【ヨハネによる福音書】聖霊がイエスに「取って代わる」【13ー16章解説】#11

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聖霊が送られたのは地上におけるイエスの働きを継続し、促進するためでした。洗足式が終わると、十字架の暗い影がイエスと弟子たちの休んでいた部屋をおおい始めました。弟子たちとの最後の時が来ていました。イエスが自分たちのもとを去ろうとしておられることに、弟子たちは気づき始めていました。ヨハネ13章~16章は、いわば弟子たちに対するイエスの告別説教です。この中でイエスは、御自分がいなくなられた後、弟子たちがいかに生きるべきかを教えておられます。それは、第二世代のクリスチャンがイエスの弟子なしに生きていかねばならないのと同じことでした。

私たちはイエスの時代から何世紀も後の時代に生きています。しかし、イエス御自身がおられないことは、イエスと共に歩む上で何の障害にもなりません。たとえ、イエスが弟子たちと共におられたようには、私たちと共におられないとしても、私たちは今、この世でイエスの望まれる者となることができます。聖霊の臨在を通して、イエスの御言葉は今もイエスの臨在と同じ効力を発揮します。

去って行かれる(ヨハネ13:31―14:31)

ユダの出て行くのを待ってから(ヨハ13:28~30)、イエスは弟子たちに告別の説教をされます。イエスの説教は弟子たちを、そして私たちを励ますためのものでした。

このとき、イエスと弟子たちはどんな問題に直面していましたか。ヨハ13:33、36

イエスは去って行かれ、弟子たちは見捨てられたと感じていました。弟子たちはどうしたらイエスなしでやっていけるのでしょうか。しかし、イエスが父のもとに行かれることはかえって弟子たちにとって益となるのでした。

イエスはご自分が去ったあと、弟子たちがどのような経験をすると言われますか。ヨハ14:12~14

イエスが去って行かれることがなぜ弟子たちにとって益となるのでしょうか。このことを理解する鍵は、弟子たちがイエスよりも大きな業を行うようになるという聖句のうちにあります(ヨハ14:12)。このことは一見、不合理なように思われます。イエスよりも大きな業を行うことのできる人がいるのでしょうか。地上におられたときのイエスは人間的な制約のもとにありました。彼は一時に一か所しかいることができませんでした。イエスが弟子たちと共におられたときには、父なる神はイエスのうちにしか見られませんでした(9節)。しかし、イエスが父なる神のもとに行かれたとき、このような制約はなくなりました。聖霊を通して(16、17節)、イエスの弟子たちは神の品性を全世界に伝えることができました。

イエスが父のみもとに行き、聖霊を送ってくださったので、何百万という弟子たちがイエスの働きを拡大することができました。弟子たちの働きと書き物を通して、全世界の何百万もの人々にとってイエスは現実的になりました。ある意味で、イエスの弟子たちはこの世においてイエスの代わりになったのです。クリスチャンの言葉と行動は、ある人々がいつか見るイエスの唯一の姿であるかもしれません。

イエスにつながっている(ヨハネ15:1―16:33)

このぶどうの木と枝の美しい例話の中で、イエスにつながっていることの必要性について何と言っておられますか。また、どのようにしてつながるのでしょうか。ヨハ15:1~8

イエスと父なる神との関係は弟子たちとイエスとの関係の模範です。イエスが弟子たちを愛されるのは、父なる神がイエスを愛されるのと同じです(ヨハ15:9)。イエスが父なる神の命令に従われるように、弟子たちもイエスの命令に従うべきです(10節)。

イエスが天にお帰りになった後も、弟子たちはどのようにしてイエスとの関係を維持することができますか。ヨハ15:26、27、16:7

イエスと世との関係は弟子たちと未信者との関係に似ています(ヨハ15:18)。弟子たちに対する世の憎しみは、イエスに対する世の憎しみから来ています(22~25節)。世の価値観はしばしば神の価値観と真っ向から対立します。したがって、弟子たちは世の敵意に対処する備えをしていなければなりません。

弟子たちにとって、憎しみや迫害といった否定的な経験(ヨハ15:18~25、16:1~4)は、イエスが父なる神のもとに帰り、聖霊を遣わされることから来る恵みによって相殺されます(ヨハ15:26、27、16:7~15)。

