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第1課 賛美と感謝の歌
第1課 賛美と感謝の歌 〜詩篇は何を伝えるか〜
詩篇の中で繰り返されているテーマは、神が人間を悩みから救い出してくださるということです。詩篇はいにしえの神のしもべたちによって語られ、歌われた、霊感に満ちた祈りの賛歌です。それは神に対する賛美と感謝の表現であり、さばきと救いにおける神の恵みと力に対する確信に満ちたあかしです。
救い主への賛美
旧約時代から現代にいたるまで、聖書の詩篇はクリスチャンの生活と礼拝の中心となってきました。詩篇は信者の人生遍歴の一部であり、人生の途上でどんな困難に会おうとも、全能の神が私たちを守ってくださるということを教えています。詩篇は試練のときに救いを求める嘆願であり、悩みからの神の救出に対する喜びの応答であり、そして日常生活のさまざまな場面において神の威厳と力を認める宣言です。さらに、正義を求める哀願・叫びであり、病気や不幸からの救いを求める叫びです。
詩篇の力は、嘆きと哀願によって神に求める者に与えられる励ましにあります。神は、いやしと回復と救いを約束しておられます。この約束は真実です。なぜなら、それは神が人間の問題を導いてくださるという事実にもとづいているからです。主は人間の苦悩と失望を見て、それらを支配してくださいます。
詩篇は人間の経験を表現している
「ダビデの詩篇は、罪の自覚と自責の深淵から、最も高められた信仰と最も高められた神との交わりまでのあらゆる経験をうたっている。彼の生涯の記録は、罪がただ恥と災いだけをもたらすものであることを示している。しかし、神の愛とあわれみは、どんな深みにも達し、信仰は、悔い改める魂を引き上げて、神の子としての身分にあずからせることを明らかにする。それは、神のみ言葉の中のすべての確証の中で、神の誠実と正義と神の契約のあわれみに関する最も強力なあかしの一つである」(『人類のあけぼの』下巻468ページ)。
詩篇の作者
質問1 つぎの各詩篇の表題はその作者としてだれの名前をあげていますか。
第3篇。第42篇。第50篇。第72篇。第90篇
詩篇の表題のうちで、「ダビデの」と書かれたものが73あります。12篇がアサフによって書かれました(歴代志上15:16、17、16:4、5比較)。11篇が「コラの子たち」によって書かれたと言われています(民数記26:11、歴代志上9:19比較)。3篇がエドトンによって書かれ(詩篇39、62、77)、2篇がソロモンによって書かれました(詩篇72、127)。へマン(詩篇88)、エタン(同89)、モーセ(同90)がそれぞれ1篇ずつ書きました。
質問2 以下にあげた新約聖書の聖句は詩篇の作者について何と述べていますか。
使徒行伝4:25(第2篇について)
使徒行伝2:25~28(第16篇について)
ローマ11:9、10(第69篇について)
新約聖書の著者およびイエス・キリストが、ダビデを多くの詩篇の作者とみなしていたことについては数々の証拠があります(使徒行伝1:16~19、2:25~28、34、へブル4:7、マルコ12:36、マタイ22:43、44、ルカ20:42~44参照)。このことからも明らかなように、多くの詩篇の冒頭にある「ダビデの」という言葉はダビデが作者であるということを意味しています。詩篇の冒頭にほかの人の名前(モーセ、ソロモン、アサフ、コラの子たち、など)が書かれていることもありますが、彼らも同じく詩篇の霊感を受けた作者です。
しかし、残念なことに、現代の翻訳(たとえば、新英語聖書)のなかには、作者の名前と共に詩篇の序言を省略しているものがあります。しかし、古代マソラ学者のへブル語聖書写本はすべて、これらの序言をのせています。それらも聖書の一部としてのせるべきものなのです。聖書そのものの証拠にもとづいて言えば、ダビデは半数以上の詩篇の作者です。ダビデが詩篇を書いたことを否定したり、疑問視したりする批評家がいますが、彼らの主張は支持することができません。
質問3 以下の聖句によれば、詩篇の最終的な作者はだれですか。
へブル3:7、8
マルコ12:36
人間の作者は、神が聖霊を通して語られる代理人にすぎません。使徒行伝4:24~26を見てください。そこでは、神がダビデの口を通して聖霊によって語られたといわれています。詩篇は、聖霊がダビデなどの人間を用いて生み出されたもので、ほかの聖書の書巻と同じく、人間の言葉(詩)で書かれた神の言葉です。
詩篇の書かれた状況と年代
質問4 詩篇のいくつかはどんな状況下で書かれていますか。3篇と18篇の表題を見てください。
ダビデが書いた14の詩篇の表題に歴史的ないきさつが述べられています(3、7、18、30、34、51、52、54、56、57、59、60、63、142篇)。これらの詩篇はさまざまな状況のもとで書かれました。あるものは「洞」の中で(57篇)、あるものはアビメレクの脅威のもとで(34篇)、あるものは預言者ナタンとの対面のなかで(51篇)書かれています。
詩篇の多くは迫害の生活から生まれたもので、のちにそれが用いられる神殿の典礼から出たものではありません。
詩篇の年代はその作者を知ることによって推定することができます。詩篇はいろいろな時代つまりモーセの時代、ダビデとソロモンの時代、またほかの時代に書かれました。作者のわからない詩篇の年代は、その詩篇の内容やほかの聖句との関係にもとづいて推定するしかありません。
詩篇のメッセージ
150篇の詩篇は非常に豊かな内容を持っています。偉大な宗教改革者マルチン・ルターが1528年に書いた言葉は、今もそのまま通用します。「詩篇は、『小さな聖書とも言えるものである。そのなかに、聖書全体にあるあらゆるものが美しく、しかも簡潔に包括されている。……聖書全巻を読むことのできない者にとって、詩篇は一冊の小さい書巻にまとめられた聖書全体の要約である』」(マルチン・ルター「詩篇序説」『ルター著作集』第35巻254ページ、H・J・クラウス『詩篇の神学』12ページに引用)。
質問5 詩篇作者は神を何と呼び、 どのように描写していますか。詩篇18:46、84:2、121:2
苦難と病気にみちた人生経験とは対照的に、詩篇の神また主は生きていて、決して疲れることのないおかたです。神は「救い」、「助け」、「立ちあがる」おかたで(詩篇3:7、7:6、12:1、44:23~26)、「もだされ」ません(同50: 3)。主は心の砕けた者に近く(詩篇34:18、85:9)、すべて主を呼ぶ者に近いのです(同145:18)。主は見(詩篇10:14、11:4、33:13、14、139:3)、聞き(同4:3、6:8、9、78:21)、救うために行動されます。このように、詩篇の神はつねに生きていて、たえず行動し、あわれみと優しさに満ちておられます。神は苦境のなかで嘆願する者を助けることのできない抽象的な概念でもなければ、魂を持たない冷たい原則でもありません。神は「いと高き者」(詩篇82:6)、また人格を備えたおかたです。神は私たちの「避け所」また「すまい」であって、「あなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられ」ます(詩篇91:9~11)。
忠実な者に成就する約束
「私たちの前には悩みの時がある。神のさばきがこの世界に臨もうとしている。地上の諸民族はおののく。すべての人に試練と困惑が臨む。人々は恐怖のあまり気力を失う。その日、私たちはどうしたらよいだろうか。地は大酒飲みのようによろめき、小屋のように取り去られようとも、もし私たちが神に信頼しているなら、神は私たちを救われる。『いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう』。『あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、……これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである』」(『神の息子・娘たち』354ページ)。
質問6 神は詩篇において「王」と呼ばれていますが、このことは何を意味していますか。詩篇24:8、47:2~4、103:19
神は「栄光の王」(詩篇24:7~10)、「とこしえに王」(同29:10)、「大いなる王」(同47:2、48:2)と呼ばれています。神の王権は「全地」(詩篇47:2、7)に及び、神は「もろもろの国民を統べ治められ」ます(同47:8)。神の支配は全宇宙に及びます。王として、主はその玉座を天にすえ(詩篇103:19)、ケルビムの上に座せられます(同99:1)。天の王の支配権は天と地に及びます。神はご自分の民および世界の諸国民を統治されます。
質問7 つぎの聖句は神の御座の場所と王としての神の働きについてどんなことを教えていますか。
詩篇14:2
詩篇89:14
詩篇103:19
神は天の聖所の王座におられます(詩篇60:6、63:2、68:35、96: 6、102:19、150: 1参照)。神は義人をためし、彼らを好意的にさばき、しかし悪しき者を罪に定めることによって(詩篇11:6、14:5、6)、「人の子ら」をさばかれます(同11:4、14:2)。義人は「義にあって、み顔を見」るために救われます(詩篇17:15)。「主はすべてしえたげられる者のために正義と公正とを行われる」(詩篇103: 6)。「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐
れる者をあわれまれる」(詩篇103 : 13)。
地上の聖所と働きは天の宮からの神の働きを象徴していた
「神の住まいについての地上の象徴であった聖所と宮のなかで、一つの部屋が神の臨在のためにささげられていた。その入口にあるケルビムを織り込んだ幕は、ただ一人の人の手によってのみ上げられるのであった。その幕を上げて、至聖所の聖なる奥義を勝手に侵すことは死を意味した。というのは、贖罪所と頭をたれて礼拝している天使の上に、いと聖なるおかたの栄光が宿っていたからである。その栄光を見て、生きることのできる者はだれもいなかった。至聖所で働きをなすように定められた一年に一度の日に、大祭司はおののきつつ神のみまえに出た。そのあいだ、香の煙が神の栄光を大祭司の目からさえぎった。神殿の中庭ではあらゆる音がやんだ。祭司はだれひとり祭壇で奉仕しなかった。静かな畏敬のなかでひれ伏した礼拝者の群れは、神のあわれみを嘆願した。
『これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである』(コリント第Ⅰ・10:11)。〔ハバクク書2:20、詩篇99:1~3、11:4、102:19、33:14、15、8引用〕」(『教会へのあかし』第8巻284、285ページ)。
質問8 天の聖所の神のみくらから出るさばきの「基」は何ですか。詩篇89:14
神のさばきのわざは「義と公平」という二つの「基」にもとづいています。神のさばきは報復的なものではありません。それは神の「義」の原則にもとづいたものです。神はこの完全な方法によってすべてのものを見、すべての人を評価されます。それゆえに、私たちは詩篇作者とともに次のように嘆願することができるのです。「あなたの義をもってわたしをお助けください」(詩篇31:1、71:2)。「わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき」(詩篇35:24)。主のさばきのわざによって救われる者たちは、主の恵みとあわれみを経験します(詩篇116:5一同7:10、145:17比較)。
質問9 つぎの聖句は人類に対する神のさばきについてどんなことを明らかにしていますか。
神のさばきのわざに見られる2番目の側面は公平です。神は公平に対する最大の擁護者です。この世には公平はほとんど見られませんが、神のさばきは公平そのものです。神は公平と公正をもって諸国民をさばかれます(詩篇98:9一同96:10、13参照)。神は不正、迫害、偽証の犠牲となっているすべての人を擁護されます。神は「公平」をもってその聖所からさばかれます。なぜなら、神のうちには「義」と「公平」が宿っているからです。神はこれらの完全な基にもとづいてご自分の民と世界をさばかれます。このさばきは天の聖所でなされます。
神の愛と義は不可分
「神の愛は、あわれみのうちにばかりでなく義のうちにもあらわされた。義は神のみ座の基礎であり、神の愛の実である。あわれみを真実と義から引き離そうとするのがサタンの意図であった。彼は神の律法の義が平和の敵であることを証明しようと努力した。しかしキリストは、神のご計画のうちにあってこの両者は離すことができないほど密接に結合しており、一方がなければ他方は存在し得ないことを示しておられる。『いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけ』する(詩篇85:10)。
キリストは、ご自分の一生と死によって、神の義はそのあわれみを滅ぼすものではなく、罪がゆるされ、律法が正しく完全に従うことのできるものであることを証明された。サタンの非難の誤りは明らかにされた。神はご自分の愛についてまちがうことのない証拠を人類にお与えになった。
するとこんどは別な欺瞞が持ち出されることになった。サタンはあわれみが義を滅ぼし、キリストの死が天父の律法を廃止したと宣言した。しかしもし律法を変えたり、廃止したりすることが可能であったら、キリストは死なれる必要がなかったのである」(『各時代の希望』下巻289ページ)。
質問10 詩篇はイエス・キリストをどのようにあらわしていますか。
へブル5:5、使徒行伝13:33(詩篇2:7)
へブル1:8(詩篇45:6)
へブル1:10~12(詩篇102:25~27)
マタイ22:44、マルコ12:36(詩篇110:1)
詩篇は旧約聖書のどの書巻よりも多く新約聖書のなかで引用されています。キリストの生涯と働きのいろいろな場面が詩篇において予告されています。詩篇作者は十字架上のキリストの苦しみを予告しています(詩篇22篇をマタイ27:35~46と比較)。キリストのよみがえりについても同じことが言えます(使徒行伝2:29~33―詩篇16:8~11を引用)。
成就した預言
「十字架上のキリストの苦難によって、預言が成就した。十字架につけられる幾百年も前に、救い主はご自分が受けられる取り扱いを預言された。主はこう言われた、『まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする』(詩篇22:16~18)」(『各時代の希望』下巻265ページ)。(詩篇69:20、21比較)。
まとめ
詩篇は歌と詩のかたちで人類に対する神の無限の愛と公平を歌っています。それらはまた人生のさまざまな場面における神の導きと支配に対する強い願望をあらわしています。詩篇は主の豊かな祝福に対する賛美と悩みのときに神の守りを求める嘆願に満ちています。
第2課 正しい者の勝利
正しい者と悪しき者との対照
主の祝福は今も、また永遠にわたって、主の教えにしたがって生きる者たちに与えられます。主の教えに従わない者たちは「悪しき者」と呼ばれています。彼らは永遠に滅びます。
漸進的敗北か絶えざる霊的成長か
クリスチャンが神と善に対する望みを捨てて、汚れた習慣におちいり、悪い仲間に引き込まれていくのを見ることは悲しいことです。一方、これと反対の生き方をしている人を見ることはすばらしいことです。回心した罪人が主を受け入れ、悪い行いをやめ、キリストの力によって勝利にみちた新しい生活を始めるとき、全天は喜びます。
詩篇第1篇は詩篇全体の主張を代表している
それは詩篇ひいては聖書全体のおもな強調点である幸福と救いにあずかる方法について述べています。詩篇第1篇は次のような構成になっています。
ⅠA 「悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
ⅠB このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
ⅡB 悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみがらのようだ。
ⅡA それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
結論
Ⅰ 主は正しい者の道を知られる。
Ⅱ しかし、悪しき者の道は滅びる。
この詩篇の思考形式に注意してください。ⅠAは真の幸福の根底について述べています。ⅠBは神の道にしたがった生活の結果を強調しています。ⅡBはⅠBと対照的に、神の教えに反した生き方の結果を強調しています。ⅡAはⅠAと対照的に、正しい人は幸福で祝福があるように、悪しき人は不幸で祝福がないことを教えています。結論は、主が正しい人を受け入れ、悪しき人を拒絶される理由を明らかにしています。
幸福の秘訣(詩篇1篇1節、2節)
質問1 聖書は幸福をどのように定義していますか。詩篇1:1(同119:1、32:1、2比較)
「さいわい」(詩篇1:1)と訳されているヘブル語はまた、「幸福」を意味する言葉です。詩篇第1篇は幸福な者を正しい者と同一視しています(1節を6節と比較)。この詩篇は、人がどのようにして正しい者となるのかを最初に示していません。幸福な、正しい者は正義に反するようなことを行なわず、むしろ主との関係を強めるようなわざを行うと述べているだけです。
幸福と正義で満ちたこのような人生はどこから始まるか
この「さいわい」とか「幸福」といった言葉はほかの聖書ではどのように用いられているでしょうか。「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわい〔幸福〕である。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわい〔幸福〕である」(詩篇32:1、2)。罪のうちに生きている人、神のゆるしのすばらしさを知らない人は幸福ではありません。信じ、悔い改める罪人にキリストの義が与えられるとき、幸福は始まります。
使徒パウロは詩篇32:1、2を用いて、キリストの義の賜物を説明しています。ローマ人への手紙4章には、アブラハムのように罪をゆるされ、イエス・キリストの義を受けるすべての人に、祝福と幸福が与えられると説明されています。彼らが義なる者とみなされるのは、義なるキリストが彼らの心を支配してくださるからです(ローマ8:9、10、6:17、18比較)。「イエスの御名に対する信仰によって、イエスは私たちにご自分の義を転嫁してくださる。そして、それは私たちの生活のなかで生きた原則となる」(『イエスを知るために』302ページ)。
詩篇第1篇は、イエスが私たちのうちに内住されるときに与えられる幸福を持ちつづける方法について教えています。
質問2 詩篇作者は恵みから転落する三つの段階として何をあげていますか。詩篇1:1
まず初めに、神のみこころに反するはかりごとに従います。つぎに、主の教えに従わない仲間と喜んで交わります。つぎに、自分の気に入らない人をさばきます。
質問3 人はどうすることによって幸福になることができますか。詩篇1:2(同37:31、119:47、エペソ3:16~20比較)
おきては神の教え
「ふつう「律法(またはおきて)』と訳されているヘブル語は『トーラー』であるが、これは啓示された神のみこころの全体あるいはその一部をさす言葉である。前後関係から別の意味を持つ場合を除けば、旧約聖書における『律法』はふつう、神がご自分の民に与えられた『教え』をさす(創世記26:5、出エジプト記16:4、28、詩篇1:2、19:7、119:1、165、イザヤ書1:10、8:16、20など)。この『律法』、つまり書き表された神のみこころの啓示は、旧約時代のへブル民族に対する神の目的をあらわしていた。信心深いユダヤ人にとって、神の『律法』は世の救いのための神の計画に相当するものであった」(『SDA聖書辞典』改訂版660ページ)。
新約聖書においても、「律法」という言葉はしばしば神の教え、あるいは神のみこころの啓示を意味します(ヨハネ12:34、ローマ2:12~15参照)。
神の教えを喜び、神の啓示されたみこころを瞑想する者は祝福され、幸福になるという意味に解釈することができます。
「神の律法が、その正当な位置に回復されて初めて、神の民と称する人々の間に、初代の信仰と敬虔のリバイバルが起こり得るのである」(『各時代の大争闘』下巻209ページ)。
屈服なき瞑想と研究は幸福をもたらさない
詩篇作者も指摘しているように、おきては心に記されなければなりません(詩篇37:31)。自分自身の努力による研究と瞑想によって祝福と救いにあずかろうとしても、全く無益なことです。パウロによれば、信仰による義とは、律法が信じ従う者の心に記されることです(ローマ10:6~10)。すでに何世紀もまえに、モーセは同じことを強調しています(申命記6:4~6)。
聖霊に研究と瞑想を導いていただく
「聖書を学ぶにあたっては、そこに私どもの理性以上の権威を認め、心も知能も『わたしにある』と仰せたもう偉大なる神のみ前にひざまずかねばなりません。
一見聖書には、むずかしく、不明瞭なことが多いのでありますが、神は、それを理解しようと求める人々には、わかりやすく単純にしてくださいます。けれども、聖霊の導きがなければ、聖書の意味を曲解したり、誤解したりする危険があります。聖書を読んでもなんの益も受けず、かえってそれによって大きな害をこうむっている人々もあります。敬けんな心と祈りがなくて神のみ言葉を開いたり、思いと愛情が神に向いていなかったり、または、神のみ心に調和しないでいると、心は疑惑の雲でおおわれ聖書研究をしていながら、懐疑心が強められるのであります。敵が思想を支配して正しくない解釈を暗示します」(『キリストへの道』153ページ)。
正しい生活の実(詩篇1篇3節)
