収穫に備える【ヤコブの手紙】#11

目次

この記事のテーマ

ギリシア・ローマ時代(場所によっては今日でも)、高官の訪問があるときは、その前にあわただしい作業がなされました。町の通りはきれいにされ、花が植えられ、店の窓は磨かれ、犯罪の防止が強化されました。すべての努力は、高官が到着したときに、その場所が完璧に見えるようにするためのものでした。

ヤコブ5:7、8や新約聖書の至る所でキリストの「来臨」を意味するために用いられているギリシア語(「パルーシア」)は、王や高官の到着をあらわす専門用語です。もし地球の支配者の到着に先立ってそのような準備がなされたのであれば、私たちの主、救い主を迎えるために、私たちはあらゆる努力をして心の備えをすべきではないでしょうか。

しかし、「その日、その時」(マタ24:36)がわからないのに、私たちはいかにしてそのような備えをすればよいのでしょうか。「忍耐し……心を固く保(つ)」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。このことと「秋の雨と春の雨」(ヤコ5:7)とは、どのようなつながりがあるのでしょうか。今回の聖句の文脈は終末時代のようですが、その基本的なメッセージはあらゆる時代の信者に関係しています。人類史を通じて、また現在の私たちの人生においても、私たちは昔の預言者たちと同様、信仰に堅く立つことを求められる試練と苦しみに直面するからです。

「雨」を待つ

農夫たちの生計は、天候によって直接左右されます。もし雨が多すぎたり、少なすぎたり、あるいは気温が高すぎたり、低すぎたりするなら、作物は悪い影響を受けるでしょう。イスラエルのように乾燥した国では、雨が降る期間が限られているため、適当な時期に十分な雨が降ることの重要性が極めて大きいのです。小さな家庭菜園であれ、大きな農園であれ、作物とその価値は、雨によって直接左右されます。

大抵10月か11月に降る秋の雨は、大地を湿らせ、種蒔き(植えつけ)や発芽に適した状態にします。春の雨は3月か4月に降り、収穫できるように作物を成熟させます。

問1

ヤコブ5:7で、ヤコブはなぜ、主が来られることと結びつけて、このたとえを用いているのだと思いますか(ホセ6:1~3参照)。

「種まきの時と収穫のころに、東方の国々に降る前の雨、後の雨という比喩を用いて、ヘブライの預言者たちは、神の教会に異常なほど豊かに霊的恵みがさずけられることを預言した。使徒の時代の聖霊の降下は前の雨、または先の雨の始まりであった。そして、その結果はすばらしかった。……地上の収穫が終わりに近くなると、教会は人の子イエスの来臨に備えるために、霊的な恵みが特別に与えられると約束されている。この聖霊の降下は後の雨にたとえられている。クリスチャンは『春の雨の時』にこの特別の力を収穫の主に求めなければならない」(エレン・G・ホワイト『父なる神の配慮』212ページ、英文)。

イエスは、「世の終わり」の「刈り入れ」(マタ13:39)について述べておられ、マルコ4:26~29の描写は、ヤコブ5:7の描写ととてもよく似ています。農夫は実が熟すのを待っています。「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(マコ4:28、29)。

どれくらい「迫っている」のか

ヤコブ5:8は、キリストの来臨が迫って(近づいて)いると断言しています。しかし、およそ2000年が過ぎた今、私たちはこの約束をどのように理解すべきなのでしょうか。

イエスはたとえ話を用いて、天の国の到来を説明なさいました(マタ4:17、10:7、24:33)。これらのたとえ話を詳しく調べると、天の国には二つの側面(現在における霊的現実とこれからやって来る栄光の現実)があることがわかります。使徒たちはみな、差し迫ったイエスの再臨に望みをかけていましたが(ロマ13:11、ヘブ10:25、ヤコ5:9)、それがいつのことなのか、はっきと知りたいと願ったとき、イエスは、その情報は彼らが知るべきものではない、と説明なさいました(使徒1:6、7)。結局のところ、もしこの世に福音を伝える働きが2000年以上経っても終わらないと知ったなら、彼らはどれほど熱心にその働きに携わったことでしょうか。

