この記事のテーマ
甘い言葉を口にし、エバの幸福にとても関心があるかのように見えるそのまばゆい蛇の背後には、彼女を死に陥れようと画策する敵が隠れていました(創3:1~6)。サタンは「光の天使」(IIコリ11:14)を装い、人類にとって最も危険なわなを仕掛けます。しかし、さらに危険で欺瞞的なのが自己偽装(本来の自分でないふりをすること)です。私たちが、自分を自分でない誰かだと主張するとき、最終的に、ほかの人や自分自身さえも欺くことになります。
人を欺く方法はいろいろありますが、最も一般的な方法は、言葉によるものです。今回の箴言の中には、言葉、うそ、お世辞、醜い考えや意図を隠すために聞こえの良さやすばらしい感想を用いる美辞麗句などを扱ったものがあります。私たちは、自分がほかの人に何を言うかということに関してだけでなく、ほかの人が私たちに言うことをいかに解釈するかということに関しても、注意深く振る舞う必要があります。おそらく今回のメッセージは、次のように要約することができるでしょう。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタ10:16)。
神の神秘
人生は神秘に満ちています。物理学者のデイビッド・ドイッチュは、かつて次のように書きました。「基礎物理の用語で表現するとき、あらゆる出来事は途方もなく複雑である。もしあなたが電気ポットに水を満たし、スイッチを入れたとして、地球上のすべてのスーパーコンピューターが宇宙の年齢ほどの期間作動しても、その水の分子がするであろうことを予測する方程式を解くことはできない。たとえ私たちが、それらの分子の初期状態や分子への外的影響の状態をどうにか測定できるとしても、それ自体が処理しがたい仕事である」(『無限の始まり—この世界を変える説明』107ページ、英文)。
もし私たちが水の分子のようなありふれたものにさえ当惑するのであれば、神の神秘を理解できると期待することなどできるでしょうか。
問1
箴言25:2、3を読んでください。著者はどのようなことを指摘していますか。私たちはそれを、いかに幅広い状況に適用できるでしょうか。
神の誉れと王の誉れとの間に一線を画すものは、神の「神秘的な」御性質と、暗示されているところの、神を十分に理解できない人間の無能さです。英語の‘mystery’という言葉の源であるヘブライ語の語根‘(str)’(「秘密にする」「隠す」)は、しばしばヘブライ語聖書の中で、神を唯一の真の神とするものを説明するために用いられています(イザ45:14、15)。神には、私たちがどうしても理解できない部分があります。その一方、王の誉れをもたらすものは、彼らが細かく調べられるのをいとわないことです。透明性と説明責任は、指導者の第一の資質でしょう(申17:14~20)。「ことを極める」(箴25:2)こと、つまり出来事を説明したり、自分が行っていることを説明したりすることは、王の義務です。
賢者としての愚か者
新しい作り話ではありませんが、(とりわけ西洋社会において)真理の相対的な性質を主張する考えが近年定着しています。つまり、ある人やある文化にとって正しいことは、ほかの人やほかの文化にとって正しくないかもしれないということです。あるレベルで見れば、確かにこれは正しいのですが(例えば、ある国では道の右側を運転し、ほかの国では左側を運転します)、別のレベル(とりわけ道徳の分野)では危険な誤りです。私たちの住んでいる場所や個人的な好みにかかわらず、あることは善であり、そのほかのことは悪です。ですから、私たちは自分の考え方(見解)を神の御言葉とそこに見いだされる真理に、いつも従わせましょう。御言葉は、私たちが是非や善悪を知るための究極の拠り所でしょう。
箴言26:11、12を読んでください(士師21:25、Iコリ1:20、21、2:6、7、IIコリ1:12も参照)。知ってのとおり、自分の目に正しいことをするという考えは、今に始まったものではありません。しかしこの考えは、当時も今も間違っています。先に触れたように、私たちのだれ1人としてすべてを理解してはいません。それどころか、私たちは何一つとして十分に理解していません。私たちにはみな、成長すべき領域、学ぶべき領域があります。それゆえ、自分はすべての答えを持っていないという事実を常に認める必要があります。
先の箴言(箴26:11、12)にあるように、私たちが愚か者を憂慮するのは、彼らの愚かさの影響が彼ら自身にとどまらないからです。自分の知恵に対する彼らの確信は深まるばかりなので、彼らは愚かさを繰り返します。彼らは、ほかの人が彼らを賢いと思い、彼らを称賛し、大きな問題を引き起こしかねない助言を彼らに求めようとするほど(同26:8)、確信を持っていることさえあるでしょう。愚かさは「知恵」というラベルを付けて広まり、さらに有害なものになることがあります。そのうえ、愚か者は非常に愚かなので、自分の愚かさを自覚していません。
怠け者
「怠け者は鉢に手を突っ込むが/口にその手を返すことをおっくうがる」(箴26:15)。
勉強するためよりも、カンニングの準備をするために多くの時間と労力を使う学生のように、怠け者が自分の怠惰の言い訳を見いだすために努力するというのは、皮肉なものです。
