神の熱望
愛の神はご自分の民との契約関係を回復したいと望んでおられます。神は彼らが心からの喜びをもって神のもとに返るように望んでおられます。神が彼らのうちに生き、彼らのあいだにお住みになるためです。
問題
神に献身していない二人の青年が、ある伝道集会に出席しました。二人とも説教を聞いて強く心を動かされました。一人の青年は心のなかで積極的に応答し、今までの罪深い生活をすてて、神と和解したいと思いました。もう一人の青年はますます反抗的になっていきました。彼はクリスチャンになるために払わなければならない犠牲について考えました。彼はキリストに心をひかれましたが、それ以上にこれまでの自分の生き方に心をひかれたのでした。
説教の終わりに決心の訴えがなされると、先の青年は席から立ち上がり、前方に歩いていきました。彼は心からキリストを自分の救い主として受け入れたのでした。あとの青年も立ち上がりましたが、反対の方向に歩いて、教会の外へ、そしてキリストから離れていってしまいました。
それから何年かがたちました。二人の青年は葛藤や失望を経験しました。キリストを受け入れた青年はキリストに信頼して、それらに耐える力を与えられていましたが、もう一人の青年はますます反抗的になり、「自分を不当に扱う」ような神と一切かかわりたくないと心に決めていました。
さらに何年かがたちました。キリストを受け入れた男は教会にとどまってはいましたが、無関心におちいっていました。自分は十分に聞き、十分に経験した、と思いました。自分は救われたと信じて、教会での楽しい生活に満足していました。しかし、まだキリストを知らない人々に対してはあまり関心を払っていませんでした。もう一人の人はキリストと教会に対する態度を変え始めていました。神の御霊がキリスト教に対する彼の態度を少しずつ和らげてくださっていたのです。人生の苦しみや失望を味わうことによってよりよいものを求めたいという気持ちが起こってきました。
主はこれらの青年を救うためにどうされるでしょうか。彼ら自身は何をすべきでしょうか。彼らの物語は今回の課研究において学ぼうとしているゼカリヤのメッセージとどんな関係があるでしょうか。
ご自分の民に帰られる神(ゼカリヤ書1章1節~3節、13節~15節)
預言者ゼカリヤによる神の悔い改めの呼びかけは、旧約聖書のなかで最も感動的で、また霊的なものの一つです。「わたしに立ち返れ」というテーマは、ゼカリヤの主要な強調点の一つでした。主はエルサレムと神殿を回復するまえに、ご自分の民との契約関係を回復しようと望まれました。主が何よりも求められたのは彼らの心です。もし彼らが主に立ち返り、みこころに従って生きるなら、彼らに霊的・物質的な祝福を注ごうとしておられました。
エルサレムに帰還した捕囚たちは失望していました。神は彼らに悔い改めをうながし、勇気と信仰を吹きこもうとされました。
質問1 神がご自分の民に帰られるのと、神の民が神に帰るのとでは、どちらが先ですか。ゼカリヤ書1:1~3、16(エレミヤ書35:15比較)
神は不変のおかた
神は「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」おかたです(へブル13:8)。神のみことばは永遠に不変です。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」(イザヤ書40:8)。神のみことばと定めとは人間とそのわざにまで及びます。人は死に、わざはすたれますが、神の真理は永続します。
同じことが神と神の民との契約関係についても言えます。この相互関係において、神はつねに忠実です。神は決して人をお見捨てになりません。不忠実なのは人間のほうです。人間は神を離れ、神を見捨てます。神はその愛のゆえに、ご自分の不忠実な民が捕囚となるのをお許しになりましたが、それは彼らが神に帰るようになるためでした。神の計画は全く変わりませんが、それが達成される方法はときとして変化します。なぜなら、人間はそれぞれ異なるので、異なる方法で接する必要があるからです。
神はご自分の民を求められる
神は大いなる愛にみちたおかたです。たとえご自分が「被害者」であっても、たとえ何の理由もなくご自分の民から見捨てられようとも、神はご自分のほうからすすんで彼らをさがし求め、神のもとに帰るように訴えられます。神はあらゆる手段を用いて、しかも私たちの意志を強制することなく、私たちを神に回復しようとしておられます。しかし、そのためには私たちの協力が必要です。もし関係が回復されなかったとしても、それは神の怠慢のせいではなく、むしろ神と神の計画に対する私たちの反抗・反逆のせいなのです。
質問2 神はまず、どのようにして、背信したご自分の民に接近されますか。ゼカリヤ書1:13(イザヤ書54:6~8、10、マタイ23:37比較)
どうしてあなたを捨てることができようか
