中心思想:イスラエルはその罪のために罰せられてきましたが、神の約束に従って神との関係の中で再び生きる時が来ていました。
この記事のテーマ
中央ヨーロッパのある古い城の壁に、ラテン語で短く、“ドゥム・スピロ、スペロ!”と刻まれています。これは、「息をする限り、私は希望を捨てない!」という意味です。この言葉は神の民に対するゼカリヤのメッセージを要約しています。バビロン捕囚から帰還して約20年後、神がなお自分たちと共におられることを疑い始めた神の民のうちには、初期の熱意に代わって失望感が漂っていました。
ゼカリヤ(「主は覚えられる」を意味する)は、ハガイがその働きを始めた数か月後に預言者としての働きを開始しました(ハガ1:1、ゼカ1:1)。ゼカリヤは一連の預言的な幻を通して現在と将来に対する神の計画を学びました。神の永遠の王国は間もなく来ようとしていましたが、預言者は当時の人々に対して、今、主に仕えるように呼びかけました。この書のかなりの部分が、彼らがどのようにしてそれを実行すべきかについて述べています。今回と次回の研究では、主がゼカリヤを通して私たちに何を啓示しておられるかについて学びます。
慰めに満ちた命の言葉
問1
ゼカリヤ書1章〔口語訳1:1~17〕を読んでください。ここに与えられている基本的なメッセージは何ですか。特にゼカリヤ書1:3に注意してください。主は民に何と言っておられますか。
バビロン捕囚からの帰還は残りの民の心を喜びで満たしました。しかし、帰還はまた不安をもたらしました。自分たちの土地にあって、安全が保障されるのでしょうか。再び敵に悩まされることがないでしょうか。神は過去の不実を赦してくださったのでしょうか。なおも神の刑罰が続くのでしょうか。神の選民と諸国民の将来はどうなるのでしょうか。
ゼカリヤは幻の中で、主の御使いがユダの執り成しのために動くのを見ました。御使いは、「いつまでですか」という問いかけをもって始めています。聖書の中では、この問いかけはしばしば民の苦悩や、主に助けを求める嘆願の表現として用いられています(詩編74:10、イザ6:11、ダニ8:13)。問いかけに対する答えは直接、解釈する御使いを通して与えられ、御使いはそれを預言者に伝えています。それには、神の慈愛と慰めを約束する言葉が含まれていました。
彼らの主がエルサレムに対して激しい嫉みを持っておられると宣言するように、ゼカリヤは告げられています(ゼカ1:14、英語聖書参照)。嫉みは否定的な含みを持つこともありますが、聖書においては、それは神の愛を表す表現の一つです。神は御自分の民を愛し、彼らに忠実であるように期待されました。エルサレムに対する神の愛とは対照的に、主は御自分の民を苛酷に扱った諸国の民に対しては怒っておられると、御使いは言いました。諸国の民に激しい非難が向けられているのは、彼らが捕虜たちを苛酷に扱うことによって神の懲らしめによる災いをいっそう厳しいものとしたからです。
ゼカリヤ書1:15には、神が怒っておられるとありますが、神は慰めをもって報いると約束しておられます。預言者が伝えるように命じられた神の目的は、憐れみをもってエルサレムに帰ることでした。主はシオンを慰められますが(イザ40:1参照)、御自分の敵に対しては怒りを下されます。エルサレムは回復され、再び主の住まいとなります。
主は来られる
ゼカリヤ書2章〔口語訳1:18~2:13〕を読んでください。預言者は幻の中で、新しくされたエルサレム、城壁の外まで人であふれるエルサレムを見せられています。それが数え切れないほどの異邦人をも引きつけるだろうというような考えは人々にとって非常に奇異に思われたに相違ありません。ゼカリヤ書2:14には、大いに喜ぶようにとの招きが、続いてその歓喜の理由が記されています。主御自身が来て、御自分の民のうちにお住みになるからです。
主が再建された御自分の家に住むために劇的なかたちでお帰りになることが、捕囚から帰還した民にとって喜びの理由となるのです。シオンは大いなる王の住まいであって、預言者によって愛情を込めて「シオンの娘」と呼ばれています。シオンはその輝かしい将来のゆえに、喜ぶようにと言われています。主御自身がその民を心におとめになるからです。神の民に触れる者はだれでも、神御自身の目の瞳に触れることになるのです(12節)。
主の日には、多くのヘブライ民族以外の民族が来て、主の契約に加わると、預言者は言っています。神の当初の計画は、周辺諸国の民が真の神に対するイスラエルの奉仕にともなう祝福と繁栄を見ることにありました。こうして、彼ら自身、主に連なる者とされるのでした。それによって、イスラエルの残りの民と、信じる異邦人が一つの民となり、そのただ中に主御自身がお住みになるのです。この出来事を通して、アブラムとサラに対する神の約束、すなわち彼らの子孫を通して世界のすべての国民が祝福を受けるという約束が実現するのでした(創12:1~3)。
