この記事のテーマ
十字架は人間の魂の価値を永遠に確立するものです。人間は様々な方法によって魂の価値と意味を確立しようとしてきました。しかし、結局のところ、人間の魂と意味を永遠に確立する場所はこの地上に一つしかありません。それはカルバリー(ゴルゴタ)です。
ここカルバリーにおいて、神の前における人間の価値が、(神以外には)見えない、想像もできない方法で人間と天使と傍観する宇宙の前に永遠に啓示されました。宇宙のいかなる場所にもまさって、ここカルバリーにおいて、創造主の真の性質と品性が啓示されました。
ヨハネの福音書に記されたイエスの十字架の物語はゲッセマネの園において始まり、園において終わります(ヨハ18:1、19:41)。十字架の物語は三つの部分からなります。最初は、イエスの裏切り、逮捕、告発について描いている部分です(ヨハ18:1~27)。中心は、ピラトの前における裁判について描いている部分です(同18:29~19:16)。最後は、イエスの十字架と埋葬について描いている部分です(同19:16~42)。
今回は、宇宙の歴史における最大の事件について学びます。
裏切られ、拒絶される(ヨハネ18:1―11、15―18、25―27)
イエスを捕らえに来た人たちに「わたしがそれである」と言われた時、彼らはどうなりましたか。ヨハ18:1~11
ヨハネ18:1~11の要点は、イエスが状況を完全に支配しておられたということです。それはヨハネ10:18の実現にほかなりません。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」。イエスは殺害されますが、決して犠牲者ではありません。それは起こらねばならないことでした(ヨハ3:14参照)。もしイエスが逮捕を逃れようと思えば、ユダが捜しに来るゲッセマネの園に行かなければよかったのです。何が起こるかを知っておられたにもかかわらず、イエスは弟子たちと共に園に行かれました。イエスは群衆が御自分のもとに来るのを待っておられませんでした。むしろ、御自分の方から出かけて行き、彼らに語りかけておられます。こうして、必要ならばいつでも彼らを滅ぼし尽くすことができることをお示しになりました。イエスの死は自発的なものでした。もしイエスがお許しにならなければ、彼らはイエスを逮捕することができませんでした。
イエスが捕らえられたとき、ペトロはどんな行動に出ましたか。
このような状況下では、ペトロの行動はこっけいにさえ思われます。イエスが状況を完全に支配しておられることを、ペトロは理解していませんでした。それで、彼は剣を抜いて、イエスを守ろうとしたのです。しかし、イエスは剣をさやに納めるようにペトロに言われます。イエスは十字架に向かって進まねばなりません。さもないと、神の救いの計画は実現しません。ペトロが状況を支配しようとした行動そのものが、かえって状況を支配できなくするのでした。事実、園におけるペトロの性急な行動は、その後のピラトに対するイエスの申し立ての正当性を危うくしました(ヨハ18:36)。
アンナスとピラトの前で(ヨハネ18:12―40)
複数の弟子がイエスに従って大祭司の中庭に入った、と記しているのはヨハネによる福音書だけです(ヨハ18:15、16)。門番の女はおそらく、ヨハネ(「もう一人の弟子」)がイエスの弟子であることを知っていたと思われます。しかし、ヨハネが大祭司の知り合いであったために、彼をとがめなかったのでしょう。
大祭司が弟子たちや教えのことについて尋問したとき、イエスはどのように答えられましたか。ヨハ18:20、21
イエスはアンナスの前でも全くひるむことがありません(ヨハ18:20~23)。イエスは、自分が密かに逮捕されたこと(「ひそかに話したことは何もない」)、また正当な手続きを踏んでいないこと(「なぜ、わたしを尋問するのか」)を問題にしておられます。また、皮肉のこもったユーモアを述べておられます(「正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」)。
しかし、ここでは、「左の頬をも向けなさい」(マタ5:39)という御自分の言葉に従っておられません。彼は権威の乱用に反対しておられます(ヨハ18:23)。謙遜であることと虐待されることとは全く別の問題です。カイアファのもとに連行された後で、イエスはこの物語の中心人物であるピラトの前に引き出されます。その頃のピラトは政治的に非常に弱い立場に置かれていました。一連の失政がユダヤ人の怒りを買っていました。彼は人気を失い、支配者としての資質がローマでも疑われていました。もういちど宗教指導者と衝突するなら、彼はたぶん地位を追われていたでしょう。そのようなわけで、彼はきわめて脅しに屈しやすい立場にありました。ピラトと交渉するに当たって、祭司長たちはまず、ローマの総督が喜ぶような政治的な口実を用いてイエスを告発します。それによると、イエスの王権はローマ皇帝を脅かすものなので、イエスは死刑に処せられねばなりません。しかし、「わたしの国はこの世には属していない」というイエスの言明とそれを裏づける証拠(ヨハ18:36)のゆえに、ピラトは、イエスの主張する王国がローマにとって政治的・軍事的脅威とはならないと考えます。そこでピラトは、イエスを釈放し、同時にユダヤ人指導者の顔を立てようと考え、無実の者を裁くよりも、過越祭の慣例になっている恩赦にもとづいてイエスを釈放するように提案します。