質問4 主はご自分の教えを喜ぶ者をどうされますか。詩篇1:3(エレミヤ書17:7、8比較)
神は移植される
「植えられた」(詩篇1:3)と訳されているヘブル語は「移植された」を意味します。移植は計画的な農業で、その農学者は神です。主は信じて悔い改めた罪人をサタンの包囲した悪い環境から助け出し、彼を天の影響力と霊的栄養物をもって囲ってくださいます。
聖書はいろいろなたとえを用いて、このことを説明しています。義と幸福を求めてキリストのもとに行く人は新しい心が与えられます(エゼキエル書36:26)。イエスは、真の幸福が新しく生まれることから始まると教えられました(ヨハネ3:5)。このような経験を日ごとに持ちつづけることが(コリント第Ⅱ・4:16)、「移植された」人に与えられると詩篇作者が言っている祝福のみなもとです。
聖書は神の子らをよく木にたとえている
(民数記24:5、6、詩篇52:8、92:12、ホセア書14:5、6参照)主の植えられた木はよく茂ります(イザヤ書61:3)。イザヤはメシヤのいやしと救いのわざを予見しました。失望している者の霊的・感情的傷はいやされます(イザヤ書61:1)。悪しき者のとりこになっている者は解放され、悲しむ者は慰めと希望を与えられます(1~3節)。罪と不幸に束縛されていた者は、「義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」(3節)。これらの「木々」の義は、彼らのための主の働きによるものです。彼らが主の義を結ぶのは、主が彼らの心にあっていのちの原則となられるからです(ガラテヤ2:20、コロサイ1:27、ヨハネ第Ⅰ・3:24参照)。
質問5 木が植えられた「流れのほとり」は何を意味しますか。詩篇1:3、イザヤ書12:3、ヨハネ4:13、14、7:37~39
木が根をおろして、近くの流れから栄養分を吸収するように、クリスチャンもキリストから霊的生命を吸収します。キリストはこのことを次のように教えておられます。「『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。
これは、イエスを信じる人々が受けようとしている聖霊をさして言われたのである」(ヨハネ7:37~39)。
聖霊は新生の経験を与えることによって新しい霊的「木」を植えられます。それから、キリストと父なる神が信じる者の心に宿ることによって、その「木」に栄養分を送られます(ヨハネ14:17、18、23)。木が植えられた川の水はキリストの義を表しています。それは聖霊の臨在を通して信じるクリスチャンに与えられるものです(ローマ8:9、10)。
質問6 イエスの語られたどんなたとえが、流れのほとりに植えられた木の意味をさらによく説明していますか。ヨハネ15:4~11
キリストのいのちが私たちのいのちとなる
「枝とぶどうの木とのつながりは、あなたがたとわたしとの間の関係を表していると、キリストは言われた。若枝は生きたぶどうの木につがれて、せんいはせんいと、木目は木目とつながって、木の幹へと生長するのである。ぶどうの木の生命は枝の生命となる。そのように、罪とがのうちに死んだも同様の魂は、キリストにつながることによって生命を受けるのである。キリストを自分自身の救い主として信じる信仰によって、この結合がなされる。罪人は自分の弱さをキリストの強さに、自分のむなしさをキリストの充実に、自分のもろさをキリストの耐久力に結合させる。そのとき彼は、キリストの心を持つのである。キリストの人性はわれわれの人性に触れ、われわれの人性は神性に触れたのである。こうして聖霊の働きを通して、人は神の性質にあずかる者となる。彼は愛するみ子のうちに受け入れられる」(『各時代の希望』下巻163ページ)。
質問7 「そのなすところは皆栄える」という約束は、どのように理解したらよいのでしょうか。詩篇1:3(申命記29:9、使徒行伝14:22、黙示録7:14比較)
正しい人がつねにこの世で繁栄し、苦しみを免れるとは、主は約束しておられません。悪魔とその手下どもはつねに、キリストに信頼する者たちを苦しめようと待ちかまえています。それにもかかわらず、主がご自分を愛する者たちのために敵の企てを砕き、災いと悲劇を祝福に変えてくださるという約束は変わることがありません(ローマ8:28)。キリストとつながっているかぎり、神の民の霊的繁栄には限りがありません(イザヤ書43:1~3)。
悪しき生活の実(詩篇1篇4節)
質問8 悪しき者たちがもみがらにたとえられていますが、これにはどんな意味がありますか。詩篇1:4(ヨブ記21:17、18、イザヤ書5:24、ホセア書13:3比較)
「ここで聖書時代の脱穀法をみてみよう。収穫された穀物の束が脱穀場に並べられると、木のそりがその上を前後に引かれて、茎を砕き、穂を破る。
穀物はそれから空の皮と砕かれた茎・わらと分けられる。これは全体を空中に放り上げることによってなされる。もみがら(空の皮やわら)は風に吹かれて飛ぶ。穀物は地面に落ちて、箱に集められ、あとで粉にされる。
このもみがらは神を知らない、あるいは信じない人たちをさすたとえとして用いられるようになった。彼らは実のないもみがらのように無価値である。もみがらが一時的で不安定なように、神を知らない者たちも軽率で、変わりやすい考えや逆境によってすぐに飛ばされてしまう」(ロイド・ジョン・オグルビー『偉大な者となる』24、25ページ)。
悪人の究極的不幸(詩篇1篇5節)
質問9 悪しき者はどんなさばきによって「正しい者のつどい」から締め出されますか。詩篇1:5
神のさばきの各段階が聖書のなかに述べられています。
1.各時代を通じて、悪人は神の拒絶と報復のもとにあります。
「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」(ローマ1:18、傍点付加)。
2.再臨前の、調査審判において擁護されない者たちは、神の永遠の拒絶に会います(ダニエル書9:9~14、12:1、マタイ22:11~14)。
3.イエスの再臨において、生きている悪人は滅ぼされます(テサロニケ第Ⅱ・1:7~9)。
4.再臨後の千年期において、天の義人は死せる悪人をさばきます(黙示録20:4、コリント第Ⅰ・6:2、3)。
5.千年期の終わりにおいて、悪人は判決の宣告と執行を受けるために神の御座のまえに集められます(黙示録20:11~15、マタイ25:31~46)。
ただ一つの道
質問10 主が受け入れ、祝福される義人の「道」とは何ですか。詩篇1:6
『新国際訳聖書』は6節を、「主は正しい者の道を見守られる」と訳しています(詩篇31:7、37:17、18、ホセア書13:5比較)。
主は正しい者の道を受け入れられます。なぜなら、それは主の道だからです。主はご自分の道に歩む者たちを守られます。彼らが主に信頼するからです。悪人は神の守りを拒絶するゆえに滅びます。
イエスは、「道であり、真理であり、命」です(ヨハネ14:6)。彼はただ一つの道です。
まとめ
詩篇第1編は詩篇全体を美しく紹介しています。いのちの道が死の道と対照的に描かれています。神にそむく悪人は最終的に滅びます。しかし、信仰によって心にキリストを受け入れ、彼からたえずいのちを吸収する正しい人は、霊的に繁栄し、永遠の祝福にあずかります。
第3課 おののきつつ喜べ
第3課 おののきつつ喜べ 背く者たちへの主の勧告
主はご自分に対して、またご自分がつかわされたメシヤに対して背く国民に二つの答えを用意しておられます。(1)この世とその住民は油そそがれた王の嗣業である。(2)背く民にとっての唯一の望みは、主に仕え、主に寄り頼むことである。
この世は悪に夢中になる
人間はなぜこれほど愚かなのでしょうか。神は彼らに見る目を与えられたにもかかわらず、彼らは見ることができません。聞く耳を与えられたにもかかわらず、聞くことができません。考える頭脳を与えられたにもかかわらず、まともに考えることができません。なぜなのでしょうか。
今回の課の詩篇のなかで、詩篇作者は神のことを考えようとしない諸国民について記しています。彼らはある程度、神について知っていますが、神を無視しようとします。彼らは神が被造物を導く道徳的原則を与えてくださったことを認めますが、それらに束縛されることを望みません。そして、神に反対する手段を考えます。詩篇作者は、なぜなのだろうか、とたずねています。
人間の愚かさに対する神の答え
真理を教えている人からそれを拒まれたとき、あなたは失望したことがありませんか。彼らはなぜ神を無視し、その教えを拒むのだろうかと不思議に思ったことでしょう。宗教改革のために立ち上がり、既存の教会から反対されたときのマルチン・ルターもそうでした。詩篇第2篇は彼の好きな詩篇の一つでした。この詩篇のうちに、人間の愚かさに対する神の解答があります。
詩篇第2篇は「王の詩篇」あるいは「即位の詩篇」と呼ばれています。国際的な緊張関係のなかで、新しい王が油をそそがれ、即位しました。ダビデの時代には、イスラエルの王は主の油そそがれた者と呼ばれ、周辺諸国は彼を敬うように求められました。このイスラエルの王はメシヤなる王の予型であり、地上の諸国民は彼に敬意を表すべきでした。詩篇第2篇は、いわゆるメシヤ詩篇の最初のもので、つぎの三点に適用されます。(1)イスラエルとその周辺諸国が直面していた地上の状況、(2)地上生涯でキリストが直面しておられた状況、(3)歴史が最高潮に達するときの終末時代の諸国民。
神に逆らう—愚かさのしるし(詩篇2篇1節~3節)
主と主の油そそがれた王は、諸国民の反対に会いました。このことはイスラエルの歴史のどの時代においても真実でした。さらに、油そそがれたメシヤはその時代の人々から反対され、攻撃されました。終わりの時になると、諸国民が主と主の油そそがれた者に敵対して集結します(黙示録11:18、17:12~14参照)。詩篇作者は、人間が神の律法に逆らうことを不思議に思っていました。
質問1 詩篇作者は周辺諸国の行為に対してどんな驚きを表していますか。彼らは何をしていましたか。詩篇2:1
詩篇作者の疑問は自然なもの
子供はよく、なぜ、と質問します。私たちも理解できない状況に直面すると、なぜ、と自問します。
諸国民は怒り、狂う
彼らは神の規律と神の油そそがれた者とに逆らいます。彼らは自分の運命をのがれる策を講じます。しかし、その企ては無益です。彼らは神に頼らないで自分の力で自国の運命を支配しようとします。そのような行為は彼らの権限を越えたものです。ここに彼らの愚かさがあります。人間はつねに自分の限界を認めるべきです。これに反する行為は災いを招きます。不思議なことに、人間はしばしば神の立場に立とうとします。イザヤ書14:12~14に記されているように、品性のことでなく権威のことで神のようになろうとしたことが、宇宙における最初の罪でした。
質問2 諸国民は実際にはだれに対して逆らっていましたか。詩篇2:2
新改訳聖書では、「主」という語が太字で書かれています。これは、その語がへブル語の「ヤーウェ」から訳されていることを示しています。つまり、諸国民は宇宙の神に逆らっているのです。主を信じない者たちも自分の拝む神を持っているかもしれませんが、それは真の神ではありません。彼らは好きなときにいつでも自分の神を変えます。しかし、主に逆らうことは重大なことです。それは万物の創造者であり支配者であられる神の権威を否定することです。
主(ヤーウェ)に背くことはまた、「主の油そそがれた者」に背くことです。それは神の秩序全体に背くことです。ダビデのように、神によって選ばれ、即位した王たちは、この職務に任命されたのです(サムエル記上16:13、サムエル記下2:4、23:1参照)。
特別な意味で、油そそがれた者は神の御子
神と油そそがれた方に逆らう王や支配者たちは、世を罪から救うために神が定められた手段に逆らっているのです。王や支配者といった権威ある立場にある者たちが、明らかな真理に反対するということは驚きです。
質問3 王や支配者たちは何からのがれようとしますか。詩篇2:3
彼らは神の律法の霊的抑制から、また自分たちの力を制限するあらゆる規律・束縛からのがれようとします。彼らは自由になろうとしていますが、人を自由にするのは真理であることを忘れています(ヨハネ8:32参照)。罪の束縛以上に大きな束縛はありません。ヤコブは律法を、自由の律法と呼んでいます(ヤコブ1:25参照)。キリストの自由(ヨハネ8:36)を受け入れて、キリストの律法に従って生きるとき、私たちは罪の罪科と来るべきさばきの恐怖から解放されます(ローマ8:1参照)。
質問4 使徒ペテロは詩篇2:1、2をどのように解釈していますか。使徒行伝4:25~28
詩篇作者はこれらの聖句をダビデ王の生涯に起きた事件として述べていることはたしかですが、それだけではありません。彼は霊感のもとで歴史の別の時点で起こる出来事、つまり策略を用いてイエスを裁判にかけようとするユダヤ人指導者のたくらみを描写しています。
神の応答—あざけりと怒り(詩篇2篇4節、5節)
質問5 神は反対者に対してどのように応じられますか。詩篇2:4
全能の神に対する取るに足らない人間の反対はあまりにも愚かなので、こっけいに思われます。はえは象に逆らうことができるでしょうか。詩篇作者はここで人間の言葉を用いて神の答えを描写しようとしています。私たちがこっけいなときに笑うように、神もお笑いになります。人間の神に対する反対はみな愚かなものです。
質問6 神はさらにご自分に反対する者たちに対してどのように行動されますか。詩篇2:5
神の愛を強調しすぎるあまり、神の怒りについて理解できないクリスチャンがいます。使徒パウロは、救いを得させる神の力である福音を恥としない、と言っています。さらに続けて、こう言っています。「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」(ローマ1:18)。
神の怒りは神の愛の表れと考えられます。被造物に対する神の愛が強ければ強いほど、ご自分の子らをつまずかせる者たちに対する神の怒りも強くなります。悪人に対する神の怒りは、不当な危害や滅びを与えようという思いから出たものではなく、むしろ神の正義感、真理をはばむものに対する感情から出たものなのです。
神はその計画を示される(詩篇2篇6節~9節)
質問7 神は何をしたと言われますか。詩篇2 :6
神は王、つまりご自分の王を選び、山に立てられます。このことは、神がこの世界の出来事に積極的な役割を果たしておられることを強く示唆しています。ネブカデネザルはいくつかの困難な経験によって、このことを理解するにいたりました(ダニエル書4:25、34、35参照)。
この王についての言葉はイスラエルの王だけにあてはまるのではありません。それは特別な意味において、ピラトのまえでご自分が王であると言われたイエスにあてはまります。彼は地上の王ではなく、神の民の王でした(マタイ27:11、ヨハネ18:36参照)。
歴史を導かれる神
「人類歴史の記録の中では、世界の諸国民の発展や諸帝国の興亡は、人間の意志や勇気に左右されているかのようにみえる。……しかし、神のみ言葉である聖書の中には幕が開かれていて、われわれはそこに、人間の利害や権力や欲望の一切の勝ち負けの上に、また背後に、あるいはそれを通して、あわれみに満ちた神の摂理が、黙々と忍耐づよくご自身の目的を達成するために働いているのをみるのである」(『教育』205ページ)。
質問8 パウロは詩篇2:7の宣言をどのように適用していますか。使徒行伝13:32、33(ローマ1:4比較)
ペテロは五旬節における説教のなかで、自分たちは神がイエスをよみがえらされたこと、さらに「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになった」ことについての証人であると宣言しています(使徒行伝2:36)。
新約聖書は、明らかに詩篇第2篇をメシヤ預言とみなしています。へブル人への手紙の著者は、「子」という言葉をイエスにあてはめ、彼を名誉ある地位に置いています(へブル1:5)。イエスはバプテスマのときに「子」と呼ばれています(マタイ3:17)。ペテロによれば、イエスは変ぼうの山においても「子」と呼ばれています(ペテロ第Ⅱ・1:17)。
質問9 このメシヤ詩篇のうちのどの聖句がまだ完全に成就していませんか。詩篇2:8、9
イエスは現在、恵みの王国の王です。彼が王の王、主の主として統治し、栄光の王国が確立されるときが来ます。啓示者ヨハネは、天が開かれて、「忠実で真実な者」と呼ばれるかたが白い馬に乗って出て来られるのを見ました。その名は「神の言」でした。「その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め」られます(黙示録19:11~16)。
セブンスデー・アドベンチストはイエスの再臨を熱心に待ち望んでいます。そのとき、この世の国はわれらの主とキリストとの国となり、主は世々限りなく支配されます。(黙示録11:15参照)。
いくつかのよい助言(詩篇21篇10節、11節)
質問10 詩篇作者は王とつかさたちにどんな助言を与えていますか。詩篇2:10
詩篇作者は、神の働きに愚かにも反対する者たちにその関心を向け、彼らに賢くなるように、戒めを受けるようにと助言しています。賢くなるとは、ここでは何を意味するのでしょうか。次のようなことが考えられます。
・神を無視することができるという愚かな考えを捨てること。創造主なる神は礼拝の対象です。
・神に反対するのをやめること。神はあなたを助け、あなたの最高の利益のために働いておられます。
・現実を否定するのをやめること。
・神の油そそがれたかたに逆らうことは正しいことでしょうか。神はあなたのために御自分の目的を遂行しようとしておられます。
質問11 詩篇作者は私たちのためにどんな積極的な助言をしていますか。詩篇2:11
神に背く者たちにもういちど従う機会が与えられていることに注目してください。この機会を生かすか否かは彼ら次第です。それを無にする者たちはさばきの日にその責任が問われます。だれひとりこの恵みを軽んじてはなりません(ローマ2:4~11参照)。
恐れをもって主に仕えるという思想は聖書によくみられるものです(ヨシュア記24:14)。主に仕えるとは、主の律法に従い、主の力によってすべての要求を行うということです。「恐れ」という語は尊敬・畏敬を意味します。私たちはいつでも神の威厳を認めて、神のみまえにふさわしく振る舞わなければなりません。しかし、残念なことに、神の威厳を認めず、御名を汚すような不遜な振る舞いをしている人たちが私たちのうちにもいます。
寄り頼む者のさいわい(詩篇2篇12節)
質問12 詩篇122:12のどの言葉が脅迫のように聞こえますか。
自制心を失い、怒りをあらわにした暴君について読んだあとなら、この聖句は不吉な感じを与えるかも知れません。しかし、神は怒ることのおそいおかたです(ナホム書1:1 3)。それに、神の義なる怒りは人間の怒りとは全く異なったものです。人間の心のかたくなさを見て、イエスは何度か難をおぼえられました(マルコ3:5参照)。パウロは怒りを厳しく抑えるようにと言っています(エペソ4:26)。私たちは神の怒りをかうようなことを避けなければなりません。神の怒りは正しいからです。(へブル102:62、7比較)。より積極的に言えば、神を喜ばすことがクリスチャンの喜びでなければなりません。
質問13 寄り頼む者のさいわいはどこにあると思いますか。詩篇2:12
だれも信頼できないと感じる状況に追いやられたことがありませんか。私たちはみな信頼できるだれかを必要としています。私たちが主と主の油そそがれたかたを信頼することができるということはすばらしいことです。そのように感じるなら、感謝の祈りをささげましょう。
まとめ
この世の人々と国々は神を無視し、神の道徳律に従おうとしません。教育によってある程度、神について知っている人もたくさんいます。しかし、そのことによって、神は失われた人類に対する本来の目的を放棄されるわけではありません。神は御子によって真理と義の王国を打ち立てられます。神はその恵みによって、すべての人に善をなす機会を与えられます。神を知り、神に信頼する者たちはさいわいです。
第4課 賛美の歌ーあなたは大いなるおかた
第4課 賛美の歌ーあなたは大いなる方
全能で威厳のある創造主に比べれば、人間は取るに足らない弱々しい存在です。それにもかかわらず、主は初め人類に地を支配する権威を与えられました。この支配権は主を信頼する者たちのために回復されます。
私たちは神を覚えているか
多忙な毎日の生活のなかにあって、私たちは立ち止まって、静かに考える時間をつくっているでしょうかー私はどこに行こうとしているのだろうか、なぜそこに行こうとしているのだろうか、どのようにしてそこに行こうとしているのだろうか、と。
たいていの人は、生計を立てる、学校に通う、家族の世話をするといった日常の働きに忙殺されています。これらはみな大切なことですが、私たちはすべての必要を満たしてくださる神に栄光を帰しているでしょうか。
人生の試練や苦難のときにさえ神をたたえる
盲目のスコットランド人伝道者ジョージ・マテソンは、讃美歌360番(つかれし心をなぐさむる愛よ)を書いた人ですが、彼はあるとき次のように祈ったと伝えられています。「神よ、私はこれまで自分の『とげ』をあなたに感謝したことはありません。自分のバラは何回となく感謝し
ても、『とげ』については一度も感謝したことがないのです。私は自分の十字架が償われる世界の到来を待ち望んできました。しかし、私の十字架の栄光と、私の『とげ」の価値を教えてください。苦痛の道を通してあなたのもとにはい登ったことと、涙が私のにじとなったことを教えてください」(ムーディー・マンスリー)。
今回の課では詩篇作者が宇宙の神にどのように応答しているかを学びます。彼は神を自分の神、「われらの主」と呼んでいます。それから、神の優越性をほめたたえ、なぜそうなのかを説明しています。神について学ぶとき、私たちもこの賛美の歌に加わることができます。私たちも詩篇作者と共にすばらしい天の神をあかしして、次のように歌うことができますー「あなたは大いなるおかた」と。