イエスが去って行かれることが益になるのはなぜでしょうか。

イエスは聖霊を送られます。聖霊は人間的な制約を受けることがありません。

弟子たちの努力によって、イエスの働きは全世界に広がり、すべての人に感化を与えます。

弟子たちが聖霊によって与えられる愛(ヨハ15:12~15)は全世界に神の愛を確信させます(13:34、35)。

イエスの不在に対処することによって、弟子たちは次世代の人々のために不動の基礎を築くことができます(ヨハ15:1~8)。

聖霊の種(ヨハネ1:32,33、3:5―8、4:23,24、6:63、7:37―39)

聖霊の性質と働きに直接的、間接的に言及した聖句は、ヨハネの福音書中に11か所あります。そのうちの五つが前半の物語の部分にあります。しかし、それらはたまたま聖霊に言及しているにすぎません。あたかもヨハネが読者の心に種を蒔くためにこれらの聖句を用いているかのようです。それはイエスの告別説教という肥沃な土壌の中でのみ発芽します(ヨハ13~16章)。

ヨハネによる福音書の前半に聖霊はどのように言及されていますか。ヨハ1:32、33、3:5~8、4:23、24、7:37~39

聖霊はヨハネの福音書の前半に何度か出てきますが、聖霊についての説明はほとんどありません。ヨルダン川において、バプテスマのヨハネは聖霊によってイエスを確認することができました(ヨハ1:32、33)。人が神の国に入るためには聖霊を受ける必要があります(3:5、6)。聖霊の働きは人間の支配を受けませんが、その効果は目に見えます(3:8)。礼拝は特定の場所や神殿に制限されることも、特定の人々に限定されることもありません(4:23、24)。聖霊はイエスの御言葉を通してあらゆる場所の、あらゆる人に与えられます(6:63)。

聖霊の働きの本質が明らかになるのは十字架との関連においてです(ヨハ7:39)。したがって、ヨハネ7:37~39は前後をつなぐ過渡的な聖句であって、ヨハネ13章~16章の告別説教にある聖霊の働きについてのより詳細な説明に読者を備えるものです。ヨハネ20:22(「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」)は、ヨハネ7:39の約束が実際には十字架上のイエスの「栄化」後に実現し始めたことを示しています。

ヨハネ14章~16章で聖霊に与えられている称号は、「慰め主」あるいは「助言者」を意味するギリシア語名詞です。“パラクレーテ”は基本的に、「だれかを助けるためにそばに呼ばれた者」を意味します。したがって、この言葉は法廷でだれかのために弁護する弁護者、あるいは悲しみに打ちひしがれている人を慰める者という意味に用いられます。どちらもヨハネ14章~16章の文脈にかなっています。

イエスと同じように(ヨハネ14:16、17、26、27)

イエスは弟子たちを孤児とはしないと約束されましたが、そのためにどなたを送られると約束されましたか。また弟子たちはその方と共にいて何を心にとめるように言われていますか。ヨハ14:15~21

イエスは聖霊を「別の弁護者」(ヨハ14:16)と呼んでおられます。つまり、聖霊は弁護者(または、慰め主)本人ではなく、別の弁護者であるということです。原語にはイエスと聖霊の類似点が強調されています。聖霊はイエスに似た、もうひとりの弁護者です。イエスは弁護者本人です。

弟子たちは失意のうちにありました。イエスは天に帰ろうとしておられましたが、弟子たちにはその理由がわかりませんでした(ヨハ13:33、36、14:2~5)。そこで、イエスは彼らを「みなしご」にはしない、と約束されます(14:18)。聖霊を通して、イエスはなおも弟子たちと共におられます。イエスが地上でなされたのと同じことを、聖霊は彼らのためになされます。この聖霊についての約束は特に弟子たちの後に来る人々に与えられています。彼らは、イエス御自身やイエスを実際に知る人たちとの直接的な交わりを通してではなく、書かれた福音書の言葉を通して信じるようになった人々です。

「キリストは、人性の制約を受けておられたので、どこへでもみずから行かれるわけにいかなかった。だから、キリストが父のみもとに行かれて、地上におけるご自分の後継者として聖霊をお送りになることは彼らの利益であった。そうすれば、場所やキリストとの個人的接触などによる特典はだれにもないのであった。みたまによって、救い主はだれにでも近づかれるのであった。この意味において、主は、天にのぼられなかったとした場合よりも一層近く彼らのそばにおられるのであった(」『各時代の希望』下巻153ページ)。