ヤコブは「心を固く保ちなさい」(ヤコ5:8)と言っています。「固く保つ」と訳されているギリシア語「ステーリゾー」は、「しっかりと固定する」ことや「強める」ことを意味します。私たちの心は、圧力がかかっても動じないように、強く主に結びつけられなければなりません。真理に基づいて生活すること(IIペト1:12)、誘惑に負けないこと、試練に耐えること、信仰のために苦しむこと(使徒14:22)——こういったことは、すべてそのために役立ちます。

霊的な成長は、必ずしもたやすい過程ではありませんが、「尊い実り」をもたらします。「キリストの尊い[ティミオス]血」(Iペト1:19)によって贖われた信者は、天の「農夫」にとって無限の価値があります。「ティミオス」というギリシア語は、神の霊的宮、つまり教会の「土台」(Iコリ3:11、12)の石なるキリストの上に建てられる信者を象徴する「宝石」をあらわすためにも使われています。その一方でパウロは、心の定まらない信者を木、草、わらなど——永続せず、キリストがおいでになるときに最終的に火で燃やし尽くされてしまうもの——にたとえています。それゆえに私たちは、自分のエネルギーが最も価値のあるもの、私たちにとって最も尊いもの、尊いお方に向けられているだろうか、と日頃から自問することが重要です。

不平不満を言うことと成長すること

再臨はいつでしょうか。私たちはなぜ、まだここにいるのでしょうか。21世紀の今、疑う者や冷笑する者がいることは、驚くに当たりません。教会の歴史において、これは今に始まったことではありません。イスラエルにとって最大の脅威は、その歴史の始めから終わりに至るまで、敵からではなく、彼ら自身の集団の中から、彼らの心の中からもたらされました。主の来臨が近づくときも同様に、「私たちは外からよりも、はるかに内から脅かされる。……不信を募らせ、疑いを口にし、闇を大事にすることは、悪天使の働きを促し、サタンの策略を実現するための道を開くのである」(エレン・G・ホワイト『終末の諸事件』156ページ、英文)。

問2

ヤコブ5:9を読んでください。ほかの人や、あるいは教会に対するどのような不平不満を、あなたは持ったことがありますか。問題は、あなたがそれをどのように扱ったかです。あなたが神によって赦されたように、柔和、謙遜、赦しをもって扱ったでしょうか(ルカ7:39~50参照)。それとも、この世の基準に従って扱ったでしょうか。正直に考えてみてください。

私たちがヤコブの手紙で先に読んだことからすると、えこひいき(2:1、9)、誤った憶測(2:4)、悪口の言い合い(3:10、4:11)、妬み(3:14)、言い争い(4:1)、世俗化(4:4、13、14)など、信者の間には深刻な問題がいろいろあったようです。ヤコブは一貫して、これらの問題に対する深い解決法——信仰(1:3、6)、「心に植え付けられた御言葉」(1:21)、「自由をもたらす律法」(1:25、2:12)を見つめること、一途さと上からの知恵(3:13、17)、恵み(4:6)、清い手と清い心(4:8)——へと私たちを導いています。彼はまた、苦しんでいる人や忘れ去られた人を訪ねること(1:27)、憐れみを示すこと(2:13)、不和でなく平和の種を蒔くこと(3:18)など、心の中における神の働きは外にあらわれるとも主張しています(2:14~26)。

結局のところ、私たちは神に対して説明責任があるということです。私たちが申し開きをしなければならない方は、裁き主であり、働きに応じてすべての人に報いを与える主です。

辛抱と忍耐の模範

ヤコブ5:10、11を読んでください。イスラエルの預言者たちは、主の言葉を変更したり、妥協させたりすることなく、忠実に伝えました。ヘブライ人への手紙は、神に対する預言者たちの忠誠をたたえて、具体的にこう描いています。彼らは、「獅子の口をふさぎ[ダニエル]、燃え盛る火を消し[シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ]、剣の刃を逃れ[エリヤ、エリシャ]、……投獄されるという目に遭い[エレミヤ、ミカヤ]、……石で打ち殺され[ゼカルヤ、ヨヤダの子]、のこぎりで引かれ[イザヤ]、剣で切り殺されたのです[王上19:10参照]」(ヘブ11:33~37)。言うまでもなく、ヨブの苦しみもよく知られています。妻の冷笑や、彼に同情するためにやって来た友人たちの非難にもかかわらず、彼が忍耐を実証したからです。これら一連の信仰の英雄たちと、平均的な普通の信徒との違いは、何でしょうか。ヤコブはいくつかの特性(辛抱と忍耐、そして何よりも、希望と神に対する信頼)を挙げています。

