イエスの使命【ルカによる福音書解説】#8

目次

この記事のテーマ

もし私たちがイエスのためのミッション・ステートメント(宣教声明)を作成しなければならないとしたら、彼自身の次の言葉を繰り返すことが最善でしょう。「失われたものを捜して救う(こと)」(ルカ19:10)。

何が失われているのでしょうか。それは、神から離れ、死の支配下にあり、恐れ、失望、絶望に満たされている人間そのものです。私たちのために何もなされなければ、人間はみな失われるでしょう。

しかしイエスのおかげで、私たちには希望を持ちうる大きな理由があります。

「人間は神に背いて自ら神に遠ざかり、ついに地は天より切り離されてしまいました。このだれも渡ることができない深い淵を、再びつないで地と天と[を]結びつけてくださったのはキリストです。キリストは御自らの功績によって罪の結果である深い淵に橋をかけ……てくださいました。キリストは、罪に沈んだ弱い無力な人間を限りない力の源につないでくださるのです」(『キリストへの道』改定版26ページ)。

創世記から黙示録に至るまで、聖書は失われた人間を捜す神の物語です。ルカはこの真理を三つのたとえ話—「見失った羊」(ルカ15:4~7)、「無くした銀貨」(同15:8~10)、「放蕩息子」(同15:11~32)—を用いて説明しています。

「見失った羊」と「無くした銀貨」

ルカ15:4~7を読んでください。この箇所は、私たちに対する神の愛について教えています。見失った羊を捜しに出かけたのは、羊飼いでした。

私たちに冷淡で無関心な世の中において、このたとえ話は驚くべき真理を明らかにしています。神は私たちを愛するあまり、自ら私たちを捜し、彼のもとに連れ戻してくださるというのです。私たちはしばしば、神を探し求める人のことを話題にしますが、実際には、神が私たちを捜しておられるのです。

「キリストに献身した魂は、キリストの御目には、全世界よりもとうといのである。救い主は、ひとりがみ国に救われるためであっても、カルバリーの苦悩を経験されたであろう。主は、ご自分がそのために死なれた魂を決してお捨てにならない。イエスに従う者たちが自分からイエスを離れようとしない限り、イエスは、彼らを固くひきとめておられる」(『希望への光』925ページ、『各時代の希望』中巻280ページ)。

ルカ15:8、9を読んでください。このたとえ話は、ルカによる福音書の中にしかありません。無くした銀貨には、次の二つの意味のうちのいずれかの意味があったようです。第一は、イエスがおられた当時のユダヤは貧しい人であふれており、ほとんどの家では、(ドラクメ)銀貨1枚が辛うじて家族を飢え死にさせないだけの日当よりも多かったらしいということ。第二は、既婚者のしるしとして、女性たちの中には、10枚の銀貨(貧しい家庭の場合、長期間にわたって貯めた大金)で作った髪飾りをつける者たちがいたということです。

いずれの場合にしろ、それを失うというのは深刻な問題でした。それゆえにすっかり落ち込み、嘆き悲しんだこの女性は、明かりをつけ(家には窓がなかったか、あったとしても小さいものだったのでしょう)、ほうきを手に取り、家の中を隅から隅まで捜します。そして、とうとうその銀貨を見つけます。女性の心は喜びでいっぱいになり、あふれ出たその喜びは、彼女のすべての友人にも及んでいます。

「銀貨は、ちりやほこりの中に落ちていても、銀貨であることに変わりはない。銀貨には価値があるから、さがすのである。そのように、どんなに堕落していても、人の魂は、神のみ前には尊い価値がある。貨幣には、統治者の像と記号が刻まれているように、人類には、創造の初めから、神のかたちと記号とが刻まれていた。そして、今こそ罪の影響によって神のかたちが損なわれて薄らいだとはいえ、まだその記号がかすかながらすべての魂に残っている」(『希望への光』1259ページ、『キリストの実物教訓』174ページ)。

放蕩息子のたとえ話(その1)

古今を通じて、放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11~32)は、赦しの愛について語られた最も美しい短編物語と称賛されました。ルカだけが記しているこの話は、愛情深い父親と2人の息子のたとえ話と呼ぶことができるかもしれません。1人の息子は父親の愛情よりも遠い国での放縦を選びました。もう1人の息子は家にとどまることを選びましたが、父親の愛情も兄弟の意味も十分にわかっていませんでした。このたとえ話は七つの部分に分けて学ぶことができます。四つは放蕩息子について、二つは父親について、残りの一つは兄についての部分です。

