祈り、いやし、回復【ヤコブの手紙】#12

目次

この記事のテーマ

人々は奇跡的なものや不思議なものに魅了されます。彼らはしばしば、見世物や興味本位のことに引かれます。それゆえイエスは、単なる気晴らしのために(ルカ23:8、9)、あるいはメシアであることのしるしとして(マタ12:38~41)、はたまた彼自身の正当な必要を満たすために(マタ4:2~4)奇跡を行うことを求められたときに、拒絶なさいました。聖霊を通じて、キリストは権威をもって教え、奇跡的ないやしをなさいましたが、その聖霊は、用いられるべき単なる力ではありません。私たちは、彼の手の中の道具にならねばなりません。神は病気の者をだれであれ喜んでいやされるでしょうが、神が興味を持っておられるのは、もっと実質的で持続的ないやしです。

それゆえ、このような背景を踏まえたうえで、私たちはいくつかの重要な疑問について考えます。例えば、ヤコブの手紙における病人のいやしに関する言葉を、私たちはいかに理解したらよいのでしょうか。祈りの応えとして、いやしと赦しの間には関係があるのでしょうか。背教が蔓延した時代の祈りの重要な模範としてエリヤが登場しますが、彼の祈りの生活と、イスラエルを神と真の礼拝へ呼び戻した彼の働きから、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

クリスチャンに不可欠な道具

ヤコブ5:13を読んでください。二つの異なるもの(苦しみと喜び)を扱いながらも、苦しんでいるときに祈り、喜んでいるときに賛美しなさいと、ヤコブは祈りと賛美で両者を結びつけています。しかし、二つの習慣はそれほど異なりません。なぜなら、聖書の賛歌の多くは祈りですし、またヤコブは、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(ヤコ1:2、3)と読者に勧めることで、彼の手紙を書き始めているからです。祈りの時と賛美の時は、私たちが通常思っている以上に結びついているのかもしれません。

ヤコブ5:13の「苦しんでいる」に相当するギリシア語は、先に預言者の「辛抱」(ヤコ5:10)を指すために用いられていた言葉と同じ語根から派生したものです。この言葉は、——「何よりもまず、戦争の危険と労苦に対する」(セスラス・スピーキュ『新約聖書神学用語辞典』第2巻239ページ、英文)——肉体的な苦しみと精神的な苦しみの双方を指しますが、心身を疲労させる肉体労働や代償の大きい犠牲も意味します。この言葉はIIテモテ2:9、4:5でも、「どんな困難や苦しみによっても阻まれることのない使徒の過酷な働き」(同第2巻240ページ)を説明するために使われています。クリスチャンである私たちは、困難がやって来ると本能的に神に頼ります。困難に直面するうえで、特に祈りは不可欠ですが、聖なる音楽を歌ったり、演奏したりする——「うたいなさい」に相当するギリシア語の「プサッレトー」は、いずれをも意味します——ことも役立ちます。

「歌をうたうことは祈りをささげることと同様に礼拝の行為である。事実、たいていの歌は祈りである」(『教育』198ページ)。私たちの中に、落ち込んだり、孤独を感じたりしたとき、賛美歌の歌詞を思い出して気持ちを高揚させた人が、どれほどいるでしょうか。私たちの間には、現在苦しみを抱え、励ましを必要としていて、祈りと歌にあふれた訪問で元気づけられる人が大勢います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12:15)。そうすることは、ほかのものにはできないほど、私たちの気持ちも高揚させます。

とりわけ詩編は、私たちがどこに助けを求めたらいいのかわからないときに、ひらめきと励ましと指示を与えてくれる祈りと歌の宝庫です。

病気の人のための祈り

問1

ヤコブ5:14、15を読んでください。病気の人に油を塗るための不可欠な要素は何であると、ヤコブは規定していますか。また、これらの聖句の中には、どんな重要な霊的要素が見いだされますか。

病気の人が、「教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらい」たいと願うとき、その事実は、個人としての霊的欲求と、いやしのためには神の介入が必要であるという集団としての確信をあらわしています(マコ6:13)。[先の聖句に]罪の赦しへの言及があることは、神は儀式によって、霊的いやしをも望んでいる人でなければ、肉体的に回復なさらないことを示しています。「健康回復のため祈りを求める人には、自然の法則であれ、霊的な律法であれ、神の律法を犯すことは罪であり、神の祝福を受けるためには罪を告白し、罪を捨てなければならないことを、はっきりと教えなければならない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』218ページ)。

