰に対する罠となるにすぎなかった」(『SDA聖書注解』第4巻908ページ、英文)。

飼い馴らされた雌の子牛

問2

ホセア書10:11~13を読んでください。主はここで御自分の民に何と教えておられますか。「主が来て、あなたがたに義を注いでくださるまで」とは、どんな意味ですか(ホセ10:12、新国際訳)。

ホセア書10章で、神の子エフライムは、穀物を脱穀するのを好む飼い馴らされた雌の子牛にたとえられています。脱穀しながら、穀物を食べることができるからです。このように、イスラエルは有用な存在になる代わりに、自己中心的になっていました。本来あるべき姿として野外で働かせるために、神がイスラエルに軛をかけるとき、正義と慈しみが増し加わるのでした。

聖書の時代には、軛は奉仕の手段でした。運搬用の若い動物はまず、打穀場で働くことによって飼い馴らされました(エレ50:11)。これらの動物は軛につながれて、ひたすら足で穀物を脱穀しました。次の段階になると、彼らは穀物の上に打穀機を引きました(サム下24:22)。この種の仕事は、畑の畝を耕すという、より困難な仕事への備えとなりました(王上19:19、エレ4:3)。神はイスラエルを訓練するための同じ計画を持っておられました。神はエフライムの美しい首に軛をかけ、懸命に土を起こし、耕させようとしておられました。

預言者はホセア10:12で、主がイスラエルを御言葉への服従を通してどのような者にしようとしておられるのかを明らかにしています。正義と公平は、契約が更新されるときに、神が御自分の妻に約束しておられる賜物です(ホセ2:21)。もし民が正義を蒔くなら、彼らは代わりに慈愛を刈り取るのでした。主と主の御心を求めることによってのみ、イスラエルは来るべき裁きから救われるのでした。神の選民が悔い改めるまで、憐れみの戸は開かれています。

正義を蒔くようにという勧告は、人と人との関係をさしています。神を求めることは、神と神の民との関係をさします。土を耕すことは霊的、社会的な改革と再生を表します。主と主の民は互いに協力して、再び地に祝福をもたらすために働きます。その結果、全地は美しい花々で満ちるようになります(ホセ14:5~7)。

よちよち歩きの子ども

「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。……エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった(ホセ11:1、3)。

ホセアはこれらの聖句の中で、主の導きは新米の親の優しい心遣いに似ていると言っています。親が子どもを倒れないように両手で支え、優しく、忍耐強く、歩くのを教えるように、主は初めからイスラエルを見守られました。愛し、赦される神はホセアのメッセージの中心です。訓練されるときにも、神は深く憐れまれます。神の怒りは恐ろしいものですが、神の憐れみは私たちの理解を超えています。

問3

申命記8:5、箴言13:24、ヘブライ12:6、黙示録3:19を読んでください。これらの聖句に共通していることは何ですか。これらの聖句は私たちにどんな慰めを与えますか。

神はモーセを通してエジプトの王に、イスラエルが御自分の特別な子であると言われました(出4:22、23)。エジプトを含めて、地のすべての民族は神の息子・娘ですが、ヘブライ民族は特別な特権を持った神の長子として選ばれました。しかし、これらの特権には責任が伴っていました。「父が子を背負うように」(申1:31)、主は荒れ野において御自分の民を背負われました。「人が自分の子を訓練するように」(申8:5)、主はときどき彼らを訓練されました。

「この世において、神や人類のために真の奉仕をなす者はすべて苦難という学校にあって準備の訓練を受ける。責任が重ければ重いほど、高い奉仕であればあるほど、その試練は激しく、鍛練はきびしい」(『教育』170ページ)。

当たり前のことですが、自分の子どもを愛する親はだれでも彼らを訓練します。どんな場合でも、子どもたち自身の幸福のためです。もし欠点だらけの、堕落した人間でもそうするのであれば、私たちは、たとえ試練の時であっても、はるかに神の愛に信頼することができるのではないでしょうか。

怒りよりも強い憐れみ

「ああ、エフライムよお前を見捨てることができようか。イスラエルよお前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨てツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなくエフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(ホセ11:8、9)。

これらの聖句は神の御心を知る手がかりとなります。神は御自身の反抗する息子を律法に要求されている通りに石で撃ち殺すために引き渡されるでしょうか(申21:18~21—創19:17~23参照)。これらの聖句は、神御自身が私たちの罪のゆえに苦しまれること、また私たちを救おうと望んでおられることについての驚くべき洞察を与えてくれます。

罪深いイスラエルは完全な滅びに値するものでしたが、主は忍耐強い憐れみのうちに彼らに悔い改めを促す一方で、御自分の民を愛し続けられます。

アブラハムの時代に、死海の南東ヨルダンの低地に、五つの町がありました(創14:8)。「低地の町々」として知られていたこれらの町は、ソドム、ゴモラ、アドマ、シェボイム、ツォアルでした。これらのうち、ツォアルだけが滅ぼされませんでした。ほかの四つの町々の名は、邪悪な生き方のために、また悔い改めないために自らの上に全面的な滅びを招くことのたとえとなりました(申29:23)。ホセアが上記の聖句の中で言及しているのは、これらの町々のことでした。

ホセア書11章は、神の思いが罪深い人間の思いを超えていることを教えています。神は怒りに任せて物事を決定される方ではありません。神の愛は御自分の民に癒しと健康、回復をもたらそうとするのです。神の鍛練の目的は矯正すること、修正すること、和解することであって、滅ぼすこと、復讐することではありません。多くの人たちは、クリスチャンを自認する人たちでさえ、神のこの側面を理解していません。彼らは、神が復讐と怒りに満ちた方、自分たちの罪を罰するためにつねにあら探しをされる方と考えています。それどころか、神が失われた者たちを永遠にわたって地獄の火で焼かれると信じている人たちもいます。しかし、ここに描かれている神はそのような方ではありません。

癒され、愛され、育まれる

問4

学者の中には、旧約聖書に啓示された主は、新約聖書に啓示されたイエスとは対照的に、厳格で、人を赦さない方であると考える人たちがいます。これが全く誤った結論であるのはなぜですか。ホセア書14章のメッセージは、この結論が誤りであることをどのように教えていますか。この章は神の品性と神の民に対する愛についてどんなことを啓示していますか。

ホセア書の最終章は預言者によって宣言されたメッセージにふさわしい結びになっています。それは、神の救いが空しく終わることがないという約束を再確認するものです。本章は、あらゆる罪から離れるようにという再度の招きをもって始まります。預言者は神に立ち帰るように人々に訴えるにあたって、彼らが礼拝で語るべき実際の言葉を用いています。彼らが求めるべきことは、神が自分たちをつまずかせた罪をお取り去りになることでした。彼らはまた、ほかの国民に信頼することをやめ、偶像礼拝を完全に拒否すべきでした。聖書時代においては、人は何も持たずに主の前に出てはなりませんでした(出23:15)。動物の犠牲を携えることに加えて、人々は感謝の献げ物として、真心からの悔い改めの言葉を携えて来るように教えられていました。

人々が悔い改めの告白をするとき、神は一連の約束をもって答えられます。その中で最も重要な約束は、天の医師なる神が人々の病をお癒しになることです。イスラエルに対する神の新たな関係は、長く、乾燥したパレスチナの夏に花や木に注ぐただ一つの水分である露にたとえられています。それはまた、特に貴重で、果樹の中で最高のものとされるオリーブの木にたとえられています。オリーブの葉は日陰と憩いを提供し、その油は食物や化粧水、灯油として用いられました。レバノンの大杉は聖書の国々で最も有用な大木とされています。その高価な材木は神殿や宮殿の建築に用いられました(王上6:9、10)。神によって植えられた根は、青々とした草木を豊かに生い茂らせ、イスラエルは全世界への祝福で満ちた園となるのでした。

さらなる研究

次の二つの引用文をホセア書7~14章のメッセージと比較してください。

「自然を通し、型と象徴とを通し、また父祖たちと預言者たちとを通して、神は世の人々に語っておられた。教訓は人間のことばで人間に与えられねばならない。……神の統治とあがないの計画の原則が明示されねばならない。旧約の教えが十分に人々の前に示されねばならない」(『希望への光』683ページ、『各時代の希望』上巻24ページ)。

「王たちが次々と天の神に大胆に反逆してイスラエルをさらに邪悪な偶像礼拝におとしいれていた長い暗黒時代を通じて、神は、背信した人々に、次々と使命をお送りになった。神は、預言者たちによって、背信の潮流を止め、神に立ち返るようにあらゆる機会を彼らにお与えになった。……罪から人々を救う神の大いなる力についての気高い証言を与えることなくして、イスラエル王国は放棄されてしまうのではなかった。最も暗黒の時代においてさえ、天の支配者に忠実な人々がいくらか残っていて、偶像礼拝のさなかにあってさえ、聖なる神の前に潔白な生活を送ったのである。これらの忠実な人々は、主の永遠のみこころが、ついに成就される多くの残りの民の中に数えられるのであった」(『希望への光』433ページ、『国と指導者』上巻79ページ)。

第3課 聖にして義なる神(ヨエル書)

第3課 聖にして義なる神(ヨエル書)

南王国ユダを荒廃させていた大規模ないなごの災害と厳しい干ばつの中に、預言者ヨエル—アモスやホセアと同時代の人—は、「大いなる恐るべき」裁きの日の前兆を見ます(ヨエ3:4)。そのような激しく、大規模な危機に直面して、ヨエルはユダのすべての民に対して罪を捨て、神に立ち帰るように求めます。彼はいなごを主の軍勢として描写し、その来襲の中に不忠実なイスラエルに対する神の裁きを見ます。

将来における神の裁きはいなごの災害をはるかに凌ぐものとなると、ヨエルは預言しています。しかし、その同じ裁きは主に忠実で、主の教えに従う者たちにこの上ない祝福をもたらします。いかに厳しいものであれ、裁きは主の導きに喜んで従う者たちにとっては救いと贖いに導くものとなります。

国家的災難

問1

ヨエル書1:1~12を読んでください。ユダの地に何が起きていましたか。

農業社会に住んでいた預言者は、穀物や果物の収穫が失われることを嘆くように、農夫たちに呼びかけています。環境の破壊は何年にもわたって国の経済を無力にします。植物や日陰、森林が消失することに加え、表土が侵食される恐れがあります。パレスチナの果樹の中には、実がなるまでに20年もかかるものがあります。事実、農業を荒廃させ、樹木を伐採することは、侵略軍が征服した民を罰するためにとった典型的な戦術でした。それによって、すぐには回復できないようにしたのです。

問2

申命記28:38を読んでください。これはユダに起きていたことを理解する上でどんな助けになりますか。

ヨエルはいなごについて四つの異なった用語を用いることによって(ヨエ1:4)、災害の激しさと広さを表現しています。いなごによる荒廃は、干ばつによってさらに悪化しました。農夫が期待する穀物はすべて枯れ、彼らは希望を失います。食べるものも、売るものもなくなったからです。植え替える種すらありません。これほどひどい災害は先祖の時代にもなかったことであり、将来の世代までも語り草となるものでした。同様の災害がこれまでになかったという事実は、状況の深刻さを物語っています。

預言者はまた、ぶどうや穀物、オリーブ油といったイスラエルの主要産物の消失を宣言しています(申14:23、18:4)。小麦と大麦はパレスチナで最も重要な穀物です。聖書の中では、ぶどうといちじくの木は約束の地において神の豊かな祝福のうちに平和に暮らすことの象徴です(王上5:5—口語訳4:25、ミカ4:4、ゼカ3:10)。自分のぶどうといちじくの木の下に座ることは、平和と繁栄についての田園詩的な象徴とされています。今、これらすべてが自分たちの罪のゆえに臨んだ神の裁きによって脅かされていました。

収穫は喜びのときでした(詩編4:8—口語訳4:7、イザ9:3)。イスラエルの地は神からの贈り物でしたが、今も神のものでした。イスラエルはこの地の忠実な管理者となるように期待されていました。とりわけ、彼らは神を礼拝し、神に従うように期待されていました。そもそも彼らにこの地を与えられたのが神だからです。

角笛を吹け! 

自然災害が臨むとき、人はさまざまな疑問を口にします。「神はなぜこのようなことを許されたのか」「死んだ人がいるのに、生きている人がいるのはなぜか」「このことから学ぶべき教訓はあるか」。いなごの災害は人を神の普遍的な計画についての深い洞察に導くと、ヨエルは考えたはずです。預言者は第1章において、神の霊感のもとで、国家的な危機をイスラエルの霊的状況と関連づけています。いなごは主への献げ物としてささげるものを何一つ残しませんでした。出エジプト記29:40と民数記28:5~8に記された教えによれば、穀物の献げ物と飲み物の献げ物は日ごとに神殿でささげられるものの一部でした。献げ物を切らすことは厳しいことでしたが、それは民の悲しむべき状態についての警告となるのでした。献げ物をささげる機会を失うことは、神とイスラエルの契約を破ることを象徴しました。しかし、ほかの多くの預言者とは異なり、ヨエルは民の失敗を分析することにあまり時間を割いていません。むしろ、彼はイスラエルの天来の医師[神]によって処方された癒しの方に、より深い関心を示しています。

問3

ヨエル書1:13~20を読んでください。ヨエルは人々に何と言っていますか。状況が異なるとはいえ、ここで語られていることはどんな意味で、旧・新約聖書全体を通して見られる訴えですか。

預言者は霊的指導者たちに対して、全国民に祈りと断食の日を呼びかけるように求めています。人々が深く心を探り、罪を捨て、神に立ち帰るためです。それによって、彼らは神の愛と正義に対する新たな信頼をもって出てきます。最終的に、この悲惨な状況は信じる者たちを彼らの主とのより深い関係へと導くのです。

聖書全体を通じて、神は自然の主、自然を創造された方、自然を支えられる方、また自然を御自分の目的のために用いられる方として描かれています。この自然災害の中にあって、人々は自分たちの衣を裂く代わりに、自分たちの心を裂き、神の恵みと憐れみの前に自分自身をさらけ出すべきであると、預言者ヨエルは教えています。

神の霊の贈り物

問4

使徒言行録2:1~21とヨエル書3:1、2(口語訳2:28、29)を読んでください。ペトロはヨエルの預言をどのように解釈していますか。

使徒ペトロは五旬祭の日、主が聖霊の注ぎに関してヨエルを通してお与えになった約束を実現されたのであると宣言しています。聖霊の注ぎにともなって、しかも人類の歴史に対する神の超自然的な介入の目に見える徴として、神は自然界、つまり地上と空に特別な現象を生じさせられます。

「神の大いなる日の光景と直接関連して、主は、預言者ヨエルによって神の霊の特別なあらわれを約束しておられる。『その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る』(ヨエル書2:28/口語訳)。この預言は、ペンテコステの日に聖霊がくだったことによって、部分的な成就をみた。しかしそれは、福音の最後の働きに伴う神の恵みのあらわれにおいて、完全に成就するのである」(『希望への光』1593ページ、『各時代の大争闘』上巻序6、7ページ)。

ヨエル書の直接的な文脈によれば、大いなる神の霊の注ぎの後に、悔い改めが起こります。これには驚くべき再生が伴います。滅びに代わって、神の祝福の贈り物が与えられます。神によって被造物は回復され、国民は圧政者から解放されると、主は御自分の民に約束しておられます。

特別な働きのために選ばれた者たちの頭に神によって油が注がれたのと同じように、聖霊は神の民に注がれます。聖霊はまた、それを受ける者たちに注がれる力の贈り物です。それによって、彼らは神のために特別な働きをすることができます(出31:2~5、士師6:34)。このときだけは、聖霊の現れは広範囲に見られます。歴史上の、この特別な時点においては、救いは神を求めるすべての人に与えられます。年齢、性別、社会的地位にかかわらず、神の霊はすべての忠実な者たちに注がれます。それは、主のすべての民が預言者となり、主が彼らの上に御自分の霊を授けられるようにというモーセの切なる願いが成就するときです(民11:29)。

主の御名を布告する

「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり主が呼ばれる残りの者はそこにいる」(ヨエ3:4、5)。

太陽が闇に、月が血に変わるという表現は、自然現象としてではなく、来るべき主の日についての超自然的な徴と理解すべきです。聖書の時代においては、多くの異教の国民が天体を神々として拝んでいました。それは、イスラエル人がモーセを通して厳しく禁じられていたことでした(申4:19)。この意味で、ヨエルの預言は、主が裁きを携えて来られるときに、諸国民の偶像が消えうせることを予告しています。さらに、ヨエル書4:15には、星々がその力を失い、もはや光を発することがなくなると記されています。主の栄光の輝きがすべてのものに勝るからです。

問5

キリストの来臨は悔い改めない者たちにとっては恐怖ですが、正しい者たちは主をどのように歓迎しますか。決定的な違いは何ですか。イザ25:9、ヨエ3:5(口語訳2:32)、使徒2:21、ロマ10:13

聖書においては、「主の御名を呼ぶ」という表現は、単に自分自身を主に従う者と呼び、主の約束を求めることだけを意味するのではありません。それはまた、神の御名を布告すること、つまり主についての、また主が世界のためになさったことについての証人となることをも意味します。アブラハムはカナンの地で祭壇を築き、神の御名を呼びました(創12:8)。神はシナイ山上で、モーセに対して御自分の慈愛と恵みを宣言されました(出33:19、34:5)。詩編作者は忠実な者たちに対して、神に感謝をささげ、神の御業を諸国民に知らせることによって神の御名を呼ぶように求めています(詩編105:1)。同じ言葉が預言者イザヤによって書かれた救いの歌の中にも見られます(イザ12:4)。

