この記事のテーマ
アルジェリア生まれの作家アルベール・カミュは、人間の苦しみという問題と格闘しました。『ペスト』という本の中で、彼は人類に痛みと苦しみをもたらす病気の象徴としてペストを用いています。彼は、ペストにかかった幼い少年が過酷な死を遂げる場面を描きました。少年が死んだあと、その悲劇を目にした神父が、やはりその場にずっといた医師に向かってこう言います。「それはつまり、それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、恐らくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」(『カミュ1』新潮世界文学48、405ページ)。すると、医師は腹を立てて言い返します。「そんなことはありません。……僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯じません』」(同)。
この場面は、私たちがヨブ記の中に見てきたことを反映しています。単純な解決策のないことに対する型通りで説得力のない答えです。ここでの医師と同様、ヨブは、与えられた答えがどれも目の前の現実に合致しないことを知っていました。ですから、次のことが問題でした。「私たちは、しばしば理にかなっていないように思えることの理を説明する答えを、いかに見いだしたらよいのか」。今回も私たちは探求し続けます。
ヨブの抗議
エリファズ、ビルダド、ツォファルの言うことには、一理ありました——神は悪を罰されます。しかし残念なことに、その「一理」はヨブの状況には当てはまりませんでした。ヨブの苦しみは、報復的な罰の事例ではなかったからです。神は、のちにコラ、ダタン、アビラムになさったように、罪のゆえにヨブを罰しておられたのではありません。ヨブはまた、しばしばそういう場合があるように、まいたものを刈り取っていたのでもありませんでした。違います。ヨブは正しい人でした。神御自身がそう言っておられます(ヨブ1:8)。ですから、ヨブは彼の身に起こったことを受けるいわれもありませんでしたし、彼はそのことを知っていました。そのことが、彼の不平を激しく、苦々しいものにしました。
ヨブ記10章を読んでください。彼は神に向かって何と言っていますか。大きな悲劇に見舞われたとき、神を信じる人たちは次のような質問をしてこなかったでしょうか。「主よ、なぜあなたは、わざわざ私を造ったのですか」「なぜあなたは私にこのようなことをなさるのですか」「私は造られてこのような目に遭うくらいなら、生まれてこなかったほうがよかったのではありませんか」
重ねて言いますが、ヨブの理解を難しくさせていたのは、「自分は神に忠実である」という彼の自覚でした。ヨブは神に向かって叫びました。「わたしが背く者ではないと知りながら/あなたの手からわたしを救いうる者はないと知りながら」(ヨブ10:7)。
ここには理解しがたい皮肉があります。ヨブは、彼の友人たちが言ったこととは違い、自分の罪のゆえに苦しんでいたのではありません。ヨブ記そのものが正反対のことを教えています。ヨブがここで苦しんでいるのは、まさに彼が忠実であったからでした。ヨブ記の最初の2章がその点をはっきり述べています。ヨブは、そのことが原因だったとは知る由もありませんでしたし、たとえ知ったとしても、恐らく彼の苦しみと不満は一層深まるだけだったでしょう。
ヨブの状況がいかに特殊であったとしても、苦しみという普遍的な問題を扱っているという点において(とりわけ、その苦しみが、だれかが犯したかもしれない悪に釣り合わないほど大きく思えるときに)、彼の状況は普遍的でもありました。スピード違反を犯して違反切符を切られることと、スピード違反を犯してその過程でだれかを殺してしまうこととは、大違いです。
罪のない者の血なのか