尊い神の御名(詩篇8篇1節)
質問1 詩篇作者は神をどのように呼んでいますか。詩篇8:1
ここで、詩篇作者は神を「主」と呼んでいます。へブル語の「わたしは有る」を意味する神の御名、「ヤーウェ」の訳です。神がどのようにしてこの名をモーセに啓示されたかを知るために出エジプト記3:13~15を読んでください。この名はあまりにも聖なるものなので、敬けんなユダヤ人はそれを用いないで、代わりに「アドナイ」(主)と言います。
詩篇作者は神の御名をもって神に呼びかけ、それから「われらの主よ」という美しい関係を表す言葉をつけ加えています。2番目の「主」は、すぐれたおかた、主権を行使されるおかた、支配権を持たれるおかたです。詩篇作者は、宇宙の神があなたの主また私の主、すべてを最終的に支配されるおかたであると言っています。賢明な者たちは、自分が全的に主に依存していることを認めます。
質問2 詩篇作者は神の御名の尊さに言及していますが、このことは何を意味していますか。詩篇8:1
へブル語の名前は人を他人と区別するだけのものではありません。それは当人の品性や立場をも表しています。神の御名は、神がどのようなおかたであるかを象徴しています。したがって、主の名をみだりに唱えてはならないという命令(出エジプト記20:7)は、神を無視することによって、あるいは弟子であると言いながらその教えに背くことによって、神を汚したり軽んじたりすることを戒めるものです。神の御名が尊いということは、神の品性が尊いということ、また人類のための神のすべてのわざが尊いということです。
質問3 神はその栄光をどこに置かれますか。詩篇8:1
聖書に用いられている「栄光」という言葉は十分に研究する価値のある語です。一般的に、栄光は光を連想させます。事実、神は近づきがたい光の中に住んでおられます(テモテ第Ⅰ・6:16参照)。しかし、栄光は何か非常に重要なこと、非常に困難なことを達成することによってもたらされます。イエスが父なる神に子の栄光をあらわして下さるようにと言われたとき(ヨハネ17:1)、彼は十字架上のご自分の死について考えておられました(ヨハネ12:23、28)。イエスは父なる神の栄光を、世に神を啓示することによって、神のみこころを行うことによって、またご自分にゆだねられたわざを完成することによってあらわされました(ヨハネ17:4)。イエスは奇跡を行うことによってその栄光をあらわされました(ヨハネ2:11)。神の栄光とは、神の品性がわざによってあらわされたものです。神は正しい者にとっては友であり、希望と愛のみなもとですが、悪人にとっては焼きつくす火、恐ろしい存在です(申命記4:24、黙示録6:16参照)。
神はその栄光を「天の上」に置かれる
人間はこのことを十分に理解することができません。神の栄光は宇宙のすみずみにまで及びます。なぜ詩篇作者が神をほめたたえずにはいられなかったかがおわかりになるでしょう。神の御名は、神の存在そのもの、神のみわざそのものを表します。あなたも詩篇作者と共に歌いたくなることでしょう。「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう」と。
御国の子ら(詩篇8篇2節)
詩篇作者は全地に及ぶ神の主権と威厳をほめたたえたあとで、不思議なことに、敵と恨みを晴らす者とに言及しています。いったい、宇宙の神に敵がいるのでしょうか。それはだれなのでしょうか。そのような状況はいつまで続くのでしょうか。
同じくらい不思議なことは、神が「みどりごと、ちのみご」とによって反対を静められるということです。
質問4 神はだれを用いて罪と罪人とに対抗されますか。詩篇8:2
子供には真理をあかしすることなどできないと、私たちは考えがちです。子供たちがイエスのもとに連れて来られたときの弟子たちの態度を見ればわかります(ルカ18:15)。しかし、イエスは何と言われたでしょうか。「神の国はこのような者の国である」(16節)。何とすばらしい言葉でしょうか。あらためてマタイ18:1~6を読んでみてください。子供は私たちの見習うべき性格を持っています。悔い改めて、幼子のような心から信じるときに、私たちは天国に入る者となります。
質問5 神が弱い者をお用いになるということについて、パウロは何と言っていますか。コリント第Ⅱ・12:7~10、コリント第Ⅰ・1:26~29
私たちはしばしば、弱い者は神の敵と戦うには無力であると考えがちです。そして、霊的・知的に能力のある者を高く評価しがちです。
神は強い者をくじく方法、敵を打ち負かす方法を知っておられます。神が大した才能のない私たち、大した功績を持たない私たちさえ用いてくださるということは、すばらしいことです。
子供たちの賛美
イエスが詩篇8:2を引用された状況に注目してみましょう。「神性が人性を通してひらめいた」2回目の神殿のきよめに言及したあとで、エレン・ホワイトは次のように記しています。「宮の庭はもう一度病人や死にかけている人たちでいっぱいになった。そこでもう一度イエスはこれらの人々に奉仕された。
しばらくして、祭司たちと役人たちは思いきって宮へもどってきた。……そっと宮へもどってくると、彼らは、男や女や子供たちが神を賛美している声を聞いた。……子供たちがまっさきによろこんでいた。……いまよろこびの声をあげて、子供たちは主を賛美した。
このようなよろこばしい、遠慮のない声の響きは宮の役人たちにとって不快であった。……そして神の家が子供たちの足とよろこびの叫び声にけがされたと人々に言った」。
彼らは苦情を言うためにイエスのもとに来ました。しかし、イエスは言われました。「あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか(マタイ21:16)。キリストが王として宣言されるということが預言に予告されていたが、このことばは成就しなければならない。……神は子供たちの心に働いて、彼らをキリストの証人とされた」(『各時代の希望』下巻32、33ページ)。
人間の価値(詩篇8篇3節、4節)
人間の価値を認められる神は言われます。「あなたは殺してはならない」と(出エジプト記20 : 13)。しかし、これまでにも、また今日でさえ、殺人は毎日のように起こっています。なぜなのでしょうか。
質問6 詩篇作者は人間の弱さをどのように描いていますか。詩篇8:3、4
多くの惑星と星が輝いている天をながめ、宇宙の広さについて考えたとき、詩篇作者は人間の弱さを思い知らされたのです。現代の天文学はこのことをよりはっきりと示してくれます。
人間の無意味さと神の偉大さ
ある夜、一人の男が中東の町を出て、砂漠の方へ向かっていきました。周りは砂だけです。しばらくのあいだ、犬の鳴き声や町の騒音がきこえていました。そこにはまだ人間の生活がありました。しかし、やがてあたりは真っ暗になり、音も絶え、広大な天空に無数の星が輝いているだけでした。彼は突然、自分のちっぽけさ、弱々しさに気づきました。彼はこれまで感じたことのない神の臨在を感じたと言っています。神の偉大さを感じるのは、自分の弱さを認めるときです。
質問7 詩篇作者は神の創造力をどれほど生き生きと描写していますか。詩篇8:3
「あなたの指のわざ」
神の創造のわざは驚くべきものです。詩篇作者はほかのところで、「主が仰せられると、そのようになり」と言っています(詩篇33: 9)。神はここでご自分の指先だけを使っておられます。もちろん、これは象徴的な表現ですが、私たちには途方もないことを神はいともたやすくなされるということを強調しています。神の偉大さは私たちには十分理解できません。
この創造主なる神が私たちに関心を寄せてくださるのです。神は私たちを「心に留めて」くださいます。つまり、私たちのことを考え、気にかけてくださいます。私たちはどのように応えたらいいのでしょうか。
あなたは次の命題についてどう考えますか。
(1)外観は必ずしも重要性と関係がありません。小さな宝石でも巨大な石より価値があることもある。
(2)価値を決めるのはからだの大きさではなく、知的・道徳的価値である。
(3)私たちの重要性は自分のなしたわざにではなく、キリストが与えておられる価値にある。
(4)神のかたちに造られた私たちにとって、その価値をはかるものは神のかたちを反映しているか否かである。
(5)神の偉大さはその全能の力よりも、むしろその無限の愛のゆえである。
神の権威の賦与(詩篇8篇5節~8節)
質問8 神は人間をどのように位置づけておられますか。詩篇8:5
「ただ少しく人を神よりも低く造って」。「天使よりも少し低く造って」(英語欽定訳)。用いられているヘブル語は神を意味する「エロヒム」です(創世記1:1)。創造の物語にもあるように、人間は神のかたちに、男と女とに造られました。
人間が仕える霊である天使(へブル1:14)よりも力が劣っているものとして造られたことは明らかです。天使は神の命令に従って、ある場所から別の場所へすばやく飛ぶことができます。彼らは恐るべき破壊力を持っています(列王紀下19 : 35)。彼らは超自然的な方法で、ペテロを牢獄から解放しました(使徒行伝12:7~10)。彼らはイエスに仕え(マタイ4:11)、今日も神の民に仕えています。
物理的な意味において、人間は天使よりも低く造られています。そして、もちろん神よりも低く造られています。しかし、人間には神のかたちを反映するという気高い召しが与えられています。
「栄光と誉とをこうむらせ」
〔新共同訳では「栄光と威光を冠としていただかせ」〕となっています。冠は王位の象徴です。それは支配権、家臣に対する決定権を表しています。神が万物の支配者であられるように、人間は地球の管理者です。地球は罪によってそこなわれましたが、人間はなおその環境の責任者です。
質問9 神は人類にどの程度の統治権を与えられましたか。詩篇8:6~8
私たちは自分の環境を完全に支配しているわけではありません。人間が知恵を用いて環境を守らないなら、災いがもたらされます。
質問10 へブル人への手紙はこれらの聖句をどのように解釈していますか。ヘブル2:6~9
「アダムは創造主の代理者だった。アダムの支配は独自の支配ではなかった。地は神のもので、神は万物をみ子におまかせになっていた。アダムはキリストの支配下にあって統治するのであった。アダムが統治権をサタンの手に売り渡したときにも、キリストは依然として正当な王であられた」(『各時代の希望』上巻143、144ページ)。
アダムとエバに対する神の本来の目的は、彼らが自分のおかれた環境を完全に治めることでした。キリストのもとにあるうちは、何ら問題はありませんでした。しかし、彼らはへびの誘惑に屈したときにその主権を失いました。私たちが多くの状況を治めることができないでいる現状を見れば、このことは明らかです。しかし、イエスは人となって私たちのうちに住まれました(ヨハネ1:14)。彼は私たちを生かすために苦しみ、死なれました。彼は「多くの子らを栄光に導く」ために罪に勝利されました。イエスによって、人類は神の本来の目的を達成することができます。
詩篇作者がこのことを十分に理解していたかどうかは疑問です。しかし、神が悪に勝利し、私たちを本来の地位に回復してくださることを、彼は確信していました。彼は信仰によって、人間がふたたび羊と牛、鳥と魚、そして地と海のすべての生き物を完全に治めるようになることを知っていました。
イエスの御名の喜ばしい繰り返し(詩篇8篇9節)
この詩篇の終わりにおいて、作者は第1節と同じように神をほめたたえています。
私たちも彼と共に神をほめたたえているでしょうか。私たちのための神の計画に感謝しているでしょうか。キリスト・イエスによって私たちを絶望から救い、輝かしい未来に備えてくださった神に感謝しているでしょうか。私たちも同じように繰り返したいものです。「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう」と。
まとめ
詩篇作者は宇宙の神を自分の神として呼びかけています。彼と神とは親しいあいだがらでした。彼は天地の創造者である神の威厳に心を打たれています。神が人類を心にとめ、その目的を達成するために最も弱い聖徒を用いられるということに驚きを表明しています。神が人間を造り、御国への道を備えてくださったことを感謝し、自分もこの幻の成就にあずかりたいと望んでいます。彼はその詩篇を賛美をもって始め、賛美をもって結んでいます。
第5課 義の標準
第5課 義の標準
神に受け入れられる人とは、義なる心が義なる行動のみなもととなっている人です。神は道徳的・倫理的に純粋な行動だけを受け入れられます。
生きるための原則
いわゆる「ハウ・ツー」ものの本がよく売れています。たとえば、自動車の手入れ法とか日曜大工の知識はだれにも必要なものです。
しかし、物よりも大事なのが私たちの神との関係です。私たちはどうしたら心から神に仕えることができるのでしょうか。どうしたら神の国に入るにふさわしい者となることができるのでしょうか。
私たちが今回、学ぶ詩篇において、詩篇作者はこれと同じ問いかけをしています。「あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか」(詩篇15: 1)。
1093年にカンタベリーの大主教になったアンセルムスは、詩篇作者の答えを別の表現でくりかえしています。「罪の恥辱と地獄の苦痛とのうちどちらかを選ばなければならないとしたら、私は罪をもって天国に入るよりも罪なしに地獄に投げ入れられる方を選ぶだろう」。
最も重要な質問(詩篇15篇1節)
質問1 詩篇作者の質問はなぜ重要ですか。詩篇15:1
一見、この聖句は二つの質問をしているように思えます。しかし、実際には、それらは一つであり、同じものなのです。詩篇作者はここでへブル詩の並行法の手法を用いています。詩篇15:1の第2 の質問は先の質問を別の言葉で言い換えたかたちになっています。幕屋にやどることと神の聖なる山に住むことはともに、神に従って生きることを意味します。
詩篇作者にとって、幕屋に住むことはたえず聖なる神のみまえに生きることを意味しました。彼は神の要求をつねに意識していたばかりでなく、イエスの犠牲の血によって与えられる神のあわれみをも知っていました。
謙そんな者たちは神と共に住む
「『主は高くいらせられるが低い者をかえりみられる」(詩篇138:6)。キリストのへりくだった柔和な精神をあらわす者たちは、神からやさしく見守られている。彼らは、世の人々からさげすみの目をもって見られるかも知れないが、神の御目には非常に尊いのである。賢明な人、偉大な人、慈善に富んだ人たちだけが、天の宮への旅券を獲得するのではない。それはまた、熱心で、休まず活動している忙しい働き人だけでもない。そうだ、心の貧しい者一キリストの内住を熱望し、謙遜な心をもち、神のみこころを行うことを最高の望みとしている人こそ、十分に天国にはいるのである。彼らは、衣を洗い、小羊の血によって衣を白くした人たちの仲間にはいるのである。『それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう』(黙示録7:15)」(『各時代の希望』中巻7ページ)。
正しく歩む(詩篇15篇2節)
質問2 詩篇15:1の質問に対する最初の答えは何ですか。詩篇15:2
神のみまえに住むことを喜ぶ者たちとは、神のみこころを行うことを喜ぶ者たちのことです。彼らは、標準がいかに高くてもそれに従うことをためらいません。自分の力、自分の努力によってその標準に到達しようともしません。彼らはそのような生き方をする恵みと力を与えてくださる神に信頼します。彼らは自分の意志を神の御手にゆだね、神が自分たちの求め、思うところのいっさいをはるかに越えてかなえてくださることを信じます。(エペソ3:20、21参照一ユダ24、コリント第Ⅰ・10:13比較)。
「直ぐ」歩むとは
「直ぐ」と訳されているヘブル語(タミム)は、完全さ・健全さをも意味する言葉です。それは、「完全な」、「疑いのない」、「責められるところのない」、「罪のない」、「公正な」、「正直な」という意味です。それはまた、「傷のない」動物の犠牲をさす言葉です(出エジプ卜記12:5、29:1、レビ記1:3、10、22:21参照)。この語は「完全な」神に言及するときにも用いられます(申命記32:4、サムエル記下22:31、ヨブ記36:4参照)。エゼキエルはこの語を用いて罪の入る以前のルシファーを描写しています(エゼキエル書28:15参照)。詩篇119:1で語られている「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者」は「完全な者」です。同じ言葉がアブラハムに対する主の命令にも用いられていますー「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1)。
神の標準
「人間は自分の弱さをキリストの神性に結びつけることによって、キリストの品性にあずかる者となることができる。
キリストが来られたのは、最初の人アダムから地上に生きる最後の人にまで要求されている神の律法を完全に守ることの模範を示すためであった。彼は、ご自分の使命が律法を滅ぼすことにではなく、むしろそれを完全にそのまま守ることによって成就することにあると宣言しておられる。
このようにして、キリストは律法を拡大し、それを尊いものとされた。……彼が来られたのは、人類が生きた信仰によって神性と結合することによってすべての神の戒めを守ることができるという事実を証明するためであった」(エレン・G・ホワイト、無題の原稿145号、1897年12月30日)。
質問3 詩篇1 5:1 に対する第2の答えは何ですか。詩篇1 5:2
正しい行いと正しい思考はともに重要なものです(ローマ2:13 参照)。私たちは正しい者であると同時に義なる者でなければなりません。
旧約聖書はしばしば人間の義について述べています。イザヤは、人間の義が聖なる神の目には価値のないものであると言っています(イザヤ害57:12、64:6参照)。
くりかえされている質問
詩篇15:1と同じ質問が詩篇24:3にもあります。その答えはこうですー「手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である」(4節)。心と生活におけるこの純潔はどこからくるのでしょうか。「このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける」(5節)。このような義の祝福はだれに与えられるのでしょうか。「これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである」(6節)。イエスの勧告と何とよく似ていることでしょうー「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう」(ルカ11:9)。
義の定義
イザヤは義を次のように説明しています。「義を知る者よ、心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け」(イザヤ書51:7)。そのような人たちは、「義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」(同61:3)。彼らが義とされる方法について、イザヤはこう述べています。「ついには霊が上からわれわれの上にそそがれて……その時、公平は荒野に住み、正義は良き畑にやどる。正義は平和を生じ……」(同32:15~17)。
質問4 詩篇15:1 に対する第3の答えは何ですか。詩篇15:2
詩篇作者の第3の勧告は、主の客になりたいと思う者たちはつねに心から真実を語らなければならないということです。彼らの語ることはその考え・感情と調和しています。イエスの時代のパリサイ人のように、外面と内面に矛盾があってはなりません。偽善は憎むべきものです。主のまえに永遠に住む者は完全に正直な者です。
舌を制御する(詩篇15篇3節)
質問5 真の礼拝者が持つべき三つの積極的な態度に加えて、どんな三つの消極的な行為があげられていますか。詩篇15:3(ヤコブ3:2比較)
・そしり 英語欽定訳に用いられている語〔バックバイト〕は、文字通り訳すと「背中をかむ」です。これは背信行為を意味します。
そしりは野蛮な行為
「人食い人種が、まだ生暖かいぴくぴく動くえものの肉を食べている光景は思っただけでもぞっとするが、しかしこういう行為よりももっと恐ろしい結果は、真意を誤り伝えられたり、評判を傷つけられたり、品性を批判されたりすることなどによって生ずる苦悩と破滅である」(『教育』278ページ)。
・悪をなす 第2の消極的な行為は悪をなすことです。口から出る言葉も人をひどく傷つけますが、人に悪い結果をもたらす行為は重大な罪となります。このような行為に対する解毒剤は何でしょうか。それは善をなすことです。それは、「よい働きをしながら……巡回された」イエスの模範に従うことです(使徒行伝10:38)。
・そしりを取りあげる 第3の消極的な行為は隣人のそしりを取りあげることです。神の家に受け入れられる礼拝者はうらみを抱いたり隣人を中傷したりすべきではありません。もし隣人や兄弟にうらみを抱いているなら、神にささげものをするまえに彼と和解すべきです(マタイ5:23、24参照)。
神と人とに対して正直(詩篇15篇4節)
私たちはこれまでに三つの積極的な勧告と三つの消極的な態度について見てきましたが、さらにもう四つの勧告に目を向けてみましょう。
質問6 「神に捨てられた者」を卑しめるとはどういう意味ですか(詩篇15:4)。コリント第Ⅰ・15:33比較