したがって、主の御名を布告するとは、神がなおも世界を支配しておられるという喜ばしい知らせを伝える者となること、またあらゆるものを神の御業と品性という視点から見るように世の人々に呼びかけることを意味します。それはまた、すべての人に提供されている神の惜しみない救いの賜物をすべての人に知らせることを意味します。

悩みの時の逃れ場(ヨエル書4章)

聖書の預言者たちは来るべき神の裁きを獅子のうなり声、すべての人を震え上がらせる音にたとえています(ヨエ4:16—口語訳3:16、アモ1:2、3:8)。聖書においては、シオンはエルサレムにあった神の地上の御座を意味しています。この場所から、神は敵を罰し、同時に御自分の勝利を忍耐強く待つ神の民を擁護されます。神が被造物を更新されるとき、彼らは神の勝利にあずかります。

ある人たちにとっては、聖書に描かれている神の最後の裁きを理解することは困難です。悪や罪が非常に現実的なもので、その力が強力であることを心にとめる必要があります。それは神に逆らい、あらゆる生命を滅ぼそうとしています。神は悪の敵です。ヨエルの言葉は私たちに自分の生き方を点検するように勧めています。私たちが神の側に立つことによって、裁きの日に守られるためです。

問6

マタイ10:28~31を読んでください。災難に遭ったときにも、私たちがイエスにおいて与えられているものを理解する上で、これらの聖句はどんな助けになりますか。

主は忍耐強く信仰を持ち続ける者たちをお支えになります。主は地上に荒廃をもたらされることがあるかもしれません(ヨエ4:1~15—口語訳3:1~15)。しかし、主の民は主の絶対的な裁きの行為を恐れるべきではありません。なぜなら、主は彼らを守ると約束しておられるからです(16節)。主は彼らに約束の言葉を与えておられます。主の絶対的で、恵み深い行為は、主が忠実な契約の神であることを示しています。主は、正しい者たちが恥を受けるのを決してお許しになりません(ヨエ2:27)。

ヨエル書は造り変えられた世界の幻をもって終わっています。そこには一本の川があって、永遠の神が赦された民と共におられる新エルサレムの中央を流れています(ヨエ4:18~21—口語訳3:18~21)。

この預言の言葉は、聖霊によって歩むように、誠実にクリスチャンの生活を送るように、そしてまだキリストの御名を呼んだことのないすべての人々に伝道するように、私たちに訴えています。この言葉に従うとき、キリストが、忠実な者たちの心にお住みになる聖霊によって、私たちと共におられるという神の約束が私たちのうちに成就します。

さらなる研究

ヨエルという預言者の名前は聖書の時代に一般的なもので、「主は神」という意味です。この名前はヨエル書の全体的な主題にふさわしいものです。神だけが完全に聖にして、義なる方であって、その御業は地上において絶対的なものです。諸国民の歴史と同様、神の民の歴史は神の御手のうちにあります。同じことがすべての人の人生についても言えます。

「永遠に関する恐るべき問題は、空想的でただ言葉と形式だけの宗教以上のものを要求している。この宗教においては、真理が除外されているのである。神はリバイバルと改革を求めておられる。講壇からは、聖書、そして聖書のみの言葉が語られなければならない。しかし聖書の力は奪い去られているので、その結果は霊的生活の低下となってあらわれている。今日の多くの説教は、良心を覚醒させて魂に生命を与える、神の力に欠けている。聴衆は『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』と言うことができない(ルカ24:32)。生ける神を叫び求め、神の臨在を熱望している者がたくさんいる。彼らの心に神の言葉を語ろう。これまでただ伝説と人間の説と、格言だけを聞いていた人々に、魂を新たにして、永遠の生命に至らせることができるおかたの声を聞かせよう」(『希望への光』618ページ、『国と指導者』下巻226、227ページ)。

第4課 諸国民の民(アモス書)

第4課 諸国民の民(アモス書)

聖書の中で、獅子はしばしば動物界の王とされています。その外観は凶暴性と破壊力と同時に、抗しがたい力と威厳を感じさせます。狩りをしているときでなくても、それは存在感にあふれていて、うなり声は何キロも聞こえます。羊飼いアモスがイスラエル人に遣わされたのは、自分が獅子のほえる声を聞いたことを伝えるためでした。獅子は彼らの主以外の何ものでもありませんでした。預言者アモスは聖霊に動かされて、神が御自分の特別な民と諸国民に語られる様を、獅子のほえる様と比べています(アモ1:2参照)。

アモスが召されたのは人類に対して罪を犯した諸国民に預言をするためでした。彼はまた、特権を与えられた宗教的な民が、平和と繁栄の中で暮らしている社会に遣わされました。しかし、この民は貧しい人々を虐げ、不法な商売を行い、法廷で賄賂を取っていました。今回は、主がこれらの卑劣な行いについて言われることに耳を傾けます。

人間に対する犯罪

問1

アモス書1、2章を読んでください。刑罰が臨むことについて、主が警告されるのはなぜですか。

アモス書の最初の2章には、周辺諸国民に対する七つの預言が、続いてイスラエルに対する預言が記されています。外国の諸国民が裁かれるのは、彼らがイスラエルの敵であるためではなく、彼らが普遍的な人間の原則を犯したからです。アモスは特に二つの点—忠誠の欠如と憐れみの欠如—について断罪しています。

たとえば、ティルスはイスラエルの北の地中海沿岸にあった中心的な商業都市でした。ほとんど難攻不落の島の要塞であったために、この町は自らを安全であると自慢していました。その上、ティルスの指導者たちは、ペリシテ人など周辺のいくつかの国々と平和条約を結んでいました。この町はダビデとソロモンの治世には(王上5:15、26—口語訳5:1、12)、またアハブ王の治世にも(王上16:30、31)、「兄弟の条約」によってイスラエルと結ばれていました。列王記上9:13で、ティルスの王ヒラムがソロモンを「わたしの兄弟」と呼んでいるのも不思議ではありません。

しかし、ティルスの住民は「兄弟の契り」を破りました。ティルスは捕虜を連れ去ったことのためではなく、捕虜をイスラエルの敵であるエドム人に引き渡したことのために非難されています。したがって、ティルスの住民はこれらの捕虜を敵の手によって苦しめた残酷さに対して責任を問われたのでした。神の視点からすれば、犯罪を助け、それを支持した者は、それを犯した者と同じだけ罪が深いのです。

神は絶対者であるゆえに、全世界の運命をその御手に握っておられます。神の目的と関心はイスラエルの国境のはるか彼方まで及びます。イスラエルの神はすべての国民の主であって、すべての人間の歴史に関心を寄せておられます。主は創造主なる神であって、すべての人に命をお与えになります。すべての人は神に対して責任を負っています。

抑圧された者たちのための正義

神の普遍的な裁きはアモス書に見られる中心的な教えの一つです。この書の冒頭において、預言者は人類に対する犯罪のゆえにイスラエルの隣国のいくつかに対して神の裁きを宣言しています。しかし、アモスは大胆にも、神がまたイスラエルをも裁かれると布告しています。主の怒りは諸国民だけでなく、御自分の選ばれた民にも向けられていました。ユダの民は主の言葉を拒み、主の教えに従いませんでした。

同時に、イスラエルに対するアモスの叱責はユダよりもはるかに広範囲に及んでいます。イスラエルが神の契約を破り、多くの罪を犯したからです。イスラエルの経済的繁栄と政治的安定は霊的腐敗につながりました。この霊的腐敗は社会的不法となって現れました。イスラエルにおいては、富める者たちが貧しい者たちから搾取し、力ある者たちが弱い者たちを食い物にしました。富める者たちは、それが貧しい者たちに犠牲と苦しみを強いることであっても、自分自身と自分の利益のことしか考えませんでした(数千年後の今も、状況はあまり変わっていません)。

アモスはその説教の中で、他者に対する私たちの扱いに関心を寄せる生ける神がおられると説いています。正義は思想や規範以上のものです。イスラエルの石造りの家、象牙の家具、最高級の食物と飲み物、最上の香油に至るまで、すべての物は滅ぼされると、預言者は警告しています。

問2

イザヤ書58章を読んでください。この章は「現代の真理」の特徴を帯びています。しかし、世に対する私たちのメッセージは、これ以上のものです。

社会的正義は福音のもたらす必然的な結果であると、聖書ははっきりと教えています。聖霊によってイエスに似る者とされるとき、私たちは神の思いにあずかるようになります。モーセの書は寄留者や寡婦、孤児を公平に扱うように教えています(出22:21~24)。預言者たちは、神が恵まれない人々を公平に、憐れみをもって扱うように望まれると言っています(イザ58:6、7)。詩編作者は、聖なる宮にいます神は「みなしごの父となりやもめの訴えを取り上げてくださる」と言っています(詩編68:6)。キリストは社会から拒絶された人々に深い関心をお示しになりました(マコ7:24~30、ヨハ4:7~26)。主の兄弟ヤコブは、私たちの信仰を行動によって示し、貧しい人々を助けるように教えています(ヤコ2:14~26)。そのように行わない者は、真にキリストに従う者とは言えません。

特権にともなう危険

アモスの預言的なメッセージはイスラエルの歴史的状況に限定されたものではなく、イスラエルとユダを超えて伝えられるべきものでした。旧約聖書においては、イスラエルと神との関係は独特のものでしたが、独占的なものではありませんでした。

アモス書3:1、2を読んでください。2節で用いられているヘブライ語の“ヤーダ”(「知る」—口語訳参照)は、親密さを表す特別な意味を持っています。たとえば、神はエレミヤ書1:5で、御自分が預言者を生まれる前から「知って」いて、彼を聖別されたと言っておられます。イスラエルの場合も同じでした。彼らは単に多くの国民の中の一つではありませんでした。神は彼らを聖なる神の目的のために聖別されました。彼らは神と特別な関係にありました。

神御自身がイスラエルを選び、彼らを奴隷の身から自由の身とされました。エジプトからの脱出は、国家としてのイスラエルの歴史の始まりの中で最も重要な出来事でした。それは神の贖いの業とカナンの地の征服への道を備えました。しかし、主の選ばれた民としての特権的な地位について言うなら、イスラエルはその力と繁栄のゆえに高慢と自己満足に陥りました。

問3

ルカ12:47、48にあるキリストの言葉を読んでください。キリストがここで教えておられる原則を、そのように理解したらよいですか。人生における大きな特権を乱用するなら、重い刑罰を受けることになるという意味ですか。

預言者アモスは神の霊感によって、イスラエルの民は主の選民であるゆえに、その行いに関して特に責任を問われると警告しています。イスラエルの神との独特の関係には義務がともなっており、もしその義務を遂行しなければ、結果として刑罰が下ると、主は言っておられます。言い換えるなら、神の選民であるイスラエルは、とりわけ神の裁きを受けるべき立場にあるということです。なぜなら、特権には責任が伴うからです。イスラエルはただ特権的な地位のために選ばれたのではありませんでした。彼らが召されたのは、彼らを豊かに祝福なさった主を世界に証しするためでした。

イスラエルの神との出会い

「イスラエルよお前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモ4:12)。

アモス書4章はイスラエルの罪についての描写をもって始まり、清算の日についての布告をもって終わります。自分たちの生き方と他者に対する態度に関して、神は特に御自分の民の責任を問われます。

アモスは一連の自然災害をあげていますが、それらはどれもイスラエルを神に立ち帰らせるに足るものでした。これら七つの災害は神の契約を破ったことに対する十分な刑罰です(レビ記26章のモーセの言葉と比較)。災害のうちのいくつかは、神がエジプトに送られた災いを思い起こさせるもので、最後の災いは明らかにソドムとゴモラの完全な滅亡に言及しています。

問4

神殿の奉献式においてささげられたソロモンの祈りによれば、災いはふつう民をどのような行為に導くことになっていましたか。王上8:37~40

イスラエルはもはや普通の民のように振る舞わなかったので、神は彼らの心を引きつけることが不可能であるとお考えになりました。さらに、神の裁きは民の心をかたくなにする結果になりました。民は主に立ち帰ろうとしなかったので、アモスは悔い改めるための最後の機会を与えます。

最後の裁きが下ろうとしていますが、アモスはその裁きがどのようなものであるかを明らかにしていません。アモスの言葉に含まれる曖昧さが、裁きの脅威をいっそう不気味なものにしています。イスラエルが神を求めなかったので、神がイスラエルに会うために出て行かれます。もし裁きがだめなら、神との出会いが救うことになるのでしょうか。

アモス書4:12は、「わたしはお前にこのようにする」という言葉をもって始まっています。これは伝統的な誓いの文句を思い起こさせるものです。この厳粛な宣言は、かつて神がシナイにおいて出現されたときのように(出19:11、15)、イスラエルに対して神と出会う備えをするように求めています。

高慢は堕落につながる

問5

オバデヤ書を読んでください。この書はどんな重要な道徳的・霊的真理について教えていますか。

オバデヤ書は旧約聖書の中で最も短い書で、エドムに対する神の裁きに関する預言的な幻について記しています。この書は、エドムの傲慢(1~4節)、エドムに臨む屈辱(5~9節)、ユダに対するエドムの暴虐(10~14)の三つの問題に焦点を当てています。

エドム人はヤコブの兄弟エサウの子孫でした。イスラエル人とエドム人の間の敵意は、双子の兄弟をめぐる家族同士の争いにさかのぼります。二人は後に二つの国民の父となりました。しかし、創世記33章によれば、二人の兄弟は後に和解しました。イスラエル人は神によって、「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」と命じられています(申23:8)。

それにもかかわらず、両国民の間の敵意は長年にわたって続きました。バビロンがエルサレムを滅ぼし、その市民を捕囚にしたとき、エドム人は喜んだばかりでなく、逃れようとするイスラエル人を食い物にし、そのうえエルサレムの略奪を助けました(詩編137:7)。それゆえに、預言者オバデヤは、エドムが自らの基準によって裁かれると警告したのでした。「お前がしたように、お前にもされる」(オバ15)。エドム人は苦難の中にあるユダの民に対して兄弟として行動しないで、むしろ敵の軍勢に味方したのでした(哀4:21、22)。

エドムが占領した地は死海の南東にありました。それは、軍勢が身を隠すことのできる高い峰々や険しい岩、洞穴、裂け目で満ちていました。エドムの町のいくつかはこのような近づき難い場所にありました。セラ(別名ペトラ)はエドムの首都でした。彼らの傲慢な態度は次の言葉によく表されています。「誰がわたしを地に引きずり降ろせるか」(オバ3)。

神は苦しみの中にある人々を利用する者たちの責任を問われます。オバデヤは高慢なエドムの民に対して、神が彼らの頭を低くされるであろうと警告しました。主から逃れる場所はありません(アモ9:2、3)。来るべき主の日は裁きと救いをもたらします。エドムは神の怒りの杯を飲み、神の民の繁栄は回復されます。

さらなる研究

次の引用文を読み、それらがアモス書1~4章とオバデヤ書のメッセージをもっとよく理解する上でどんな助けになるか話し合ってください。

「イスラエルの宗教の初めから、神が御自分の使命を遂行するためにこの特別な民をお選びになったという信仰が、ヘブライ人の信仰の基礎であり、悩みの時の避け所であった。しかし、預言者たちは、自分たちと同時代の多くの人々にとって、この基礎がつまずきの石となり、この避け所が逃げ道になったと感じていた。逆に、選ばれていることを神の偏愛や、懲罰からの免除と誤解してはならないこと、またそれがより深刻に神の裁きと懲罰にさらされていることを意味することを、彼らは民に思い起こさせねばならなかった。……

選ばれていることは、神がイスラエルだけに関心を寄せられることを意味するのだろうか。エジプトからの脱出は、神がイスラエルの歴史だけに関わり、他の国民の運命には全く無関心であることを暗示するのだろうか」(エイブラハム・J・ヘスケル『預言者』32、33ページ、英文)。

「誤った礼拝に陥った人々は、心の防備がくずれ去って、罪に対する防壁を失い、人間の心の邪悪な欲望に負けてしまったのである。

預言者たちは、その時代のはなはだしい圧迫、悪評高い不正、異常なまでの華美とぜいたく、恥を忘れた宴楽と酔酒、野卑な放蕩と堕落に対して、その声をあげたのであるが、彼らの抗議も、彼らの罪の告発も、その効果がなかった。『彼らは門にいて戒める者を憎み、真実を語る者を忌みきらう』『あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける』とアモスは言った(アモス書5:10、12)」(『希望への光』497ページ、『国と指導者』上巻249、250ページ)。

第5課 第一のものを第一に!(ハガイ書)

第5課 第一のものを第一に

聖書の中で最も短い書の一つであるハガイ書は、ユダの歴史における重大な時代に書かれました。捕囚になっていた民はほぼ20年前にバビロンから帰還していました。しかし、彼らは自分たちが帰還した理由を忘れてしまっていました。彼らは神の神殿を廃虚のままにしておきながら、自分の家を建てることに精力を注いでいました。

そこで、預言者は帰還した捕囚民に自分たちの置かれている状況についてよく考えるように勧告しました。彼のメッセージは単純にして論理的でした。民は懸命に働きましたが、十分な結果が伴っていませんでした。その理由は、彼らが優先順位を誤っていたからでした。彼らは自分のすべての行動において神を第一にする必要がありました。イエス御自身、次のように言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6:33)。