愛にみちた私たちの天の父なる神は、私たちを愛するゆえに、ご自分のもとに帰るように訴えておられます。神が私たちに対して怒られるのは、その愛と思いやりのゆえなのです。私たちに試練や困難をお許しになるのも、自分たちの危険をさとらせるためです。しかし、神はいつも次のように叫んでおられるのです。「わが民はわたしからそむき去ろうとしている。……エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。……わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない」(ホセア書11:7~9)。
神は私たちの益のために罰せられる
「かつては、地上の他のあらゆる国民にまさって天の神の祝福を受けた者として認められていた民が、諸国の前で捕囚の屈辱を受けることによって、将来の幸福のために彼らがぜひ必要としていた服従という教訓を学ぶことになるのであった。彼らがこの教訓を学ぶのでなければ、神が彼らのためにしようと望まれたすべての事をすることがおできにならないのであった。神は彼らの霊的幸福のための懲らしめに対して『わたしは正しい道に従ってあなたを懲らしめる。決して罰しないではおかない』と言われた(エレミヤ書30:11)。」(『国と指導者』下巻89ページ)。
質問3 神がご自分の民をねたまれるとはどういう意味でしょうか。ゼカリヤ書1:14、8:2(エゼキエル書39:25比較)
「旧約聖書はどこにおいても、神を無感情の、冷淡な、私たちの世界と無関係のおかたとして描いてはいない。神の愛の全き神聖さは、その愛が拒絶されたときにくる苦しみを増すだけであり、人間をその進みつつある死から救おうとする神の願望は、私たちにはかすかにしか理解することのできないものである」(ジョイス・G・ボールドウィン『ハガイ害、ゼカリヤ書、マラキ書』98、99ページ)。
積極的なねたみ
「ねたみ」と訳されているヘブル語は中間的な言葉で、文脈によって肯定的にも否定的にも表現されます。利己的な動機から出た「ねたみ」は憎しみとなります。反対に、他人を思いやる心から出た「ねたみ」は愛となります。「ねたみ」は、保護し、防御し、回復するという正しい決意の強力な表れです。さらに、それは愛の対象をこらしめ、叱責し、防御する場合もあります。
質問4 神がイスラエルを捕囚にした国々に対して怒られたのはなぜですか。また、これらの国民に対してどうされましたか。ゼカリヤ書1:15(イザヤ書47:1~6、アモス書1:11比較)
バビロニア人は3回、パレスチナを侵略し(紀元前605年、597年、586年)、イスラエル人を捕虜にし、ついには神殿を破壊しました。神の民は今、バビロニア人よりも寛大なペルシャ人の支配のもとにありました。しかし、イスラエルの周辺の民は、神がペルシャ人によって許された神殿再建の働きを妨害しようとしていました。イスラエルをこらしめたこれらの異教徒たちは「安らか」におり、政治的支配のなかにあって安泰でした。
質問5 今日、捕虜となっている神の民に対して、神は何と訴えておられますか。神はご自分の敵をどうされますか。黙示録18:1~8
黙示録の「バビロン」は、神のみこころとみことばに従わない終末時代の宗教連合を表しています。神はこの偽りの宗教組織のとりことなっているご自分の民に呼びかけておられます。「バビロン」は霊的に倒れた、救われるためには彼女から離れよ、と神は警告しておられます。この訴えは世界に対する最後のメッセージです。「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」(黙示録18:4)。これは第二天使の使命のくりかえしになっています(同14:8)。その目的は人々に第一天使の使命、「永遠の福音」を受け入れさせることにあります(同14:6、7)。キリストの品性という栄光が全世界の神の民によってあらわされるとき(同18:1)、バビロンを離れよという愛の勧告が誠実な者たちのうちに劇的な効果を及ぼすのです。彼らはキリストの愛に応答し、偽りの宗教を拒み、そしてイエスの再臨に備える人々に加わります(『各時代の大争闘』下巻84~93ページ参照)。
神に帰るイスラエル(ゼカリヤ書1章3節~6節、17節)
質問6 主はご自分の民を霊的に回復するために、彼らにどんな応答を求められますか。ゼカリヤ書1:3、歴代志下7:14、使徒行伝2:37、38
神に帰れという呼びかけは紀元前520年の8月になされました。神は過去を完全に忘れ、エルサレムに帰ったご自分の民とともに新しいスタートを切られました。
神の呼びかけと私たちの応答
主に「帰る」とは、向きを変えて、反対の方向に、つまり神から離れてではなく神に向かって歩くことです。教会員であろうとなかろうと、救われる唯一の方法は神の訴えに応答することです。主はご自分の民と一つになりたいと願っておられます(エペソ5:25~27)。主は私たちを恵みの契約に入らせたいと望んでおられます(エレミヤ書31:31~34、へブル8:6〜11)。私たちは神の声に耳をかたむけ、応答し、そして帰らなければなりません。そうしなければ、神の呼びかけが無益なものとなります。ゼカリヤ書7:13に描かれた悲劇的な結末だけは、何としても避けなければなりません。「『わたしが呼ばわったけれども、彼らは聞こうとしなかった。そのとおりに、彼らが呼ばわっても、わたしは聞かない』と万軍の主は仰せられる」。