「卑しめる」と訳されているヘブル語には、「軽んじる」という意味があります。神のしもべは、たとえあまり感心しない品性の持ち主であっても、人を決して憎みません。憎むべきは罪であって、罪人はその可能性のゆえに愛されるべきです(ヨハネ第Ⅰ・4:20、21参照)。キリストがひどい罪人のためにご自分のいのちをささげられたとすれば(ヨハネ第Ⅰ・2:2、ローマ5:8参照)、キリストの民は自分の生き方を尊ばない罪人であっても愛することができるはずです(レビ記19:18参照)。
質問7 詩篇15:4に与えられている第2の勧告は何ですか。
神に捨てられた者が、ここでは主を恐れる者に置き換えられています。このような人は尊ばれ、仲間に受け入れられるべきです。神のしもべは神に捨てられた者の習慣を卑しむのに比例して、神を恐れる者たちを尊びます。神に捨てられた者も、自分がその生き方のゆえにではなく、その生き方にもかかわらず愛され、受け入れられていることを知るべきです。
質質問8 真の礼拝者の第3の特徴は何ですか。詩篇15:4。
私たちは「天が落ちかかろうとも」正しいことをすべきです。真の神の礼拝者は、ひとたび厳粛な義務を負ったなら、たとえ苦痛を覚えようとも、着手したことは最後までやり通すべきであると、詩篇作者は言っています。
金銭を正しく用いる(詩篇15篇5節)
質問9 神の民はお金を貸すときどんなことに注意すべきですか。詩篇15:5
しかしながら、詩篇作者の時代においては、経済は農業が中心でした。お金を借りるのは大概においてその日暮らしをしていた小作農でした。したがって、そのような人から利子をとることはなお一層苦しめる非情な行為でした。律法はこのような行為を禁じていました(申命記23:19参照)。しかし、外国人が商売をするためにお金を借りる場合には、彼から利子を取ってもよいと書かれています(20節参照)。
タラントのたとえのなかで、イエスはお金を貸して利子をとる行為を非難してはおられません(マタイ25:27参照)。「両替人」または「銀行」は、おそらく貸したお金から利益をあげていたのでしょう。この場合、両替人または銀行が貸したお金に利子をつけることは妥当なことでした。
お金を貸す人はつねに、お金を借りる人の立場を考えるべきです。彼は同情心を持つべきです(出エジプト記22:25~27参照)。「高利貸し」という言葉に示されているように、貧しい人から不当な利益を得ようとする債権者は、もはや神の友とは言えません。申命記15:8~11には、神が貧しい人々に関心をもっておられるということがはっきりと述べられています。
質問10 ほかにどんな経済的利得が禁じられていますか。詩篇15:5
サムエルは老齢になってから、「自分の目をくらま」すためにだれかからわいろを取ったことがあるかどうか人々にたずねています(サムエル記上12: 3)。一方、彼の息子たちは利益に目がくらみ、「まいないを取って、さばきを曲げ」ました(サムエル記上8:3)。詩篇作者はほかのところで、罪人の「右の手は、まいないで満ちている」と言っています(詩篇26:10)。これに対して、正しい人は「手を振って、まいないを取らない者」と言われています(イザヤ書33:15)。
正直な人の必要
「世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底から真実で、正直な人、罪を罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人—そういう人である」(『教育』54ページ)。
まとめ
詩篇作者は、私たちがどうしたら神を礼拝するにふさわしい者、神のみまえに生きる者となることができるのか質問しています。そして正しい行動についての10の原則をあげることによって、その質問に答えています。最初の三つは私たちのなすべき積極的な勧告であり、つぎの三つはすべきでない消極的な行為です。このほかに二つの積極的な原則と二つの消極的な原則が述べられています。これらの原則によって導かれるとき、私たちは決して動かされることがなく、神に対してかたい確信と忠誠を持つ者となります。
第6課 自然、律法、個人的祈り
第6課 自然、律法、個人的祈り
自然界と霊感による神のみことばとを通して神について知るとき、私たちの心に神に似ないあらゆるものから離れたいという願いがわきあがります。
創造主と被造物
異教徒は太陽、月、星を見て、その神秘さのゆえにそれらを礼拝の対象、自分の思いどおりにできる神々とします。詩篇作者も同じ空、同じ現象を見ます。しかし彼は、天体が創造者なる神によって造られたものであることを知っています。彼は神の栄光を認めます。
自然界の驚異に目を向けるとき、私たちは目に見える物から目に見えない存在者に心を向けているでしょうか。この世のものから永遠のものに心を向けているでしょうか。私たちはそこに何を見ているのでしょうか。
C・S・ルイスは詩篇第19篇を、「詩篇のなかで最高のもの、世界で最もすばらしい叙情詩の一つ」と呼んでいます(『詩篇瞑想』63ページ)。それは私たちに考え方と認識を変えるように求めています。ある注解者たちは、1~6節と7~14節とのあいだの韻律の構成上に違いがあること、また自然界のあかしを強調した前半部分と神の教えを強調した後半部分とのあいだに主題の違いがあることを指摘しています。これは二つの異なった思想を述べていると考えられがちですが、よく調べてみると、じつは自然界における神の啓示と律法における神の言葉による啓示という同じテーマについて述べているのです。どちらも私たちにとって重要なもので、詩篇作者に献身を求めていると同時に、私たちにも献身を求めています。私たちはどのように応答したらいいでしょうか。
自然界のあかし(詩篇19篇1節)
空を見上げ、そこに星、太陽、月を見るとき、私たちも詩篇作者と同じ確信が与えられます。
質問1 詩篇作者は天は何をあらわしているといっていますか。詩篇19:1
詩篇作者は中東の澄みきった大空に輝く天体の美しさに心を打たれました。彼は被造物から創造者へと心を向けています。そして、目に見える物体よりも、天にそれを置かれた神の栄光に驚嘆しています。
詩篇作者は神の栄光に言及して、神を表す「エル」というヘブル語を用いています。この名は、天地の創造者である神について述べている創世記1:1に出てくる神の御名と関連があります。詩篇作者は明らかに、神が「地を照らさせ」るために太陽と月を置かれたというモーセの創造の記録のことを思い起こしていたことでしょう(創世記11:7)。太陽や月は礼拝の対象となるべき神々ではなく、特別な目的のために神によって天に置かれた物体なのです。
質問2 使徒パウロによれば、自然の研究は神についてのどんな二つの事実を明らかにしてくれますか。神が創造者であられることを認めようとしない者たちはどうなりますか。ローマ1:19~25
残念ながら、堕落した人間は必ずしも自然が教えることを受け入れるとは限りません。自然が教える神の真理を故意に無視する人々もいます。神に従わない者たちは悲しいことに、被造物礼拝におちいりやすくなります。
質問3 神の栄光とは何ですか。出エジプト記33:18、34:5~8
「いまは罪のために神の完全なみわざが、傷つけられているが、それでも神の筆跡は残っている。いまでもすべての被造物は、神の完全さについて栄光を告げている」(『各時代の希望』上巻2ページ)。
「人びとの心に、みことばの原則を植えつけることによって、聖霊は、彼らの心の中に神の性質をめばえさせる。神の栄光の光、すなわち、神の品性が、神に従う者のなかに輝き出なければならない。こうして、彼らは、神に栄えを帰し、花婿の家、すなわち神の都と小羊の婿宴への道を照らすのである」(『キリストの実物教訓』390ページ)。
質問4 イエスは身近な自然の事物からどんな教訓を引き出されましたか。マタイ6:26~34
「大教師イエスは、聴衆を自然の事物に接触させて、あらゆる被造物の中に語られている声をきかせ、そうして彼らがやさしい感情とすなおな心をもったときに、目の前にながめている自然の風物から霊的な教えを解釈させられた。……
天と地のいっさいのものは、生命の大法則は奉仕の法則であることを告げている。……この同じ奉仕の法則が、自然界の万物に書きしるされている。空の小鳥、野の獣、森の木々、葉草花、空の太陽、きらめく星、—すべてがそれぞれに奉仕している」(『教育』108、109ページ)。
神の支配のしるし(詩篇19篇2節~6節)
神は初めに人類に適した環境を備えられただけではありません。日も夜も絶えることなく、神の祝福は繰り返されています。
質問5 詩篇作者は神の継続的な祝福をどのように描いていますか。詩篇19:2、3
神がこの地球を創造されたとき、ご自分のわざに満足されました。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1:31)。さらに、神は生き物のための必要を満たしてくださいました。人類は増え、統治することになっていました。その食物も与えられました(28~30節)。第7日目は週ごとの休みの日となりました(創世記2:1~3)。太陽は日と年のしるしとなり、月の満ち欠けの周期は1カ月のしるしとなります。生命は最初と同じく完全に続くのでした。
しかし、エデンの園に罪が入ってきたときに、自然界は傷つけられてしまいました。
自然界は善と悪を描写する
「カルバリーに輝く光によってのみ、自然の教えは、正しく読まれる。……いばらやあざみや毒麦の中には、害し傷つける悪の力が表わされている。歌う小鳥に、咲く花に、雨に、日光に、夏の微風に、やさしい露に、森のかしの木からその根元に咲くすみれにいたるまで、自然界の幾万ともしれない事物の中には、愛のいやしがみられる。こうして自然は今もなお神の恩恵を告げている」(『教育』106ページ)。
質問6 自然とその法則はどれほど広く知られていますか。詩篇19:4
自然の法則は言語民族地域にかかわりなく、共通なものです。完全ではないかも知れないが、それは十分、信頼に値する時の尺度です。回転しながら軌道を回る地球は正確な時計です。各月の名称、年号、1年の始まりと終わりは、国や民族によって異なるかもしれません。しかし、だれでも1から7まで数えることができますし、週の第7日目の安息日がいつ来るかを知ることができます。また、週のサイクルは決して変わったことがありません。今世紀と、8世紀におけるロシアとフランスの政治的動乱後に、週のサイクルを変更しようと試みられたが、完全に失敗に終わっています。20世紀における週の第7日は、イエスが守られたのと同じ第7日なのです。
質問7 太陽に関してどんな興味ぶかい擬人法が用いられていますか。詩篇19:5、6
太陽は信頼できる天の時計です。それは忠実に、規則正しく、カ強く、効果的に運行しています。また、あらかじめ計算できる時間に沈み、また昇ります。
科学の発達した20世紀の世界においても、詩篇作者の言っていることは確かに真実です。彼は、神が秩序の神であって万物を支配しておられると言っているのです。私たちは今でも日時計によって一日の時間を知ることができます。また、星によって航行し、その方向を知ることができます。神の秩序は、神ご自身がそれを変更されるまでは不変不動です。
おきて(律法)とその価値(詩篇19篇7節〜10節)
ここから詩篇第19篇の後半に入ります。前半においては創造の神(へブル語で、エル)について学びましたが、後半においては契約の主(へブル語で、ヤーウェ)について学びます。
質問8 詩篇作者は主のおきて(律法)について何と言っていますか。詩篇19:7
詩篇作者が用いている律法のへブル語は「トーラー」です。この語は「律法」以上のものを意味します。それは神の教え、神のみ言葉をさします。聖書に与えられている神からの啓示や教えがなかったならどうでしょうか。たとえば、創世記が与えられていなかったと仮定してください。私たちは重要な真理を知らないことになります。
「完全」と訳されているヘブル語は、欠けたところのない、非難すべき点のない、反論の余地のない、という意味です。主はご自身とその計画を、またご自分の民に対するみこころを完全に啓示されました。私たちは主の計画について、あるいはそのみこころに従う方法について疑いを抱く必要はありません。
質問9 神のおきて(トーラー)の五つの側面を表す五つの言葉に注意しながら、詩篇19:7~10を読んでください。
1.「あかし」……神がご自分の真理について与えられる証言。たとえば、創造の記録など。「あかし」をさすヘブル語は十戒についても用いられています(出エジプト記25:16、21、22参照)。
2.「さとし」……神がご自分の民に与えられる責任。同じへブル語が詩篇103:18、111:7、119:128でも用いられています。
3.「戒め」……神の戒めは拘束するものではありません。それらは私たちの益となります(申命記10:13参照)。
4.「主を恐れる道」……このヘブル語は「畏敬」、「聖なる恐れ」を意味します(詩篇2:11、5:7参照)。主を恐れる者は主の偉大さと力を認めます。神の力はそれを受け入れる者に与えられます(蔵言1:7参照)。
5.「さばき」……このヘブル語はさばかれる人についての神の決定、およびその基準をさします(詩篇9:7、16参照)。神のさばきはあわれみを含んでいます。堕落後のアダムとエバに対する神の扱いについて考えてみてください。
勧告と警告(詩篇19篇10節〜13節)
私たちは豊かな人生経験と自分たちによくしてくれる人の助言を尊びます。私たちはその人物に適切な助言を求めます。
質問10 詩篇作者は神の教えと律法の価値をどのように評価していますか。詩篇19:10
詩篇作者は神との正しい関係にまさるものはないと言っています。ここで、マタイ16:24~26に与えられたイエスの勧告を読んでみましょう。永遠に続く人生には価値があります。そのような価値は理解する必要があります。同時に見せかけの価値もあります。そのような価値は無視すべきです。
質問11 神はご自分の民に何と警告しておられますか。詩篇19:11
神は私たちに選択の自由を与えられました。そして、私たちが生命を選ぶように望んでおられます(申命記11:26~28、30:19、20比較)。死を選ぶことは愚かなことです。
質問12 従順な者たちはどんな報いを受けますか。詩篇19:11(同119:165、ピリピ3:20、21比較)
詩篇作者はこの「大いなる報い」を経験していたにちがいありません。なぜなら、彼は律法における神の啓示を非常に高く評価しているからです。神の律法に従うことには罪からの自由、表現しがたい人生の喜びがあるということを、彼は知っていました。その報いは、来世においてはもちろんのこと、今、この世においても、与えられます。
質問13 詩篇作者はどれほど謙虚に神に近づき、隠れたとがから清められるように求めていますか。詩篇19:12(同139:23、24比較)
神の啓示されたみこころについて知れば知るほど、自分の弱さ・欠点がわかってきます。人間は自分の評価に頼るべきではありません。すぐ自分の過ちの言い訳をしてしまうからです。詩篇作者はすべてのとがから清められるように求めています。彼は自分の気づかない罪からさえ清められるように求めています。神が私たちの生活を完全に支配されるときにのみ、完全な安全があります。
罪に勝利する恵み
「人間に与えられた神の恵みの手段によって、だれひとり天国を失う必要はない。完全な品性はそれを求めて努力するすべての人にとって達成可能である。これは福音の新しい契約の基礎そのものである。エホバの律法は木であり、福音はそれが結ぶ香りのよい花、また実である。
神の御霊が人に律法をあますところなく啓示されるとき、人の心に変化が生じる。ダビデは預言者ナタンによって自分の真の状態を示されたことによって、自分自身の罪を知り、それを捨てた。彼は謙虚に勧告を受け入れ、神のみまえにへりくだった[詩篇19:7~14引用]」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻211、212ページ)。
質問14 詩篇作者はほかにどんな罪から清められたいと願っていますか。詩篇19:13、民数記15:30、31、へブル10:26~31
故意の罪とは、うぬぼれの罪のことです。神の勧告を求めないときに、また自分のなすべきことは自分が最もよく知っていると考えるときに、人はこの罪を犯します。宇宙における最初の罪は高慢の罪でした。サタンは神のようになりたいと望みましたが、それは神の品性と愛を望んだのではなく権力を望みました。ものごとを自分の力でできると考えたり、自分の計画は正しいと考えたりすることのないように、つねに注意する必要があります。立ち止まって祈り、信仰の友や先輩と相談することも大切です。
詩篇作者の応答(詩篇19篇14節)
質問15 詩篇作者は自分自身のために何を求めていますか。詩篇19 :14(ピリピ4:8比較)
ヤコブはその手紙のなかで、舌が御しにくい器官であると言っています。しかしそれは抑制されなければなりません(ヤコブ3:2~18参照)。いちど口に出してしまった言葉は取り返すことができません。口に番人を置く必要があります。神だけが舌を制する力を与えることがおできになります。
人間は思いにおいても罪を犯すことがあると、イエスは言われました(マタイ5:28参照)。神がわたしたちの思いを支配されるとき、また私たちが神の力によってすべての悪い思いを捨てるときにのみ、私たちの生活は神に受け入れられるものとなります。
まとめ
神は自然界とみことばの中にご自身を啓示しておられます。神はまた、私たちが神と共に生きるためにしなければならないことを明示しておられます。私たちの応答は詩篇作者のそれと同じでなければなりません。詩篇第19篇を読みその教えをよく理解したいものです。そして、神と共に平和に暮らしたいものです。
第7課 捨てられる苦しみから信仰の勝利へ
第7課 捨てられる苦しみから信仰の勝利へ
私たちのなかにはたぶん、一度ぐらいは捨てられたと感じたことのある人が何人かいるでしょう。今回の課の問題は、神がほんとうに人をお捨てになるのかということです。もしそのようなことがあるとすれば、どのようなときに、どのような理由によってでしょうか。
信頼は失望に勝利する
今回の課の詩篇の中で、詩篇作者は非常に重要な質問をしています一「わが神、なにゆえにわたしを捨てられるのですか」。
イエスも十字架上で激しい苦痛に耐えられたとき同じ質問をしておられます。事実、イエスは詩篇作者と同じことを経験されたのでした。
勝利にみちた信頼
イエスは人間の苦悩の深さを見通しておられましたが、人間の弱さに屈することがありませんでした。彼はたえず神への信仰と信頼を保たれました。死の瞬間が訪れたとき、彼は言われました。—「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)。
同じように、詩篇作者も失望から信仰への道をたどっています。信仰は最後には勝利します。私たちもそのような経験にあずかりたいものです。
捨てられたと感じることの苦痛(詩篇22篇1節、2節)
私たちはみな感情を持っています。これは否定できない事実です。しかし、私たちは真理についての自分の感情によってではなく、真理そのものによって真理を知る必要があります。
質問1 詩篇作者はどのような感情を抱きましたか。詩篇22:1、2
ダビデのどんな経験がこの詩篇の土台になっているのか、聖書の注解者たちにもわかっていません。私たちはこの詩篇のなかにイエスについての、また、十字架上のイエスの経験についての預言を見ることができます。この詩篇を読むとき、イエスを心にとめるべきです。それはまた私たち自身の経験でもあります。私たちが学ぶべき数々の教訓があります。
質問2 つぎの聖句は人々のどんな拒絶感と苦悩について記していますか。
・ヨブ記2:9
・ヨハネ1:11
・ヨハネ6:66、67
・テモテ第Ⅱ・4:10、16
質問3 詩篇作者は明らかに自分が捨てられたと感じました。彼のまわりの人々も彼を拒みました。しかし、彼は、どんな理由から神が自分をお捨てになったのではないと信じましたか。申命記4:31、31:6、ヨシュア記1:5
ときには、神は神を捨てる者をお捨てになることもあります(歴代志下15:2参照)。詩篇作者について言えば、彼は自分が神を捨てたことに気づいていませんでした。それなのに、彼は日夜、神に嘆願していました。自分の祈りがなかなか聞かれないのは、自分が拒絶されているためであると考えることは果たして正しいことでしょうか。
質問4 詩篇22:1はイエスの経験においてどのように成就しましたか。マタイ27:46、50(イザヤ書53:12、へブル9:28、ペテロ第Ⅰ・2:24比較)
「われわれの身代りまた保証人としてキリストの上にわれわれ全部の者の不義がおかれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなわんがために、キリストは、罪人にかぞえられた。アダムの子孫ひとりびとりの不義がキリストの心に重くのしかかった。……しかしいま、自ら負っておられる不義の恐るべき重さで、キリストは、天父のやわらぎのみ顔を見ることがおできにならない。この最高の苦悩の時に神のみ顔が見えなくなったために、救い主の心は、人にはとうていわからない悲しみに刺し通された。この苦悩は、肉体的な苦痛などほとんど感じられないほど大きかった。……
イエスがしのばれたすべてのこと—その頭と手と足から流された血のしたたり、その肉体を苦しめた苦痛、天父のみ顔がかくされたときにその魂を満たした言いようのない苦悩、—それらは人類の子らのひとりびとりに向かって、神のみ子がこの不義の重荷を負うのを承諾されるのはあなたのためであり、死の支配をたちきって、パラダイスの門を開かれるのはあなたのためであると語っている。……罪を負うおかたであるイエスが、神の正義の怒りをしのび、あなたのために罪そのものとなられる」(『各時代の希望』下巻274、275、 278ページ)。
絶望感をいやすもの(詩篇22篇3節~11節)