今日も、私たちは生存競争に巻き込まれるあまり、私たちの最優先事項、つまり常に主の御心を行うことを忘れがちです。

多く蒔いても、取り入れは少ない

問1

ハガイ書1:1~11を読んでください。ここに、どんなことが起こっていますか。そのようなことが起こっていたのはなぜですか。同じようなことが今日の私たちにも起こっていないでしょうか。私たちはどうしたら同じ過ちを犯すことになりますか。

「1年以上にわたって神殿はなおざりにされ、ほとんど見捨てられてしまった。人々は自分たちの家に住んで、物質的に繁栄しようと努めたが、その状態は哀れなものであった。彼らはどんなに働いても、繁栄しなかったのである。自然の力そのものが、彼らに逆らっているかのように思われた。彼らが神殿を荒廃させていたために、主は彼らの財産に破滅的な干ばつをお送りになった。神の恵みのしるしとして、彼らに野や畑の産物、穀物、油、酒などをお与えになった。しかし、彼らがこれらの豊かな賜物を利己的に用いたために、祝福は取り去られたのである」(『希望への光』599ページ、『国と指導者』下巻179ページ)。

ハガイは民の現在の状況について彼らを叱責しました。労働が報われなかったのは、神の契約を破ったことによる呪いの一つでした(レビ26:16、20)。民がこの優先順位に心を向けない限り、繁栄することはありえなかったでしょう。

ハガイは主の神殿に対して並々ならぬ情熱を抱いていて、民が早急に神殿の再建を成し遂げるように望みました。彼の大望は、神殿よりも自分自身の安楽を求める民の、自己満足に満ちた思いとは対照的でした。ハガイの最大の関心は神殿にありましたが、民の最大の関心は自分の家を建てることにありました。

主はハガイを用いて、民の心を主の思いに向けさせようとされました。神の家を廃虚のままにしておきながら、神を正しく礼拝することはできません。エルサレムの神殿は堕落した人間と共におられる神の臨在を象徴するものでした。それは、絶対者としての主が天と地の神であることを目に見えるかたちで全世界に思い起こさせるものでした。そのような神(ヨハ2:19、マタ26:61参照)、また救いの計画全体の象徴そのものである神殿を廃虚のままにしておきながら、イスラエルの子らはどのようにして真の神を証しするというのでしょうか。多くの点で、神殿に対する彼らの態度はより深い霊的問題—主の残りの民に与えられた聖なる使命感の欠如—を明らかにしていました。このことはまた、私たちに与えられた警告ではないでしょうか。

神の最大の約束

問2

ハガイ書1:12~14を読んでください。ここに見られる一つの目的意識に注目してください。民が与えられた働きを成し遂げる上で、同じ目的意識を持つことが極めて重要であったのはなぜですか。

今回は、指導者と残りの民は直ちに呼びかけに従いました。彼らは準備を整え、材料を集め、3週間後には神殿建設の働きを再開します。それから1週間後、彼らは祭壇を築き、犠牲による礼拝を復活します(エズ3:1~6)。5年もしないうちに、神殿は完成しました。

神の王国を物的な建造物と同一視することはできませんが、ハガイ書によれば、神は建造物のような物的な要素を用いて霊的な目的を達成されることがあります。

もし預言者の言葉に直ちに従うことが預言者の成功の度合いを測る尺度であるとするなら、ハガイは最も成功した預言者の一人です。彼の説教は人々を行動へと動かしました。その月のうちに、主が助けてくださるという預言者の激励の言葉によって、神殿建設の働きは再開されました。

ハガイ書1:12~14には、ハガイのメッセージに対する指導者と民の応答が記されています。すべての者が主に従っています。なぜなら、主がハガイを遣わされたことを、彼らが認めたからです。彼らは「主を畏れ」ました(12節、新国際訳)。そして、主を礼拝し、主にふさわしい敬意を払うことによって、そのことを表しました。こうして、ハガイは主からの新たな言葉を伝えることができました。「わたしはあなたたちと共にいる」(13節)。民が主に従う決心をすると同時に、叱責の言葉は励ましの言葉に変わりました。神の臨在についての約束は、ほかのすべての祝福についての約束を彼らに与えました。「わたしはあなたたちと共にいる」という言葉は、神が族長とモーセの時代に与えられた契約の約束を思い出させます(創26:3、出3:12、民14:9)。

恐れてはならない!

ハガイ書2:1~5は神の民のうちに起きていた大いなる信仰復興の興味深い進展について描いています。神殿建設の働きが始まった約1か月後、十分な力もないままに預言者たちの指導に従って神の家の再建を決定した残りの民に、神はハガイを通して励ましの言葉をお与えになりました。神殿の現在の状態は捕囚以前の状態に比べてどうかと、ハガイは長老たちに尋ねました。明らかに、現状は以前の栄光の比ではありませんでした。かつて同じ場所に立っていたソロモンの神殿の壮麗さを再現する見込みがなかったので、人々は失望していたはずです。

預言者は民に向かって、神の霊が共におられるので働き続けるように力づけました。彼は残りの民の共同体の一人ひとりに、全能の神が共におられるので奮って働くように呼びかけました。指導者たちに対するハガイの言葉─「強くあれ!恐れてはならない!」─は、モーセの死後、主がヨシュアに語られた言葉を思い起こさせます(ヨシュ1:5~9)。イスラエル自身の力が小さく、弱ければ、それに比例して神に対する彼らの信仰の必要性は大きいのでした。主は終わりには新しい神殿の栄光を昔の神殿の栄光にまさるものとされると、預言者は宣言しています。しかしながら、このことが真実となったのは、神殿にまさる方が来られたからにほかなりませんでした(マタ12:6参照)。

聖霊の臨在は、神の王国がイスラエルにおいて存続することの確証となりました。モーセや長老たちを導き、霊感のメッセージを持った預言者たちを遣わされた神の霊は残りの民と共におられました。指導者と民の信仰に満ちた応答は、霊的な改革がなされたことを証ししていました。聖霊が彼らと共にいて、彼らを新たにし、彼らを神に近づけられました。聖霊の臨在はまた、豊かな祝福を保証しました。預言者は共同体の人々に、神の約束の実現を目指して働くように励ましました。

ハガイは人生の苛酷さや、実現しなかった望みから来る失意を知る民に対して神の言葉を語りました。彼は民の関心を神に向けさせました。神は忠実な方で、新しい共同体が神の王国の責任ある市民となり、たゆまず善を行い、人生に真の意味と目的を見いだすように期待されます。

諸国民の願い

問3

ハガイ書2:6~9を読んでください。ここに、どんなことが約束されていますか。この約束の実現をどのように理解したらよいですか。

神はハガイを通して、主の日に諸国の民をことごとく揺り動かすと宣言されました。そのとき、神殿は神の臨在によって満たされます。預言者は同時代の民に対して、現在の逆境と貧困を超えて、神殿が指し示している神の王国の将来の栄光に目を向けるように呼びかけました。

エルサレムの神殿に組み込まれた壮麗さは、神殿を神の臨在にふさわしいものとするためでした。しかし、聖句によれば、主は栄光とは無縁の家にも喜んで住み、それを光輝あるものとなさいます。民は神殿再建のために工面するお金について過度に心配する必要がありませんでした。すべての財宝はこの新しい神殿に住むと約束された神のものです。主御自身が神殿に輝きを与えられるのでした。

「民が彼らの分をしようと努力して、心と生活に神の恵みが新たに与えられることを願い求めたときに、ハガイとゼカリヤを通じて言葉が次々と与えられた。そしてそれとともに、彼らの信仰は豊かに報われ、彼らが再建している神殿の将来の栄光に関する神の言葉は、必ず成就するという確証も与えられた。時が満ちたときに、この建物そのものの中に、万国の願うところの方が人類の教師、救い主として出現なさるのであった〔ハガイ書2:7、文語訳参照〕」(『希望への光』601ページ、『国と指導者』下巻183ページ、一部改訳)。

新しい神殿の輝きは昔の神殿の栄光にまさるものとなると、神は約束されました。それは異なった種類の栄光となるのでした。なぜなら、この神殿は人となられたイエスの臨在によって高められるからです。実際に、キリストの臨在は新しい神殿の栄光をソロモンの神殿の栄光にまさるものとしたのでした。

主の印章

「『その日には、と万軍の主は言われる。わが僕、シェアルティエルの子ゼルバベルよわたしはあなたを迎え入れる、と主は言われる。わたしはあなたをわたしの印章とする。わたしがあなたを選んだからだ』と万軍の主は言われる」(ハガ2:23)。

主からハガイに与えられた最後のメッセージは先のメッセージと同じ日に与えられました。先のものを補完するためです(ハガ2:22、23参照)。神の裁きの日に、もろもろの王国と国々は滅ぼされると、主は警告されました。しかし、その同じ日に、主の僕は神の定められた救いの業を完成すると、預言者は言っています。これは再臨において、またそれに続くすべての出来事の間に、最終的かつ完全なかたちで実現すると、私たちは理解しています。

ここで、イスラエルの政治的指導者は、彼自身の祖先であるイスラエルの王ダビデの輝かしい統治と関連づけられています。ゼルバベルはヨアキン王の孫で、バビロン捕囚後、ダビデの王位に就く正当な後継者でした。彼はペルシア王ダレイオス大王のもとでユダの総督として仕え、エルサレム神殿の再建を指導した人物でした。ヨシュアは神殿の再建を助けた大祭司でした。

ゼルバベルは主の印章、つまり王の権威と所有権の証拠を与えるものであると、預言者は言っています。王が指輪をもって法的な文書に署名するように、主は御自分の僕の働きを通して全世界に強く印象づけられます。神殿再建におけるゼルバベルの中心的な役割は決して低く評価すべきではありませんが、彼はハガイを通して神から与えられたすべての約束を実現したわけではありません。霊感を受けた福音書の記者たちは、ダビデとゼルバベルの子孫であるイエス・キリストの人格と働きこそ、聖書に見られるメシアについてのすべての約束の最終的な実現であると述べています。

さらなる研究

「しかし、この暗黒の時においてさえ、神に信頼する者にとって、希望がなかったわけではなかった。預言者ハガイとゼカリヤは、この危機に当面するために立てられた。これらの任命を受けた使命者たちは、人心を揺り動かす証言によって、人々に彼らの苦難の原因を明らかにした。物質的繁栄がなかったことは、まず神を彼らの第一の関心事にすることを怠った結果であると、預言者たちは宣言した。もしイスラエルの人々が、神の家を建てることを彼らの第一の仕事として、神を崇め、神に対する敬意と礼儀を示したならば、彼らは神の臨在と祝福を受けたことであろう」(『希望への光』599ページ、『国と指導者』下巻180ページ)。

「第二の神殿は、主の栄光の雲ではなくて、肉体をとって現れた神ご自身、満ちみちているいっさいの神の徳が宿っているかたの生きた臨在によって、あがめられるのであった。ナザレの人イエスが神殿の庭で、教え、いやされたとき、『万国民の財宝(万国の願うところのもの/文語訳)』が、ほんとうに彼の神殿に来られたのである。キリストが来られたこと、ただそのことだけで第二の神殿は、第一の神殿の栄光をしのいだ」(『希望への光』1598、1599ページ、『各時代の大争闘』上巻10、11ページ)。

第6課 主の日(ゼファニヤ書)

第6課 主の日(ゼファニヤ書)

もし預言書が年代順に置かれるなら、ゼファニヤ書はイザヤ書とエレミヤ書の中間に置かれるでしょう。

ゼファニヤの説教はユダヤ社会に見られる絶望的な堕落を譴責するものでした。神の愛がなおも御自分の民に謙虚さと忠誠を求めているという事実にもとづいて、彼は悔い改めの必要性を訴えました。彼のメッセージには、二つの意味が含まれていました。(1)切迫した世界的な裁きの脅威があるが、これは神御自身の民をも含むものである。(2)しかし、諸国民の中から救われた者たちには、イスラエルの残りの者たちと共に神に仕え、神の祝福にあずかるという約束が与えられている。今回の研究では、ゼファニヤのメッセージが堕落した世界に神の希望のメッセージを伝える者たちにも関係があることについて学びます。

闇の日

ゼファニヤのメッセージの焦点は「主の日」にあります(ゼファ1:7)。聖書の預言者にとって、主の日とは、神が救いと裁きのために人間の問題に介入される特別な時期をさしています。古代イスラエルの大部分の人々は、主がこの日、イスラエルを救い、高められるが、敵対する諸国民は永遠に滅ぼされると信じていました。ところが、彼らが驚いたことに、預言者は主の日が神の民にとっても運命の日となると宣言しました(ゼファ1:1~5参照)。なぜなら、彼らが神に対して罪を犯したからです(ゼファ1:17)。

問1

ゼファニヤ書1:14~18を、ヨエル書2:1~11、アモス書5:18~20と比較してください。これらの聖句から、「主の日」についてどんなことがわかりますか。

ゼファニヤは来るべき裁きを、大洪水の日にすべての生き物が滅ぼされたことにたとえています(創6~8章)。ゼファニヤ書1:2、3にある「死の目録」はなぜか神の最初の天地創造と逆の順序になっています。人間、地の獣、空中の生き物、水中の生き物(創1:20~27比較)。

人はお金によって裁きを免れることができないと、預言者は警告しています(ゼファ1:18)。銀も金も彼らを主の怒りから守ることができません。エルサレムの自己満足に陥った人々は、主が幸いも災いも下されないと主張しました。彼らは、主が何かをなさるような方ではないと考えていました(ゼファ1:12)。しかし、神の裁きは、神が御自分の忠実な民の将来のために積極的に働かれる方であることを啓示しています。

ゼファニヤは、神の裁きが懲罰的であると同時に、矯正的であることを明らかにしています。主は御自分を求める者たちを守ると約束しておられます(ゼファ2:3)。主の日は世の終わり以上のものです。それは永遠に続く神の支配の始まりです。

地の謙虚な人々

ゼファニヤ書2:1~3で、預言者は悔い改めるように勧告しています。滅びは差し迫っていましたが、もし悔い改めるなら、民はもうしばらく災いから守られるのでした。悔い改めることを拒む悪人たちは裁きの日に、もみ殻のように焼き尽くされます。詩編1:4でも、悪人たちはもみ殻にたとえられていて、彼らは最後には滅ぼされます。

ゼファニヤは「主を求めよ」という言葉によって、神の前に謙虚な者たちに自分の信仰を堅持するように勧めています。主を求めることは義と謙虚を求めることと同じであると、預言者は教えています。この悔い改めの態度は来るべき裁きを免れる上で欠かせないものです。

問2

ゼファニヤは悔い改めた人々を「地の謙虚な人々」と呼んでいます(ゼファ2:3、英語新国際訳)。次の聖句は、「地の貧しい人々」とも訳されるこの表現にどんな光を投げかけていますか。マタ5:3、詩編76:10(口語訳76:9)、イザ11:4、アモ8:4

謙虚な者とは、神に忠実な人、神によって導かれ、教えられる人のことです。詩編作者は次のように言っています。「主は恵み深く、正しい方。それゆえに、罪人に道を教えてくださいます。主は謙虚な者たちを正しいことに導き、彼らにその道を教えてくださいます」(詩編25:8、9、新国際訳)。謙虚な者たちは神と義と謙虚を求めることによって来るべき裁きに備えるように勧告されています。

忠実で謙虚な者たちが生き残る可能性が、「あるいは」という言葉によって表されています。生き残るか否かを決めるのは神の恵みのみです。この恵みは決して当然のものと受けとめてはならないものです。差し迫った滅びの中にあっても、憐れみ深い神のうちに将来の希望を抱くことができます。主は御自分に信頼する者たちを守ると約束しておられます(ヨエ4:16—口語訳3:16、ナホ1:7)。このような信頼は自己依存、不誠実、欺瞞と相容れないものです。

堕落した都

中国の諺に、「燭の真下が最も暗い」というのがあります。この諺はゼファニヤの時代のエルサレムの霊的状態にあてはまりました。預言者はユダの周辺諸国、たとえば西のペリシテ、東のモアブおよびアンモン、南のクシュ、東のアッシリアに対して神の裁きを宣言したばかりでした(ゼファ2章参照)。しかし、そこで終わってはいません。彼はなおも続けて、地上における神御自身の都であるエルサレムに住む者たちの罪を暴露しています。

問3

ゼファニヤ書3:1~5を読んでください。だれが、どんな理由で断罪されていますか。豊かな光と真理を与えられていながら、神の民がこれほど堕落したのはなぜだと思いますか。私たちも同じ過ちに陥らないようにするためには、どんなことに留意したらよいですか。

ユダの首都エルサレムがゼファニヤの関心の中心に置かれています。彼はエルサレムの道徳的堕落に関連して、その指導者たちを告発しています。この堕落は、直接的には、指導者たちが自分に与えられた役割と責任を果たさなかったことから来ています(エレ18:18、エゼ22:23~30比較)。役人によってなされる堕落した法廷は「ほえたける獅子」に、また裁判官たちは「夕暮れの狼」にたとえられています。神殿も同じようなものです。なぜなら、祭司は神の言葉を教えず、預言者は真理を語らないからです。

「ヨシヤの治世に主の言葉がゼパニヤに臨み、背信が続くならばどのような結果を招くかを明示し、真の教会の注目を輝かしい将来の展望に向けさせた。ユダに切迫した刑罰についての彼の預言は、キリストの再臨の時に悔い改めない世界に下る刑罰について、同様に適用することができる」(『希望への光』535ページ、『国と指導者』下巻9ページ)。

神の最大の喜び

「お前の主なる神はお前のただ中におられ勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ愛によってお前を新たにしお前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」(ゼファ3:17)。