私たちが応答するとき、神は悔い改めを与えられる
「罪人が真に悔い改めるようになるのは、キリストから出る力によるのであります。ペテロはこの点をはっきり述べて『イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである』(使徒行伝5:31)とイスラエル人に言っています。私どもはキリストなくしてはゆるしが与えられないのと同じように、キリストの霊が良心をよびさまさなければ悔い改めることができないのであります」(『キリストへの道』27、28ページ)。
質問7 神の民の歴史が私たちを神に立ち返らせる特別な動機となるのはどうしてですか。ゼカリヤ書1:4、5(ローマ10:21比較)
歴史の教訓は私たちの現在の状態を理解するうえで欠かすことのできないものです。過去から学ぶことを怠る者は祖先の失敗をくりかえすことになります。主は聖書のなかにご自分の選民の歴史を記録されました。私たちが彼らの失敗をくりかえすことのないためです。私たちは次のように自分に問いかける必要があります。「彼らはどこで失敗したのか。主は彼らをどうされたか。もし私たちが失敗すれば、主はどうされるだろうか。もし私たちが主に従うなら、主は私たちのために、また私たちを通して何をされるだろうか」。
質問8 私たちはどうすれば、主の予告された苦難や災害をさけることができますか。ゼカリヤ書1:6、エゼキエル書18:30
古代イスラエルが災いに会い、捕囚になるまでその罪を悔い改めなかったのは悲劇です。ゼカリヤが言いたかったのは、いま悔い改めて罪の結果にあずからないほうがずっと賢明であるということでした。教会内のある人々は、また教会外の多くの人々は、神から与えられた霊感の教えを無視しています。その教えが聖書の預言者から出たものであろうと、残りの民につかわされた主の使命者から出たものであろうと、私たちはそのメッセージに耳をかたむけるべきです。預言者の言葉を拒むことは聖霊を拒むことです。その結果は昔と同じく、キリストの臨在を失い、悪に支配されることです。
質問9 回復についての神の約束は現代の神の民にとってどんな意味を持ちますか。ゼカリヤ書1:17、黙示録21:2〜4
字義的イスラエルに対する約束
「神はエルサレムの再建をお命じになったのであった。都を測る幻は、神が苦しんでいる人々に慰めと力を与え、彼らに永遠の契約という約束を成就するという確証であった。彼の保護は、『その周囲で火の城壁となる』と言われた。そして彼らによって、神の栄光がすべての人の子らにあらわされるのであった。神が民のために成し遂げておられたことは、全地に告げ知らされるのであった。『シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから』(イザヤ書12:6)」(『国と指導者』下巻187ページ)。
霊的イスラエルに対する約束
エルサレムを地球の首都としてイスラエルが回復されるという約束は、選民のうえに成就するはずでした。しかし、神の民はその条件をみたすことに失敗しました。イエスは神の恵みを受けることになっていた国民の運命について、つぎのように宣言されました。「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイ23:39)。
たとえそうであっても、ゼカリヤ書1:17の約束は成就します。新エルサレムが救われた者たちの家郷となるのです。千年期の終わりに聖都エルサレムは地上にくだり、神の政府の中心となります。
預言どおりにエルサレムが回復される
「そこには栄化された新しい地の首都、新エルサレムがある。それは『主の手にある麗しい冠』『あなたの神の手にある王の冠』である(イザヤ書62:3)。『その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。』『諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る』(黙示録21:11、24)。「わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ」と主は言われる(イザヤ書65:19)。『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共にすみ、人は神の民となり、神自ら人と共にいま』す(黙示録21:3)」(『各時代の大争闘』下巻464、465ページ)。
まとめ
私たちが心から喜んで神に帰ることを、神は望んでおられます。そうするとき、神は私たちをご自身に回復してくださいます。私たちの神との契約関係は相互的、条件的なものです。愛の神は私たちの意志を強制されません。神の民の働きを奨励するうえで、ゼカリヤは倫理的改革と同時に心の宗教をも強調しています。この点で、彼の教えは山上の説教と似ています。彼は心からの献身を強調しています。形式的な服従は無意味です。
*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。