問2
この預言はどのようにして実現することになっていましたか。ロマ15:9~18、エフェ3:1~8
神はゼカリヤの預言を通して、諸国民が滅ぼされることではなく、彼らが神の契約の民に加えられることを約束しておられます。約束された将来は神自身の導きの結果であり、多くの聖書の預言者たちの願望でした。イエス・キリストは全世界に福音を宣べ伝えるように御自分の教会に命令されました。イエスを受け入れる者はみな救いにあずかるようになるのでした。使徒パウロは主のこの計画を、「世々にわたって隠されていた、秘められた計画」と呼んでいます(ロマ16:25)。
神の自発的な赦し
問3
ゼカリヤ書3章を読んでください。ここで、福音がどのように描かれていますか。
たぶんイザヤ書53章を除けば、旧約聖書の中でゼカリヤ書3章ほど、ただ信仰によってのみ救われるという素晴らしい真理を詳しく啓示している個所は他にはないでしょう。この幻の中で、大祭司ヨシュアは、正式な告訴人であるサタンによってなされた告発にもとづいて裁かれています。大祭司に対する告発は彼の代表する国民にも当てはまります。“ヨシュア”(“イエシュア”)という名前には、「主は救う」という意味があり(マタ1:21参照)、“ジーザス”〔イエス〕と書かれることもあります。
聖書においては、だれかの右側に立つことはその人を弁護し、保護することを意味します。詩編記者は言っています。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません」(16:8、44:4—口語訳44:3参照)。ここでは、告発者は全く逆のことをしています(同109:6)。ヨシュアが神の前で民のために執り成す一方で、サタンは彼らの罪にもとづいて彼らを告発しています。
御自分が、憐れみをもってすでにヨシュアを選んだと言うことによって、主は告発を拒んでおられます。その上、神の民はすでに神の刑罰を十分に受けていました。ヨシュアと残りの民は長期にわたるバビロン捕囚という破滅的な火の中から取り出された燃えさしでした(アモ4:11)。
主の御使いの命令によって、民の罪を表すヨシュアの衣は脱がされます。彼は清められ、救いと義の新しい祭服を与えられます。
最後に、ヨシュアは神の御心を行い、神の道に歩むように命じられています。それは神の豊かな祝福にあずかる方法です。
「大祭司はサタンの告発に対して、自分も自分の民も弁護することができない。大祭司は、イスラエルに罪がないとは主張しないのである。彼は民の罪を象徴している汚れた衣を着て、彼らの代表者として民の罪を負い、み使いの前に立って、彼らの罪を告白するが、彼らの悔い改めと謙遜を指し示して、罪を赦される贖い主のあわれみによりすがるのである。彼は信仰をもって、神の約束の成就を願い求める」(『希望への光』603ページ、『国と指導者』下巻189ページ、一部改訳)。
言うまでもなく、これらの約束はキリストの義で覆われることを意味します。
人間の力によらず
ゼカリヤ書4章を読んでください。ゼカリヤはこの幻の中で、2本のオリーブの木につながった燭台を見ています。それは荒れ野の幕屋の聖所に置かれていた燭台を思い起こさせます(出25:31~40)。七つのともし火皿が油壺の役目を果たす大きな容器の周りに置かれています。
たっぷりと油の入った容器は、聖霊を通して与えられる豊かな神の力を象徴しています。七つのともし火皿は豊かな光を放っていますが、これはあらゆる闇を追い払う神の臨在を象徴しています。オリーブ油が人間の手によらないで燭台の上にある油の壺に木から直接供給されるように、神から与えられる力は途切れることなく、豊かで、いかなる人間の力も必要としません。
預言者に与えられた幻の趣旨は、エルサレムの神殿が間もなく再建されるということです。人間の努力と共に、神の聖霊が作業の完成を保証されるのです。この大胆なメッセージが与えられたのは、建設者たちが「山」(7節)のように大きな障害に直面していたときでした。
燭台がだれを表すかは預言者に告げられていませんが、二本のオリーブの木がユダの二人の指導者、つまりヨシュアとゼルバベルを表すことは確かです。一般的に考えると、ゼルバベルの地位は先祖ダビデやソロモンの持っていた王としての権力や力にとうてい匹敵するものではありませんでした。人間的に見れば、建設者たちの労力や資金は不十分なものでした。しかし、御言葉に約束されているように、王はその軍隊の規模によって、また勇士はその力の強さによって救われるのではありません(詩編33:16)。このように、指導者は、聖霊に導かれるときにのみ、あらゆる奉仕が神の栄光を現すものとなるということを教えられていました。