政治的方便(ヨハネ19:1―16)
兵士たちは何と言ってイエスを嘲笑しましたか(2~4節)。ヨハ19:1~16
イエスを釈放しようという提案がユダヤ人指導者らによって拒否されたとき、ピラトは窮地に陥ります。ユダヤ人は何としてでもイエスを殺そうと望んでいました。ピラトは彼らを説得して強硬論を改めさせるか、反対を押し切ってイエスを釈放するかしかありませんでした。それは自分の地位を失うことを意味していました。ピラトは正義と保身の間で板ばさみになりました。
そこで、ピラトはユダヤ人の同情に訴えるためにイエスを鞭打ち、彼らの前に引き出します。しかし、彼らは動じません。ピラトの決意がぐらついているのを見て、ユダヤ人たちは汚い手を使い始めます。彼らは、イエスが死罪に当たるのは律法を破ったからだと主張します。ピラトもユダヤ人の宗教に背くような振る舞いができないことを、彼らは知っていました。
ヨハネ19:7、8を読んでください。ピラトが「ますます恐れ」たのはなぜですか。彼はイエスに何と尋ねますか(9節)。
この時点で、ピラトは自分の欠点である優柔不断に気づいたようです。彼は自分自身とイエスの両方を救うことができません。そこで、ついにイエスを犠牲にして自分自身を救おうと決意します。自分はユダヤ人指導者たちの要求を受け入れるが、彼らも相応の代価を払わねばならない、とピラトは考えます。皇帝に仕えるという公の告白(「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」)と引き換えに、ピラトはイエスを有罪とします。
大祭司カイアファは先に、国民全体が滅ぼされないために、ひとりの人が犠牲になるのは好都合である、と言っていました(ヨハ11:48~52)。ピラトは今、ひとりの人を滅ぼすために国民全体を犠牲にしようとしていました。宗教指導者たちはイエスの王権を頑強に拒絶するあまり、それまで憎んでいた王〔ローマ皇帝〕を歓迎します。ピラトは今後、彼らにこの誓いを守らせようと考えます――彼らはもはや自分の上に権力を振るうことができなくなる。このときから、ピラトの態度は強硬になります。イエスの死がピラトを強くしたのは何とも皮肉なことです。
苦難、死、埋葬(ヨハネ19:16―42)
ローマ人の用いた十字架刑は潜在的な敵対者に恐怖を抱かせるためのものでした。十字架上の犠牲者が呼吸をするためには、自分の足で体を支えなければなりません。衰弱して体を支えきれなくなると、呼吸困難に陥って死にます。犠牲者はゆっくりと、苦しみもだえながら死んでいきます。死刑執行人の都合で死を早める必要がある場合には、〔体を支えられないように〕足を折りました。この十字架刑にはまた、家族や友人の前で裸のまま磔にされるという恥辱がともないました。
ピラトが十字架の上に掛けた罪状書きには、何と書かれてありましたか。ヨハ19:19
この聖句の中に、イエスの十字架によって力を与えられた大胆なピラトの姿を見ることができます。ピラトが罪状書きに「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と記したとき、イエスの十字架はパレスチナとその宗教に対するローマの支配の象徴となりました。ピラトがそのように書いたとき、イエスの十字架はユダヤ人と宗教指導者の威信を失わせる結果になりました。
ヨハネ19章にどんな重要なテーマが何回現れますか。24、28、36、37節
ピラトは、すべてが自分の思い通りに進んでいると思っていましたが、これらの聖句によれば、すべては聖書の預言に従って進んでいました。人間はすべてを支配していると思っていますが、実際には、神がすべてを支配しておられます。イエスの死は自発的で、計画的で、聖書に従ったものでした。
イエスはヨハネ19:30で、「成し遂げられた」と言っておられます。十字架において、何が成し遂げられたのでしょうか。ヨハネ19章は、十字架が聖書の預言の実現であって、メシアを指し示すものであることを強調しています。預言は、分け合った衣服の種類、くじ引きにされた衣服の種類(23、24節)、イエスの遺体の取り扱い(35~37節)に関してまで、正確に実現しています。十字架は、たとえ私たちの人生に悪いことが起ころうとも、神がなおすべてを支配しておられるという確信を与えてくれます。イエスを信じる者たちは、自分の力の及ばないことを恐れながら生きる必要がありません。
十字架を求めて(ヨハネ12:20―32)