神の介入の要請と教会の長老たちの招集とは、その病気が極めて深刻であり、恐らくは、通常の教会の集まりで扱うには緊急すぎることを示唆しています。先の聖句では、病気をあらわす二つのギリシア語が使われており、一つ目の言葉(14節の「アスセネオー」)は、「病気になって死んだ」(使徒9:37)ドルカスにも用いられています。二つ目の言葉(15節の「カムノー」)は、通常病気の人を指しますが、死にかけている人にも用いられ、ここでの文脈では、肉体的に痩せ衰えた人か、衰弱している人を意味しているようです。神の御心がいかなるものであれ(Iヨハ5:14)、いやしを望む気持ちには、その御心に全面的に服従することが求められます。しかし、病気の人を「救い……起き上がらせ(ること)」への言及は(ヤコブ5:20の「死から救い出し」と比較)、唯一の完全ないやしをあらわす復活——つまり「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」(Iコリ15:54)——を間違いなく指し示しています。

魂のいやし

肉体のいやしよりも重要なのは、魂のいやしです。結局のところ、私たちの目的は、人々をより健康な罪人にすることではなく、イエスの中に見いだされる永遠の命を彼らに指し示すことです。今回の聖句(ヤコ5:13~20)において、はっきりといやしに触れているのが暗唱聖句の16節だけであるのは、そのことが理由なのでしょう。その16節は、13~15節で扱われている仮定の状況から離れています。この節で用いられている「いやし」に相当するギリシア語(「イアオマイ」)は、肉体的な病気のいやしにとどまりません(例えば、マタ13:15参照)。より広い意味でのいやし(復活)が、すでに15節で示唆されていたように、ヤコブは病気と罪を結びつけており、後者は私たちのあらゆる問題の根本原因です。これは、すべての病気が特定の罪に由来するという意味ではなく、病気や死は、私たちがみな罪人であることの結果だという意味です。

問2

マルコ2:1~12を読んでください(ヘブ12:12、13、Iペト2:24、25と比較)。これらの聖句は、どのような種類のいやしを描いていますか。また、そのいやしの根拠は何ですか。

イエスに対する信仰は、霊的弱さや罪からのいやしをもたらします。ある意味で、イエスがなさったすべてのいやしは、心の奥深くに潜む救いの欲求を人々に気づかせるためのたとえ話となりました。マルコ2章の中風の男の場合、実際には霊的いやしが彼の最大の関心事であり、それゆえにイエスは、男の罪が赦されたと即座に断言なさいました。「しかし彼が熱望したのは肉体的な回復よりもむしろ罪の重荷からの解放だった。もしイエスにお会いすることができて、罪のゆるしと天のやわらぎの保証が与えられるなら、神のみこころにしたがって死のうが生きようが満足だった」(『希望への光』802ページ、『各時代の希望』上巻337ページ)。今日、神に仕えるいやし手たちは、病気を治すために入手可能なあらゆる医療手段を用いるべきですが、努力は人間全体をいやすためになされなければなりません。この世の命のためだけでなく、永遠を視野に入れて努力すべきです。

いやしには関係のいやしも含まれており、それゆえに私たちは、「罪を告白し合い……なさい」(ヤコ5:16)と勧められています。つまり、私たちがだれかを不当に扱ったり、傷つけたりしていたなら、相手に告白しなさい、ということです(マタ18:15、21、22)。そうするときに、主の祝福があなたに注がれるでしょう。なぜなら、告白の過程には自己に死ぬことが含まれており、その死を通してしか、キリストはあなたの内に形づくられないからです。

祈りの模範

ヤコブ5:17、18を読んでください。これらの聖句は、ヤコブ5:16の後半に与えられている確証(「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」)を説明しています。エリヤは「正しい人」で、天に移されもしましたが、超人ではありませんでした。彼にも、私たちと同じ情熱や感情があったのです。神が彼の祈りに応えられたという事実は、私たちの祈りも聞かれると私たちを励ましてくれます。ヤコブは、「雨が降らないようにと[エリヤが]熱心に祈った」(ヤコ5:17)と述べています(旧約聖書に詳細は記されていません)。どうやら彼は、(ヤコブ5:18に示唆されている)申命記11:13~17の成就を嘆願したようです。