ゼファニヤ書の結びの部分で(ゼファ3:9~20)、主題は怒りから回復に変わります。裁きを超えたところに、神の最終的な目標があります。懲罰を受けるときに、諸国民は共に主を求め、真心から主に仕えるようになります。民の唇は清められます。すべての者が主に仕えることによって、主を礼拝し、賛美するようになるためです。少数の、しかし謙虚で忠実な残りの者たちはユダで生き残り、高慢な指導者に取って代わるようになります。

重要なのは、神が御自分の民と共に住み、過去の過ちを正されるということです。彼らはもはや恐れの中で生きる必要がありません。主が御自分の民と共にいて、彼らの中に住まわれるからです。主は彼らの解放者、救い主となられます。「彼らは養われて憩い彼らを脅かす者はない」(ゼファ3:13)。

普通なら、そのような祝福を与えられた神の民が神のゆえに喜び楽しむものですが、預言者は、神が彼らのゆえに喜び楽しまれると言っています。御自分の民に対する神の愛と喜びが非常に大きいので、神は彼らのゆえに歓呼されるのです。

問4

預言者イザヤは、贖われた神の民のための神の喜びをどのように描写していますか。イザ62:5、65:19

大いなる王、大いなる勇士は御自分の民を守り、擁護されます。彼は御自分の勝利の功績、つまり十字架において私たちのために勝ち取った功績のすべてを彼らにお与えになります。彼は謙虚な者たちを高め、屈辱と苦しみと孤立を、栄誉と祝福、また御自分の臨在の経験に変えられます。足の不自由な者や追いやられていた者は高められます。これはイエス・キリストによって布告されたメッセージの中心にあるテーマです。

不法に対する神の答え

ナホム書1~3章を読んでください。この聖句は神の品性について教えています。それらは終末の諸事件を理解する上で助けになります。

ナホムの預言は、ニネベによって代表されるこの世の諸王国に対する神の言葉です。預言者は当時の世界を眺めたとき、神の御手がアッシリア帝国に対して働いているのを見ました。首都ニネベは間もなく滅ぼされ、再び立ち上がることがないと、彼は宣言しています。ナホムは絶対的な確信をもって語っています。なぜなら、彼は神の品性を知っていたからであり、また預言の賜物を通して(ナホ1:1)、起こるべきことを主によって示されていたからです。主は罪ある者を罰せずにはおられません(ナホ1:3、出34:6、7)。

アッシリア人は多くの国民から略奪し、権力に対して飽くことのない欲望を持っていました。彼らの残忍さは有名でした。神の「かみそり」として(イザ7:20)、徹底的に隣国から奪い取りました。今度は、そのかみそりが破壊されるときでした。神の裁きの手段となった彼らも、裁きを免れることはありません。ニネベはもはや存在しませんが、預言者の証しは生き続けています。神の正義は遅いように見えても、何ものもそれを止めることができません。

先の研究でも学んだように、ニネベはナホムの時代の何年も前にヨナの説教を聞いて悔い改め、神によって滅ぼされるのを免れていました。しかし、その悔い改めは長く続かず、民はもとの古い生き方に逆戻りしていました。ニネベの圧制下で苦しんだ多くの国はニネベ滅亡の知らせを聞いて歓喜したことでしょう。アッシリアの力がその神々と共に滅ぼされたという喜ばしい知らせを伝えるために、一人の使者が来ることになっていました(イザ52:7)。神の民は再び平和のうちに礼拝するようになるのでした(ナホ2:1—口語訳1:15)。

主の怒りは大いなるものです。しかし、主の憐れみはそれ以上のものです。あふれるばかりの主の慈愛を待ち望む者たちを、主は守られます。神は御自分に信頼する者たちを守られるが、みなぎる洪水をもって御自分の仇を闇に追いやられると、ナホムは教えています(ナホ1:8)。それらすべてのことの背後に、神がおられました。なぜなら、ニネベに対する裁きの日の到来を決定されたのは神だからです。

神は恐るべき力を持っておられると、預言者は言っています。すべての被造物は神の前に震えます。神は永遠に罪を許容されることがありません。同時に、神は御自分に信頼する者たちの救い主です。中立の立場はありません。一方の側でなければ、他方の側です。イエスは言われました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し……ている」(マタ12:30)。

さらなる研究

「無限の神は、今もなお誤ることのない正確さをもって諸国の記録をとっておられる。神のあわれみが差しのべられて、悔い改めの招きが与えられている間、この帳簿は開かれている。しかし、数字が神のお定めになった一定の数に達するときに、神の怒りのわざが始まる。帳簿は閉じられる。神の忍耐は終わる。もはや、あわれみの声は彼らのために訴えなくなるのである」(『希望への光』526ページ、『国と指導者』上巻331ページ)。

「世界は堕落しなかった諸世界と天の宇宙の前で、全地の裁き主、自らが断罪し、十字架につけた方に対して説明をしなければならない。それは何という清算の日であろうか!それは神の大いなる報復の日である。そのとき、キリストはピラトの法廷に立たれない。そのとき、ピラトやヘロデ、またキリストをあざけり、苦しめ、拒否し、十字架につけた者たちはみな、小羊の怒りを感じることがどのような意味を持つかを理解する。彼らの行為はその真の性格のままに彼らの前に現れる」(エレン・G・ホワイト『牧師へのあかし』132ページ、英文)。

第7課 神の慈悲に信頼する(ハバクク書)

第7課 神の慈悲に信頼する(ハバクク書)

ある牧師が逆境の中にあっても共にいる神について説教しました。説教の後で、ある女性が牧師のもとに来て涙ながらに次のように尋ねました。「先生、私の一人息子が死んだとき、神さまはどこにいたのでしょうか」。彼女の顔に深い悲しみを読み取った牧師は一瞬、沈黙した後で、次のように答えました。「神さまは、御自分の独り子が私たちを永遠の死から救うために死なれた日にいたのと同じ場所におられたのです」

私たちと同様、ハバククは不法と暴虐、罪悪を目の当たりにしました。それどころか、御自分の約束に信頼するようにハバククに求められた神はどんなときにも沈黙しておられるように見えました。

預言者はその生涯において、これらの約束が実現するのを見ることがありませんでした。しかし、彼はそれらの約束に信頼することを学びました。ハバクク書は神に対する不平をもって始まっていますが、聖書の中でも最も美しい賛美の一つをもって終わっています。私たちもハバククのように、信仰をもって、次の聖句が実現するときを待たなければなりません。「水が海を覆うように大地は主の栄光の知識で満たされる」(ハバ2:14)。

困惑した預言者

問1

ハバクク書1章を読んでください。預言者は神に何と質問していますか。彼の置かれていた状況は私たちのそれと異なっているとはいえ、私たちもどんな意味でこれと同じ質問をすることがよくありますか。

ハバククは預言者の中でも独特の存在です。なぜなら、彼は神に代わって人々に語ったのでなく、むしろ人々について神に語ったからです。「主よ……いつまで」という困惑に満ちた叫びをもって、預言者は神の目的を理解するための闘いを開始しています。聖書においては、この質問は典型的な嘆きの表現です(詩編13:2—口語訳13:1、エレ12:4)。それは危機的な状況を暗示していて、話者はそれからの解放を求めています。

ハバククは社会に蔓延していた暴虐という危機から解放されることを求めています。「暴虐」(不法)を意味するヘブライ語の原語は“ハーマース”で、ハバクク書で6回用いられています。この語は他者に対して加えられる肉体的・道徳的な危害を意味します(創6:11)。

ハバククは預言者だったので、神がどれほど正義を愛し、暴虐を憎まれるかをよく知っていました。それだけに、神はなぜ不法が続くのをお許しになるのかを、彼は知りたいと望んだのでした。彼は至るところに暴虐と不法を見ています。悪い者たちが正しい者たちに勝利しているように思われます。アモスの時代のように(アモ2:6~8)、また今日もしばしば見られるように、正義は権力者によって歪められています。

神の回答は神の将来の計画を明らかにしています。主はバビロンの軍隊を用いて民を罰せられます。この宣言は預言者を驚かせます。神がそのような無情な軍隊を用いてユダを懲らしめるとは予想していなかったからです。8節で、バビロンの騎兵は豹、狼、鷲—素早く、力強く獲物に襲いかかって、非業の死に至らせる三つの捕食動物—にたとえられています。

バビロンの冷酷な傲慢さは、いかなる責任も認めず、いかなる悔い改めも求めず、いかなる償いも与えないものです。それは造られた者の最も基本的な秩序を侵害するものです。バビロンの軍隊は「わたし〔神〕の怒りの鞭」(イザ10:5)として用いられると、ハバククは言われています。この刑罰はハバククの時代に行われるのでした(ハバ1:5)。こうした状況は神の正義についてさらに難しい疑問を生じさせることになります。

信仰によって生きる

ハバクク1:12~17を見ると、ハバククの疑問に対する神の回答はさらに悩ましい疑問を生じさせています。正義の神は悪人を用いて、自分たちよりも正しい者たちを罰することができるのでしょうか。17節にあるハバククの疑問は神の正義について述べています。

ハバククが困惑したのは、自国民の堕落のためだけでなく、自分の国がそれよりも悪い他の国によって裁かれるということのためでもありました。預言者はユダの罪についてよく知っていました。しかし、どう見ても、自分の民の中の、特に正しい者たちは異教のバビロニア人ほど悪くはありませんでした。

問2

ハバクク書2:2~4を読んでください。ここに、どんな希望が語られていますか。

ハバクク書2:2~4は聖書の中でも最も重要な聖句の一つです。特に4節は福音の真髄であって、明らかにプロテスタント宗教改革の出発点となった聖句の土台となるものです。イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは神の義を受けます。私たちは神御自身の義を持つ者と見なされます。神の義は私たちの義となります。これが、いわゆる信仰による義認です。

問3

ハバクク書2:4は救いの方法を、また信仰による義認についての聖書の教えを要約する言葉です。新約聖書の記者たちはこの聖句をどのように用いていますか。ロマ1:17、ガラ3:11、ヘブ10:38

悪と正義、救いについての混乱と疑問の中にあって、ハバクク書2:4は忠実な者と高慢な者とをはっきりと対比させています。それぞれの行動はその運命を決定します。正しい者は信仰によって生きますが、高慢な者はそうではありません。「信仰」を意味するヘブライ語の原語(“エムーナー”)は「忠実であること」、「不変であること」、「信頼できること」を意味します。信仰によって生きる者はその行いによって救われるのではありません。しかし、その行いは、彼が信仰によって生きることを示しています。彼の信仰はその行いにおいて現され、こうして彼は永遠の命を約束されるのです。

大地は満たされる(ハバクク書2章)

ハバクク書2章は、同1:17にあるハバククの質問に対する神の答えです。それは高慢な圧制者をあざける歌の形式をもって記されています。バビロンの滅びが確実なものとなったというメッセージが、少なくとも五つの嘆きによって確認されています(ハバ2:6、9、12、15、19)。敵に対する刑罰は「尺には尺を」(目には目を)の原則にもとづいて下されます。彼らは自分の蒔いたものを刈り取ります。なぜなら、神は高慢な人間から侮られるような方ではないからです(ガラ6:7)。

最後には神によって裁かれる圧制者とは対照的に、正しい者は、たとえこの世でどんな目に遭おうとも、キリストにある永遠の命を約束されています。終わりの時の忠実な残りの者たちを描写するにあたって、黙示録は「聖なる者たちの忍耐」という表現を用いています(黙14:12)。事実、正しい者は一貫して神の介入を待ち望みます。たとえ、それが再臨の時になっても、です。

問4

ヘブライ11:1~13を読んでください。これらの聖句は、私たちがそれぞれの立場でハバククと同じ問題に悩むときに、どんな助けを与えますか。

ハバククの質問に対する神の最終的な答えは、神がどんなときにも共におられるということです。どれほど状況が不利に見えるときにも、神の臨在に信頼し、神の裁きを確信すること—これが、聖書のあらゆる啓示のメッセージであり、ハバクク書のメッセージです。預言者の信仰とは、主と主の変わることのない品性に信頼することです。

「あの大いなる試練の時代に、ハバククおよびすべての聖徒たちとすべての義人たちを力づけた信仰は、今日、神の民を支えるのと同じ信仰であった。キリスト信者は、最も暗黒で最も険悪な状態のもとにあって、すべての光と力の源に寄り頼んでいることができる。日ごとに神を信じる信仰によって、希望と勇気を新たにすることができる」(『希望への光』534ページ、『国と指導者』下巻6ページ)。

神の名声を覚える

問5

ハバクク書3章を読んでください。ハバククはそこで何をしていますか。彼が直面していた厳しい状況と難解な問題に照らして考えるとき、そうすることが特に重要なのはなぜですか。

ハバククは伴奏付きの祈りによって、自分が神の道を受け入れたことを表現しています(ハバ3:19)。彼は全面的に神の力を認めて、裁きの始まるときに御自分の憐れみを覚えてくださるように主に求めています。預言者は過去における神の大いなる御業を思い起こし、いま救いを与えてくださるように神に祈っています。彼は時間と時間の間に立っているかのようです。一方の目で出エジプトの出来事を振り返り、もう一方の目で主の日を眺めています。神の力が現在の状況において現されることを、彼は切望しています。

ハバクク書3章の賛歌は、神がイスラエルをエジプトの隷属から救出されたことを詩的に描写しています。出エジプトのときに起こったことは大いなる裁きの日を予示するものです。信心深い者たちは主の日を恐れるのではなく、与えられている希望を待ち望み、忍耐し、喜ばなければなりません。

この賛歌はまた、神の力と栄光、勝利をたたえています。主は全地の支配者として描かれています。主の栄光の現れは日の出の輝きにたとえられています(ハバ3:4)。

神は抑圧的な国民を裁かれます。しかし、同時に、神は「勝利の戦車」を駆って(ハバ3:8)、御自分の民を贖われます。表面的には、神の力は必ずしも目に見えるとは限りませんが、信仰の人はどのようなときにも、神がそこにおられることを知っています。

ハバククは私たちに主の救いを待ち望むように言っています。それは、主が地上に御自分の義を打ち立て、世界を御自分の栄光で満たされるときです。主に賛美をささげることによって、神の民は過去における神の御業を瞑想し、輝かしい将来を待望するように互いに励まし合うのです(エフェ5:19、20、コロ3:16)。ハバクク自身の経験は、人が希望的幻をもって生きることによって忍耐することができることの実例です。

神は私たちの力

問6

「いちじくの木に花は咲かずぶどうの枝は実をつけずオリーブは収穫の期待を裏切り田畑は食物を生ぜず……。しかし、わたしは主によって喜びわが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし聖なる高台を歩ませられる」(ハバ3:17~19)。ここに見られる預言者の態度の素晴らしい点はどんなところですか。私たちもどうしたらこのような態度を養うことができますか。フィリ4:11参照

ハバクク書の結びの言葉(ハバ3:16~19)は、神の力と慈愛の啓示に対する預言者の応答です。新たな視点から神の救いの御業を眺めたとき、敵の攻撃を受けようとしているハバククに勇気が与えられました。自国民に神の裁きが下ることを思ったとき、彼の心は恐怖で満たされました。侵略はいちじくとオリーブの木を枯らしてしまうかもしれません。パレスチナでは、それらはぶどうや穀物、家畜と同じくらい貴重なものでした。しかし、預言者は生ける主の幻を受けていたので、その不動の信仰は揺らぐことがありませんでした。

ハバククは自分自身の過去の経験から、神が絶対的に忠実な方であることを知っていました。彼が神の現在の目的に従ったのはそのためでした(ハバ3:16~19)。状況がどれほど不利で、絶望的に見えようとも、預言者は主と主の慈愛に信頼する決意でした。

たとえ間近に救いの徴が見られなくても、ハバククは変わらない信頼を待っています。預言者ハバククは対話と皮肉、賛歌をもって、各時代の忠実な者たちに、贖い主に対する深い、生きた信仰を養うように教えています。彼は自分自身の模範を通して、苦しいときには神と対話をし、神に対する自分の忠誠心を試し、主に対する希望を養い、主を賛美するように信心深い者たちに勧めています。

ハバククは美しく表現された信仰の態度をもってその書を結んでいます。人生がどれほど苛酷なものになっても、人は神のうちに喜びと力を見いだすことができます。ハバクク書の根底にある教えは、終わりの見えない苦難のときにも忍耐して神の救いを待つ必要があるということです。ハバクク書全体に流れているテーマは、「主を待ち望む」ということです。このテーマは私たちセブンスデー・アドベンチストにこそふさわしいものです。私たちの名そのものがイエスの再臨に対する信仰を表しているからです。

さらなる研究

次の引用文を読み、それらがハバクク書のメッセージをより深く理解する上でどんな助けになるか話し合ってください。

「ハバククの質問には答えがある。それは思想を通してではなく、出来事を通して与えられる答えである。神の答えは起こるものであるが、それを言葉によって表すことはできない。神の答えは必ず実現する。『たとえ、遅くなっても、待っておれ』〔ハバ2:3〕。確かに、待つ間はつらいものである。正しい者は自分の見るものによって恐れを抱く。これに対しては、大いなる答えが与えられている。『神に従う人は信仰によって生きる』〔ハバ2:4〕。これもまた思想を通してではなく、実在を通して与えられる答えである。預言者の信仰は主に信頼することにある。主の臨在においては、静寂は悟りの一形態である」(エイブラハム・J・ヘスケル『預言者』143ページ、英文)。

