この記事のテーマ
いろいろな所から、いろいろな声が聞こえてきます。何が正しく、何が間違っているのか、人はどうしたらわかるのでしょうか。その答えは神の中にあるとともに、書かれた神の啓示の中にあります。私たちは神に信頼し、神の律法に従うことを学ぶ必要があります。そうすれば、ほかのことは自ずとそれに従うでしょう。
イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタ6:33)、そうすれば私たちが必要とするものはすべて与えられるだろう、とおっしゃったとき、彼はこのことを言っておられました。私たちは神を信じ、神に従うことを最優先しましょう。さもなければ、何かほかのもの(こと)、まさに偶像礼拝を、最優先することになるでしょう。そして、私たちは、信仰生活を送ることによってだけ、神を信頼することを学ぶことができます。クリスチャンの歩みとは、まさに「歩くこと」です。私たちは、主から命じられたことをするという選択をしましょう。そしてその結果は、主にお任せするのです。
律法を守る
「律法」あるいは「教え」を意味する「トーラー」という言葉は、「箴言」の中に13回登場しますが、そのうちの4回は28章の中においてです(4節で2回、7、9節で1回ずつ)。「箴言」でこの言葉が使われるとき、普通は賢人の「教え」(箴13:14)を意味しますが、イスラエルの伝統において、この言葉は霊的な含みを持ち、「箴言」それ自身が裏づけているように(同29:18)、神の啓示を指すこともあります。
問1
箴言28:4、7、9を読んでください。これらの聖句は、私たちの生き方における律法の大切さについて、どのようなことを述べていますか。
イスラエルにほかの国民との違いをもたらしたのは、彼らの考え方でもなければ、彼らの「霊的」で抽象的な神学上の見解ですらありませんでした。彼らを「聖」としたのは、つまり、ほかのあらゆる国民から「区別」したのは、とりわけ食べ物、休息、自然環境といったことに関する、生活上の具体的な選択でした。そしてそれらの選択は、理想的には、律法と、律法の中に見いだされる諸原則を軸としたものでした。
結局のところ、私たち人間は独力で賢くなることはできません。善悪を判断することさえ、必ずしもできるというわけではありません(王上3:9)。それゆえ、私たちは見分ける力を獲得するために、神の律法の助けを必要としています。言い換えれば、知恵の獲得は、知的訓練や霊的訓練にかかっているのではなく、私たち自身や私たちの文化、私たちの個人的性格や私たちの欲望とは無関係な律法を守ることと基本的に結びついているということです。
言うまでもなく、この律法は神の永遠の律法です。そして、この律法に従うことこそ、まさに信仰の行いです。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ロマ1:16、17)。
主を尋ね求める
信仰生活にとっていかに重要であったとしても、律法(トーラー)それ自身は、命の源ではありません。それどころか、律法は罪を指摘し、罪は死をもたらします(ロマ7:7~13参照)。トーラーを有効にするのは、神からもたらされるものです。神から離れては、トーラーは神の当初の意図とは無関係な律法主義的教義となるでしょう。神の律法を守る生活は、神とともに生きる生活と結びついているからです。トーラーは神に置き換わるものではなく、(パウロの比喩によれば)学ぶ者を教師のもとへ導く養育係にすぎません(ガラ3:24)。
問2
ガラテヤ3:24を文脈に即して読んでください。私たちが「信仰によって義とされる」ために、律法はどのようにイエスを私たちに指し示すのですか。
「箴言」は、単なる知恵の書ではありません。それは第一に、知恵を啓示してこられた神に関する本です。律法を守ることによって知恵を尋ね求めるなら、私たちは主に近づけるとともに、イエスに対する信仰によって無償で与えられる救いに近づけるでしょう。
箴言28:5を読んでください。「教え(律法)」という言葉が4節において2回使われているように、「理解する」という言葉が5節において2回用いられています。二つの聖句にはつながりがあります。教えを守ること(4節)と主を尋ね求めること(5節)は、一体です。しかしその活動範囲は、正しいこと(「公義」[5節、新改訳])を知り、それを行うことだけではありません。この理解は「すべて」に関係しています。なぜなら、この理解が「すべて」の神に由来するからです。古代イスラエルにとって、すべてを知ることと宗教的体験とは、切り離されていませんでした。信仰は、知性や論理的理解と密接に結びついていました。思考なき信仰を持つことも、信仰なき思考を持つことも、ありえないことでした。なぜなら、いずれの領域においても神が基礎であられたからです。
金持ちのための言葉
問3
Iヨハネ2:15~17を読んでください。私たちはここで、どのようなことを警告されていますか。これらの聖句が語っている危険から、私たちはどうすれば自分自身を守ることができるでしょうか。
「富」が何を意味するのか、その考え方には大きなばらつきがあります。しかし「箴言」には、「富」をいかに得るか、そしてひとたび得たその「富」をいかに扱うかに関して、いくつかの諭しが含まれています。
①弱者(貧しい人)を犠牲にして富んではならない(箴28:8)—もしあなたの富が弱者を犠牲にして得られたものであるなら、それは正当化されません。すでに見てきたように、聖書は、私利私欲のために弱者を食い物にする人々を強く非難しています。
②貧しい人に与えなさい(箴28:27)—箴言28:25の「貪欲な者」(「貪欲」の文字どおりの意味は、「魂の飢えや食欲が大きいこと」)とは対照的に、貧しい人に気前のよい人たちは祝福されます。