①「[私に]ください」(ルカ15:12)—財産の分け前を父親に要求しようという弟息子の決断は、突然の、衝動的なものではありませんでした。罪はしばしば、誤った優先順位についてあれこれ長い時間考えたのちに生じます。弟息子は、遠い国の華やかさと魅力について友人たちから聞いていたに違いありません。家での生活はあまりにも窮屈でした。愛情はありましたが、制限があるのです。この息子は自由を望み、その制限なき自由の追求の中には、反逆の種がありました。

②どうして私なのか(ルカ15:13~16)—この息子は自分の分け前をすべて現金に換えると、「遠い国」へ旅立って行きました。それは遠く離れた「放蕩の」(同15:13)地です。「放蕩の」という言葉に相当するギリシア語(アソトス)は、ここ以外で新約聖書の中に3回、名詞として登場します。それは泥酔(エフェ5:18)、不従順(テト1:6)、「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝」(Iペト4:3、4)を含む背徳などです。そのような罪深い生活の享楽が健康と財産を失わせ、ほどなくして彼は、金銭も友だちも食べ物も無くしました。彼のきらびやかな生活は、最終的にどん底に行き着きました。絶えず食べ物に事欠くほど飢えたために、彼は豚の世話をするという仕事にありつきました。それは、ユダヤ人にとって過酷な運命でした。

③「[どうか私を]……にしてください」(ルカ15:17~19)—たとえ放蕩者とはいえ、彼は依然として息子であり、引き返すという選択をする力を持っています。そこで、息子は「我に返って」、家と呼ばれる場所、父親と呼ばれる人、愛と呼ばれる関係の絆を思い出しました。彼は、父親に懇願するための言葉を手に握り締め、家に帰って行きました。「[どうか私を]……にしてください」。つまり、あなたの望むように私をしてください、ただし、あなたの見守りの中に、あなたの愛情の保護のもとに私をいさせてください、ということです。父なる神の心よりもすばらしい家があるでしょうか。

放蕩息子のたとえ話(その2)

④家に帰る(ルカ15:17~20)—家に帰る悔い改めの旅は、彼が「我に返っ」たときに始まりました。父親の家の様子と比較して自分の現状を認識したときに、彼は「たち、父のところに行」きました。放蕩息子は、悔い改めの真の意味を明らかにする、四つの部分から成る言葉を持って家に帰ります。

第一は、父親を自分の「お父さん」(ルカ15:18)と認めることです。私たちが天の父なる神の愛と赦しに信頼することを学ぶ必要があるように、今や放蕩息子は彼の父親の愛と赦しに頼り、それらを信頼する必要があります。

第二は、告白することです。放蕩息子がしたことは判断ミスではなく、神と父親に対する罪だからです(ルカ15:18)。

第三は、「もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15:19)とあるように罪を深く悔いることです。神の価値と比較して自分の無価値を認めることは、真の悔い改めが生じるために不可欠です。

第四は、「[どうか私を]……にしてください」(ルカ15:19)とあるように、嘆願することです。神が何を望まれようとそれに服従することが、悔い改めの最終目標です。こうして、息子は家に帰りました。

⑤待っていた父親(ルカ15:20、21)—放蕩息子が家を飛び出したときから、待つことと寝ずの番、悲しみと希望が始まりました。しかし、その待つことも、「遠く離れていたのに」父親が息子を見つけ、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(同15:20)ときに終わりました。待っている父親の姿ほど、神の御品性を捉えているたとえはほかにありません。

⑥喜ぶ家族(ルカ15:22~25)—父親は息子を抱擁し、彼に新しい服を着せ、その手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせ、宴会を準備するように命じました。家族はお祝いをしました。家を去ったことが死であるなら、家に戻ったことは復活であり、喜ぶに値することでした。息子は確かに放蕩者でしたが、それでも息子であり、息子が1人でも悔い改めるなら、天には喜びがあります(同15:7)。

⑦兄(ルカ15:25~32)—弟息子は家を出て遠い国に行ったときに失われました。一方、兄息子も失われていました。なぜなら、彼の体は家にありながら、心は遠い国にあったからです。その心は「怒って」(ルカ15:28)おり、不満にあふれ、独善的で(同15:29)、弟を認めることを拒否します。兄息子に語った父親の最後の言葉は、すべての悔い改めた罪人に対する天の態度を反映しています。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(同15:32)。

失われた機会

イエスは罪の中に失われた人々を捜し、救うために来られましたが、彼の提供する救いを受け入れるよう、だれかを強制したりなさいません。救いは無償であり、だれでもそれを手に入れることができます。しかし、人はその無償の提供を信仰によって受け取らなければならず、そうすることで神の御旨に従った生活がもたらされます。私たちがそのような体験をするための時間は、地上で生きている間だけであり、ほかに機会はありません。