嵐と稲妻の神であるバアルに対するイスラエルの礼拝が、申命記のこの預言に基づいて、問題視されずにまかり通ることはありえませんでした。祈りが応えられるまでに、エリヤがどれくらいの期間祈ったのかはわかりませんが、彼の嘆願は、現状を踏まえたうえでの神の御言葉の注意深い研究と熟考に基づいていました。エルサレムのためのダニエルの祈りが、エレミヤの預言の研究に基づいていたように(ダニ9:2、3参照)、もしかしたらエリヤは、祈りの一部として申命記の預言を引用したのかもしれません。私たちの祈りもまた、それが神の御言葉を踏まえて自分たちの状況に対する周到な考慮から生じるとき、一層効果的なものになるでしょう。

雨が降らなかった3年半という期間は(ルカ4:25でも言及されており)、聖書の中で暗示的な猶予期間です。イエスの3年半の公生涯を意味するダニエル9:27の「半週」や、キリスト教の背教を意味するダニエル7:25、黙示録12:14の「三時期(年)半」といった預言の期間のように……。この期間の終わりに、神はエリヤを用いてイスラエルを目覚めさせるためのリバイバルと改革の働きをお始めになりました。その働きは、バプテスマのヨハネが、キリストの初臨の道備えを紀元1世紀のイスラエルにさせるためになした働きと、キリストの再臨の道備えを人々にさせるために、神が御自分の残りの教会に託された働きの両方を象徴するものでした(マラ3:23、24[口語訳4:5、6]、マタ11:13、14参照)。

回復と赦し

神の霊は、イスラエルと神との関係を回復するために、エリヤを通して働かれました。しかし、エリヤの働きの大半は、カルメル山でなされたのではありません。あの山での働きは、始まりにすぎませんでした!彼が自分の仕事を進めたのは、小さな村々や家々においてであり、(リバイバルと改革の働きを広げるために)預言者の学校を通じて将来の霊的指導者を訓練することにおいてでした。

ヤコブ5:19、20を読んでください。私たちはしばしば、来る年も、来る年も、エリヤによってなされた優しく、忍耐強い働きを忘れています。バプテスマのヨハネの働きもまた、人々を真理に引き戻すことに焦点を合わせ、一度に1人を悔い改めに導き、バプテスマを授けるものでした。イエスも御自分の働きを、人々を誤りから抜け出させ、真理へと連れ戻すことだと(ヨハ8:43~45参照)、よく似た言葉で説明なさいました。

ヤコブ5:19、20に記されている仮定の状況は、原語において条件構文が用いられており、背教は間違いなく存在しているのではなく、起こりそうだと思われていることが明らかです。真理から迷い出るというのは、教理的な背教だけでなく、生き方における背教も指しています。というのは、非常にしばしば、前者が後者につながるからです。私たちの信仰に関して疑いが生じ始めると、それは心の定まらない行動へつながり、最終的に完全な背教に至ります。「罪人を迷いの道から後戻りさせることは、その罪人の魂を死から救い出す」(ヤコ5:20の直訳)。これまでのことを要約するなら、ヤコブは教会の兄弟たちに、人々を神に導き返すエリヤの働きと同じ働きをするようにと訴えています。

この働きには、多くの忍耐、共感、優しさ、謙遜が必要とされます。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」(ガラ6:1)。エリヤの働きは、心を神と神の民に向かわせることであって、背けさせることではありません。人はしばしば自分の罪をよく知っており、指摘される必要がありません。はるかに必要とされているのは、イエスが模範を示し、その死によって与えられた赦しです。死から魂を救うことは、罪を覆い(箴10:12)、福音を私たちの生活に適用して憐れみの道具となることによってしか起こりえません。

さらなる研究

「キリストは……人類を救うために、われわれがキリストと一体となるように求めておられる。『ただで受けたのだから、ただで与えるがよい』とイエスは言われる(マタイ10:8)。罪はすべてのわざわいの中で最大のものであるから、われわれは罪人を憐れみ、助けねばならない。まちがいを犯して、恥ずかしさと愚かさを感じている者がたくさんいる。彼らは、励ましのことばに飢えている。彼らは、自分の過失や誤りをながめて、ついにはほとんど絶望に追いやられる。このような魂を無視してはならない。……傷ついている人にいやしの香油となるような信仰と勇気のことばを語りなさい」(『希望への光』936ページ、『各時代の希望』中巻308ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2014年4期『ヤコブの手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次