質問5 絶望感から開放されるに及んで、詩篇作者はどんな信仰を表明していますか。詩篇22:3(同9:11、へブル13:15比較)
詩篇作者は、神が聖なるおかた、イスラエルの民の賛美を受けるにふさわしいおかたであることを悟ります。彼は自分自身と自分の状況に目を向けていたとき、失望しました。生きた信頼関係を保つためには、自分自身から目を離す必要があります。感情は私たちを引きおろしますが、信仰は私たちを引きあげます。
詩篇作者は、神が聖なるおかたであることを悟ります。このことは彼に、自分が神に何か特別な要求をすることができるかを改めて考えさせます。そのとき彼は、神が不平ではなく礼拝と賛美を受けるにふさわしいおかたであることを悟ります。
質問6 上を見たあと、詩篇作者はどの方向に関心を向けていますか。詩篇22:4、5
詩篇作者は自分の民の歴史をふりかえっています。イスラエルの民が神に信頼し、救われたのを見ます。民が祈り、その祈りが答えられたのを知ります。
質問7 神はどのようにご自分の民を導き、助けられましたか。
・出エジプト記3:7、8
・出エジプト記14:13、14
・ヨシュア記24:11~14
歴史の積極的な面を見たとき、詩篇作者は慰めを受けました。彼は神が非常に親しみやすいおかたであることを悟ります。神は率先してご自分の民を助け、捨てられませんでした。
質問8 詩篇作者はふたたび自分に目を向けて、自分をどのようにみなしていますか。詩篇22:6~8
これらの言葉がとくに意義深いのは、それらが特別な意味でイエスにあてはまるという点です。(マルコ15:29、30、マタイ27:39〜43参照)。詩篇作者の言葉のうちに、私たちはイエスの生涯に起きた出来事を見ているのです。イエスは神の御子でしたが、人々からさげすまれ、拒絶されました。
イザヤ書53章にもイエスの苦難についての預言が記されています。つぎの聖句に注目してください。「われわれも彼を尊ばなかった」(3節)。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(4節)。「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられた、われわれの不義のために砕かれたのだ」(5節)。「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(6節)。「その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった」(9節)。
メシヤが苦しみに会うということはユダヤ人にとって、また弟子たちにとってさえ、理解できないことでした。しかし、イエスは彼らの誤解を解かれました(ルカ24:25~27参照)。
質問9 詩篇作者は神に対する信頼をどのように描写していますか。詩篇22:9~11
神に対する私たちの信頼は、子供が両親に頼るのと似ています。詩篇作者によれば、神に対する私たちの信頼は年がいってから始まるものではなく、生まれたそのときから始まるものです。罪の存在は多くの状況をその理想からかけ離れたものに変えましたが、それでも神の愛はいたるところに見られます。
子供にとって自分を守り助けてくれる両親が必要なように、私たちにとってもそのすべての欠乏を満たしてくださる神が必要です。
過酷な環境(詩篇22篇12節~18節)
問10 詩篇作者は苦難に耐えねばならなかった多くの人々の経験をどのように描写していますか。詩篇22:12~18
ここにもイエスのことがはっきりと言われています。とくに16節と18節に注意してください。「わたしの手と足を刺し貫いた」という表現は明らかに、十字架刑に用いられたくぎのことを言っています。「彼らは互にわたしの衣服を分け、私の着物をくじ引にする」という表現は、十字架においてはっきりと成就しました(ヨハネ19:23、24参照)。
分けることのできない衣をくじ引きにするという兵士たちの行為は、彼らがイエスを完全に無視したことを示しています。彼らは自分たちのために十字架の上で犠牲になっておられるかたのことなど全く考えていませんでした。
イエスがご自分の母のために示された関心とヨハネを通して彼女のためになされた助けは、彼らの行為と対照的です。(ヨハネ19:25~27参照)。
私たちがイエスの弟子であるか、この世の追随者であるかは、人人に愛をもって接しているか、無関心な態度で接しているかによってわかります。
質問11 詩篇作者はどんな動物を用いて自分の敵を描写していますか。詩篇22:12、13、16
いろいろな動物を用いることによって、恐ろしい状況がより生き生きしたものになっています。バシャンの強い雄牛はたしかに恐ろしい動物です。飢えて、ほえたけるししは、これまた恐ろしい動物です。鋭い歯をもった犬どもは、今にも詩篇作者に飛びかかろうとしています。中東の犬は決しておとなしい動物ではありません。詩篇作者はただ動物のことだけを考えているのではありません。野獣の特徴をもった敵のことを考えているのです。ペテロ第Ⅰ・5:8には、サタンがほえたけるししとして描かれています。パウロはピリピ人に対して、有害な犬どもに注意するように警告しています(ピリピ3:2)。彼は人間のことを考えていたのです。啓示者ヨハネはエルサレムの外に悪人をさす犬どもを見ています(黙示録22:15)。
質問12 詩篇作者は自分の恐怖をどれほど強烈に描写していますか。詩篇22:14、15、17
特別な意味において、この光景は十字架上のキリストにあてはまります。
このような肉体的苦痛を味わったことのない人はほんとうの恐怖を知らない人かもしれません。人の指が壁に文字を書くのを見たときの、ベルシャザルの反応を思い起こしてください(ダニエル書5:6)。彼が「大声に呼ばわって……占い師らを召してこさせた」のも無理はありません(7節)。
信仰の祈り(詩篇22篇19節〜21節)
質問13 詩篇作者は主に何を求めていますか。詩篇22:20、21
詩篇作者はいのちの安全を嘆願しています。だれにとっても、いのちは最も大切なものです。彼は死に直面しています。彼は周囲を「獣」にとりまかれ、全く無力な状態です。何の希望もないように思われます。そこで、彼はふたたび神に立ち返ります。わたしの魂を救い出してください、と彼は嘆願しています。
イエスはこの詩篇の第1節を引用することによって、それを尊いものとされました。彼はメシヤに起こるべきことを予想することによって、それをメシヤ詩篇として認められました。この光景は十字架の上において再現されました。その深みを完全に理解することはできなくても、私たちは救い主の経験された恐るべき苦悩を想像することができます。救い主は死から逃れようとはされませんでした。それは救いの計画に欠かすことのできないものです。しかし、死のかなたによみがえりがあります。彼がよみがえられたがゆえに、私たちもよみがえります。もはや死には力はなく、墓には勝利はありません。どんな困難な状況においても、私たちは死のかなたに希望を見ることができます。死はもはや義人を引きとめることができないことを知っているからです(コリント第Ⅰ・15:51~58)。
質問14 神に対する確信があったために平静に死に直面した人々をあげてください。
・使徒行伝7:59、60
・テモテ第Ⅱ・4:7、8
完全な信頼の道(詩篇22篇22節〜31)
詩篇第22篇は、神に捨てられたという苦悩と苦痛から神に対する無限の信頼と確信へ、完全に逆転したことを描写しています。イエスは十字架上でたしかに人間としての苦悩をあらわされましたが、失望しておられたのではありませんでした。苦悩のなかにあっても、彼は、確信と希望を持っておられました。イエスの叫びを聞き、この詩篇を理解する者はみな、ただ苦痛だけではなく、神の計画に対するイエスの信仰を認めることでしょう(『各時代の希望』下巻279ページ参照)。
質問15 詩篇作者はだれに神の御名を告げ、どこで神をほめたたえると言っていますか。詩篇22:22
へブル人への手紙の著者は、当時の人々がよく理解できるようにこの聖句の「会衆」という語を「教会」に改めています(へブル2:12)。教会はふつう、礼拝のためにクリスチャンが集まる場所をさします。
キリストは人となり、私たちのうちに住むために来られました(ヨハネ1:14)。神の御子なるキリストは人の子となり、人類家族の一員となられました。彼は私たちを兄弟、つまり同じ家族の一員と呼ぶことを恥とされません(へブル2:11)。彼はすべての人のために死を味わわれるために来られました(9節)。彼は死の恐怖と孤独を知っておられました。私たちが経験することでキリストが経験されなかったことは何ひとつありません(へブル5:7~9)。彼は私たちの弱さを知っておられるゆえ、今、完全な大祭司であられるのです(10節)。彼ご自身、試練に会われたゆえに、試練のうちにある私たちの思いを理解することがおできになるのです(へブル2:18)。
質問16 詩篇作者は神の民に対して、どんなことのゆえに主をほめたたえるように勧めていますか。詩篇22:23、24
神は心から神を求める者を決してお捨てになることはないと、詩篇作者はあかししています。あわれみと思いやりに満ちた神は、私たちをお捨てになるはずがありません。人間的な弱さのゆえに、私たちはときには孤独になったり、自分の敵や妨害者を過度に意識したりすることがあるかもしれません。しかし、神が私たちとご自分の民を困難な状況にあっていかに導いてくださったかを信仰によって理解するとき、私たちの魂は勇気づけられ、絶望から守られます。
質問17 どれだけ多くの人が神の慈愛を認めて、神をほめたたえるようになりますか。詩篇22:25~31
人類が二つのグループ、つまり神をあがめ神に仕える者たちと神にそむきその報いを刈り取る者たちとに分けられるときが、予想以上に早く来ることでしょう。今日、私たちはどちらのグループに入るかを決定しつつあるのです。
まとめ
詩篇作者は神に捨てられたように感じ、非常に孤独でした。しかし、彼は神が信頼と賛美に価するおかたであることを認めました。神が各時代のご自分の民をどのように導かれたかを知ったからです。彼は敵にかこまれ、いのちを奪われる恐怖を感じていました。詩篇作者は知らないで、キリストについて預言していたのです。キリストは歓迎されることを期待して、ご自分の民のところに来られたのに、民は彼をメシヤとして認めませんでした。
第8課 主はわが牧者
第8課 主はわが牧者
主は、人生のさまざまな経験をとおして、ご自分に忠実な者たちを優しく導き、支え、彼らが死に直面するときに励まし、彼らのために永遠の平和と喜びを備えてくださいます。
羊飼いと羊
羊飼いの少年であったダビデは、羊飼いと羊との親密な関係を決して忘れませんでした。羊飼いは羊を世話し、守りました。羊は安心して羊飼いに従いました。羊が道に迷ったときには、羊飼いがそれを捜して連れ帰りました。ダビデは成長するにつれて、神と神の民との関係が羊飼いと羊との関係に似ていることをよりはっきりと悟りました。今回の課は、この関係に含まれる意味について考えます。
詩篇第23篇はすべてのクリスチャンに愛されている詩篇です。それは多くの詩人・画家、音楽家・賛美歌作者、裕福な者。貧しい者、田舎の人・都会人、若者・老人に霊感を与えてきました。なぜ人々にそれほど好まれるのでしょうか。
羊飼いとして描かれている主は親切で、現実的なおかたです。私たちはみな、私たちのめんどうを見、私たちの必要を知っているだけでなく、喜んでその必要を満たしてくださるおかたを求めています。あなたは主を自分の羊飼いとみなしているでしょうか。
羊飼いとその心づかい(詩篇23篇1節)
すべての羊飼いが心から羊の世話をするわけではありません。羊飼いのなかには単なる雇われ羊飼いもいると、イエスは言われました。
質問1 良い羊飼いは雇われた羊飼いとどこが違いますか。ヨハネ10:11~14
雇われた羊飼いは仕事や羊よりも賃金のほうに関心があります。彼にとって、羊は目的のための手段でしかありません。羊飼いと羊とのあいだには、何ら個人的な関係がありません。
これとは対照的に、良い羊飼いは羊を愛し、心にかけているので、一匹の羊をそこなうよりも死を選びます。このような羊飼いのもとにある羊にとっては、恐れるものは何もなく、必要なものはすべて与えられます。そのうえ、羊と羊飼いとのあいだには個人的な関係があります。
人間が有意義な人生を送るためには愛の関係が必要です。一度も抱かれたことも愛されたこともない赤子は正常に発育しないかもしれません。
イエスは自分の羊を知り、彼の羊もイエスを知り、その声を聞き分けます(ヨハネ10:14)。このような個人的関係が、ここで述べられているのです。
私たちのためのイエスの心づかい
「イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいるひとりひとりの名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の一匹をさがしなさいと命じられた」(『各時代の希望』中巻278ページ)。
質問2 神を自分の牧者とするとき、どういった体験をしますか。詩篇23:1
彼の必要はすべて満たされる
もし私たちがまず神の国と神の義とを求めるなら、ほかのものはすべて必要に応じて与えられます(マタイ6:31~33参照)。詩篇37:25における詩篇記者のあかしに注目してください。あなたも神がその恵みのゆえにすべての必要を満たしてくださったことをあかしできるでしょう。
必要と欲望とは異なります。人間の必要は単純ですが、欲望には際限がありません。
人間の欲望は貧欲というかたちで現れることがあります。パウロはこの点に関してテモテに有益な勧告を与えています(テモテ第Ⅰ・6:6~10参照)。「自分の持っているもので満足しているなら、宗教は人を非常に豊かにします」(6節、英語現代訳)。
恐れと欲望の奴隷「どの時代にも、哲学者たちと教師たちは、魂の必要を満足させるための学説を世に示してきた。……彼らの働きの傾向は、創造とあがないによって神ご自身のものであるところのものを、神から奪うことである。このような偽りの教師たちは人からもまた盗んでいる。幾百万の人間が偽りの宗教の下にあって、奴隷的な恐れとにぶい無関心という束縛につながれ、この世における望みもよろこびも抱負も奪われて、ただ来世についての重苦しい恐れを抱きながら、荷物を背負わされた動物のようにほねおっている」(『各時代の希望』中巻275ページ)。
質問3 主はどんな特別な方法でご自分の民のために羊飼いとしての働きをされますか。イザヤ書40:11、ヨハネ10:2~4、11
比較的豊かな平安と満足に満ちた人生(詩篇23篇2節、3節)
クリスチャンのなかにもときどき相当な苦難に会う人々がいます。しかし、罪人の道はさらに苦難に満ちています(箴言13:15参照)。
質問4 牧者であるおかたはご自分の羊をどのような経験に導かれますか。詩篇23:2
あなたはときには座って、気分転換のために休みたいと思ったことがありませんか。責任という重荷をおろして、しばらく休みたいと思ったことがありませんか。イエスは休息の重要性を認めておられました(マルコ6:30、31)。彼はいつでも肉体的な休息を得られたわけではありません(32~34節)。彼は羊飼いのいない羊のような人々に対して深い関心を示されました。
私たちはときとして義務という圧力に押しつぶされそうになります。しかも、十分な休息が得られません。しかし、ありがたいことに、神は恵みによって、ストレス(緊張)に満ちた多忙な毎日を送っている私たちに安息と平安に満ちた心を与えてくださいます。
質問5 神は休息のためにどんな機会を備えてくださっていますか。マタイ11:28~30
休息は肉体的必要のためだけではない
「われわれが背負っている一番重い重荷は罪の重荷である。もしわれわれがこの重荷を負うままにされていたら、それはわれわれをおしつぶしてしまうだろう。しかし罪のないおかたがわれわれの身代りになられた。……主はわれわれの不義の重荷を負われた。主はわれわれの疲れた肩から荷物をとられる。主はわれわれに休みを与えられる。また心配や悲しみの重荷も主は負ってくださる。心配ごとは全部わたしにまかせなさいと主は招いておられる。なぜなら主はわれわれのことを心にとめておられるからである」(『各時代の希望』中巻48ページ)。
週ごとの安息日の休みもある
安息日は日ごとの思いわずらいを一切捨てて、神のみことばによって憩うときです。私たちは十分にこの機会を活用しているでしょうか。
質問6 「主がわたしを……いこいのみぎわに伴われる」とは、どういうことを意味していますか(詩篇23:2)。イザヤ書55:
乾燥した 不毛の地方に住んでいる人たちは、渇きをいやすこと、熱くなった額に冷たい水をかけることがどんなことかをよく知っています。これほど生気を与えてくれるものはありません。
イエスは渇きがどういうことであるかご存知です。(ヨハネ4:5~26参照)。すでに学んだように、神だけがお与えになる水があります。しかも、神はそれを受け入れる者にただで与えてくださいます。
生ける水
「かわききった荒野にわき出て、荒れ果てた地に花を咲かせ、死にかけたものに生命を与えるために流れ出た新鮮な水は、キリストだけが与え得る神の恵みの象徴である。これは、命の水のように魂をきよめ、生きかえらせ、力づける。キリストが内住しておられる者のうちには、つきない恵みと力の泉がある」(『人類のあけぼの』下巻10ページ)。
むちとつえの慰め(詩篇23篇4節)
むちはしばしば訓練の象徴とみなされます(蔵言10:13、13:24参照)。エリはその子らに教えましたが、訓練することに失敗しました(サムエル記上2:22~25、3:11~13参照)。へブル人への手紙のなかで、使徒は正しい訓練の重要性について教えています(へブル12:11参照)。私たちは親として、また教師としての責任を忠実に果たしているでしょうか。
質問7 詩篇23:4に言われているむちは、どんな役目をしますか。
牧者の守り
むちは羊を守ります。詩篇作者は羊を守ることがどういうことかをよく知っていました(サムエル記上17:34~37参照)。羊も、ししや熊の口から守られることがどういうことかをよく知っていました。ほえたけるししが私たちを食いつくそうとしています。しかし、神の守りさえあれば、私たちは恐れる必要はありません(ペテロ第Ⅰ・5:8~11参照)。
牧者の導き
羊飼いのつえは羊をつかまえて、導く道具です。それはひつじを前に進ませたり、早すぎる羊や真っすぐに歩かない羊の首にひっかけて列に戻したりするときに用いられました。
羊はときどき道に迷ったりするが、迷ったことが囲いに入れて数を調べるときまでわからないことがあります。残りの99匹が囲いにいるからといって、いなくなった1匹の羊はそのままにされるでしょうか。神は決してひとりも滅びることをお望みになりません(マタイ18:11~14参照)。
牧者の慰め
羊を守り、導くためのむちは、良い羊飼いイエスが「死の陰の谷」を歩む者にお与えになる慰めを象徴しています。キリストが私たちと共におられるということは、何と心強いことでしょう。彼ご自身、この谷を通り、今も生きておられるゆえに、私たちは永遠に彼とともに生きるという輝かしい確信が与えられるのです(黙示録1:18、ヨハネ11:25参照)。
あふれる恵み(詩篇23篇5節)
質問8 詩篇作者は主からどんな接待を受けていますか。詩篇23:5
宴を設け
神ご自身が宴を設けてくださいます。ここに最高の謙そんが示されています。ここには、主に仕えるしもべではなく、しもべに仕える主が示されています。天国に入りたいと思うなら、自分を捨てて、幼子のように謙そんにならなければならないと、イエスは教えられました(マタイ18:1~4参照)。
イエスは自ら、最後の晩さんのときにその模範を示されました。彼は、「手ぬぐいをとって腰に巻き……弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた」のです(ヨハネ13:4、 5)。そこにいた弟子たちの驚きが想像できますか。「弟子たちはそれぞれ誇りを傷つけられたという思いに負けて、だれもしもべの役割を果たすまいと決心していた。みんなは平然とした無関心さをよそおい、自分たちがすることがあることに気がつかないふりをしていた。沈黙することによって、彼らは自分を低くすることをこばんだ」(『各時代の希望』下巻118ページ)。
「わたしの敵の前で」
羊飼いが羊のために安全な牧草地を備えてくれるように、神は詩篇作者のためにその主人となって、敵の前でさえ特別な恵みを施してくださいました。背後には敵がいて、詩篇作者に神の恵みを受ける資格がないと非難します。それでも、神は彼に恵みを与えておられます。神はどんなときでも敵に同意されません。神は独自に、正義をもって裁かれます。私たちを恨んだり、卑しめたりする者たちは必ずしも勝利するとは限りません(コリント第Ⅱ・2:14参照)。
質問9 詩篇作者はさらにどんな恵みを受けていますか。詩篇23:5
客が到着したときに、あるいは彼が食事をしているときに、その頭に油をそそぐことは、キリストの時代の、またそれ以前の時代の習慣でした(ルカ7:46参照)。人に油をそそぐことは、その人が特別な働きのために分かたれた尊い人であることを示していました。詩篇作者は、神が特別に自分を尊んでくださっていると感じていました。彼は自分にそのような価値がないと思ったかもしれませんが、心から感謝しています。
あふれる杯は気前のよさを象徴しています。神は惜しみない祝福を私たちに注いでくださいます。おし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに(ルカ6:38)。
信仰の応答(詩篇23篇6節)
質問10 詩篇作者は生涯にわたって、何がともなうと言っていますか。詩篇23:6
恵みは神の属性の一つであって、最高の意味で神だけがお持ちになるものです。神の創造されるものはすべて良い(創世記1:4、10、12、21、25参照)。事実、被造物はすべて「はなはだ良かった」とあります(31節)。