「われわれは預言者たちや使徒たちが証しした信仰を抱いて、それを強めるようにしなければならない。それは神の約束をしっかりと把握して、神がお定めになった時と方法によって救いをお与えになるのを待つ信仰である。預言の確かな言葉は、われわれの主、救い主イエス・キリストが、王の王、主の主として栄光のうちに再臨なさるときに、完全に成就するのである。待望の期間は長く思われるかもしれない。心は失望的状況下に圧倒されるかもしれない。また、信頼されていた多くの人々が、途中で倒れてしまうかもしれない。しかしわれわれは、未曽有の背信の時代にあって、ユダを励まそうと努力した預言者と共に確信をもって次のように言おう。『主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ』(ハバクク2:20)」(『希望への光』534ページ、『国と指導者』下巻6、7ページ、一部改訳)。

第8課 神の特別な民(ミカ書)

第8課 神の特別な民(ミカ書)

預言者ミカが仕えたのは、イスラエルの歴史の中で最も暗い時代の一つでした。イスラエルは長い間、二つの王国に分裂してきました。ついに、アッシリアは北王国を滅ぼし、罪悪と暴虐が南のユダにも入り込んでいるのを、ミカは見ました。彼は偽りと不法、賄賂と不信という重大な罪に対して警告しました。ミカはエルサレムの滅びを預言した最初の聖書の預言者でした(ミカ3:12)。

しかし、神の霊感を通して、預言者はこの暗黒の時代にも光明を見ました。彼は神の視点に立って、来るべき刑罰の彼方を眺めました。ミカは励ましに満ちた言葉によって、主の油注がれた指導者がベツレヘムから出ると告げました。メシアこそ、イスラエルを救い、「剣を打ち直して鋤」とするように教えることによって諸国民に平和を説く指導者でした(ミカ4:3)。神の叱責は回復と究極の祝福をもたらす手段となるのでした。

預言者の心の痛み

ミカ書1:1~9において、全地に向かって、預言者は、罪深い民に対する神の裁きの証人となるように言っています。首都のサマリアとエルサレムが特に選ばれているのは、これらの町の指導者たちが真心から神に従うことの意味を身をもって示さなかったからです。これら二つの町は最初に滅ぼされることになっていました。

裁きによって滅ぼされるという思想は、ミカの生き方に真の緊張をもたらしました。彼は預言者としての召命によって神の目的と一つに結ばれていたので、近い将来に臨もうとしている出来事を告げ知らせる以外に選択肢はありませんでした。しかし、預言者はまた自分の属する民を愛していたので、彼らが捕囚になることを思って心から嘆きました。多くの場合、悪い知らせは預言者の心と身体に破壊的な結果をもたらしました。

問1

次の聖句は預言者の苛酷な運命についてどんなことを教えていますか。民11:10~15、王上19:14、エレ8:21~9:2、エゼ24:15~18、IIコリ11:23~27

神の預言者たちは自分たちの宣布するメッセージに深くかかわっていました。彼らは起ころうとしている恐ろしい出来事について語ることを喜んだわけではありません。彼らはしばしば嘆くことによって、来るべき災いに対する自らの態度を表明しました。彼らの苦しみは現実のものでした。彼らの聴衆からすると、メッセージは預言者の言葉の中に、またしばしば内面の深い苦しみを現す外面的な徴の中に含まれていました。神の裁きに対するミカの応答はイザヤのそれを思い起こさせます。イザヤは、捕囚がもたらす屈辱の目に見える徴として、3年間、裸、はだしで歩き回りました。資料が手に入る人は、エレン・G・ホワイトがその働きの中で味わった大きな苦しみについて読んでみてください。このことは、神の僕たちが経験しなければならない苦しみを理解する上で助けになります。

悪をたくらむ者たち

問2

ミカ書2:1~11、同3章を読んでください。これらの人々に裁きをもたらすのはどんな罪ですか。

「アハズが王位につくことによって、イザヤとその仲間たちは、ユダ国内において、これまで当面したこともない恐るべき事態に直面することになった。これまで偶像礼拝の習慣の魅力に抵抗してきた人々の多くが、異教の神々の礼拝に参加するように説き伏せられていたのである。イスラエルの君たちは、彼らに負わせられた信任にそむいていた。偽りの預言者が起こって、人々を背信に導く言葉を語った。祭司の中には、価をとって教える者さえあった。それにもかかわらず、背信の指導者たちは、なお、神の礼拝の形式を保持して、自分たちは神の民に属すると主張していた。

こうした騒然とした時代にあかしを立てた預言者ミカは、次のように宣言した。すなわち、シオンの罪人たちは、『主に寄り頼んで』いると主張し、また『主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない』と冒的に自慢する一方で、『血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建て』続けたのである、と(ミカ書3:11、10)」(『希望への光』510、511ページ、『国と指導者』上巻287ページ、一部改訳)。

ヘブライ民族が絶えず直面した問題の一つは、神の民としての彼らの特別な地位—愚かな異教の偶像崇拝とは対照的なまことの神についての知識(詩編115:4~9参照)—が自分たちに神の報復を免れさせているという誤った観念でした。しかし、真実はその逆でした。彼らが神の前に特別な地位を与えられているという、まさにそのことのゆえに、彼らは自分の罪の責任をより厳しく問われるのでした。申命記の次の言葉にもあるように、彼らのすべての祝福と保護、繁栄は神の命令に対する服従を条件として与えられるものであると、主は繰り返し彼らに警告されました。「ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい」(申4:9)。

ベツレヘムから出る新しい指導者

ミカ書においては、調子が憂うつな気分から崇高な希望へと大きく変わることがしばしばあります。この希望はあらゆるメシア預言の中でも最も有名な預言の中に現れます。

問3

ミカ書5:1〔口語訳5:2〕を読んでください。それはだれの、どんなことについて述べていますか。ヨハ1:1~3、8:58、コロ1:16、17参照

ユダの小さな町から、永遠なる方がイスラエルの支配者となるために来られます。ミカ書5:1は人々に強い望みを抱かせるために書かれた最も重要な聖句の一つです。人々は預言者によって約束された理想の指導者を熱望していました。この方の支配は力と正義と平和の時代をもたらすのでした〔ミカ5:3~5—口語訳5:4~6〕。

ダビデはエフラタとも呼ばれていたベツレヘムの住民でした(創35:19)。エフラタの名があげられているのは、ダビデと、彼の将来の後継者、つまりこの民のまことの牧者〔イエス〕の卑しい出自を強調するためです(ミカ5:3—口語訳5:4)。ベツレヘムの貧しい町で、預言者サムエルはイスラエルの王となる、エッサイの末息子ダビデに油を注ぎました(サム上16:1~13、17:12)。学者たちが新しく生まれた「ユダヤ人の王」を探しに来たとき、ヘロデ王は聖書の専門家たちに探すべき場所を問いただしました(マタ2:4~6)。専門家たちが王に示したのが、メシアがベツレヘムの小さな町から来ると予告しているこの聖句でした。

有限で堕落した私たちの理性には理解できないことですが、お生まれになったその子は永遠の神、天と地の創造者でした。「永遠の昔から、主イエス・キリストは天父と一つであられた」(『希望への光』675ページ、『各時代の希望』上巻1ページ)。いかに理解し難い思想であるとはいえ、それはキリスト教の最も根本的な真理の一つです。創造主なる神は人性を取り、その人性において御自身を私たちの罪の犠牲としておささげになりました。このことが私たちの人生の価値について、また神の前における私たち個人の意味について何を教えているのかをじっくりと考えるとき、私たちの生き方は変わってきます。多くの人々は自らの存在の目的と意味を求めて格闘していますが、私たちには十字架という基礎があります。それは私たちに人生の意味を明示すると同時に、世が与えることのできない最高の希望を与えます。

善とは何か

ミカ書6章の冒頭において、神は御自分の民と対話をし、その中で、神が御自分の民のために行ったすべてのことを列挙しておられます。その応答として、神殿に来る礼拝者は神を喜ばせるために何をなすべきかと尋ねています。神に受け入れられるささげものは何でしょうか。当歳の子牛ですか、幾千の雄羊ですか、油の流れですか、それとも礼拝者の長子ですか。この聖句にあげられている供えものは次第にその量と価値を増していきます。

問4

ミカ書6:1~8を読んでください。ここに、どんな重要な真理が教えられていますか。それが私たちセブンスデー・アドベンチストにとって特に重要であるのはなぜですか。真理が単なる正しい教理や詳細な預言の理解以上のものであることについて、それは何を教えていますか。マタ23:23参照

神はすでに御自分の望むことを啓示しておられると、預言者は宣言しています。人々はモーセの教えを通して、神が、恵み深くも彼らのためになさったことを知っていました(申10:12、13)。ミカの答えは、神の要求に変更が生じたことを示す新たな啓示ではありませんでした。犠牲や祭司の奉仕は神の第一の関心事ではありませんでした。神の最大の願いは、隣人に対する正義と、主に対する一貫した献身と愛をもって行動する民を持つことでした。人が神にささげることのできる最も豪華な献げ物は服従です。

ミカ書6:8は、御自分の民に対する神の御心についての最も簡潔な表明です。それは真の宗教に関するすべての預言者の教えを要約するものです。正義と慈しみを実践する生き方、神のそば近く歩む生き方です。正義とは、人が神の霊に促されるときに行う行為です。それはすべての人、特に搾取されている弱い人々や力のない人々を公平かつ平等に扱うことです。親切とは、快く、進んで人々に愛と忠誠、真実を示すことです。神と共に歩むとは、神を第一にし、神の御心に従った生き方をすることです。

海の深みに

ミカ書は裁きの描写をもって始まりますが、希望の言葉をもって終わります。神の裁きの現実を言い逃れたり、否定したりする人たちがいます。そうする人たちはミカの時代の人たちと同じように罠に陥ることになります。彼らは、神が選民に裁きを下すことは決してないと信じていました。

神の正義は神の愛と関心の裏側です。ミカの伝えた福音は、裁きが決して神の最終的な決定ではないということです。聖書における神の行為は一貫して、裁きから赦しへ、刑罰から恵みへ、苦しみから希望へと移行しています。

問5

ミカ書7:18~20を読んでください。これらの聖句の中に、福音がどのように啓示されていますか。ここに、私たちのためのどんな希望が与えられていますか。私たちがそれを切実に必要としているのはなぜですか。

ミカの結びの聖句は賛美と希望で満ちています。「だれが神のようであるか」という問いかけは、「だれが主のようであるか」を意味するミカの名前に対応しています。それは、神が独特の方であることを思い起こさせるもの、また神のような方がだれもいないという真理を確認するものです。結局のところ、神だけが創造主です。ほかのすべてのものは造られたものです。それ以上に、私たちの創造主は恵みと赦しの神であって、想像を絶する非常手段によって私たちを当然受けるべき滅びからお救いになった神です。それはヘブライ民族のためであり、同時に私たちのためでした。

私たちは今日、困難な状況や苦しい経験に直面することがあります。そのようなとき、神はなぜこのような苦しみをお許しになるのかと疑問を抱きます。その意味を理解することができないこともあります。そのようなとき、私たちは自分たちの罪を海の深みに投げ込むと約束しておられる主にのみ希望を抱くことができます。神が過去になさったことを覚えるとき、将来に希望を抱くことができます。

第9課 喜んで赦す(ヨナ書)

第9課 喜んで赦す(ヨナ書)

やや変わった神の使命者ヨナの物語は、聖書の中でも最もよく知られているものの一つです。預言者は来るべき滅びについてニネベに警告するために神によって遣わされました。これらヘブライ人でない民が自分たちの罪を悔い改め、また神も彼らをお赦しになるだろうと、ヨナはうすうす感じていました。ヨナは真の預言者だったので、神がニネベを滅ぼさないで、救おうとしておられることを知っていました。彼が最初、逃亡しようとしたのは、たぶんそのためです。しかしながら、彼は自分を超えた力によって、心を入れ替え、神の命令に従いました。

ヨナの伝道に応えて、ニネベの町全体はメッセージを受け入れ、不幸にもイスラエルとユダに見られなかったような方法で、悔い改めました。一方で、ヨナはいくつか重要な教訓を学ぶことになりました。

この物語は、神が御自分の偏狭で頑迷な預言者に恵みと憐れみ、赦しの本質について忍耐強く教えておられたことを示しています。

不従順な預言者(ヨナ書1章)

ヨナとその家族的な背景については、あまりよくわかっていません。列王記下14:25によれば、彼はイスラエル北部に住んでいて、紀元前8世紀頃に働きました。この聖句によれば、ヨナはイスラエル王国の領土の拡張を預言しました。

ニネベはチグリス川のそばにあった重要な国アッシリアの三大都市の一つでした。神はすべての国民の主であって、すべての民は神に対して責任を負うので(アモ1~2章)、神は差し迫った滅びについてニネベの人々に警告するために御自分の僕ヨナを遣わされたのでした。ヨナ書1:2で「呼びかけよ」と訳されている神の命令は「説教せよ」と訳すこともできます。

アッシリア人の残忍さは有名でした。1世紀ほど後に、預言者ナホムはニネベについて、「災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち……」と言っています(ナホ3:1)。ヨナはそのような人々に神のメッセージを伝えるために遣わされたのでした。とりわけヨナの行動に影響を及ぼしたのは、嫌われ者のアッシリア人に対する恐れであったかもしれません。ニネベに向かって東に行きなさいと神から言われたとき、預言者はそれを拒み、タルシシュに向かって船で西に逃れました。

初めのうちは、万事がヨナにとって順調に進んでいるように見えました。しかし、主は船に向かって大風を送られます。だれも神から隠れることができないという教訓を御自分の僕に教えるためでした。

ヨナが神から逃れたのは、神の御心に従いたくなかったからです。今日も、人々はいろいろな理由で神から逃れようとします。個人的に神を知らないためにそうする人もいれば、神と神の御言葉そのものを否定するためにそうする人もいます。動機はさまざまですが、多くの場合、人々は自分の生き方について罪の意識を持ちたくないためにそうするのです。結局のところ、もし弁明すべき高い権威が存在しなければ、人は好きなことをすればよいのです。クリスチャンの中にも、自分の好きでないことや、生まれながらの利己的で罪深い性質に反することをするように求められたときに、神を避けようとする人たちがいます。

不承不承の証人

ヨナ書1章で、主はヨナの逃亡を阻止するために、船が沈むほどの激しい暴風を送られます。船乗りたちはそれぞれ自分の神に助けを求めて叫びます。暴風があまりにも激しかったので、だれかが神々を怒らせたに違いないと考えたのです。このような怒りの原因を知るために、彼らはくじ引きによって、誰から進んで自分の素性を明かすかを決めようとしました。くじ引きをするために、各自は自分の名を特定できる石や木片を持ってきます。それらの印を箱に入れて、印の一つが出るまで振ります。くじはヨナに当たります。ヨナは自分の罪を告白し、船乗りたちに自分を海に投げ込むように要求します。

この物語が際立っているのは、ヨナが消極的に描かれている一方で、ヘブライ人でない船乗りたちが積極的に行動しているからです。彼らは多くの神々を拝んでいましたが、心からの敬意をもって主に祈っています。彼らはまた主の僕ヨナに対して親切です。そのことは、彼らが何とかして船を陸に漕ぎ戻そうとしていることからも明らかです。最後に、彼らはヨナを海に投げ込むことに同意します。すると、嵐は静まり、船乗りたちは主に犠牲をささげ、主を賛美します。

問1 

9節で、ヨナは自分の畏れる主をどのように描写していますか。主についての彼の描写はどんな点で重要ですか。黙14:7、イザ42:5、黙10:6参照

海と陸の創造者としての神に対するヨナの信仰告白は、彼が神の臨在から逃れようとしても無益であることを強調しています。船乗りたちがヨナを海に投げ込むとすぐに嵐が静まったことは、創造者なる主が海を支配される方であることを示しています。このことのゆえに、船乗りたちはなお一層、主を礼拝するようになります。創造主に対する彼らの新たな畏れと敬神の念がいつまで続いたかは明らかにされていません。しかしながら、彼らがこの経験を通して神について何かを学んだことは確かです。

ヨナの賛歌

ヨナが海に投げ込まれたとき、神の命令によって巨大な魚が彼を呑み込みました。ヨナは、死ぬこと以外にニネベに対する使命を逃れる道はないと考えたに違いありません。しかし、その巨大な魚(「鯨」とは書かれていない)が預言者を救う手段となりました。ヨナとは異なり、この生き物は直ちに、従順に神の命令に従いました(ヨナ2:1、2:11、口語訳1:17、2:10)。

ここで、神の摂理が驚くべき方法で働いています。一部に、この物語をあざ笑う人たちがいますが、イエスはその真実性について証言し、さらにはそれを御自身の死と肉体の復活に関連づけておられます(マタ12:40)。

問2

ヨナの賛歌とも呼ばれているヨナ書2章を読んでください。彼はそこで何と言っていますか。彼はどんなことを学びましたか。私たちはこの章からどんな霊的原則を学ぶことができますか。

ヨナの賛歌は、恐ろしい海の深みから救ってくださった神をほめたたえています。ヨナ書の中で詩的な部分はここだけです。その中で、ヨナは深みに沈みながら、死に直面したときに助けを求めてささげた祈りを思い起こしています。自分が本当に救われたことに気づいたとき、彼は神に感謝をささげました。この賛歌は、ヨナが聖書に記されている賛美と感謝の詩編に精通していたことを示しています。