そのような特性の一つが「辛抱」(ギリシア語で「マクロシュミアス」)で、その原語は「忍耐深(強)さ」「忍耐」とも訳されます。それは、困難な状況や試練に耐えられる能力、人生(や悪魔が)が投げつけてくるどんなものをも乗り越えられる能力を指します。預言者たちは神の御言葉のために、あらゆる苦しみを辛抱強く耐えました(ヤコ5:10)。この言葉は、例えば、長年にわたる寄留生活の間、息子を与えるという神の約束の成就を「根気よく」待ったアブラハムへの言及など(ヘブ6:12、15)、新約聖書の中でたびたび使われています。また、あらゆる苦しみと十字架における死を「忍耐深(く)」耐えられたイエスを描くためにも用いられています(IIペト3:15)。

一方、「忍耐」(ギリシア語で「ヒュポモネー」)という言葉は、ゴールを期待しつつ、このような過程の最終目標に目を向けることです。ヨブはこの特性の典型として挙げられています。彼は、あらゆる苦しみを味わったにもかかわらず、最終的に自分の正しさの証明が得られると揺るぎなく期待し続けました(ヨブ14:13~15、19:23~27)。

光のように透明

ヤコブ5:12を読んでください。ヤコブはなぜ、5章の中や手紙全体の中で語ってきたあらゆることより(「何よりもまず」)重要なこととして、固い誓いをすることを問題視している(ように見える)のでしょうか。私たちは、この手紙の研究の中でずっと見てきたことを心に留めておく必要があります。つまり、私たちが時折耳にする戯画化されたヤコブ像にもかかわらず、彼は表面的な信仰、形式だけの宗教には満足していないという点です。ヤコブは徹底して福音本位であり、極めてそうであるがゆえに、赦しと力を与える神の恵みなしには到達できないほど、基準を高く設定しています。私たちの言葉は、私たちの心の中にあるものを明らかにします(マタ12:34)。イエスは私たちに、「一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である」(同5:34、35)とお命じになりました。ヤコブの神学は、このように命じられたイエスの思想であふれています。ある人たちは、自分の言葉を請け合うために髪の毛を担保にさえしたようです(同5:36)。しかしイエスは、このようなことはすべて罪である、と言われました。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」(同5:37)。

私たちの髪の毛を含めて、あらゆるものは神に属しています。「だから、あたかも自分のものであるかのように、あるものをさして、わたしたちが、自分の約束を果たすことを誓う権利のあるものは何一つない。……クリスチャンのすることはすべて、日光のように透明でなければならない。真実は神からのものである。欺瞞は、その無数の形のどの一つをとっても、みなサタンからのものである」(『希望への光』1151、1152ページ、『思いわずらってはいけません』86、89ページ)。明らかに、キリストは裁判での誓いを禁じておられるわけではありません。なぜならキリスト御自身が、大祭司から宣誓を求められたとき、拒否せずに応じられましたし、司法上のさまざまな逸脱にもかかわらず、その裁きの過程を非難することさえなさらなかったからです(マタ26:63、64)。

私たちが真実を語る際に忘れてはならないことがいくつかありますが、その中で第一にして最も重要なのは、私たちがあらゆる真実を(たとえ自分自身についてさえ)知っていることなどめったにないという点です。ですから、私たちは謙遜でなければなりません。

第二に重要なのは、私たちが真実を語るとき、その言葉は愛において、また聞く者の啓発のために、いつも語られなければならないということです。

さらなる研究

「万事が暗澹としている時に、忍耐強く待ち信頼することは、神の働きの指導者たちが学ばなければならない教訓である。神は逆境の中にある彼らをお見捨てにならない。自分の無価値なことを知って全く神に寄り頼む魂ほど、一見無力に見えるが、真にこれほどに打ち勝つことができないものはほかにないのである。……試練は来るであろう。しかし前進しなさい。これはあなたの信仰を強め、あなたを奉仕に適した者にする。聖なる歴史の記録は、われわれがただそれを読んで驚くだけではなくて、古代の神のしもべたちの中に働いたのと同じ信仰が、われわれのうちにも働くために書かれたのである」(『希望への光』457、458ページ、『国と指導者』上巻143、144ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次