ルカ16:19~31を読んでください。このたとえ話はルカによる福音書にだけ記録されており、救いに関する二つの重大な真理を教えています。すなわち、救いの過程において「きょう」という日が重要であることと、救いのための機会は死んだあとにはもはや訪れないということです。

きょうが救いの日です。このたとえ話は、金持ちには生まれつき何か悪いところがあり、貧しい人には必ず何か良いところがあるなどと教えているのではありません。この話が教えているのは、救われる機会、救わた人生を送る機会は、私たちが地上にいる間にしか得られないということです。裕福であろうと貧しかろうと、教育があろうと字が読めなかろうと、権力があろうとなかろうと、私たちに第二のチャンスはありません。すべての人は、きょう、今、どのような態度をイエスに取っているかによって裁かれ、救われます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(IIコリ6:2)だということです。

このたとえ話はまた、永遠の報いは、物質的な財産とは無関係であるということも教えています。金持ちは、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」(ルカ16:19)いましたが、人生に不可欠なもの(神)を見逃していました。神が気づかれない場所では、仲間の人間も気づかれません。金持ちの罪はその裕福さにあったのではなく、神の家族というものが、彼が思っていたよりずっと広いということを認識していなかったことにあったのです。

死んだあとに救いの第二のチャンスはありません。イエスがここで教えておられる第二の必然的な真理は、死んだあとに救いの第二のチャンスはないということです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9:27)のです。神に敵対するか、神に従うかを意識的に選択するのに必要な証拠は、今、この世において十分に与えられています。それを人々に示すことが、このたとえ話のもう一つの要点です。死んだあとに「第二のチャンス」らしきものがあると教えるいかなる神学も、大いなる欺きです。

かつては見えなかったが、今は見える

失われたものを捜して救うために来た、というイエスのミッション・ステートメントは、全人的伝道を支持しています。イエスは人間を全人格的にするために、つまり彼らを肉体的、精神的、霊的、社会的に変えるために来られました。ルカは、問題を抱えた2人の人間を、イエスがいかに完全に回復されたかを説明する二つの事例として挙げています。1人は肉体的に、もう1人は霊的に視力を失っており、2人とも社会的に見捨てられた人たち(憐れみを求める人と徴税人)でした。2人ともキリストの救済使命の対象者であり、いずれも彼の思いと力の及ばない人間ではありませんでした。

ルカ18:35~43を読んでください。マルコは、その男の名前がバルティマイだったとしています(マコ10:46)。彼はエリコの町の外にいた憐れみを求める人でした。身体的に障害があり、社会的に重要でなく、貧困に打ちのめされた彼が、突然、天の奇跡の及ぶ範囲の中にいる自分に気づきます。「ナザレのイエスがお通りになる」(ルカ18:37、新改訳)。彼の信仰は急速に高まり、叫び声となりました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(同18:39)。信仰が必要とするのは、目でも耳でもなければ、手でも足でもありません。ただ、この世界の創造主と結びつく心だけです。

ルカ19:1~10を読んでください。社会的に見捨てられた多くの人とイエスは出会われましたが、その最後の物語(ザアカイとの出会い)は、ルカだけが記録しています。失われた者を捜して救うというキリストの使命は、ザアカイとの出会いの中で見事に果たされました。ザアカイはエリコの徴税人の頭で、その町のファリサイ派の人々によれば罪人の頭でした。が、その罪人の頭は、救い主によって捜し出され、救われました。イエスは御自分の使命を果たすために、なんと風変わりな場所と方法を用いられたことでしょう!いちじく桑の木、イエスの姿を見ようとする好奇心の強い男、その男に向かって(イエスのほうから食事をする約束をなさり、)「降りて来なさい」と優しくお命じになる主……。しかし、それ以上に重要なのは、イエスが伝えるべきメッセージを持っておられたことです。「今日、救いがこの家を訪れた」(同19:9)。ただし、その前にザアカイは関係を修復する必要がありました。

さらなる研究

「キリストは、この道に迷った羊によって、個々の罪人だけでなくて、反逆して、罪に傷ついたこの世界をも描かれた」(『希望への光』1258ページ、『キリストの実物教訓』170ページ)。

「一体、だれが1人の魂の価値を評価できるであろうか。もしその価値を知りたいと思うならば、ゲッセマネへ行って、血の大きなしずくのような汗を流して苦しまれたキリストと、苦悩を共にするとよい。そして、十字架にかけられた救い主を見ることである。……十字架の下に立って、キリストはただ1人の罪人のためでさえ、その命をおすてになったのだということを考える時、初めて、1人の魂の価値を正しく評価することができる」(『希望への光』1260、1261ページ、『キリストの実物教訓』176、177ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年2期『ルカによる福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次