哲学者は長いあいだ最高に良いものを求めてきました。しかし、聖書によれば、良いおかたは神だけであって、神はあらゆる良いもののみなもとです(マタイ19:17参照)。イエスは良い働きをしながら巡回されました(使徒行伝10:38参照)。彼の品性は完全で、かつ善なので、その生涯は人々の祝福となったのです。
預言者ミカは、神のまえに何がよい事であるか、また神の求められる生き方がどのようなものであるかを明らかにしています。ミカ書6:8には、三つのよいことの要素があげられています。すなわち、(1)公義を行ない、(2)いつくしみを愛し、(3)へりくだって神と共に歩むことです。
質問11 詩篇作者はどこに住みたいと言っていますか。詩篇23:6、黙示録21:3、4
詩篇作者は、この世においてだけでなく来世においても神の家族の一員でありたいと言っています。彼にとっての家庭とは、自分が家族と共に住むところであるだけでなく、神のおられるところです。
神はどこでもおられるゆえに、詩篇作者は神と天使たちが喜んで共にいてくださるような生き方を望んでいます。神を私たちの家庭のかしらとして、つねに神とともに住むことができることは本当にさいわいなことです。私たちと神との関係は、羊飼いと羊の関係であるばかりではありません。それはまた、必要なときにはいつでも同情と理解、罪に対する勝利の力を求めて頼ることのできる天の父なる神との関係です。
まとめ
神はしばしば、「遠くにいる」存在として考えられています。しかし、この詩篇において、作者は神が「近くにいる」おかたであって、私たちのあらゆる必要に積極的にこたえてくださるという考えを示しています。私たちには敵がいるかもしれませんが、もし神が味方ならば、だれが私たちに打ち勝つことができるでしょうか。神が近くにいて、あらゆる困難から私たちを助けてくださるとすれば、私たちには恐れるものはなに一つありません。
第9課 成功の秘訣
第9課 成功の秘訣
神に献身するとき、私たちはしばしば敵の攻撃に会います。しかし、そのようなときでも、もし主に信頼するなら、主は私たちを守り、養い、擁護してくださいます。
主を待ち望め
詩篇27:14に「主を待ち望め」という表現があります。彼が私たちに求めていることは、主の導きを求めることであって、正しいことをしているという確信のないままに勝手に先に進むことではありません。これはすぐれた助言であって、人生における真の成功の基礎です。
詩篇作者は導きの必要を感じていました。しかも、それがどこにあるかも知っていました。私たちもこの詩篇の研究を通して導きを見い出し、神のみこころにかなった生き方をしたいものです。
確信に満ちた語調
詩篇第27篇は多くの人に愛されてきました。それは、人生のいかなる状況にあっても私たちを失望させるものはないという確信で満ちています。それはまた、反対と拒絶のなかにあって神は私たちを守ってくださるという保証を与えてくれます。さらに、人生の諸問題に直面するときにも、主を待ち望み、主の導きを受けることによって、私たちには勇気が与えられるということを教えています。
勇気のみなもと(詩篇27篇1節~3節)
質問1 どんな三つのことがらが危機に際して詩篇作者に勇気を与えていますか。詩篇27:1
主
この御名はヘブル語の4文字で書かれており、英語でヤーウェと音訳されています(出エジプト記3:13~15比較)。それは、「存在する」という動詞から派生していて、「存在たらしめる者」を意味します。このように、神の御名は始まりも終わりもない創造主としての神を表します。
光
詩篇作者は主が彼の光であると断言しています。言い換えるなら、主がいなければ詩篇作者はやみのうちにいるということです。彼には、自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか、敵がだれなのかがわかりません。しかし、光のうちにいるなら、必要な予防策を講じることができます。
神は光であって、近づきがたい光の中に住んでおられます(テモテ第Ⅰ・6:6参照)。光は物理的なものだけではありません。イエスは世の光です。(ヨハネ8:12、9:5参照)彼は私たちに神と神の計画についての啓示を与えておられます(ヨハネ1:4参照)。私たちは神の慈愛の光を反映すべきです(マタイ5:14~16参照)。
救い
詩篇作者にとって、主は悩みから救い出してくださったおかたです。神は全能で、完全に救うことがおできになります(へブル7:25比較)。どんな状況にあっても詩篇作者に勇気を与えるのは、神との親密な関係です。彼はどんな悪をも恐れません。
命のとりで
私たちは弱く、できないことがたくさんあります。しかし、神は強く、できないことは何もありません。詩篇作者はどのようにして、神が力あるおかたであることを知ったのでしょうか。彼は自分の民の歴史のなかにそのことを読みました(申命記4:32~37参照)。また、この力が自分自身の生活に働いているのを見ました。さらに、彼には、神の約束が与えられていました。
質問2 詩篇作者はどんな経験を通して神についての確信が与えられましたか。詩篇27:2
この聖句は「彼ら」を強調しています。つまずき、倒れたのは彼ら、つまり敵の方でした。詩篇作者は固く立つことができました。
質問3 詩篇作者はどの程度、神の救いを確信していましたか。詩篇27:3
彼は圧倒的に優勢な敵の大軍に、一人で、あるいは少人数で対抗しなければなりませんでした。しかし、彼は恐れませんでした。なぜなら、神が自分の側におられるなら、多数をしめることになるからでした。相手がいかに多くても、神は勝利されます。
価値ある目標(詩篇27篇4節)
詩篇作者は光、救い、勝利の神を信じることの特権を感謝すると同時に、さらにほかの何かを求めています。
質問4 詩篇作者の心からの願いは何でしたか。詩篇27:4
私たちはすでに、詩篇作者が神の家族の一員になることを望んでいることについて学びました(詩篇23:6参照)。神の家に住むこと、神に直接、お会いすること、ほかの家族と交わること、神が自分の父であり自分が神の子であることを知ることは、彼にとってこの上ない喜びでした。
聖書によれば、救いはただ恵みによるものであり(エペソ2:8~10)、悔い改めは神の賜物であり(ローマ2:4)、父なる神がひきよせてくださらないかぎりだれも主のもとに来ることはできません(ヨハネ6:44)。次にあげる項目の中で、神の家族の一員となるうえで必要と思うものを重要な順に1~10の番号をつけてください。
___罪を悔い改める
___罪がゆるされる
___神との交わりを楽しむ
___毎日、聖書を読む
___神の民と交わる
___回心する
___神の律法を知る
___完全な者となる
___たえず祈る
___あらゆることにおいて神を喜ばす
質問5 詩篇作者は主の家に住んで、どんな二つのことをしたいと言っていますか。詩篇27:4
「主のうるわしきを見」
ここで言われている「うるわしき」をさすヘブル語は、外見以上のものを意味します。神は恵み深く、親切で、同情と愛、思いやりと助けに満ちています。これらの特徴はみな、パレスチナの道を歩まれたイエスうちに現されていました。詩篇作者は神の慈愛を瞑想し、その力を自ら体験したいと望みました。
「その宮で尋ねきわめる」
詩篇作者は自分にも理解できない経験をしていました。彼はその原因と理由についてたずね、理解したいと思いました。たぶん、彼は次になすべきことを知りたいと思ったことでしょう。彼は神に自分を導いてくださるように求めました(黙示録7:15~17比較)。
のがれと勝利の場所(詩篇27篇5節、6節)
神の住んでおられる場所が喜びと祝福の場所であるばかりでなく、安全な場所でもあることを、詩篇作者は知っていました。
質問6 詩篇作者は悩みのときにどこにのがれたいと望んでいましたか。詩篇27:5
中世においては、教会はいつでも開放されていて、人々が生命の危険を感じたとき、教会に逃げ込んで、祭壇のもとに隠れることができました。この特権は、必ず守られたわけではありませんが、それでも広く認められていました。
この慣習は聖書にもとづいていました(列王記上1:50〜53参照)。それは過って罪を犯した者を保護するための方法でした。しかし、計画的に罪を犯した者はこの方法によってさばきを逃れることができませんでした。(列王紀上2:28~31比較)。古代イスラエルには、復譽される危険を感じた者たちを保護するために設けられた、のがれの町がありました(民数記35:9~34)。それらが実際にどれほど役に立ったかはわかりませんが、主がそれらを保護の手段とされたことは確かです。
神がご自分の仮屋に潜ませてくださるときにのみ、詩篇作者は安全でした。人間が考え出した守りの手段がすべて、あまり心地よく、有効なものでなかったことは、歴史の証明するところです。私たちは神の御手にあるときにのみ安全です。
質問7 神が隠し、その生命を守るほかに、どんなことをしてくださると、詩篇作者は言っていますか。詩篇27:5
人を岩の上に置くとは、彼を堅固な土台の上に置いて動かされないようにするということです。しっかりした土台の上に立たせて、倒れることがないようにするということです。この表現のうちに、私たちを守ってくださる神の姿、さらにしっかりした土台によって守ってくださる神の姿が示されています。神は私たちを守り、擁護してくださるのです。
終末の時代に生きている私たちは、かつてなかったような大いなる悩みのときに直面することを知っています(ダニエル書12:1参照)。しかし、もし私たちの名が「いのちの書」に記されているなら、恐れることは何もありません(黙示録3:5—ルカ10:20比較)。
「彼が来られるのを忍耐して待つ者たち、その名がいのちの書に記されている者たちの救出は、実に輝かしいものとなる」(『各時代の大争闘』下巻411ページ)。
質問8 恵み深い神は自分のために、さらに何をしてくださると言っていますか。詩篇27:6
神が自分のためにしてくださったことについて考えたとき、詩篇作者の心は喜びであふれました。彼はもはや、ゆえなく敵の攻撃にさらされることもなくなりました。敵とは、昔も今も、サタンとその手下ども、また善と真理に逆らう者たちのことです。彼には何の悪意もありませんでした。しかし、悪意を持つ者たちの企てはことごとく失敗します。
聖徒の叫び(詩篇27篇7節~10節)
神に嘆願しなければならないと感じるときがあるものです。その大いなる必要強い願望のゆえに、私たちの叫びは神にとどきます。
質問9 詩篇作者は、熱烈な要求をどのように表していますか。詩篇27:7
私たちはひとりで、大きな声で祈るときがあります。神にきいてもらいたいという思いが強いために、思わず声が大きくなるのです。これはごく自然な行為です。おもしろいことに、詩篇作者のような信人深い人でも同じように大きな声で祈っています。神はありのままの私たちを受け入れてくださいます。たとえ不必要なことをしたとしても、神は私たちの熱心さのゆえにそれを受け入れて下さるのです。
「わたしをあわれみ」
詩篇作者は神に対して何も要求する権利がありませんでした。もし神が答えてくださるなら、それは神のあわれみのゆえなのです。ありがたいことに、神はあわれみ深く、恵み深いおかたなので、私たちに全くその価値がなくても、私たちの祈りに耳を傾け、それに答えてくださいます。
質問10 詩篇作者は神の要求にどのように応じていますか。詩篇27:8(ルカ11:9~13比較)
神の御顔をたずね求めるとは、悔い改めと服従をもって神に帰るということです。私たちの救われることを望まれる神は、私たちすべての者が神に帰ることを求めておられます(ペテロ第Ⅱ・3:9)。なぜなら、神は唯一の救いのみなもとであられるからです。
質問11 詩篇作者はどんな恐れを持っていましたか。詩篇27:9
失敗し、見捨てられるという思いほど恐ろしいことはありません。そのような悪夢にうなされ、絶望のうちに目覚めた経験があるかもしれません。人間は助けの必要を感じないほどに成長することは決してありません。詩篇作者は、神が信頼できる唯一の助けであることを知っていました。
詩篇作者は神を「わが救いの神」と呼んでいます。彼は神との個人的な関係を楽しんでいました。私たちの場合はどうでしょうか。もしそうでないなら、それはなぜでしょうか。どうしたらこのような個人的な関係を養うことができるでしょうか。
質問12 詩篇作者はどんな考えによって自分の心を勇気づけましたか。詩篇27:10
彼が切実な必要を表現したすぐあとに神に対する強い信仰と信頼を表明していることに注目してください。たとえ父や母が見捨てたとしても、神は助けてくださることを、彼は知っていました。私たちは信仰をもって疑いに、信頼をもって恐れに、確信をもって不安に対処する習慣を養うべきです。人間的な側面を否定する必要はありませんが、それに屈する必要もありません。神に満たすことのできないものは何もありません(ピリピ4:19参照)。
成功の秘訣(詩篇27篇11節〜14節)
質問13 詩篇作者は主に何を求めていますか。詩篇27:11
詩篇作者は教えられ、導かれる必要を認めていました。私たちの多くは自信に満ちています。自分には何が足りないか、またどうすれば目標に到達することができるかを知っているつもりでいます。より強い者に導きを求めることは未熟者のすることだと思っています。しかし、自分の弱さを認めること、それを考盧することは円熟していることのしるしなのです。
質問14 詩篇作者は神の慈愛と対照的どんなことを、この世に見ましたか。詩篇27:12、13
心から信頼できる人は少ないと感じたことはありませんか。知人は多くいても、友人は少ないものです。外見や言葉が誤解されて、非難されることのないように、いつも用心していなければならない、と思ったりします。教会においてさえそうです。しかし、詩篇作者の言葉は私たちに慰めを与えてくれます。彼は、自分が敵の手中にではなく、敵を支配することがおできになる救い主の手中にあることを知っていました。だから私たちは楽天的になることができます。
質問15 詩篇作者はどんなすばらしい勧告をもってその詩篇を結んでいますか。詩篇27:14
序言にある「主を待ち望め」という言葉についての説明をもういちど見てください。それは「待つ」(新英語聖書)、「信頼する」(現代英語訳)とも訳されています。その根底には神を待望する、神に信頼するという思想があります。私たちはいつでも神に導きと助けを求める必要があります(ホセア書12:6参照)。神を待つことは神に主導権をとっていただくことです。私たちのとるべき道を示していただくことです。待つことは相当な自制を要求しますが、主により頼み、主の導きに従うことは成功の秘訣です(使徒行伝1:4、5、7比較)。
まとめ
詩篇第27篇はグビデの詩篇です。それは敵に対する恐れと同時に、神に対する信頼について記しています。自分の敵を認めることは弱さのしるしではなく、強さのしるしです。彼はどのようにして確信をもって疑いに対処し、信頼をもって恐れに対処すべきかを教えています。
第10課 ゆるしの喜び
第10課 ゆるしの喜び 〜なぜ罪を告白するのか
神のゆるしには救いと清めの祝福が含まれるので、私たちの霊的問題に対する最も合理的な解決法は自分の罪を告白することです。そのとき、私たちは神の愛と導きの約束を求めることができます。
罪とゆるし
詩篇の作者であるダビデは、罪がどのようなものであるかを知っていました。彼の犯した罪—姦淫と計画的殺人—は、「はなはだしい」罪ともいえるものでした(サムエル記下11:2~5、14、15参照)。もしダビデが今日、私たちの教会にいたとしたら、私たちは彼を教会員として認めるでしょうか。
ダビデはまた、ゆるされた罪の喜びを知っていました。自分で破った関係を神が回復してくださったことも知っていました。彼は神の備えてくださった新しい関係にあずかりました。神はゆるしと忘却の道を備えておられます。私たちも自分に対して罪を犯した人に同じようにできるでしょうか。
罪とは何か
今回の課は、罪とは何か、また罪が私たちにどういう結果をもたらすかについて学びます。さらに、神がどのようにして破られた関係を回復してくださったかについて学びます。私たちは詩篇作者の体験を通して、罪がもたらす苦しみ、罪を捨てる必要、それにゆるしの喜びについて学ぶことができます。
今回の課の詩篇はしばしば悔い改めの詩篇と呼ばれますが、それはまた感謝の詩篇でもあります。冒頭の「さいわいである」という言葉は、幸福な経験、またそれに対する感謝の気持ちを示唆しています。しかし、その背後には喜びとかけはなれた状況があったことを忘れてはなりません。
ゆるしの祝福(詩篇32篇1節、2節)
質問1 どんなときに祝福にあずかることができますか。詩篇32:1、2
この祝福の背景には、すべての人が罪を犯し、ゆるしを必要としているという事実があります。パウロはこのことについて次のように言っています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)。認めようが認めまいが、私たちはみな罪人です(ヨハネ第Ⅰ・1:8参照)。
質問2 詩篇作者はどんな三つの言葉をもって罪を描写していますか。詩篇32:1、2
1節には「とが」、「罪」という言葉が、2節には「不義」という言葉が用いられています。へブル語聖書に用いられているこれらの言葉には、意味上、微妙な違いがありますが、基本的には同じ含みを持ち、したがって同じ状況を表現しています。
「とが」は、故意に律法を破ること、律法を無視することで、反逆に相当します(ヨハネ第Ⅰ・3:4比較)。「罪」は、「的をはずす」ことです。それは神の示された道と異なった道を歩むことです。神に対して、「私は自分自身の道を行く」と言うことです。
「不義」は、神を無視すること、神の存在を否定すること、神がいないかのように生きることです。
これらの言葉はみな失われた状態、神から離れようとする態度を描写していますが、同時に悪事に対する罪悪感も表しています。悔い改めていない罪人は自分の生き方に不安を感じていますが、その解決法を知りません。彼らは何が正しいことかを知っていますが、あえてそうすることを拒みます。彼らは将来のさばきの日を恐れますが、何とかそれを忘れようとします。
質問3 詩篇作者はどんな三つの言葉をもって罪の重荷からの解放を描写していますか。詩篇32:1、2
罪が負わされないとき、義が負わされる
不義が負わされたのは、罪人がゆるされていなかったためです。なぜなら、「偽り」が彼の霊に残っていたからです。不義が負わされなかったのは、罪がゆるされていたばかりでなく、きよめられていたからです。なぜなら、彼の霊に「偽り」がなかったからです。パウロはこの聖句を引用して、不義が負わせられないとき、義が負わせられると結論づけています。なぜなら、ゆるされた人には偽りや罪がないからです(ローマ4:5~8参照)。罪が負わされないで義が負わされることは、告白する罪人が生まれ変わったことに対する神の承認のしるしです。
神はすべての人をゆるそうと望まれる
神はゆるしのみなもとです。神は罪を犯される対象であり、その恵みによって罪を取り除くおかたであり、私たちを罪の結果から解放するおかたです。神はゆるしの神です(出エジプト記34:7参照)。このことは、神がだれでもおゆるしになるという意味ではありません。神は自分の罪に執着する者をおゆるしになりません。なぜなら、彼らはゆるしの範囲外に身を置いているからです。
罪の苦痛と力(詩篇32篇3節、4節)
私たちはしばしば、酒、タバコ、ダンス・パーティー、不道徳、不正行為、うそ、悪口などが楽しいことであるかのように思ったりします。しかし、遅かれ早かれ、神の戒めを破ることが苦痛と悲哀をもたらすだけであることに気づきます。
質問4 ダビデは自分の罪を隠していたとき、どんな苦しみを味わいましたか。詩篇32:3
ダビデが自分の罪を言い表さなかったことには、いくつかの理由が考えられます。以下のなかでどれが妥当であるか考えてみてください。
・自分にその罪の責任があるという確信がなかった。自分には弁解の余地が十分にあると思った。
・今回にかぎり、神が自分の失敗を大目に見てくださると考えた。
・信心深い人間であるという自分の評判を傷つけられたくなかった。
・自分の罪のことが知れたら、影響力が失われると考えた。
・彼は高慢だったので自分の罪を認めなかった。
・一部の「善良な」人たちでさえ同じことをしていると考えた。
質問5 彼が日夜、苦しみうめいたのはなぜだと思いますか。詩篇32:3、4
いくら安らぎを求めてもどうしても得られなかったという経験がありませんか。心配や不安があると、一晩中、眠れないものです。休息が得られないと、ますます神経質になり、いらいらします。
告白の合理性(詩篇32篇5節~7節)
罪の恐ろしい点は、一度その鉄の手で人をつかんだら、なかなか離さないということです。イエスはヨハネ8:34でこのことを教えておられます。神だけが私たちを罪深い自我から救うことがおできになります(ローマ7:24~8:4参照)。
質問6 詩篇作者はどのようにして罪のゆるしを求めましたか。詩篇32:5
詩篇作者は神のまえに悔い改めて、告白する決心をしました。これは容易なことではありませんでした。それは彼の誇りを傷つけました。なぜなら、彼は自分が考えていたほど強い人間ではないことを認めなければならなかったからです。彼は謙そんにへりくだらなければなりませんでした。今日の多くの人々と同じく、彼はたぶん謙そんが弱さであると考えたことでしょう。「唯一の偉大さは謙遜の偉大さである。唯一の卓越は他人への奉仕に献身することである」(『各時代の希望』下巻126ページ)。
詩篇作者は神に告白した
彼は神に対して心の底から、全的に悔い改めました。もしだれかを傷つけたのなら、その人のところに行って償いをすべきです(マタイ18:15~17参照)。しかし、そのとき自分の汚れた着物を見せるだけではあまり意味がありません。私たちが神に対して罪を犯すとき、私たちは神のもとに行って、ゆるしを求めなければなりません。