③一生懸命働きなさい(箴28:19)—富は、盗みの結果として生じたり、偶然によって生じたりすべきものではなく、私たちの懸命な働きに対する報酬として生じるべきものです。得られるものは、私たちの労働の質によって決まります。もし私たちが富んでいるなら、それは当然の権利でしょう。
④急いで富を得ようとするな(箴28:20、22)—箴言は可能性のある二つのシナリオを提示しています。(1)何らかの不正行為に目をつぶり、結果として、その行為に加担する場合(箴28:20)。(2)親の財産を享受したいと強く思うあまり、親が今必要としているものを奪う場合(同28:24)。さらに悪いことに、こういったことをする人たちは、自分が何も悪いことをしていないとひとり合点するまで、その不正行為を心の中で正当化します。それゆえ、「これは罪ではない」と、彼らは言うのです。
貧しい人のための手引き
箴言29:13を読んでください。貧しい人も富める人も同等です。この箴言で用いられている光のたとえは、この問題を天地創造の視点から捉えています。貧しい人も富める人も神によって造られました(同22:2)。両者はともに命という賜物を享受し、太陽は両者を照らします。富める人が、貧しい人の扱い方について警告されていたように、貧しい人は彼らを虐げる者(ときとして、富める人〔マタ5:44、45〕)さえ愛さなければなりません。
箴言28:3を読んでください。貧しい人は、富める人と同じ義務を負っています。貧しさが不正行為の言い訳になるべきではありません。あなたが虐げられてきたからといって、その事実は、ほかの人を虐げてもよいという権利をあなたに与えはしません。自分よりも貧しい仲間を虐げた容赦なき家来に関するイエスのたとえ話(マタ18:21~35)は、このような対応が、貧しい人の側では思いがけないものだとしても珍しくなかったことを示しています(貧しい人は、ほかの貧しい人に対してもっと情け深いだろうと思われがちですが……)。箴言28:3において、通常祝福を意味する雨が、破壊的な激流に変わっています。この比喩は、その行為の異常さとそれがもたらす失望とを説明しています。
箴言28:6を読んでください。正しき貧しい人は、悪しき富める人よりも幸いです。昔ながらの知恵によれば、正しい人が貧しいはずはありません。なぜなら、貧しさは怠惰に対する罰と考えられていたからです(同24:34)。しかし、現実の人生はもっと複雑です。貧しい人は、不正行為や手に負えない状況の犠牲者かもしれません。それはよくあることです。にもかかわらず、「箴言」によって擁護されている価値の尺度は明瞭で、曖昧さがありません。正しさは富よりも重要であり、成功は正しさの絶対確実な指標ではありません。
真理を愛する
パウロは失われた人々について書きながら、彼らは「真理を愛そうとしなかった」(IIテサ2:10)と述べています。私たちが自分の子どもや生徒、あるいは私たちから学ぼうと心を開いているすべての人に教えることのできるあらゆる事柄の中で、たぶん最も重要な教訓がここにあります。言うまでもなく、イエスは真理であられるので、真理を愛しなさい、とだれかに教えることは、イエスを愛しなさい、と教えることです。もっと重要なことがほかにあるでしょうか。
「真理に到達しようとの純粋な目的を持っているかぎり、われわれは、万物の中に働き、また万物を通して働いておられる目に見えない大能の神に触れるようになるのである。人間の思いは、神のみこころに交わり、有限な人間が無限の神と交わるようになるのである。こうした交わりが、人の知、徳、体におよぼす影響には、測り知れない価値がある」(『教育』3ページ)。
箴言29:15を読んでください(同29:19も参照)。教育だけでなく、人生全般における重要な原則が、ここに見いだされます。
私たちの模範的行動は、(とりわけ、私たちが叱ったり、罰したりできない相手には)重要です。しかし、ときにはそれ以上のものが必要とされます。このことは、特に私たちの子どもに当てはまります。ときとして子どもたちは、協調のために罰せられる必要があります。
私たちの本質はすっかり堕落し、腐敗しており、私たちが愛するかわいい小さな存在、つまり私たちの子どもたちですら、その例外ではありません。私たちは望むことを何でもさせることによって、自分の子どもや自分自身を益することができません。実際のところ、子どもたちは訓練を必要としているだけでなく、それを望んでいます。彼らは、境界線が存在すること、その中にとどまっていなければならないことを知る必要があります。自分の子どもの自由を尊重しなければならないと信じ、わが子に「ダメ」と言うことなく、したい放題にさせる母親は、最終的に自分自身に「恥」(箴29:15)を、子どもに悲しみをもたらすでしょう。たとえ今でないとしても、子どもたちが大人になったときにそうなるでしょう。
さらなる研究
「神の律法は、不変の公正さに基礎を置いており、それを守る者たちの幸福が増し加わるように作られている。……宗教は、神との個人的な関係に人を至らせるが、そこで終わらない。なぜなら、人類を助け、祝福する天の原則が実現されることにあるからである」(『神の息子・娘』267ページ、英文)。
「神のために子どもをしつけることをまったくしなかったために、悪は永続し、思慮深く世話をすればキリストの共労者になっていたかもしれない多くの人を敵の軍団に送り込んできた。誤った考えと愚かで間違った愛情が、子どもを愛らしくなく、不幸にする習性、親たちの人生を辛いものにする習性、有害な影響を何世代にもわたって及ぼす習性を育んできたのである。自分の思いどおりにすることを許された子どもは、だれであれ、神を侮辱し、両親の面目を潰すだろう。……親たちは自分の義務を怠り、子どもを誤って甘やかすことで、わが子が神の都の門を通れないようにしている」(『教会へのあかし』第5巻325、326ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。