イエスはまた、聖霊を「真理の霊」(ヨハ14:17)と呼んでおられます。聖霊は真実なお方であって、信頼に値します。聖霊はイエスと私たち自身についての真理に反する方法で私たちを導かれることはありません。真理に聞き従うことは苦痛をともないます。しかし、それは霊的成長に欠かせないものです。真理を受け入れ、その真理に従う人たちは聖霊を受けます(14:15、16、21)。戒めを離れて服従を理解することはできません。

最高の案内人(ヨハネ15:26、27、16:7―15)

聖霊はどなたについてあかしをすると言われていますか。ヨハ15:26

聖霊はどんな三つのことを明らかにしてくださいますか。ヨハ16:8~11

聖霊の働きのどんな二つの特徴が強調されていますか。ヨハ16:13

イエスは御自分の栄光を現すために聖霊を必要とされません。イエスを御自身の右に上げられたときに、父なる神がイエスの栄光を現されました。聖霊の役割はむしろ、地上で人性を取られたイエスの栄光を現すことにあります。イエスの栄光を現すこと以外に、聖霊の啓示はありません。聖霊の働きは重要です。しかし、もし私たちの関心をイエスからそらすようなことがあれば、聖霊の働きを強調することは健全ではありません。

聖霊は弟子たちとこの世にとってキリストの後継者また代表者です。この意味で、聖霊はイエスに「代わる」お方と言えます。聖霊はイエスと直接交わったことのない新しい世代にイエスの臨在を広げられます。イエスがもはや肉においてできないことを、聖霊はあらゆる所でイエスに代わってなされます。イエスがもはやできないあかしを、聖霊はイエスに代わってなされます。聖霊を通して、イエスはなおも栄光を受け続けられます。

一方、イエスの光を受けた人たちがイエスによって裁かれ、断罪されたように、聖霊もまた罪を自覚させ、義を提示し、来るべき裁きを警告されます。世はイエスを拒みました。今日も同じです。しかし、世がイエスを拒み続けたとしても、聖霊はなおも罪を自覚させ、人々は聖霊の声を通してイエスの声を聞きます。

聖霊を通して、イエスの臨在が私たちの人生において現実のものとなります。たとえ聖霊が見ることも、触れることもできない存在であっても、です。イエスを受け入れ、聖霊の導きと慰めにあずかる人たちに、聖霊は超自然的なものを実感させてくださいます。

まとめ

「神のみわざを研究すると、聖霊が人の心に確信を与える。この確信は、理論的推論から得られるものではない。しかし、神を知ることができないほどに心が暗くなり、神を見ることができないほどに目がくらみ、み声を聞くことができないほどに耳がにぶくなっていないかぎり、人は、その深い意味を理解し、崇高な霊的真理に強い感銘を受けるのである」(『キリストの実物教訓』7ページ)。

「聖霊は力ある働きをなさるとばく然と認めることと、悔い改めを促す譴責者として、聖霊の働きを受けいれることとは、全然別のことである。

多くの者は、自分たちが神から離れ、自己と罪との奴隷になっていることを自覚している。そして、改革しようと努力するのではあるが、自己を十字架につけない。彼らは自分たちを全くキリストのみ手にまかせて、みこころを行なう力を神に求めようとしない。彼らは、神のかたちにかたどって形造られることを喜ばない。彼らは漠然と自分たちの不完全さを認めはするが、自分たちの犯している罪を捨てない。彼らが悪い行為を重ねるごとに古い利己心は勢力を増していくのである」(同25ページ)。

「あなたの中で聖霊が働いている証拠を挙げてください」と問われたら、私達は何と答えるでしょうか。すべてのクリスチャンが言うことのできる言葉があります。それは「私がイエスを信じていることです」。イエスを目で見たことはないのに彼を信じていることが聖霊の働きの結果です。キリスト教会の中で「聖霊を受ける経験」を熱狂的に求めるグループがあります。彼らは奇跡、異言を強調します。また彼らは感情的に高揚した状態を「聖霊に満たされている」ことと結びつけます。彼らのメッセージの中心は、十字架から「聖霊の経験」へと微妙にずれています。聖書によれば、真に聖霊を受けた者は「聖霊の証し」をするのでなく、「イエス」を証します。聖霊は「わたし(イエス)について証しをなさる」のです(ヨハ15:26)。そして「その方はわたし(イエス)に栄光を与える」のです(16:14)。イエスが弟子達のそばにいたように、聖霊がいつも私達のかたわらで弁護し慰めてくださいます。「イエスはいつも私の隣にいてくださる」という告白を聖霊は喜びます。イエスを現すことこそ聖霊の働きだからです。イエスをもっと深く知るために、さらに聖霊を求めましょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。

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