質問7 詩篇作者の告白はどんな結果をもたらしましたか。詩篇32:5
聖書の約束は明白です(ヨハネ第Ⅰ・1:9)。告白するときに私たちの罪がゆるされるのは、神の誠実さと正義のゆえです。神の恵みには限度がありません。神のゆるしの行為はまた、あらゆる不義からのきよめを含みます。「キリストのおゆるしになる方法でゆるされるということは、ただゆるされることだけではなく、私たちの心そのものが新しくされるということである。……キリストのかたちが頭と心と魂に押されなければならない」(エレン.G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1890年8月19日)。
自分のあらゆる欠点を知っていなければ、それを告白することはできません。しかし、私たちの信仰と信頼を知っておられる神は、完全にきよめられたいという私たちの切なる願いのゆえに、すすんで私たちをご自身に和解させてくださるのです。私たちはこの驚くべき恵みに対して永遠に感謝することでしょう。
さらに、私たちにはヨハネ6:37に救い主ご自身の約束が与えられています。ある詩人はこう言いました。「最も弱い聖徒がひざまずいて祈るのを見ると、サタンはふるえる」。
ピーター・C・クレイギは詩篇第32篇を解説して次のように述べています。「告白はダムの水門を開くようなものである。告白しないと、水はダムの後方にたまり、壁に計り知れない圧力を加えるが、水門が開かれるや否や、水は流れて、圧力はなくなってしまう」(『ワード聖書注解』第19巻267ページ)。
質問8 詩篇作者は自分の経験から信仰者に対してどんな勧告を与えていますか。詩篇32:6
神は慈愛と恵みに満ちたおかたです。神は私たちの人生に最も必要なものを与えようとしておられます。それは救いであり、神との正しい関係の回復です。神にお会いできるうちに、あわれみを受けるのが遅くならないうちに、今すぐに、私たちは神のもとに行かなければなりません。10人のおとめのたとえ(マタイ25:1~13)がこのことをはっきりと教えています。
質問9 神を敬う者にはどんな特権が約束されていますか。詩篇32:6
大雨が降ると、川はしばしばはんらんします。ヨルダン川もそうでした(ヨシュア記3:15、4:18参照)。ナイル川のはんらんはエジプトの地を肥沃にしました。しかし、手におえない水はその損害のゆえに破滅の象徴でした。たとえば、ノアの時代の大洪水がそうです。神を敬う者はつねに神によって守られると、詩篇作者は言っています。
質問10 詩篇作者は神に対するその信頼をどのように表現していますか。詩篇32:7
神の約束—私たちの悩みの解決法(詩篇32篇8節、9節)
質問11 神は私たちのために何を約束しておられますか。詩篇32:8
あるクラスの生徒であることと個人的な教えを受けることとは全く別のことです。主は悔い改めた罪人に対して人生の諸問題における特別な導きを約束しておられます。神に忠実であるかぎり、神は私たちに必要な導きを与えてくださいます。危険なのは、神が私たちを離れることでなく、私たちが神を離れることです(詩篇48:14、73:24、イザヤ書30:21、42:16比較)。
質問12 どんな警告が与えられていますか。詩篇32:9
神のかたちに造られた人間は、力で支配される動物の水準に堕落するようなことがあってはなりません。ラバに何かを相談することができるでしょうか。動物のなかにも有用で、かわいいものがいますが、それらは動物の域を出ません。しかし、人間はちがいます。人間は思考力を持ち、自発的に正しいことをする能力を持っています。もし神が私たちをこのように扱ってくださるとすれば、私たちも隣人をそのように扱うべきではないでしょうか。さらに、もし神が私たちの自発性を尊んでくださるとすれば、私たちもその信頼に報いてこたえるべきではないでしょうか。
回復された関係(詩篇32篇10節、11節)
質問13 詩篇作者は悪しき者と主に信頼する者とをどのように比較していますか。詩篇32:10
悪しき者は多くの悲しみを持っています。悪しき者は人生を楽しんでいるように見えますが、それは外面だけです。彼らの心にある葛藤に気づいていないのです。最大の悲しみはおそらく、自分が自分自身の愚かさのゆえに失われた状態にあるという意識でしょう。私たちは決して悪しき者をうらやむ必要がありません。なぜなら、その道は滅びにいたるだけだからです。
神を敬う者は神の十分な恵みを受けています。彼らは心から神に信頼し、満足と幸福のみなもとである神との祝福された関係にあずかります。
質問14 詩篇作者は最後に何とすすめていますか。詩篇32:11
この詩篇は祝福の言葉をもって始まり、喜びの言葉をもって終わっています。すべての人が喜ぶことができるわけではありません。喜ぶことができるのは心の直き者、正しい者だけです。彼らもときには失敗することがあります。しかし、彼らは神のうちに罪の解決法を持っています。彼らはゆるされた罪人です。
質問15 心の直き者の特徴とその特権は何ですか。
・詩篇119:127、128
・申命記6:18
・詩篇7:10
・詩篇11:7
詩篇作者は三つの祝福をもって書き始め、三つの喜びをもって結んでいます。心に偽りのない者をもって書き始め、心の直き者をもって結んでいます。全体を通じて、神は悔い改め、告白、祝福にいたる恵みのみなもととして描かれています。私たちはこのあわれみにあずかっているでしょうか。神にその恵みを感謝しましょう。
まとめ
神はすべての祝福のみなもとです。神が私たちを祝福されるとき、私たちは本当に祝福されます。人間に与えられる最大の祝福はゆるされた罪の祝福です。罪は神との関係を破壊しますが、ゆるしはその関係を回復します。ゆるされるためには人間の悔い改めと告白、それに神の恵みが必要です。このことを認め、それに従うとき、あふれるばかりの喜びがあります。愛と恵みの神はほむべきかな。
第11課 悪しき世に生きる
第11課 悪しき世に生きる 〜神の道に従う理由〜
見かけはいくら権力があり繁栄していても、悪をなす者はいつかは滅びます。一方、見かけは弱々しく貧しくても、義人は主によって永遠に祝福されます。
善人と悪人
詩篇第37篇はエレン・ホワイトが研究するよう奨励している詩篇の一つです。それは、いわば知恵の詩篇で、日常生活に役立つ助言を提供しています。この詩篇は、暗唱しやすくするためだと思いますが、各段落の最初の語がヘブル語のアルファベット順に書かれています〔沓冠(くつかむり)体〕。このようなわけで、1節は「アレフ」、3節は「ベス」、5節は「ギメル」というぐあいに、へブル語アルファベット22文字まで続いています。この詩篇は世界歴史の最後の諸事件に直面する私たちを特別に励ましてくれるものです。善人と悪人はどこが違うのか、なぜ私たちは善人となるべきなのかということが全体のテーマになっています。
悪に対する態度(詩篇37篇1節、12節、13節、21節、32節)
周囲に悪が栄えるのを見るとき、私たちは心を悩ますべきでしょうか、それとも気にとめないようにすべきでしょうか。
質問1 詩篇作者は悪をなす者に関して私たちに何と勧めていますか。詩篇37:1
新共同訳では、「いらだつな」となっています。ほかの訳では、「思いわずらうな」(現代英語訳)、「腹を立てるな」(新改訳)、「負かそうとするな」(新英語聖書)となっています。しかし、へブル語はほかのどの訳よりも意味が豊かです。へブル語辞書はこの動詞を、「いらだって熱くなる」と説明しています(ブラウン、ドライバー、ブリッグズ)。詩篇作者は「憤激するな」、あるいは「悪人のことで熱くなるな」といっているのです。たとえ悪人が善なるものを支配しているように見えても、私たちはそのことで思い悩むべきではありません。
質問2 不正な行為としてどんなことがあげられていますか。詩篇37:21、32
ローンを期限までに返すことができない人々がいます。彼らはお金を借りても、それを計画的に返そうとしないのです。これは、お金を返すことができないためではなく、それにともなう道徳的責任を遂行する気がないためだと思われます。
悪人は義人を見て、彼らから教訓を学ぼうとはしないで、彼らを利用して、彼らの生命をねらいます。
質問3 悪しき者は正しい者をどのようにみなしますか。神は悪しき者をどのようにごらんになりますか。詩篇37:12、13
主は悪人を笑われるとありますが、これは彼らの権力に対する主の無関心、また主の民を滅ぼそうとする彼らの愚かな行為に対する軽べつ心を人間的に描写したものです。人間にはわからないことがあっても、神はすべてのことをご存知で、悪人にその計画を遂行することなどできないことがおわかりです。
神に信頼する(詩篇37篇3節~7節、11節)
質問4 神の特別な民となるためにはどんなことが必要ですか。詩篇37:3~7
3節……信頼する
ヘブル語には、屈服することからくる開放感を味わうという含みがあります。神にすべてをささげたことは最良の選択であったという確信は、大いなる安心感をもたらします。私たちの過去、現在、未来は神の御手にあります。
善を行え
私たちは自分の善行によって救われるのではありません。自分の力で善をなすこともできません。神の目に正しいわざをさせてくださるのは、私たちのうちにおられるキリストです(ヨハネ15:5参照一ピリピ4:13比較)。信仰によってなされたわざだけが神に受け入れられるのです。(ヨハネ第Ⅰ・2:29、エペソ2:10参照)。
この国に住む
たとえ一時的なものであれ、私たちには家庭が必要です。日ごとの食物と同じく、神は私たちに家庭を与えると約束しておられます。
4節……主によって喜びをなせ
「主にあって幸福を求めよ」(現代英語訳)、「主に頼れ」(新英語聖書)、「主に恵みを求めよ」(ユダヤ人出版協会訳)。
だれかを愛するようになると、いつでもその人のことを考えます。その人と交わるときが最も幸福なときとなります。いつでもその人を喜ばせ、その人と一緒に喜びと平和を求めようとします。主に対してもこれと同じ関係を培う必要があります。
5、6節……あなたの道を主にゆだねよ
自分の生活を主にゆだね、ただ主のみこころだけを求めるとき、幸福と満足が与えられるのです。6節を読んでください。これ以上の約束があるでしょうか。
7節……主を待ち望め
「待ち望む」という言葉は私たちに必要なことがあることを示唆しています。人生はあまりにも忙しすぎるからです。ときには争いさえ起こります。神にすべてをゆだねるなら、私たちはときどき休むことができますし、自分の力をこえたことを神にお任せすることができます。完全な仕事をしたいと望むことは当然ですが、もし耐え忍んで主を待ち望むなら、神は必要なものが一つも欠けることのないようにしてくださいます。このような関係こそ、私たちが心から求めているものではないでしょうか。
質問5 残念なことに、多くの人は神に信頼しようとしません。つぎの聖句にはどんな偽りの信頼があげられていますか。
・エレミヤ書17:5
・詩篇55:23
・詩篇49:6、7
・詩篇44:6
・ホセア書10:13
質問6 「柔和な者」とはどのような人のことですか。詩篇37:9、11
柔和な者とは、謙そんでおだやかな人のことです。モーセがそうであったように、彼らはこの世の教育を誇ったりしません。いかに軽んじられようとも、彼らは神の民と共にいることを選びます。彼らはこの世のはかない歓楽にふけるよりも、むしろキリストと共に苦しむことを選びます。(へブル11:24~26参照)。
悪行の結果(詩篇37篇2節、9節、10節、14節、15節、35節、36節)
義人が神に対する信仰と信頼を持ちつづけ、悪人の道に従わないことには十分な理由があります。
質問7 悪をなす者たちはどんな運命をたどりますか。詩篇37:2、9
木は人間を表し(詩篇1篇)、よく茂った木は善人を表し、切り倒された木はへりくだりを必要とする人を表します。(ダニエル書4章)。悪人は、今日は茂っていても明日は刈られる草に似ています。この宇宙には悪人を受け入れる場所がありません。なぜなら彼らは神と調和しないからです。彼ら自身も神の将来の宇宙に住みたいとは思わないでしょう。サタンと悪天使たちが追放されたのも、天に彼らの居場所がなくなったからです(黙示録12:7、8参照)。悪人の最終的な滅びはすでに決定された事実です(黙示録20:14、15参照)。
質問8 悪人の滅びはどれほど完全なものですか。詩篇37:10
この思想は詩篇第37篇で何回も繰り返されているものです(20、28、34、38節比較)。義人が悪人の生き方に従うべきではない理由がここにあります。この世で苦しみを味わい、最後に滅びることを望む人はだれもいないでしょう。
質問9 詩篇作者はどんなたとえを用いて、最も栄えた悪しき者でさえ悲劇的結末を迎えることを教えていますか。詩篇37:35、36
悪人は今日は栄えていても、明日には滅びます。彼らをさがしても、見つけることはできません。彼らの偉大さは何の役にも立ちません。大争闘の結果が主によって保証されているとすれば、悪人のなす悪のゆえに思い悩む必要があるでしょうか。
質問10 悪人の悪だくみは、彼ら自身の上にどんな影響を及ぼしますか。詩篇37:14、15
悪だくみをする者は必ずその犠牲になります。ハマンがそのよい例です(エステル記7:9、10)。
善をなす喜び(詩篇37篇4節、11節、16節、23節、24節)
悪人の運命と対照的なのが、創造主に献身した人の喜びです。そのような人の人生は創造主によって支えられ、来るべき世において新しい地を継ぎます。
質問11 神のみこころをなすことを喜びとする人にはどんな約束が与えられていますか。詩篇37:4
これは非常に広範な約束ですが、確かなものです。なぜなら、神のみこころに従う者は神のみこころ以外のものを望まないからです(ヨハネ15:7、ヨハネ第Ⅰ・5:14比較)。
質問12 柔和な人は何を楽しみますか。詩篇37:11
神は人間に欠かすことのできない必要なものを十分に備えてくださいます。戦争につながる不和がなくなるので、社会の安定が柔和な者たちに喜びと満足をもたらします。神に仕えることは利益をもたらすばかりでなく、すぐれた判断でもあります。
質問13 何が多くの悪人の富にまさるでしょうか。詩篇37:16
神を信じる者の持ち物の少ないのは、神を信じない者の持ち物の多いのにまさります。いま持っているもので満足できないのは貧欲のせいです。貧欲は、どんな状況でも神に仕えようとする者にふさわしくありません。同時に、富んでいれば必ずしも幸せというものでもありません。使徒パウロはテモテに対して、信心があって足ることを知るのは大きな利得であると言っています(テモテ第Ⅰ・6:6参照)。
質問14 主は正しい人の人生をどのように導かれますか。詩篇37:23、24
私たちは何を、どのようになすべきかについていつでも正しい知恵を持っているとは限りません。しかし、いつでも正しいことをする決意でいるなら、神は私たちの人生を正しい方向に導いてくださいます。人生は一度かぎりです。私たちが問題に直面して下す決断は運命を大きく左右します。正しい決断を下すことは非常に大きな意味を持ちます。幸いなことに、私たちは人生の岐路において神に信頼し、神のみこころを求めることを知っています。いつでも取るべき方法が正確にわかるわけではありませんが、神の導きのままに生きるなら、やがてそのときがきて自分の経験をふりかえるとき、神が私たちをどのように導き、その必要を豊かに満たしてくださったかを知るようになるでしょう。
正しい者に目をとめる(詩篇37篇25節、26節、30節、31節、39節、40節)
質問15 ご自分の民のための神の守りについて、詩篇作者は何とあかししていますか。詩篇37:25
しばしば引用される物語ですが、ふたりの囚人が独房の窓から外をながめていました。一人は土を見、一人は星を見ていました。一人は下を見、一人は上を見ていました。私たちの見る方向によって大きな違いが生じます。私たちの人生には試練がつきものです。良いこともあれば、悪いこともあります。悪いことを忘れ、良いことを心にとめることは祝福となります。ピリピ4:8を読んでください。
質問16 正しい人は必要を満たしてくださる神の慈愛にどのように応答しますか。詩篇37:26
正しい人はこの世の富においては貧しいかもしれませんが、困っている人に対してはつねに同情的です。彼らは必要なときにはその力に応じて喜んで援助の手をさしのべます。その子供たちは彼らにとって祝福です。なぜなら、彼らは両親の模範に従うことを選んだからです。彼らは家族ぐるみで祈り、みことばを学び、神の導きに従います。
質問17 正しい人にはどんな特徴がありますか。詩篇37:30、31
正しい人の与える勧告は信頼に値します。彼らはものごとを公平に判断します。恐れることなく、また偏見を持たないで真理を語ります。したがって、その判断は高く評価されます。何が彼らに知恵と悟りを与えるのでしょうか。彼らは神の律法を瞑想し、それを実際的に、賢明に適用します。
質問18 神はどのように正しい人を不動のものとされますか。詩篇37:39、40
主は彼らの救いのみなもと、悩みのときの近き助けです。彼らの品性は彼らのための主のみわざの結果です。真に正しい人は決して自分自身を義としません。彼らは良いわざをすべて神に帰します。
まとめ
アダムとエバの堕落以来、この世界はサタンの支配下にあります。多くの人がサタンの利己主義に従い、神の律法を拒んでいます。しかし、神の慈愛と救いに感謝する人もたくさんいます。彼らは悪人の栄えを見て心を悩ますことがありません。悪人が滅ぼされ、義人が永遠のいのちを受けるときが来るからです。
第12課 神はわれらの避け所また力
第12課 神はわれらの避け所また力
内に外に嵐が吹き荒れるときにも、神はご自分に信頼する者に平安を与えられます。神は私たちの内外の敵を打ち破り、忠実な民に霊的勝利と最終的なあがないを与えられます。
価値ある確信
今回の課は、神に対する絶対的な確信に満ちた詩篇について学びます。
私たちは「正しい者の道を知られる」神について学びました。この道こそ私たちにとって唯一の安全な道です。神の御名は主、ヤーウェであって、契約を立て、契約を守られるおかたです。神は大いなるおかたです。私たちの創造主、あがない主、また王です。善と悪の標準を定められた神は決して私たちをお捨てになることはありません。神はあなたの牧者、また私の牧者です。神と共にいるなら、私たちは良きものに不足することがありません。そして詩篇作者は今、神が私たちの避け所また力であると言っています。このことも賛美に値します。
詩篇第46篇は16世紀宗教改革の戦いの歌と呼ばれています。マルチン・ルターはこの詩篇にもとづいて讃美歌267番(神はわがやぐら、わがつよき盾)を作りました。それはキリスト教の遺産の一つになっていて、今では一部のカトリック教会でも歌われています。
われらの避け所また力(詩篇46篇1節~3節)
マルチン・ルターは、失望しそうになると親友のメランヒトンによくこう言いました。「さあ、詩篇46篇を歌おう」。このようにして、彼は主の力をいただいて、福音の真理を説いたのでした。
質問1 試練と困難のなかで、詩篇作者は何を確信のみなもととしましたか。詩篇46:1
避け所とはふつう、人が苦難のときに助けを求めて逃れる場所をさします。しかし、詩篇作者の言う避け所は神をさします。このことはあなたにとってどういう意味があるでしょうか。
神は聖書の中でしばしば避け所と言われています。
質問2 つぎの聖句を読み、神が私たちに避け所を与えるほかにどんなことをしてくださるか調べて下さい。
・申命記33:27
・サムエル記下22:3
・詩篇9:9
・詩篇48:3
・ヘブル6:18~20
私たちは避け所という言葉を誤解してはなりません。私たちが神を避け所とするのは、恐れるからではなく信頼するからです。私たちが暴風雨を避けるのは、雨を恐れるからではなく、ぬれないでいるほうが賢明だからです。神は最後の頼みではなく、最初の頼みなのです。私たちが神を信頼するのは、神が自然界の主、宇宙の主であって、万物を支配されるおかただからです。私たちは状況の犠牲者ではなく、神のしもべです。苦難のときに神に頼ることは正しいことです。
質問3 詩篇作者は神がどのような助けであると言っていますか。詩篇46:1
神は「いと近き」助け(ユダヤ出版協会訳)、「つねに用意されている」助け(現代英語訳)、「時を得た」助け(新英語聖書)です。これらの訳は神の助けがただちに与えられることを示しています。私たちは古代イスラエル人のようにのがれの町に逃げ込む必要はありません。私たちがいつ、どこにいようとも、必要なときには、神の助けが与えられます。これほど効率のよい助けがあるでしょうか。神は「悩める時のいと近き助け」です。
質問4 詩篇作者はどんな恐ろしい天変地異をも恐れないと言っていますか。詩篇46:2(ペテロ第Ⅱ・3:10~14、イザヤ書54:10、黙示録16:20、21比較)
山が海の中に移るということがあるのでしょうか。そのようなことはありえないように思われます。しかし、必ずしもそうとは限りません(イザヤ書64:1~3、エレミヤ書4:24参照)。地震は恐ろしい破壊をもたらします。火山の噴火によって、真っ赤な溶岩が大量に流れ出ます。動くことがないのは神だけです。この神が私たちを助けてくださるのです。神がコントロールできないものは何ひとつありません。
質問5 海からはどんな嵐がやって来ますか。詩篇46:3
鍛えられた漁師出身の弟子たちでさえ、必死に助けを求めました。そのとき、イエスは立ち上がり、海に向かって言われました。「静まれ、黙れ」。すると、風はやみ、大なぎになりました(マルコ4:35~41を読んでください)。それは弟子たちにとって初めての経験でした。しかし、私たちは聖書を通して、神が海をも支配されるおかたであることを知っています。
川と神の都(詩篇46篇4節、5節)