大祭司カイアファの言葉(ヨハ11:50)をヨハネはどのように理解して述べていますか。ヨハ11:49~52
パウロは十字架のほかに誇るものがあってはならないと言っていますが(ガラ6:14)、十字架のどこがそんなに素晴らしいのでしょうか。ヨハネはカイアファの言葉を通して、イエスの死がある意味で、すべての人の身代わりになると述べています。
パウロによれば、十字架において罪の支払う報酬(ロマ6:23)が罪深い人類の代表者としてのイエスの上に置かれました。もし神の律法が変更可能であるならば、人類は十字架なしに救われることができたでしょう。真の意味において、十字架は律法の永続性を確証するものです。十字架は人類の罪をキリストにおいて処断しました(ロマ8:3、Iペト2:24)。キリストの復活は世の終わりにおける私たちの復活への道を開きました(Ⅰコリ15:12~23)。
イエス御自身、十字架の意味について何と言っておられますか。ヨハ12:24、31~33
イエスは「種」のたとえを用いて「身代わり」の思想を述べておられます。その後、31~33節において、十字架が裁きにおいてサタンと罪を処断すると言っておられます。十字架はまた、その驚くべき魅力によって「すべての人」(32節、字義的には全世界)をイエスのもとに引き寄せます。
十字架のどんな点が人を引きつけるのでしょうか。とりわけ、十字架は人間の持つ信じがたい価値を肯定します。「ひとりの魂は無限の価値を持つ。カルバリーはその価値を伝えている」(『福音宣伝者』184ページ)。神はすべての人を愛しておられるので、イエスはたった一人のためであっても死なれたはずです(ヨハ3:16)。
全宇宙の創造者として、イエスは御自身のうちに無限の価値を持っておられます。すべての人のために死なれることによって、イエスは私たちに対して持っておられる無限の価値をあかしされたのです。十字架のゆえに私たちが持っているこの価値は、私たちの行為や状態にかかわりなく不変です。もし私たちが最終的に十字架を拒むなら、私たちの魂の持つ永遠の価値のゆえに、神は私たちの滅びを大いに悲しまれることでしょう。
まとめ
『各時代の希望』下巻282~292ページを読んでください。エレン・ホワイトはここで、ヨハネ19:30の「成し遂げられた」(「すべてが終った」)という言葉にもとづいて、十字架の神学を展開しています。彼女がここで述べている主な論点を列挙してください。次に、本ガイドとヨハネの福音書に述べられているヨハネの論点を列挙してください(ヨハ2:1~11、6:50~59、16:7~11など)。それから、両者の強調点を比較してください。エレン・ホワイトは「身代わり」の思想をどのように詳述していますか。
「十字架がなければ、人は神と和合することができなかった。われわれのすべての望みは十字架にかかっている。そこに救い主の愛の光が輝いている。罪人が十字架のもとで、彼を救うために死なれたおかたを見上げるときに、彼は満ちたりたよろこびを味わうのである。それは彼の罪が赦されたからである。信仰をもって十字架のもとにひざまずくとき、彼は人が到達できる最高の場所に到達しているのである」(『患難から栄光へ』上巻226ページ)。
「人々がキリストを愛したり、信仰の目で十字架を見ることができるようになる前に、キリストの品性が理解されねばならないことを、パウロは知っていた。永遠にわたって、あがなわれた者の科学となり歌となる学びは、ここで始まらねばならない。十字架の光によってのみ、人間の魂の真の価値が計られるのである」(同294ページ)。
イエスは旧約聖書に記されていた御自分に関する預言をすべてご存知でした(ヨハ18:4)。主はご自分の意志で十字架への道を進んで行かれました(マル10:32~34)。イエスは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」とおっしゃいました(ヨハ10:18)。十字架につけたのはローマの役人でしたが、彼らがイエスを殺したのではなく、主が「自分で」命を捨てたのです。救いの計画は、神の絶対的な選びによって実行されています。旧約聖書にもこの思想を見ることができます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐいあなたの罪を思い出さないことにする」(イザ43:25)。
私たち罪人の側に、神の赦しを受け取る理由や資格は全くありません。神が、私たちを赦すことを一方的に選んでくださったのです。真の愛の特徴は「一方的」ということです。もちろん愛は応答を期待します。しかし、相手から喜ばしい答えをもらえないことがわかっていても、相手がどんなにみじめな姿でも、相手が自分を攻撃してきても、一方的に手を差し伸べていくのが神の愛です(イザ65:2、ロマ10:21)。十字架はその愛を力強く証ししています。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。