ヨナの誓いには、感謝のいけにえが含まれているように思われます。自分が死に値する者であったのに、神が格別な憐れみを示してくださったことに、彼は感謝しています。不従順であったにもかかわらず、ヨナはなお自分自身を神に忠実な者と考えています。彼が偶像礼拝に屈しなかったからです。どれほど品性に欠陥があろうとも、彼は自分の召しに忠実であろうと心に決めています。

使命に従う

このような奇跡的な救出の後で、説教するために再びニネベに行くように神から命じられたとき、ヨナは直ちに従いました。ヨナはその宣言の中で(ヨナ3:1~4)、神によるソドムとゴモラの滅亡を思い起こさせる言葉を用いています(創19章)。しかし、ヘブライ語原文では、ヨナの宣言にある「滅びる」を意味する言葉(創19:21、29、ヨナ3:4参照)はまた、「向きを変える」あるいは「変える」という意味を持っています(出7:17、20、サム上10:6)。ヨナが神のメッセージを伝えたことは無駄にはなりませんでした。

預言者としてのヨナの最大の業績は、ニネベの町が悔い改めたことでした。ヨナ書の中のヘブライ人以外の人たちについて言えば、ニネベの人々は船乗りたちについで神に立ち帰った2番目の集団となりました。すべては欠点だらけの神の使者〔ヨナ〕との相互作用によるものでした。その結果は驚くべきものでした。神の前に身を低くするために、ニネベの人々は粗布をまとい、頭に灰をかぶり、断食しました。これらはすべて悲しみと悔い改めを表す外面的な徴でした。

問3

マタイ12:39~41、歴代誌下36:15~17を読んでください。これらの聖句は悔い改めの重要性について何を教えていますか。

強大なアッシリアの王が灰をかぶって神の前にへりくだっている驚くべき光景は、多くのイスラエルの高慢な支配者や民、少なくとも悔い改めを求める預言者の嘆願を執拗に拒んだ者たちにとっては厳しい譴責です。ユダヤ人は毎年、自分たちの罪に対する神の赦しを記念する贖罪日の最高点においてこの書を朗読しますが、それは、ヨナ書が神の恵みと赦しを強調しているからです。

「私たちの神は憐れみの神である。神は忍耐と優しい憐れみをもって御自分の律法の違反者を扱われる。しかし、人々が聖書に啓示された神の律法に親しむ多くの機会を与えられている現代にあって、宇宙の大いなる支配者は暴力や犯罪の支配する邪悪な都市を見て、少しも満足されない。もしこれらの都市の人々が、ニネベの住民のように悔い改めるなら、ヨナのメッセージのようなさらに多くのメッセージが伝えられることであろう」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』10月18日、1906年、英文)。

赦されても、赦さない

問4

ヨナ書4章を読んでください。ヨナはどんな重要な教訓を学ぶ必要がありましたか。ここに、彼自身の偽善がどのように暴露されていますか。

ヨナ書4章は預言者ヨナについていくつか驚くべきことを啓示しています。彼は神の恵みと赦しを証しするよりも、死ぬことを願っていたように思われます。先には、死から救われたことを喜んでいたのに(ヨナ2:7~10)、生きている今、彼は死ぬことを願っています(4:2、3)。

ヨナとは対照的に、神は聖書の中で、「悪人が死ぬのを喜ばない」方として描かれています(エゼ33:11)。ヨナと、彼の同国人の多くはイスラエルに対する神の特別な憐れみを喜びましたが、彼らの敵に対しては神の怒りのみを願い求めました。そのような心のかたくなさがヨナ書のメッセージによって厳しく叱責されています。

問5

ヨナの過ちからどんな教訓を学ぶことができますか。偏見はどんな意味でクリスチャンとしての私たちの証しを危うくしますか。

ヨナ書はまさに「反面教師」的な性格を持った書です。ヨナは反逆的な精神と誤った優先順位を持った預言者でした。彼は復讐に対する願望を抑えることができませんでした。彼は小心で、気の短い人間でした。神がニネベの住民に示された恵みを喜ばないで、自分の利己的で罪深い高慢に屈して憤慨しました。

神の最後の言葉が御自分の限りない恵みを肯定する言葉、生命を肯定する言葉であったのとは対照的に、ヨナの最後の言葉は死を願う言葉です(ヨナ4:8、9)。

ヨナ書は完結していません。その結びの聖句は、著者が答えていない一つの重要な質問を読者に提示しています。ニネベにおける奇跡的な心の変化は、最終的にヨナの心を劇的に変える結果になるのでしょうか。

さらなる研究

次の引用文を読み、それらがヨナ書のメッセージをより深く理解する上でどんな助けになるか話し合ってください。

「神の子らは、必要なときにはいつでも助けを求めて神に嘆願する貴重な特権を与えられている。その場所がいかに不適切に思われようとも、それは問題ではなく、神の憐れみの耳は彼らの叫びに対して開かれている。その場所がいかに荒れ果て、暗くても、それは祈る神の子らによって真の神殿に変えられる」(『SDA聖書注解』第4巻1003ページ、英文)。

「ヨナは、困惑し、面目を失い、ニネベを救われた神のみこころを理解することができなかったが、それでも、神があの大きな町に警告を発するように彼に命じられた任務は果たしたのである。預言された事件は起こらなかったけれども、警告の使命は、やはり神から出たものであった。そして、それは、神が計画なさった目的を果たしたのである。神の恵みの栄光が異教徒の間にあらわされた」(『希望への光』494ページ、『国と指導者』上巻241ページ、一部改訳)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

第10課 主を求めよ、そして生きよ(アモス書)

第10課 主を求めよ、そして生きよ(アモス書)

「イスラエルが神に忠実であったなら、神は彼らに栄えとほまれとを与えることによって、みこころをなしとげることがおできになったのである。もし彼らが服従の道を歩いていたなら、神は彼らに『ほまれと良き名と栄えとを与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされ』たのである。『そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたをおそれるであろう』『彼らはこのもろもろの定めをきいて、「この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある国民である」と言うであろう』と、モーセは言った(申命記26:19、28:10、4:6)。しかし、イスラエルが不忠実であったために、神のみこころはうちつづく逆境と屈辱とを通してのみ達成されるよりほかなかった」(『希望への光』680ページ、『各時代の希望』上巻15、16ページ)。

今回は、アモス書についてもう少し詳しく学びます。主はなおも御自分の民に、自分たちの罪を捨てて、唯一の、まことの命の源である主に立ち帰るように訴えておられます。結局のところ、私たちはみな二つの選択肢—命か死か—しか与えられていません。中立的な立場はありません。アモスはこれらの選択肢の際立った違いについて教えています。

悪を憎み、善を愛せよ

堕落と抑圧、罪のゆえに、イスラエルの状態は非常に悪化していました。国家の存続そのものが危険な状況に陥っていました。それゆえに、アモスはイスラエルの来るべき死を嘆く挽歌を作ったのでした(アモ5:1~15)。預言書においてはしばしば、預言者の言葉と主の言葉が区別されていません。したがって、アモスの挽歌はイスラエルに対する神の挽歌でもあるのです。

アモス書5:1~15にある弔いの歌の目的は、直面している現実に人々を気づかせることにありました。もし彼らが自分の罪に執着するなら、彼らは必ず滅びるのでした。一方、もし悪を拒んで、神に立ち帰るなら、彼らは生きるのでした。彼らが神の御心に従うことを、主は期待しておられます。

問1

アモス書5:14、15を読んでください。どうしたら、私たちは「悪を憎み、善を愛する」ことができますか。ヘブ5:14、ロマ12:9、箴8:36参照

アモスは人々に対して、悪を求めるのを止めることだけでなく、悪を憎み、善を愛することをも求めています。この部分における命令は漸進的です。聖書にある「愛する」(ヘブライ語で“アハーブ”)、「憎む」(“サーネー”)という動詞は、単に感情や態度だけでなく、しばしば決定や行為をも意味します。言い換えるなら、人々の態度の変化は行為の変化につながります。

問2

これに関連して、イザヤ書5:20にはどんな警告が与えられていますか。

「来るべき悪しき日において、良心の命じるところに従って、恐れることなく神に仕えようとする者はすべて、勇気と堅実さと、神および神のことばに対する知識を持っていなければならない。神に忠実な者は、迫害を受け、その動機は疑われ、その最善の努力は曲解され、その名は悪しき者として除外される。サタンは、あらゆる欺瞞の力を用いて人々の心に働きかけ、理解力をにぶらせ、悪を善と見せかけ、善を悪と見せかけようとする」(『希望への光』1520ページ、『患難から栄光へ』下巻119ページ)。

日常の宗教

問3

アモス書5:23、24、ホセア書6:6、マタイ9:13、詩編51:17を読んでください。これらの聖句は何と述べていますか。どうしたら、セブンスデー・アドベンチストとしての私たちの今日の信仰生活にこれらの原則を適用することができますか。ひょっとしたら、ここで教えられている生き方と正反対の生き方をしてはいないでしょうか(私たちは容易に自己欺瞞に陥りがちであることを覚えてください)。

聖書のほかの大部分の書以上に、アモス書は不法や暴虐、非人間的な行為に言及しています。それはまた、そのような行為に対する神の見方にも触れています。アモスが説いたのは、民の空虚な形式主義にもとづいた無意味な儀式を神が嫌われるということ、また神が彼らに改革を求められるということでした。自分の利益のために人を抑圧していながら、神を崇める者たちの、形だけの空しい礼拝を、神はお喜びになりませんでした。彼らの生き方は、主に従うことの意味を全く理解していないことを示していました。彼らはまた神の律法の深い意味を全く理解していませんでした。

事実、神は彼らの宗教的な儀式を拒否されました。なぜなら、それらが信仰生活から湧き出たものではなかったからです。アモス書5:14、15にある中心的な言葉は、主を求めて生きるようにという命令です。主を求めることは、ベテルやギルガル、ベエル・シェバにある有名な宗教的中心地に巡礼することと対比されています(アモ5:5)。これら三つの町は聖所と共に滅ぼされる運命にありました。

神が真に望まれたことはその地に正義と義を行うことでした。「主を求めよ」という命令は、「善を求めよ」という命令に対応しています。主は残りの者たちに悪しき行いと宗教的な形式主義から遠ざかり、正義を川のように、義を尽きることのない小川のように流れさせるように求めておられます。正義は神の前に正しいことを行うことであり、義は神と隣人に対する関係における生活の質です。ここに描かれているのは、宗教を信じると言いながら、その宗教が真の信仰に見られる心の変化を伴わない、単なる形式と儀式に堕してしまっている人々のことです(申10:16参照)。私たちは十分に注意する必要があります。

預言者として召される

アモスの故郷はユダのテコアでしたが、神は彼をイスラエルで預言するために遣わされました。アモスは北王国に行き、力強く語ったので、「この国は彼のすべての言葉に耐えられません」と言われるほどでした(アモ7:10)。彼は多くのイスラエル人から疑いの目で見られ、神の使命者として受け入れられなかったようです。それにもかかわらず、彼は忠実に自分の預言者としての働きを遂行しました。

問4

アモス書7:10~17を読んでください。ここに、どんな慣れ親しんだ行動様式が見られますか。ほかにどんな実例を聖書の中に見ることができますか。これらの実例から、私たちはどんなことを学ぶべきですか。

アモスの説教を拒否した者たちの中に、ベテルの祭司アマツヤがいました。彼はアモスを、イスラエルの王に背いたと言って非難しました。ベテルは背信的な礼拝の中心である二つの王の聖所のうちの一つでした。もしイスラエルが悔い改めないなら、その王は剣によって死に、民は捕囚となると、アモスは公衆の面前で預言しました。アマツヤはアモスに向かって、イスラエルに対する預言が歓迎されるユダの地に帰るように命令しました。

アモスは祭司アマツヤに答えて、自分の預言者としての召しは神から与えられたものであると言っています。自分は奉仕のために雇われる職業的な預言者ではないと、彼は断言しています。アモスは自分自身を、利得のために預言する職業的な預言者と区別しています。

真理を語ることは決して受け入れられることを保証するものではありません。なぜなら、真理は時として不愉快なものであり、もし権力者を怒らせると、深刻な反対を招くことになります。アモスは神の召しによって、北王国の王と貴族の罪を公に、大胆に叱責したので、反逆罪に問われたのでした。

最悪の飢饉

問5

「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない」(アモ8:11、12)。これらの聖句は何を意味していますか。

アモス書8章において、預言者は悔い改めないイスラエルの上に下る神の裁きの壊滅的な結果について描写しています。神は地に飢饉を送ることによって、民をその罪のゆえに罰せられます。しかし、預言者は11節と12節で、神の言葉に対する飢えと渇きについて語っています。悲劇の中でも際立っているのは、神の御言葉に対する飢饉です。なぜなら、神が沈黙されるからです。それは最悪の飢饉です。

イスラエルの民はしばしば大きな悩みを経験しましたが、そのような時には預言者の言葉に導きを求めて主に立ち帰るのが常でした。今回の神の回答は、神が沈黙されるということです。御自分の民に対する神の裁きには、主が御自分の預言者を通して御言葉を語るのをやめることが含まれます。

もし神の民が背き続けるなら、と預言者は言います。彼らが神の御言葉に飢えるときが来ます。しかし、裁きを逃れるために神の御言葉に立ち帰ろうとしても、すでに遅すぎます。それは、イスラエルがアモスによって与えられた神の言葉に従うことを執拗に拒み続けた結果です。最後の戦いの前のサウルのように(サム上28:6)、人々は神の御言葉に対する自らの大きな必要を認めるようになります。

人々はみな神の御言葉を死に物狂いに求めるようになります。それは、彼らが預言者の時代に軽んじていた御言葉そのものです。特に影響を受けるのは若者たちです。先の世代は神の御言葉を聞き、それを拒みましたが、若者たちは一度も預言者の言葉を聞く機会が与えられません。

問6

次の聖句は、神の沈黙がもたらす重大な影響についてどんなことを教えていますか。サム上14:37、詩編74:9、箴言1:28、哀歌2:9、ホセア書5:6、ミカ書3:5~7

ユダの廃虚が回復される

預言者の言葉は、民の罪深さと、それにともなう裁きについての暗い描写から、将来の回復についての輝かしい約束に変わります(アモ9:11~15)。先には刑罰の日として描かれていた主の日は、今や救いの日となります。刑罰ではなく、救いが、御自分の民に対する神の最終的な計画だからです。しかしながら、救いは刑罰の代わりとしてではなく、刑罰の後に来ます。

すべてが暗澹とした中にあって、アモスは希望の言葉をもってその書を結んでいます。捕囚の日が切迫している中にあって、ダビデの王朝はもはや家ではなく小屋と呼ばれるまでに衰退していました。しかし、ダビデの王国は一人の支配者の下で再生され、統一されることになるのでした。イスラエルの国境の向こうでは、ほかの国民が神の御名を呼び、イスラエルと共に神の祝福にあずかります。アモス書はこのような幸福で、希望に満ちた言葉をもって終わります。

聖書の預言者たちは、神の刑罰が刑罰のための刑罰であるとは教えていません。ほとんどすべての警告の背後に、贖いの呼びかけがあります。捕囚の脅威が迫っていましたが、主は国を回復するという約束をもって残りの者たちを励ましておられます。残りの者たちは契約の更新にあずかるのでした。裁きを経験する者たちは、神が救いと回復のために働かれるのを見るのでした。

問7

神の民の回復についてのアモスの約束は、最終的にどのように実現しましたか。ルカ1:32、33、使徒15:13~18

多くのユダヤ人教師はアモス書9:11を、アブラムに与えられ、ダビデに対して再確認され、旧約聖書全体に表されたメシアについての約束と考えました。ダビデの家系の新しい王が、アブラムに対する神の約束の実現として多くの国民を支配するようになるのでした(創12:1~3)。このメシアはエドムのような敵でさえ支配するのです。神の民の回復された廃虚は、二度と滅ぼされることがありません。

大いなるダビデの子、イエス・キリストの来臨を通して、神は御自分の恵み深い約束を堅持されたのでした。ヤコブはアモス書の聖句を引用して、救いの扉が異邦人に対して開かれたと言いました。異邦人も教会に託された契約の特権にあずかるためでした。神はアブラムとダビデの子孫、約束のメシアにおいて、御自分の贖いの祝福をユダヤ人と異邦人にお与えになるのでした。

さらなる研究

「神の前におけるわれわれの立場は、われわれが受けた光の量によって決まるのではなくて、われわれが持っているものをどう用いるかによって決まるのである。だから、たとえ異教徒であっても、認めることができるかぎり正しいことを選ぶとき、彼らは、大きな光を与えられて、神に仕えると公言しながらその光を軽視し、その日常生活が告白と矛盾しているような人たちよりも、好ましい状態にあるのである」(『希望への光』786ページ、『各時代の希望』上巻295、296ページ)。

第11課 希望についての幻(ゼカリヤ書)

第11課 希望についての幻(ゼカリヤ書)

中央ヨーロッパのある古い城の壁に、ラテン語で短く、“ドゥム・スピロ、スペロ!”と刻まれています。これは、「息をする限り、私は希望を捨てない!」という意味です。この言葉は神の民に対するゼカリヤのメッセージを要約しています。バビロン捕囚から帰還して約20年後、神がなお自分たちと共におられることを疑い始めた神の民のうちには、初期の熱意に代わって失望感が漂っていました。