この預言者の教えを通して、クリスチャンに重要な原則が与えられています。神は私たちに困難な務めをお与えになることがありますが、神は聖霊の働きを通して御自分の目的を達成されます(フィリ2:13、4:13参照)。当時におけると同様に、現在も、神は聖霊を通して御自分の御業を成し遂げる力をお与えになります。それが成し遂げられるのは、人間の力や努力によるのではありません。むしろ、喜んで主に用いられる者たちを通して、主がお働きになるのです。
断食を超えて
ゼカリヤが〔預言者としての〕務めについてから3年目に、ベテルからの代表団がエルサレムに来て、祭司と預言者たちに一つの質問をしました(ゼカ7:1~3参照)。バビロンで捕囚となっていたときには、民は、破壊された神殿を嘆くために5月に断食をしました(王下25:8、9)。これは4月、7月、10月になされた断食に追加されたものでした(ゼカ8:19)。4月には、エルサレムの城壁が破られたことを思い起こすのでした(エレ39:2)。7月の、贖罪日における断食はモーセを通して神によって命じられた唯一の断食日でした(レビ16章参照)。最後の、10月には、民はエルサレムに対する包囲攻撃を嘆きました(エレ39:1)。捕囚が終わり、神殿再建もほとんど完了している今も、なお5月に断食をする必要があるのかどうか、民は疑問に感じていました。
問4
彼らに対する主の答えを読んでください(ゼカ7:8~14)。これらの言葉はどんな意味で、私たち自身にもあてはまりますか。
ゼカリヤを通して与えられた神の答えには、二重の意味があります。第一に、神の民は過ちを繰り返さないために、過去を記憶する必要があります。彼らの先祖たちは信頼と服従をもって生活するように、主から警告を受けていました。捕囚は、彼らの執拗な反逆に対する刑罰でした。それゆえに、民は過去の過ちから学ぶように勧告されているのです。第二に、主は民の空腹をお喜びになるわけではありません。彼らが断食し、主の前にへりくだるときには、悔い改めと謙遜がその行為に反映される必要があります。自分自身のために悲しむために断食することは時間と労力の無駄です。断食はとりわけ、自己に対して死ぬことを表しています。それは、自分を捨て、出て行って、人々の必要に奉仕するために必要とされるものです。「真の断食と祈りの精神は、思いと心と意志を神にゆだねる精神である」(エレン・G・ホワイト『食事と食物に関する勧告』189ページ、英文)。
さらなる研究
「サタンは人々が神に赦しと恵みを求めるならば、それが与えられることを知っている。であるから、サタンは彼らの前にその罪を示して、失望させようとする。彼は神に従おうとする者に対して、常に苦情を言う機会をねらっている。彼は、彼らの最善で最も満足すべき奉仕でさえも、腐敗したもののように見せようとする。彼は、最も狡猾で最も残酷なさまざまの策略によって、彼らを罪に定めようと努めるのである。
人間は自分だけの力では、敵の告発に対処することができない。彼は罪に汚れた衣をまとって、罪を告白しながら、神の前に立っているのである。しかし、彼らの助け主であられるイエスが、悔い改めと信仰によってその魂を彼にゆだねたすべての者のために、力ある嘆願をして下さる。イエスは彼らの訴えを述べ、カルバリーでの大いなるいさおしによって、告発者を打ち破られるのである。神の律法に対するイエスの完全な服従が、天においても地においても、いっさいの権威を彼に与えた。そして彼は、罪深い人間のために憐れみと和解を、天の父にお求めになる。彼は神の民を責める者に向かって言われる。『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。この人々は、わたしの血によって買い取った、火の中から取り出した燃えさしである』。そして信仰をもってイエスに信頼する者に、彼は『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう』という確証をお与えになるのである(ゼカリヤ書3:4)」(『希望への光604、605ページ、『国と指導者』下巻192ページ』)。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年2期『主を求めよ、そして生きよ!』からの抜粋です。