箴言26:13~16を読んでください。「道に獅子が、広場に雄獅子が」(箴26:13)いるという怠け者は正しいかもしれません。それゆえ、家にこもって、危険に遭遇しないようにすることは賢明です。しかし、私たちはそのとおりにすることで、人生が提供するあらゆる機会を逃します。もしバラのとげで傷つくリスクを冒さないなら、私たちはその美しさを楽しむことができないでしょう。もし障害を恐れるなら、私たちは決して前進できないでしょうし、行動しようとしない人は、充実した人生を味わうことが決してできません。
先の聖句に出てくるほかの比喩に目を向けてください。扉がちょうつがいの部分で回転するだけで、どこへも行かないように、怠け者は自分のベッドで寝返りを打ちます。つまり、彼らも体の向きを変えるだけで、どこへも行きません。
15節のもう一つのたとえは、さらに衝撃的です。彼らは食べ物の器に手を突っ込むことはできるのに、あまりにも怠惰なので、食べるためにその手を戻すことができないというのです。
しかしもっとひどいのは、彼らの知的怠惰、了見の狭さ、彼ら自身の立場に対する確信です。それゆえ、彼らは常に正しく、7人の賢者よりも賢く(箴26:16)、彼らの考えよりも賢明であろうほかの考えに心を開こうとしません。すべての答えを持っていると思う人は、たいてい持っていないものです。
敵としての友人
もし私たちが敵よりも友人によって失望しているとしたら、それは、私たちが友人には善を、敵には悪を期待しているからです。しかし、必ずしもそのようになるとは限りませんよね。だからこそ、「箴言」は、ときとして友人は敵のように振る舞い、敵は友人のように振る舞うと私たちに警告しています。
問2
箴言27:5、6を読んでください。どのようなときに叱責は愛のしるしになりえますか。
接吻や甘い言葉だけが愛ではありません。ときとして私たちは愛のゆえに、やむをえず友人や子どもたちを叱責し、不愉快で、断罪的で、批判的に見られる危険を冒します。遠慮なくずばり言うなら、私たちは友人を失うかもしれません。しかし、もし友人のしていることについて(とりわけ、それが彼らに災いをもたらすのに)、私たちが彼らに警告しないとしたら、私たちはなんといいかげんな友だちでしょうか。率直な叱責は、愛が錯覚や見せかけの上に成り立っているのではなく、真実と信頼に基づいていることのしるしです。
問3
箴言27:17を読んでください。友人同士の対立は、どのような結果をもたらしえますか。
鉄をもって鉄を研ぐというたとえは、相互利益を示唆しています。真の対立を乗り越えた友情は、その友情の質を向上させるだけでなく、両者の人格を刺激し、強めるでしょう。それぞれの武器が鋭くなり、結局、将来の戦いに備えて装備を高めることになるでしょう。自分自身の考えだけに逃げ込み、異なる見解という挑戦に立ち向かわない人は、知識においても、品性においても、成長しないでしょう。
友人としての敵
問4
箴言26:17~23を読み、そこに書かれていることを要約してみてください。
「箴言」は、再び言葉の力を取り上げ、今回は悪口や口論によってもたらされる害を扱っています。自分をあなたの味方と思わせるために、あなたの目の前であなたの敵の悪口を言う人は、まるで「炭」(21節)のようです。彼らは口論に燃料を加え、あなたをさらにやっかいな火の中へ追い込みます。
同様に、雄弁に聞こえる燃える唇は、心に悪意を隠していることがあります(23節)。当選したい政治家、物を売り込みたいセールマン、女を口説き落としたい遊び人—彼らはみな、雄弁の力を知っています。
この箇所(箴26:17~23)の教訓は、耳にするすばらしい話を鵜呑みにしてはいけないということです。それらはすばらしいからこそ、危険である可能性があります。ある人たちは話がとても上手で、説得力があり、誠実で、思いやり深く聞こえるのですが、心の中では、まったく違うことが進行しています。私たちはみな、このような人たちの犠牲になったことがあります。彼らは、自分が考えたり、感じたりしていることとはまったく違うことを口にするのです。「箴言」はここで、このような欺きを強く非難しています。
「クリスチャンのするあらゆることは、日光のように裏表があってはよくないだろう。真実は神のものであり、欺きは、どのような形であれ、サタンのものである。……正確に真実を語るというのは、楽なことでも簡単なことでもない。私たちは真実を知らなければ語ることができないし、先入観、精神的偏見、不十分な知識、判断ミスなどが、私たちの関係する事柄の正しい理解をどれほどしばしば妨げていることだろう。私たちの心が真理であられる神によって常に導かれていなければ、私たちは真実を語ることができない」(『キリストを映しつつ』71ページ、英文)。
さらなる研究
「神の霊の働きは、私たちの能力や才能を用いる必要性を私たちから取り除くことではなく、神の栄光のためにすべての力を用いる方法を私たちに教えることである。神の恵みの特別な指導の下にあるとき、人間の能力はこの世で最高の目的のために用いられうる。無知は、キリストの弟子と自称するいかなる人の霊性や謙遜を深めることはない。神の言葉の真理は、知的クリスチャンによって最も理解されうるのである。キリストは、知的に彼に仕える者たちによって最も栄光をお受けになる。教育の最大の目的は、聖書の宗教をあらわし、神の栄光を広めるような形で、私たちが神から与えられた力を使えるようになることである。
私たちは、託された才能のゆえに、私たちを生み出された神に恩義があり、これらの才能を育て、高めることは、私たちが神に対して負っている義務である」(『次世代につなぐ信仰—両親、教師、生徒への勧め』361、362ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。