ゼカリヤ(「主は覚えられる」を意味する)は、ハガイがその働きを始めた数か月後に預言者としての働きを開始しました(ハガ1:1、ゼカ1:1)。ゼカリヤは一連の預言的な幻を通して現在と将来に対する神の計画を学びました。神の永遠の王国は間もなく来ようとしていましたが、預言者は当時の人々に対して、今、主に仕えるように呼びかけました。この書のかなりの部分が、彼らがどのようにしてそれを実行すべきかについて述べています。今回と次回の研究では、主がゼカリヤを通して私たちに何を啓示しておられるかについて学びます。

慰めに満ちた命の言葉

問1

ゼカリヤ書1章〔口語訳1:1~17〕を読んでください。ここに与えられている基本的なメッセージは何ですか。特にゼカリヤ書1:3に注意してください。主は民に何と言っておられますか。

バビロン捕囚からの帰還は残りの民の心を喜びで満たしました。しかし、帰還はまた不安をもたらしました。自分たちの土地にあって、安全が保障されるのでしょうか。再び敵に悩まされることがないでしょうか。神は過去の不実を赦してくださったのでしょうか。なおも神の刑罰が続くのでしょうか。神の選民と諸国民の将来はどうなるのでしょうか。

ゼカリヤは幻の中で、主の御使いがユダの執り成しのために動くのを見ました。御使いは、「いつまでですか」という問いかけをもって始めています。聖書の中では、この問いかけはしばしば民の苦悩や、主に助けを求める嘆願の表現として用いられています(詩編74:10、イザ6:11、ダニ8:13)。問いかけに対する答えは直接、解釈する御使いを通して与えられ、御使いはそれを預言者に伝えています。それには、神の慈愛と慰めを約束する言葉が含まれていました。

彼らの主がエルサレムに対して激しい嫉みを持っておられると宣言するように、ゼカリヤは告げられています(ゼカ1:14、英語聖書参照)。嫉みは否定的な含みを持つこともありますが、聖書においては、それは神の愛を表す表現の一つです。神は御自分の民を愛し、彼らに忠実であるように期待されました。エルサレムに対する神の愛とは対照的に、主は御自分の民を苛酷に扱った諸国の民に対しては怒っておられると、御使いは言いました。諸国の民に激しい非難が向けられているのは、彼らが捕虜たちを苛酷に扱うことによって神の懲らしめによる災いをいっそう厳しいものとしたからです。

ゼカリヤ書1:15には、神が怒っておられるとありますが、神は慰めをもって報いると約束しておられます。預言者が伝えるように命じられた神の目的は、憐れみをもってエルサレムに帰ることでした。主はシオンを慰められますが(イザ40:1参照)、御自分の敵に対しては怒りを下されます。エルサレムは回復され、再び主の住まいとなります。

主は来られる

ゼカリヤ書2章〔口語訳1:18~2:13〕を読んでください。預言者は幻の中で、新しくされたエルサレム、城壁の外まで人であふれるエルサレムを見せられています。それが数え切れないほどの異邦人をも引きつけるだろうというような考えは人々にとって非常に奇異に思われたに相違ありません。ゼカリヤ書2:14には、大いに喜ぶようにとの招きが、続いてその歓喜の理由が記されています。主御自身が来て、御自分の民のうちにお住みになるからです。

主が再建された御自分の家に住むために劇的なかたちでお帰りになることが、捕囚から帰還した民にとって喜びの理由となるのです。シオンは大いなる王の住まいであって、預言者によって愛情を込めて「シオンの娘」と呼ばれています。シオンはその輝かしい将来のゆえに、喜ぶようにと言われています。主御自身がその民を心におとめになるからです。神の民に触れる者はだれでも、神御自身の目の瞳に触れることになるのです(12節)。

主の日には、多くのヘブライ民族以外の民族が来て、主の契約に加わると、預言者は言っています。神の当初の計画は、周辺諸国の民が真の神に対するイスラエルの奉仕にともなう祝福と繁栄を見ることにありました。こうして、彼ら自身、主に連なる者とされるのでした。それによって、イスラエルの残りの民と、信じる異邦人が一つの民となり、そのただ中に主御自身がお住みになるのです。この出来事を通して、アブラムとサラに対する神の約束、すなわち彼らの子孫を通して世界のすべての国民が祝福を受けるという約束が実現するのでした(創12:1~3)。

問2

この預言はどのようにして実現することになっていましたか。ロマ15:9~18、エフェ3:1~8

神はゼカリヤの預言を通して、諸国民が滅ぼされることではなく、彼らが神の契約の民に加えられることを約束しておられます。約束された将来は神自身の導きの結果であり、多くの聖書の預言者たちの願望でした。イエス・キリストは全世界に福音を宣べ伝えるように御自分の教会に命令されました。イエスを受け入れる者はみな救いにあずかるようになるのでした。使徒パウロは主のこの計画を、「世々にわたって隠されていた、秘められた計画」と呼んでいます(ロマ16:25)。

神の自発的な赦し

問3

ゼカリヤ書3章を読んでください。ここで、福音がどのように描かれていますか。

たぶんイザヤ書53章を除けば、旧約聖書の中でゼカリヤ書3章ほど、ただ信仰によってのみ救われるという素晴らしい真理を詳しく啓示している個所は他にはないでしょう。この幻の中で、大祭司ヨシュアは、正式な告訴人であるサタンによってなされた告発にもとづいて裁かれています。大祭司に対する告発は彼の代表する国民にも当てはまります。“ヨシュア”(“イエシュア”)という名前には、「主は救う」という意味があり(マタ1:21参照)、“ジーザス”〔イエス〕と書かれることもあります。

聖書においては、だれかの右側に立つことはその人を弁護し、保護することを意味します。詩編記者は言っています。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません」(16:8、44:4—口語訳44:3参照)。ここでは、告発者は全く逆のことをしています(同109:6)。ヨシュアが神の前で民のために執り成す一方で、サタンは彼らの罪にもとづいて彼らを告発しています。

御自分が、憐れみをもってすでにヨシュアを選んだと言うことによって、主は告発を拒んでおられます。その上、神の民はすでに神の刑罰を十分に受けていました。ヨシュアと残りの民は長期にわたるバビロン捕囚という破滅的な火の中から取り出された燃えさしでした(アモ4:11)。

主の御使いの命令によって、民の罪を表すヨシュアの衣は脱がされます。彼は清められ、救いと義の新しい祭服を与えられます。

最後に、ヨシュアは神の御心を行い、神の道に歩むように命じられています。それは神の豊かな祝福にあずかる方法です。

「大祭司はサタンの告発に対して、自分も自分の民も弁護することができない。大祭司は、イスラエルに罪がないとは主張しないのである。彼は民の罪を象徴している汚れた衣を着て、彼らの代表者として民の罪を負い、み使いの前に立って、彼らの罪を告白するが、彼らの悔い改めと謙遜を指し示して、罪を赦される贖い主のあわれみによりすがるのである。彼は信仰をもって、神の約束の成就を願い求める」(『希望への光』603ページ、『国と指導者』下巻189ページ、一部改訳)。

言うまでもなく、これらの約束はキリストの義で覆われることを意味します。

人間の力によらず

ゼカリヤ書4章を読んでください。ゼカリヤはこの幻の中で、2本のオリーブの木につながった燭台を見ています。それは荒れ野の幕屋の聖所に置かれていた燭台を思い起こさせます(出25:31~40)。七つのともし火皿が油壺の役目を果たす大きな容器の周りに置かれています。

たっぷりと油の入った容器は、聖霊を通して与えられる豊かな神の力を象徴しています。七つのともし火皿は豊かな光を放っていますが、これはあらゆる闇を追い払う神の臨在を象徴しています。オリーブ油が人間の手によらないで燭台の上にある油の壺に木から直接供給されるように、神から与えられる力は途切れることなく、豊かで、いかなる人間の力も必要としません。

預言者に与えられた幻の趣旨は、エルサレムの神殿が間もなく再建されるということです。人間の努力と共に、神の聖霊が作業の完成を保証されるのです。この大胆なメッセージが与えられたのは、建設者たちが「山」(7節)のように大きな障害に直面していたときでした。

燭台がだれを表すかは預言者に告げられていませんが、二本のオリーブの木がユダの二人の指導者、つまりヨシュアとゼルバベルを表すことは確かです。一般的に考えると、ゼルバベルの地位は先祖ダビデやソロモンの持っていた王としての権力や力にとうてい匹敵するものではありませんでした。人間的に見れば、建設者たちの労力や資金は不十分なものでした。しかし、御言葉に約束されているように、王はその軍隊の規模によって、また勇士はその力の強さによって救われるのではありません(詩編33:16)。このように、指導者は、聖霊に導かれるときにのみ、あらゆる奉仕が神の栄光を現すものとなるということを教えられていました。

この預言者の教えを通して、クリスチャンに重要な原則が与えられています。神は私たちに困難な務めをお与えになることがありますが、神は聖霊の働きを通して御自分の目的を達成されます(フィリ2:13、4:13参照)。当時におけると同様に、現在も、神は聖霊を通して御自分の御業を成し遂げる力をお与えになります。それが成し遂げられるのは、人間の力や努力によるのではありません。むしろ、喜んで主に用いられる者たちを通して、主がお働きになるのです。

断食を超えて

ゼカリヤが〔預言者としての〕務めについてから3年目に、ベテルからの代表団がエルサレムに来て、祭司と預言者たちに一つの質問をしました(ゼカ7:1~3参照)。バビロンで捕囚となっていたときには、民は、破壊された神殿を嘆くために5月に断食をしました(王下25:8、9)。これは4月、7月、10月になされた断食に追加されたものでした(ゼカ8:19)。4月には、エルサレムの城壁が破られたことを思い起こすのでした(エレ39:2)。7月の、贖罪日における断食はモーセを通して神によって命じられた唯一の断食日でした(レビ16章参照)。最後の、10月には、民はエルサレムに対する包囲攻撃を嘆きました(エレ39:1)。捕囚が終わり、神殿再建もほとんど完了している今も、なお5月に断食をする必要があるのかどうか、民は疑問に感じていました。

問4

彼らに対する主の答えを読んでください(ゼカ7:8~14)。これらの言葉はどんな意味で、私たち自身にもあてはまりますか。

ゼカリヤを通して与えられた神の答えには、二重の意味があります。第一に、神の民は過ちを繰り返さないために、過去を記憶する必要があります。彼らの先祖たちは信頼と服従をもって生活するように、主から警告を受けていました。捕囚は、彼らの執拗な反逆に対する刑罰でした。それゆえに、民は過去の過ちから学ぶように勧告されているのです。第二に、主は民の空腹をお喜びになるわけではありません。彼らが断食し、主の前にへりくだるときには、悔い改めと謙遜がその行為に反映される必要があります。自分自身のために悲しむために断食することは時間と労力の無駄です。断食はとりわけ、自己に対して死ぬことを表しています。それは、自分を捨て、出て行って、人々の必要に奉仕するために必要とされるものです。「真の断食と祈りの精神は、思いと心と意志を神にゆだねる精神である」(エレン・G・ホワイト『食事と食物に関する勧告』189ページ、英文)。

さらなる研究

「サタンは人々が神に赦しと恵みを求めるならば、それが与えられることを知っている。であるから、サタンは彼らの前にその罪を示して、失望させようとする。彼は神に従おうとする者に対して、常に苦情を言う機会をねらっている。彼は、彼らの最善で最も満足すべき奉仕でさえも、腐敗したもののように見せようとする。彼は、最も狡猾で最も残酷なさまざまの策略によって、彼らを罪に定めようと努めるのである。

人間は自分だけの力では、敵の告発に対処することができない。彼は罪に汚れた衣をまとって、罪を告白しながら、神の前に立っているのである。しかし、彼らの助け主であられるイエスが、悔い改めと信仰によってその魂を彼にゆだねたすべての者のために、力ある嘆願をして下さる。イエスは彼らの訴えを述べ、カルバリーでの大いなるいさおしによって、告発者を打ち破られるのである。神の律法に対するイエスの完全な服従が、天においても地においても、いっさいの権威を彼に与えた。そして彼は、罪深い人間のために憐れみと和解を、天の父にお求めになる。彼は神の民を責める者に向かって言われる。『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。この人々は、わたしの血によって買い取った、火の中から取り出した燃えさしである』。そして信仰をもってイエスに信頼する者に、彼は『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう』という確証をお与えになるのである(ゼカリヤ書3:4)」(『希望への光604、605ページ、『国と指導者』下巻192ページ』)。

第12課 天の最上の贈り物(ゼカリヤ書)

第12課 天の最上の贈り物(ゼカリヤ書)

聖書のメッセージの中心にあるのは、これまでに語られた物語の中でも最も素晴らしい物語、つまり創造主なる神の御子が、人類を罪と死から救うために天の栄光を去られたという物語です。ゼカリヤ書の後半部分には、いくつかのメシア預言、つまりイエスについての旧約聖書の預言的約束が見られます。私たちのためにそれらすべてをしてくださったのはイエスです。

これらの特定の約束は最初に、危機に満ちたゼカリヤの時代に住んでいた神の民に与えられました。彼らの心を絶えず贖いの約束に向けさせるためでした。これらの預言の背景にある事情も決して無視してはならないものですが、それらの重要性は過去の預言の成就に限られるものではありません。むしろ、それらがイエスにおいて成就した方法、つまり局地的でなく普遍的な成就に目を向ける必要があります。なぜなら、それらが古代イスラエルとユダだけでなく、世界の最終的な運命に影響を及ぼすからです。

「ユダヤ人の衣」

第8章から、ゼカリヤ書は大きく変わります。主から与えられた一連のメッセージは、世界の将来とその中における神の民の役割について述べています。これらの章の聖句の中には理解し難いものもありますが、最終的な将来は明らかに肯定的なものです。

問1

ゼカリヤ書8章を読んでください。セブンスデー・アドベンチストとしての私たちに関連して、また私たちに与えられている神からの召命に関連して、ここからどんな原則を学ぶことができますか。

神の計画は、エルサレムが再び安全な場所となり、老人たちが通りに座し、遊び戯れるわらべとおとめで溢れるようになることでした(ゼカ8:4、5)。征服者たちによって踏み荒らされた町に住んでいた者たちにとって、通りが若者や老人にとって安全な場所になるという約束は夢のように響きました。

永久に弱小の従属国家に留まる代わりに、神の民は磁石のように諸国民を引き付け、諸国民は主、全地の王を礼拝するようになるのでした(ゼカ14:9)。ゼカリヤ書8:23に「あらゆる言葉」という表現が用いられていますが、これは預言が世界的な運動となることを示唆しています。

イザヤ(イザヤ書2章)やイザヤと同時代のミカ(ミカ書4章)のように、ゼカリヤは神によって、群衆が多くの町や国から祈るためにエルサレムに上り、主を求める日が来ることを示されました。神がシオンにおられることが広く認められ、神の祝福が神を礼拝する人々の上に注がれるのでした。

福音書の記録によれば、これらのメシアに関する約束が実現し始めたのはイエス・キリストの働きを通してでした。たとえば、イエスはあるとき、御自身が地上から上げられるとき、「すべての人を」御自分のもとへ「引き寄せよう」と言われました(ヨハ12:32)。

キリストの教会、また「神のイスラエル」(ガラ6:16)は現代においてこの使命にあずかる特権を与えられています。私たちは地の果てまで救いの光を伝えるべきです。こうして、神の民は世界に大いなる祝福をもたらすことができます。

平和の王

問2

ゼカリヤ書9:9を読んでください。新約聖書はこの部分をイエスに適用しています。マタ21:5~9、マコ11:9、10、ルカ19:38、ヨハ12:13~15参照

イエスの勝利の入城は、将来の王がろばに乗ってエルサレムに入ることを連想させるものでした。聖書においては、喜びと歓呼の声は特に王としての神を祝うことと関係があります(詩編47、96、98編)。この柔和な支配者は正義と救い、永続的な平和をもたらし、その支配は地の果てまで及ぶのです。

御自分の死のわずか数日前に、イエスがろばに乗ってエルサレムに凱旋されたとき、大勢の人々が喝采して彼を迎えました。喜んだ者たちの中には、キリストがローマの権力を覆し、エルサレムに神の王国を打ち立てることを期待した者たちもいました。しかし、イスラエルの王となることなく、イエスは十字架上で亡くなり、復活されました。イエスに従う多くの者たち、より軍事的な指導者を求めていた者たちが失望させられたことは確かです。しかしながら、イエスの死によって得られるものに比べれば、自分たちの求めていたものが無に等しいことに、彼らは全く気づいていませんでした。

「キリストは、王の入城について、ユダヤ人の慣例に従っておられた。キリストが乗られた動物はイスラエルの王たちが乗った動物であって、預言には、このようにしてメシヤが王国にこられるということが予告されていた。キリストが小馬にお乗りになるやいなや、勝利の叫びが大気をふるわせた。群衆は、キリストをメシヤ、彼らの王として歓呼した。イエスはいま、以前には決しておゆるしにならなかった敬意をお受けになったので、弟子たちはこのことを、イエスが王位につかれるのを見ることによって自分たちのうれしい望みが実現される証拠として受けとった。群衆は、彼らの解放の時が近づいたことを確信した」(『希望への光』970ページ、『各時代の希望』下巻2、3ページ)。

刺し貫かれた方

ゼカリヤ書12~14章は、もしイスラエルが神に忠実であったなら実現していたはずのいくつかの事柄について啓示しています。第一に、主は御自分の救いの計画に反対する悪の勢力と敵対的な諸国民に対する全面的な勝利を与えておられたでしょう(ゼカ12:1~9)。エルサレムはこの勝利をもたらす神の手段となるはずでしたが、勝利そのものは主の介入によってもたらされるのでした。最後には、敵は完全に敗北し、滅ぼされていたことでしょう。