突然、状況が一変します。動乱の状態が川と都に、嵐の海が静かに流れる川の岸辺に、揺れ動く地と山が平和な都に変わっています。
質問6 都を流れる川は都をどうしますか。詩篇46:4
エルサレムには、シロアムの池と、ベテスダの池の跡はありましたが、流れる川はありませんでした。しかし、新エルサレムには流れる川があります。忠実な者はこのエルサレムに入ることができます。神がこの地上において私たちの神であるなら、新しい地においても私たちの神です。黙示録21、22章を読んでください。
質問7 都の中心にはどなたがおられますか。詩篇46:5
神は都に住まれます。神はいつでもご自分の民と住もうとされます。幕屋はそのために建てられました(出エジプト記25:8参照)。
都市は悪の中心であるとは限りません。それは礼拝の中心でもありうるのです。エルサレムは神殿のある場所として選ばれました。めんどりがひなを集めるように、イエスはご自分の民を集めるためにエルサレムに来られました(マタイ23:37参照)。しかし、民は拒みました。神は強いて人々にご自分を受け入れさせることがありません。新しい地を受け継ぐ者たちは神を知り、神も彼らと共に住まれます。新エルサレムは礼拝の中心となります(へブル12:22~24、黙示録21:24~27参照)。
質問8 神の住まれる都はどのようなところですか。詩篇46:5
悩みの時の守り(詩篇46篇6節、7節)
私たちは期待を持って将来を待ち望みますが、人々が最も関心をよせるのは現在です。将来を確実に自分のものとするために、今をどのように生きたらよいのでしょうか。
質問9 異教の民はどのような性格を持っていますか。詩篇46:6
異教の民はなぜ怒るのでしょうか。もし彼らが神に怒っているのなら、その理由がありません。なぜなら、神は慈愛と忍耐とゆるしに満ちたおかただからです。もし彼らが自分に起こっていることのゆえに怒っているのなら、それは自分自身のせいです。なぜなら、彼らは自分の蒔いたものを刈り取っているからです。彼らはやがて神に敵対することが不可能であることを学ぶでしょう。
質問10 神がその声を出されるとき、地はどうなりますか。詩篇46:6
この聖句は神の持っておられる驚くべき力を例示しています。異教徒の数は多いかもしれまん。彼らは次から次と王国をたてるかもしれません。容易には動かないかもしれません。しかし、神が語られるとき、すべての自然界が言いなりになります。すべての反対は風に吹かれるもみがらのようなものです。
質問11 「ヤコブの神」は正しい者の「避け所」であるとは、どういう意味ですか。詩篇46:7
ハーバート・ロックヤーはこの詩篇を「三位一体の詩篇」と呼んでいます(『神の詩集一詩篇瞑想』105ページ)。彼はこの詩篇を三つの部分に分けています。
1、父なる神の力(1~3節)
2、聖霊なる神の臨在(4~7節)
3、御子なる神の平和(8~11節)
神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として知られています。アブラハムは忠実な者の父です。神が彼の神であられることは理解できます。イサクは約束の子、奇跡の子です。神が彼の神であられることも理解できます。しかし、ヤコブはどうでしょうか。彼は自分の兄弟をだまし、父をあざむきました。それでも、神はヤコブをはじめ、私たちすべての者の父なのです。私たちには何の価値もないかもしれません。憎むべき罪の責任を負っているかもしれません。しかし、神は私たちの神であって、私たちと契約関係に入ってくださったのです。それによって、私たちはただ神の恵みのゆえに、神のすべての慈愛にあずかることができるのです(エレミヤ書30:7~11、黙示録14:1~5、7:13~17比較)。
来て、主のみわざを見よ(詩篇46篇8節、9節)
質問12 詩篇作者は私たちに何を見るように望んでいますか。詩篇46:8
質問13 人類がなしえなかったどんなことを、神は達成されますか。詩篇46:9(黙示録17:14、21:1~5比較)
神はすべての反対に終止符を打たれます。あらゆる戦いの武器は破壊されるでしょう。ここに上げられている武器は当時のものですが、現代の武器も含まれます。神は中途半端なことはなさいません。この荒廃は、有用なもの、保存する価値のあるものまでも破壊するという意味ではありません。それは真理と義に対抗して用いられるすべてのものを無効にするという積極的行為をさしています。
最終的な判断を下し、悪人をそのわざもろとも滅ぼすことを予告するような詩篇はキリスト教と相いれないものである、と言う人たちがいます。それは神のあわれみに反することであると、彼らは言います。彼らは、あわれみが正義を妨げるものではないということを忘れています。神の正義はいつでもあわれみをもってなされます。つまり、神の正義は神のあわれみの現れなのです。私たちはこの詩篇のなかに、私たちの避け所である神の偉大さと、罪とその結果を終わらせる神の偉大さをかいま見ることができます。
静まって、知れ(詩篇46篇10節、11節)
この詩篇の最後の部分は多くの人に愛されているところです。私たちはその意味を本当に理解しているでしょうか。
質問14 神は私たちにどうするように求めておられますか。詩篇46:10
新国際訳は、「静かにしなさい」と訳しています。同じへブル語を「思いとどまりなさい」と訳しているものもあります(ユダヤ出版協会訳)。私たちは自分の限界を認め、神の知恵を疑いたくなるときには思いとどまり、自分の考えに執着するときには戦いをやめ、永遠の救いに影響を及ぼすようなことをする必要があります。「静かにする」とは何もしないことではなく、神についてもっと学ぶことです。神は研究の最高の対象であるべきです。そうするとき、ものごとが理解できないときにも不動の信頼を保ち、神がすべてを支配しておられると信じることができます。
質問15 わたしこそ神であることを知るとはどういう意味ですか。詩篇46:10
神を知ることの意味は出エジプトのときのパロの経験にはっきりと例示されています。主を礼拝するためにイスラエルの子らを去らせよとモーセがたのんだとき、パロは答えました。「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか」(出エジプト記5:2)。これに対して神はその力のあらわれである災いのうちに答えられました。しかし、エジプト人はイスラエル人が紅海を渡ったときにはじめて主を知ったのでした(出エジプ卜記14:18参照)。
私たちは聖書のなかで神について読むとき、神について知ります。しかし、本当に神を知るのは、自分の生活において神を体験するときです。そのとき私たちは、神が私たちの神であること、また私たちが神の恵みによって神の戒めと啓示に従って生きる民であることを知るようになります。神が私たちの生活において最高の地位を占め、神がこの宇宙と私たちの人生を支配されるという確信を持ち、そして進んで神を喜ばせ、神の計画に従って生きるようになるとき初めて、私たちは神を知っていると言うことができます(ヨハネ17:3参照)。
質問16 神があがめられるとはどういう意味ですか。詩篇46:10(黙示録15:4比較)
神は最高のおかた、究極のおかたです。しかし、残念なことに、いつでもそのように認められてきたわけではありません。「いと高き者のようになろう」というルシファーの言葉(イザヤ書14:14)は、自分の王座を神の星の上に置こうとする彼の野望を表していました(13節)。彼のような気高い者がなぜこのようなことを考えたのかは神秘です。その動機となったのは彼の高慢であり、その結果が最初の罪でした(エゼキエル書28:15比較)。
すべての人がキリストをあがめる
「魅せられたかのように、悪人たちは神のみ子の戴冠式をながめた。彼らは、神のみ子がそのみ手に、自分たちが今まで軽べつし違反してきた神の律法の板を持っておられるのを見る。また、救われた者たちがいっせいに驚嘆と喜びと賛美の声をあげるのを見る。そしてその歌声の波が城外の群衆にまで押し寄せると、全部の者が異口同音に『全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります』と絶叫し、ひれ伏していのちの君を拝するのである(黙示録15:3)」(『各時
代の大争闘』下巻454ページ)。
質問17 詩篇作者はどんな興味深い言葉をもってこの詩篇を結んでいますか。詩篇46:11
詩篇作者が神について用いている称号に注目してください。どの時代にも、神は私たちの避け所、悩める時のいと近き助けです。
まとめ
詩篇第46篇はクリスチャンに、悩める時の神の助けを保証しています。それはクリスチャンに、真理が最後には勝利することと、罪と罪人が根絶されることを、そして神が宇宙の最高位に高められることを保証しています。
第13課 この世における喜び
第13課 この世における喜び 〜心に賛美があるか〜
造り主を賛美する理由はいくつもあります。神は歴史を通じてご自分の民を導いてこられました。また、忠実な者たちを試み、背信と捕囚から救い、神との愛の交わりを求める彼らの祈りにこたえられました。
神の世界
私たちが神からの離反と罪に満ちた悪しき世界に住んでいることは確かですが、それが神の世界であることを決して忘れてはなりません。この世界はなお栄光と美に満ちています。
今回の課で学ぶ詩篇も、エレン・ホワイトが研究を勧めているものです。私たちは終わりの時に近づいています。しかし、さまざまな状況に失望することなく、むしろすべてを支配される神を信じて喜んでいなければなりません。神の偉大さと慈愛に深く感動した詩篇作者は、地の全住民に神をほめたたえるように訴えています。
個人の賛美はいつでも神に受け入れられます。それは神のみわざに対する喜びの表現です。詩篇作者はこの思想を何回も述べています。しかし、ここでは、全世界の住民に共に神を賛美するように求めています。なぜなら、神は全宇宙の賛美を受けるにふさわしいおかただからです。
この詩篇を研究するにあたって、詩篇作者がどんな理由から、神が全宇宙の賛美を受けるにふさわしいおかたであると信じたのかを自分自身で考えてみましょう。
神にむかって喜び呼ばわる(詩篇66篇1節~4節)
質問1 詩篇作者は地の住民にどうするように求めていますか。詩篇66:1
英語欽定訳では、「喜ばしい音をたてよ」となっています。音楽的才能のない人でも喜ばしい音をたてることができることを知って喜ぶ人もいるかもしれません。音楽とは言えない音もあるでしょうが、喜びの表現であるなら、それは私たちの耳に、また神の耳に音楽となるのです。
新改訳聖書では、「神に向かって喜び叫べ」となっています。競技場などにいる大群衆がいっせいに歓声をあげる光景が目にうかびます。すべての人が夢中になって叫んでいます。
質問2 詩篇作者はほかに人々にどうするように求めていますか。詩篇66:2
神の御名の栄光を歌うとは、神の品性について歌うことです。神の御名が「ヤーウェ」であることはすでに学びました。この詩篇では、神を表すヘブル語として「エロヒム」という言葉が用いられています。これは興味深い言葉です。というのは、それが複数形でありながら単数の意味で用いられているからです。それは創世記1章の創造のところで用いられている言葉でもあります。神の品性と偉大さは御名のほかに神のみわざにおいて啓示されています。神の創造物を見る者はだれでも、神の無限の力と慈愛に心を打たれます。
質問3 この世界が造られたとき、なぜ天使たちは神をほめたたえましたか。ヨブ記38:4~7
「賛美の調べは、天のふんいきである。天が地に交わるときに、そこには音楽と歌……とがある。……このように、天と思いを一つにする人間の心は、神の恩恵に賛美の歌をもってこたえてきた」(『教育』186、187ページ)。
質問4 私たちは神に何と告げるべきですか。詩篇66:3、4
「あなたのもろもろのみわざは恐るべきかな」(3節)。「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう」(新改訳)。
A・A・アンダーソンはその詩篇の注解書のなかで、神はご自分の敵に恐れと恐怖を起こされるが、義人には畏敬の念と賛美の心を起こされると述べています(敵に対する主の態度については詩篇47:2、3を、神の民に対する態度については詩篇68:35を参照)。このことは、神が罪と罪人に反対し、ご自分の救いを受け入れる者たちを支持されることを考えれば、べつに驚くには当たりません(『ニュー・センチュリー聖書注解—詩篇』第1巻468ページ)。
神の敵は、「屈服し」(詩篇6:3、欽定訳、「畏縮し」(新国際訳)、「すくみ」(ユダヤ出版協会訳)、「恐れのあまりひれ伏す」(現代英語訳)ように見えても、その心や意志を明け渡すことがありません。彼らはなおも神に反抗しますが、最後には滅ぼされます。
歴史の神に対する感謝(詩篇66篇5節~7節)
質問5 詩篇作者は私たちに何を「見る」ように勧めていますか。詩篇66:5
私たちが神をほめたたえるのは、神が万物を創造されたためだけではありません。神がいつも私たちのそば近くにいてくださるためです。
質問6 つぎの聖句は人間の歴史に働いておられる神についてどんなことを教えていますか。
・創世記26:24
・申命記8:5
・詩篇105:8〜45
質問7 イスラエルの歴史におけるどんな出来事が言及されていますか。詩篇66:6
出エジプト記14:13~15:22を読み、つぎの点に注目してください。
14:13……「かたく立って、主が……なされる救を見なさい」
14:15……「イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい」
14:20……神はご自分の民を守られた
14:21……水が分かれた
14:27……エジプト軍の敗北
15:1……勝利の歌
15:20……ミリアムと女たちの喜び
質問8 神はつねに何をしておられますか。詩篇66:7
真の歴史の原理
「地上のすべての支配者の行使する権力は、天の神から与えられるものである。こうして与えられた権力の行使いかんに、その繁栄か否かがかかっているのである。……これらの事を理解し、『正義は国を高くし』、『その位が正義によって堅く立』ち、また『恵みのおこないによって堅くなる』ことを理解し、『王を廃し、王を立て』る神の力のあらわれの中にこれらの原則が働いていることを認めることこそが、歴史の原理を理解することである(蔵言14:34、16:12、20:28、ダニエル書2:21)」(『国と指導者』下巻110、111ページ)。
質問9 神にそむく者たちに対してどんな警告が与えられていますか。詩篇66:7
ここに言われている反逆者たちは、自分の目で見たことを受け入れようとしない頑迷な人たちです。彼らは最後まで神に反抗し通すことができると考えています。しかし、最後には真理が勝利します。なぜなら、神はあわれみと忍耐に満ちたおかたですが、すべての反逆が一掃されるときが来るからです。
神の祝福(詩篇66篇8節〜12節)
詩篇作者は私たちの関心を外の出来事から個人的経験へと向けています。
質問10 私たちのための神の守りはどれほど個人的なものですか。詩篇66:8、9
まず第一に、神は私たちに生命を与えてくださいます。生命は非常に大事なものです。第二に、神は私たちを倒れないように守ってくださいます。私たちは滑って転ぶ傾向を持っています。いつでも用心深いとは限りません。しかし、神は私たちのそばにいて、その確かな手をもって支えてくださいます。神は私たちの直面する誘惑と弱さをご存じです。神は何度も私たちを苦境から助け出してくださいました。神のすべてのみわざのゆえに、私たちはもっと神を賛美する必要があります(エペソ5:19、20、ピリピ4:4~7参照)。
質問11 私たちはどんな厳しい試練に会うことがありますか。詩篇66:10~12(ペテロ第Ⅰ・4:12~16比較)
神はしばしば私たちに試練をお許しになります。私たちは親類や友人を病気や事故で失うことがあります。そのようなとき、熱心に祈り、嘆願したのに、なぜ神はこのような不幸をお許しになるのかと、疑いを抱くことがあります。何度も苦難に会うとき、私たちの必要を満たしてくださるという神の約束を疑いたくなります。
金や銀といった貴金属は火によって精製されます。筋肉は激しい訓練によって強化されます。品性は厳しい決断によって形成されます。忍耐は耐え忍ぶことによって培われます。詩篇作者もこれらのことを経験してきました。これらの経験はそのときは決して楽しいものではなかったはずです。しかし、彼はなおこれらの経験のゆえに神を賛美しています。
質問12 詩篇作者は試練をのりこえたときにだれに栄光を帰していますか。詩篇66:12
詩篇作者は勝利に関してパウロと同じ態度を取りました。(コリント第Ⅱ・2:14、4:8~18比較)。そこには勝利の実感と将来の目標についての確信がありました(テモテ第Ⅱ・4:7、8)。なぜなら神の力を確信していたからです。
バビロンにおけるダニエルと彼の三人の友人のように、私たちにもしなければならない決断があります。しかし、奇跡を行い、私たちに勝利を与えてくださるのは神です。私たちは自分を誇ることができません。それはすべて神のみわざなのです。
礼拝における人間の応答(詩篇66篇13節〜15節)
質問13 詩篇作者は神に対する感謝をどのように表そうとしましたか。詩篇66:13
彼は旧約時代の礼拝様式にかなった言葉を用いています。燔祭のことはレビ記1章に記されています。人々は燔祭として雄牛または雄羊をささげました。貧しい人は山ばとや家ばとをささげました。礼拝者がこれらの動物の上に手を置く行為は、それらが自分の身代わりになったことを示していました。犠牲をささげ、その血をそそぐことによって、彼のためのあがないがなされました(レビ記1:4、5参照)。
詩篇作者は犠牲の血が人間をあがなうのではなく、必要なものを満たしてくださるあがない主を示していることを知っていました(へブル9:11~14比較)。キリスト教時代に生きている私たちは、イエスが世の罪を取り除く神の小羊であることを知っています(ヨハネ1:29)。
カインとアベルの物語は、神に近づく方法にも正しいものと誤ったものとがあることを教えています(創世記4:3~5参照)。イエスは私たちの大祭司であられるので、私たちははばかることなく恵みの御座に近づくことができるのです(へブル4:16、7:22~25参照)。
質問14 詩篇作者は燔祭をささげるほかに何をすると言っていますか。詩篇66:13、14
誓いは全く自発的なものですが、ひとたびなされると拘束力を持ちます。それはしばしば悩みの時になされます。もし神がこうしてくださるなら、私はこうしましょう、というのがそれです。誓いは神との取り引きや「無理強い」ではありません。むしろ、何かをしてもらうことに対する深い関心の表れ、また願いがかなえられたときにささげ物をしようとする気持ちの表れです。それは一種の礼拝行為です。礼拝者が自分の祈りに対して与えられた恵みを忘れていないということのしるしです(詩篇76:11参照)。しかしながら、それは献身的な生活とささげ物によって主とたえず交わることに代わるものではありません。
質問15 詩篇作者は神のみわざに対する心からの感謝をどのように表していますか。詩篇66:15
詩篇作者がここで言っていることをクリスチャンの言葉に言い換えるならどうなるでしょうか。もっと気前よくささげ物をすることでしょうか。もっと積極的に教会主催の社会奉仕に参加することでしょうか。もっと熱心に祈祷会に出席し、伝道活動に参加することでしょうか。
詩篇作者の個人的あかし(詩篇66篇16節〜20節)
質問16 詩篇作者は読者を含むすべての人に何と勧めていますか。詩篇66:16
神を認めない者たちには詩篇作者のあかしがわからないかもしれません。賢者ソロモンは、すべてのことには時があると言っています(伝道の書3:1~8)。語るに時があり、黙るに時があります。私たちに必要なのは、語る時、黙る時を知る知恵です(ペテロ第Ⅰ・3:15比較)。
質問17 どのようなとき、神は私たちの祈りをお聞きになりませんか。詩篇66:18
キリストに住んでいただく条件
「罪からのきよめは日々の働きです。神のご要求の一つを踏みにじっていながら、神のゆるしと祝福が得られるという信念で自分をごまかしてはなりません。知っている罪を故意に犯すことによって、聖霊のあかしの声は沈黙させられ、魂は神からひきはなされます。どんなに信仰的感情の陶酔境にあろうとも、神の律法を無視する人の心の内にイエスは住むことができません。神は神をあがめる人にだけ栄誉をおあたえになります」(『青年への使命』107、108ページ)。
イエスがマタイ5:23、24において礼拝について、また人間関係における誠実さについて何と言っておられるか見てください。
質問18 詩篇作者に大きな喜びを与えているものは何ですか。詩篇66:19、20
「神に祈る場合、私たちは自分が神の目的と一つになり、それを遂行するように、また私たちの望みと関心が神のそれと一つになるように祈るべきである。私たちは神のみこころを受け入れるべきであって、神が私たちの意思に譲歩するように求めるべきではない。神がいつも私たちの望むときに、望むとおりの方法で私たちの祈りに答えてくださらないほうが私たちにとっては益なのである。神は私たちのすべての望みを果たす以上のことをしてくださるであろう。なぜなら、私たちの知恵は愚かなものだからである」(『教会へのあかし』第2巻148ページ)。
まとめ
詩篇作者は私たちに神への感謝の声をあげるように勧めています。エレン・ホワイトは次のように言っています。「クリスチャンとして、私たちはできるだけの賛美を神にささげるべきである。私たちは神の愛の光をもっと自分の生活に輝かすべきである」(『SDA聖書注解』第3巻1148ページ)。詩篇作者は祈りに答えられる神の慈愛をあかししています。私たちも毎日の生活において神を賛美したいものです。