ゼカリヤ書12:10から、動きが肉体的な救い、つまりもしイスラエルが忠実であったなら実現していたであろう事柄から、神の忠実な民の霊的な救いへと移行しています。勝利の後に、神の民は主を喜んで受け入れます。恵みと嘆願の神の霊が指導者と民の上に注がれます。罪を自覚させるこの聖霊の働きは広範囲の悔い改めと霊的リバイバルをもたらします。それは私たちの教会が求めているものにほかなりません。

神の霊が注がれるとき、神の民は自分たちの刺し貫いた方を見つめ、独り子の死を嘆く者のようにその方のために嘆きます。「刺し貫いた」を意味する元のヘブライ語はいつでも、普通は死に至らしめる、ある種の肉体的暴力を表現しています(民25:8、サム上31:4)。民の痛烈な悲しみは、自分たちの罪がイエス・キリストの死を招いたことを理解することによって深まります。

問3

ゼカリヤ書12:10を読んでください。使徒ヨハネはこの聖句をどのようにキリストの十字架と再臨に結びつけていますか。ヨハ19:37、黙1:7参照

興味深いことに、あるユダヤ人の伝統的な解釈によれば、この聖句はメシアの経験を指し示しています。もちろん、彼らは正しいのです。それはイエスと、十字架上のイエスの死について述べています(イザ53章比較)。

私たちはどうしたらキリストの死の意味をもっと深く理解することができますか。

良い羊飼い

長年、ユダヤ教とキリスト教の聖書の読者たちは、ゼカリヤ書の中にメシアとメシアの時代に関する多くの言及があるのを認めてきました。当然ながら、キリスト教徒はこれらの言及がイエス・キリストに当てはまると理解しています。キリストは勝利と平和の王(ゼカ9:9)、刺し貫かれた方(同12:10)、撃たれた羊飼い(同13:7)でした。

ゼカリヤ書13:7~9で、主の裁きの剣が良い羊飼いに向かっている光景を、預言者は示されています。その先の場面では、剣が「無用の羊飼い」に向かって上げられるのを、預言者は見ています(ゼカ11:17)。しかし、この聖句においては、良い羊飼いが撃たれ、羊の群れが散らされています。彼の死は神の民に対する大いなる試練と試験をもたらし、その間に一部の者たちは滅びます。しかし、忠実な者たちはみな、清められます。

問4

マタイ26:31、マルコ14:27を読んでください。イエスはこの預言を、その夜に起ころうとしていたどんなことに適用しておられますか。さらに言えば、弟子たちが逆境に直面して、それから逃れようとするこの出来事の全体は(マタ26:56、マコ14:50参照)、人間の不信仰とは対照的な、神の忠誠についてどんなことを教えていますか。

羊飼いとしての神の象徴は聖書の随所に見られます。それは創世記(48:15)から黙示録(7:17)にまで及んでいます。神はエゼキエルを通して、御自分の民の無責任な牧者たちを叱責し、失われた羊を捜し出し、彼らを世話すると約束しておられます。イエスはこれらの言葉を御自分に当てはめることによって、御自分が羊のために自分の命を捨てる良い羊飼いであると宣言されました(ヨハ10:11)。

全世界の王

問5

ゼカリヤ書14章を読んでください。私たちはここで言われていることをどのように理解したらよいですか。

ゼカリヤはその書の最後の章の中で、悔い改めないすべての国民がエルサレムを攻撃するために集結する日について描いています。最後に、主は御自分の民を解放し、地上に永遠の王国を確立することによって介入されます。主に逆らうすべての者が滅ぼされた後、すべての国民は一人の真の神を礼拝するようになります。主は全世界の王となられます。主はただ一人の主となり、その名はすべての名にまさって高められます。大いなる「わたしはある」は、神がすべてであり、つねに存在される方であることを明らかにされます。これらのことは、もしイスラエルが忠実であったなら実現していたはずのことです。しかし、それらはなお将来において、あらゆる国の神の民の最終的な贖いにおいて、より壮大な規模で実現します。

ゼカリヤがメシアの来臨について予告したとき、彼はメシアの初臨と再臨を区別しませんでした。ほかの預言者たちと同様、彼は来るべきメシアの王国を栄光に満ちた一つの将来として見ていました。キリスト初臨の光に照らすことによってのみ、私たちは今、二つの来臨を区別することができます。私たちはまた、キリストがカルバリーにおいて私たちの救いのために達成されたすべてのことに感謝することができます。したがって、私たちは喜びをもって、神の永遠の王国を待ち望むことができます(ダニ2:44、3:33、7:14参照)。

この預言書の最後の部分は、栄光に満ち、高められ、人々に満ち、安全なエルサレムについて描写しています。あらゆる国民の中から救われた者たちは永遠の王の礼拝に加わります。エルサレムの町全体は神殿の神聖さに満たされます。

これらの栄光に満ちた約束を聖書の全体的な教えと共に学ぶとき、これらの預言が新エルサレムにおいて実現することがわかります。そこでは、神の民があらゆる国から集まり、永遠にわたって神を礼拝します。これらはすべて、イエスの再臨後に初めて起こります。彼らが永遠にわたってささげる賛美の主題は、あの有名な「海の歌」と同じく、神の救い、神の慈愛と力です─「主は代々限りなく統べ治められる」(出15:18)。昔の預言者、また過去の忠実な民はみな、この最高の出来事を心から待ち望みました。

さらなる研究

「神の教会は、悪との戦いにおける最も暗黒な時代に、主の永遠の計画に関する啓示が与えられた。神の民は現在の試練のかなたに将来の勝利を見ることが許された。その時になれば、戦いは終わり、贖われた者は約束の国を領有するのである。将来の栄光に関するこれらの幻、すなわち神の手が描いた光景は、各時代の争闘が急速に終わりを告げ、約束の祝福があふるるばかりに与えられようとしている今日、神の教会にとって貴重なものでなければならない。……

救われた諸国の人々は、天の律法のほかはどんな律法をも認めない。すべての者は賛美と感謝の衣服を着て、幸福な一致した家族となる。その光景に、明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわる。そして神とキリストとは、声を合わせて、『もはや罪もなく、もはや死もない』と宣言される」(『希望への光』653、657ページ、『国と指導者』下巻322、334ページ、一部改訳)。

第13課 忘れないために!

第13課 忘れないために!

マラキという名には、「わたしの使者」という意味があります。マラキ書は「小預言書」(または「12人の書」)と呼ばれる旧約聖書の部分を締めくくる書です。マラキの短い書から得られる情報以外には、マラキについてわかることは何もありません。マラキ書はまた旧約聖書の最後の書です。

マラキ書の中心的なメッセージは、神が御自分の民に対する愛を彼らの歴史を通して啓示されましたが、同時に、その愛は彼らを神に対して責任ある者としたということです。主は、選民とその指導者たちに御自分の命令に従うように期待されました。外見的には、公然たる偶像崇拝は見られなくなっていましたが(マラキ書はバビロン捕囚から帰還したユダヤ人のために書かれたと思われる)、民は契約の要件に従った生き方をしていませんでした。彼らは宗教的な儀式を守っていましたが、それは心からの確信の伴わない、無味乾燥な形式主義でした。私たちも教会として留意する必要があります。

主は大いなる方

問1

マラキ書1章を読んでください。預言者はどんな問題について語っていますか。どんな意味で、今日の私たちもこれと同じ過ちを犯す危険がありますか。

マラキは、御自分の民に対する神の愛を祭司たちの態度と対比しています。彼は、聖なる神の御名を汚した罪で祭司たちを訴えています。これらアロンの子孫たちは、神殿における務めを遂行するにあたって、足が傷ついた、目がつぶれた、病気の動物を主に対する犠牲としてささげていました。民はこのようにして、犠牲は重要なものではないという誤った考えに陥っていました。しかし、神は荒れ野においてアロンと彼の息子たちに、犠牲の動物は肉体的に完全で傷のないものでなければならないと教えておられました(レビ1:1~3、22:19参照)。

預言者は次に、神がイスラエルの民によって崇められ、尊ばれるべき三つの重要な理由をあげています。第一に、神は彼らの父です。子どもがその両親を敬うべきであるように、民は天の父なる神を崇めるべきです。第二に、神は彼らの主人、また主です。僕がその主人に従うように、神の民も神に仕えるべきです。第三に、主は大いなる王です。地上の王はだれでも、家臣からの傷ついた、病気の動物の贈り物を受け入れません。そのようなわけで、全世界を支配される方、王の中の王に、そのような動物をささげる理由について、預言者は民を問い正しています。

当然ながら、彼らの行為を神の目にいっそう忌むべきものとしていたのは、これらの犠牲がまさに汚れのない神の御子、イエスを指し示していたからです(ヨハ1:29、Iペト1:18、19)。犠牲の動物は傷のないものでなければなりませんでした。それは、イエスが私たちの完全な犠牲となるためには傷のない方でなければならなかったからにほかなりません。

「神の栄誉と栄光のために、神の愛された御子─保証また身代わり─は引き渡され、死の獄舎に下られた。新しい墓がその岩室に彼を閉じ込めた。もし一つの罪でも彼の品性を汚していたなら、石は決して彼の岩室の入り口から転がされることがなく、世はその罪責の重荷を負って滅びていたことであろう」(エレン・G・ホワイト『原稿集』第10巻、385ページ、英文)。イエスを指し示していた犠牲が完全なものでなければならなかったとしても、何ら不思議ではありません。

人を愛し、敬う

マラキ書の中に満ちている神の声は、自分の子らに訴える愛情深い父親の声です。民が疑いの声を上げ、不平を述べるとき、神は喜んで彼らと対話されます。神と神の民との間でなされる議論の大部分は、いくつかの基本的な態度をめぐるものです。

問2

マラキ書2章を読んでください。いくつかのことが問題となっていますが、主は特にどんな行為のゆえに民を断罪しておられますか。マラ2:13~16

すべてのユダヤ人が礼拝の中で神を自分の父また創造主と認めてはいましたが、すべての者が神を自分の人生の主と認めて生きていたのではありませんでした。マラキはお互いに対する忠誠と献身のなさを例示する実例として結婚を取り上げています。聖書によれば、結婚は神によって定められた聖なる制度です。イスラエルの民は異なった信仰を持つ者と結婚することのないように警告されていました。それによって、主に対する献身を危うくし、偶像崇拝に陥ることがないためでした(ヨシュ23:12、13参照)。

神の意図は、結婚が生涯にわたる献身となることにありました。しかし、多くの男子は、預言者の言うように、「若いときの妻」に対する先の誓いを破っていました。自分の妻が老いるのを見て、夫たちは妻を離縁し、より若くて魅力的な女性をめとっていました。それゆえに、神は離婚を憎むと言われます(マラ2:16)。この強い言葉のうちに、神が人間の軽視しがちな結婚の誓約をどれほど重視されるかが啓示されています。聖書にある離婚についての厳格な規定は、結婚がどれほど聖なるものであるかを明らかにしています。

離婚はイスラエルにおいては合法だったので(申24:1~4)、結婚の誓いを破ることをためらわない者たちがいました。旧約聖書時代の終わりにかけては、今日の多くの国々のように、離婚は普通に見られるようになったようです。しかし、聖書においては、結婚は一貫して神の前における聖なる契約として描かれています(創2:24、エフェ5:21~33)。

倉の中の十分の一

問3

マラキ書3:1~10を読んでください。神はここで御自分の民に何と言っておられますか。これらの聖句にどんな新しい要素が見られますか。それらがみな一つに結びついているのはなぜですか。それらはどんな意味で互いに関連していますか。

神はこれらの聖句において、小預言者たちによって与えられた基本的なメッセージを繰り返しておられます。神の愛は不変で、揺らぐことがありません。7節で、神は再び訴えておられます。「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰る」。民は尋ねます。「どのように立ち帰ればよいのか」。この問いかけは、神に献げ物を携えてくることについての、ミカ書6:6の問いかけに似ています。しかしながら、マラキ書の場合は、特定の答えが与えられています。驚くべきことに、それは彼らの十分の一の献げ物、または十分の一が不足していることと関係があります。

事実、彼らは神の物を盗んでいるとして非難されています。それは、彼らが忠実に十分の一と献納物を神に返していないからです。

十分の一の献げ物、つまり収入の10パーセントをささげる慣習は、神がすべてのものの所有者であり、人の持ち物のすべてが神から来ることを思い起こさせるためのものとして聖書に教えられています。イスラエルにおいては、十分の一は神殿で奉仕するレビ人を支えるために用いられました。マラキ書によれば、十分の一を返さないことは神から盗むのと同じです。

マラキ書3:10は、神が人々に御自分を試すように言われるまれな聖句の一つです。イスラエルの子らは荒れ野のメリバの水場で、何度も神の忍耐を「試し」ましたが、これは神の憎まれることでした(詩編95:8~11)。しかし、ここで、神はイスラエルに御自分を試すように言っておられます。この件に関しては神に信頼するように、神は彼らに望んでおられます。聖句によれば、これは霊的に深い意味を持つことです。

記録の書

人々はマラキ書3:13~18で、主が、国民の罪を心に留められないことに不平を述べています。悪と不正を行う者たちが見過ごされていました。それゆえに、多くの人々は、悪が罰せられないで放置されているのに、自分たちが主に仕え、正しく生きねばならないのはなぜかと考えました。

問4

マラキ書3:14、15を読んでください。この不満がよく理解できるのはなぜですか。

問5

主は何と答えておられますか。マラ3:16~18

あまりにも不正が多いこの世界にあっては、果たして正義が行われるのだろうかと疑いたくもなります。しかし、ここに言われているように、神はこれらすべてのことを知っており、御自分に忠実な者たちに報いられます。

問6

聖書の中で「記録の書」という表現が出てくるのはマラキ書3:16だけです。次の聖句は人々の名前や行いを記した神の種々の記録について何と教えていますか。出32:32、詩編139:16、イザ4:3、65:6、黙20:11~15

重要なのは、主がすべてのことを知っておられるということです。主は御自分の者たちとそうでない者たちとを知っておられます(IIテモ2:19)。私たちが罪人としてできることのすべては、神の義を求めること、赦しと力についての神の約束に頼ること、そして─キリストの功績に信頼して─私たちの唯一の希望が神の恵みにあることを認めて、自己に死に、神と人々のために生きることです。もし自分自身に信頼を置くなら、遅かれ早かれ、私たちは必ず失望します。

義の太陽

人々は先に、「裁きの神はどこにおられるのか」と尋ねていました(マラ2:17)。マラキ書3:19には、神が世界に裁きを行われる日が来るという厳粛な約束が与えられています。その結果、わらが火で焼かれるように、高慢な者たちは悪人と共に滅ぼされます。わらは穀物の不要な部分であって、燃える炉に投げ込まれると、数秒と持ちません。主の日には、ノアの時代の水のように、火は滅びの手段となります。

問7

マラキ書3:19~24(口語訳4章)を読んでください。ここに、救われる者たちと滅びる者たちがどのように対比されていますか。申30:19、ヨハ3:16参照

マラキ書3:19には、悪人の運命が描写されていますが、20節には、義人の将来の祝福が描かれています。「裁きの神はどこにおられるのか」という質問に対する答えがここでも与えられています。しかし、ここでは、義の太陽がその翼に癒しを携えて昇る日の到来についての約束をもってです。「義の太陽」が昇ることは、新しい日、つまり救いの歴史における新たな時代となる日の始まりを表す比喩です。このとき、最終的に、悪は永遠に滅ぼされ、救われた者たちはキリストによって完成された究極的な結果にあずかります。宇宙は永遠にわたって安全なところとなります。

マラキは聖書の信仰を特徴づける二つの勧告をもってその書を締めくくっています。第一は、モーセによって与えられた神の啓示を思い起こすようにという訴えです。それは聖書の最初の五つの書であって、旧約聖書の基礎となるものです。

第二の勧告はエリヤの預言者としての役割について述べています。この預言者は聖霊に満たされて、人々に悔い改めて、神に立ち帰るように訴えました。イエス御自身はバプテスマのヨハネをこの預言の成就と見ておられます(マタ11:13、14)。しかし、私たちはまた、それが終わりのとき、つまり神が恐れることなく世に御自分のメッセージを宣べ伝える民を起こされるときに実現すると信じています。「キリスト再臨への道を備える者たちは忠実なエリヤによって表されている。ヨハネがキリスト初臨への道を備えるためにエリヤの霊をもって来たのと同じである」(エレン・G・ホワイト『健康に関する勧告』72、73ページ、英文)。

さらなる研究

「神は人間の手のわざを祝福される。それは彼らが、神の分を神にお返しするためである。神は、彼らに日光と雨とをお与えになる。神は草や木を繁茂させられる。神は財産を得るための健康と能力をお与えになる。すべての祝福は、神の恵み深い御手から来る。そして神は、男も女も、十分の一と献げ物、すなわち感謝の献げ物、心からの献げ物、また罪祭などによって神の分をお返しして、彼らの感謝を表すことを望まれるのである。彼らは、神のぶどう畑が荒れ果てたままにならないように、神の奉仕のために彼らの財産を献げなければならない。彼らは、もし神が彼らの立場にあれば、何をなさるであろうかを探り調べなければならない。彼らはあらゆる困難なことについて、神に祈り求めなければならない。彼らは、世界のあらゆる場所における神の働きを推進するために、私心のない関心を示さなければならない」(『希望への光』648ページ、『国と指導者』下巻309ページ、一部改訳)。

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