私たちは、「罪のない者」たちの苦しみという問題をしばしば耳にします。聖書も、だれかがいわれなき暴行を受けたり、殺害されたりした場合に、「罪のない者の血」(イザ59:7、エレ22:17、ヨエ4:19〔口語訳3:19〕)という言葉を用いています。この「罪のない者の血」の意味を理解することは、私たちの世界が多くのその実例であふれている事実を認めます。
その一方で聖書は、人間の罪深さ、堕落という現実についても述べており、そのことは、「罪のない」という言葉の意味について疑問を提起します。もしすべての人が罪を犯し、神の律法を破ったのなら、一体だれが真に罪のない状態にあるでしょうか。だれかがかつて「あなたの出生証明書は、あなたが有罪であることの証明です」と言いました。
何世紀にもわたって、神学者や聖書学者たちは、人間と罪との正確な関係について議論してきました。しかし聖書は、罪が全人類に影響を及ぼしていると、明快に述べています。人間が罪深いという考えは、新約聖書の中にだけ見いだされるものではありません。それどころか、この人間の罪深さに関する新約聖書の探求は、旧約聖書の中に書かれたことをさらに詳しく説明しているにすぎません。
問1
罪の現実について、次の聖句は何と教えていますか(王上8:46、詩編51:7〔口語訳51:5〕、箴言20:9、イザ53:6、ロマ3:10~20)。
聖書の明瞭なあかしに加えて、主を個人的に知った人、神の善意と聖さを垣間見た人たちは、人間の罪深さの現実を知っています。その意味において、私たちの中のだれが(さしあたって、赤ちゃんや幼い子どもに関する疑問は差し置いて)、真に「罪のない」状態にあるでしょうか。
しかし、そういうことが問題なのではありません。ヨブは罪人でした。その意味で、彼は罪のない状態にありませんでしたし、ましてや彼の子どもたちは同様でした。しかし彼や彼らは、その身に降りかかった悲運に値するどのようなことをしたのでしょうか。恐らくこれは、人類にとって、苦しみに関する究極の疑問ではないでしょうか。友人たちの「土くれの盾」(ヨブ13:12)とは違い、ヨブは、彼の身に起こっていたことがいわれなきものであることを知っていました。
不公平な運命
ヨブ記15:14~16を読んでください。再びエリファズは(ほかの人たちと同様)真理を語っていますが、今回は全人類の罪深さについての真理です。罪は地上の命の普遍的な現実であり、苦しみも同様です。また私たちが知っているように、全人類の苦しみは、究極的に罪から生じています。私たちに重要な教訓を教えるために、神が苦しみをお用いになることは、疑いの余地がありません。「神は、常に神の民を悩みの炉の中で試みてこられた。クリスチャン品性という純金から不純物が取り除かれるのは、炉の火の中においてである」(『希望への光』63ページ、『人類のあけぼの』上巻128ページ)。
しかし、苦しみに関するさらに深い問題があります。苦しみから何も良いものが得られないように思えるときは、どうでしょうか。たとえば〔事故などで〕即死して、品性の中の純金から不純物を取り除いてもらえない人たち。真の神や、神に関することをまったく知らずに苦しむ人たち。苦しみによって神に恨みを抱き、怒り、憎しみを持っただけの人は、どうでしょうか。私たちはこういった例を無視したり、単純な公式に押し込んだりすることはできません。なぜなら私たちは、ヨブを非難した人たちと同様の過ちを犯すことになるからです。
さらに、森林火災で生きたままゆっくりと焼かれ、悲惨な死を遂げた動物たち。あるいは、自然災害で死んだ多くの人や、戦争で死んだ民間人は、どうでしょうか。彼らはどんな教訓を学びえたでしょうか。あるいは、彼らと一緒に死んだ彼らの家族はどうだったでしょうか。死んだヨブの10人の子どもについてだけでなく、「切り殺され(た)」(ヨブ1:15)牧童たち、「天から神の火が降って」(同1:16)焼け死んだ僕たち、「切り殺され(た)」(同1:17)別の牧童たちについても、当然疑問を呈することができます。
ヨブと、彼を非難する人たちがどんな教訓を学び、またサタンが、ヨブの忠実さによってどんな敗北を味わうにしろ、これらのほかの人たちの運命はまったく公平とは思えません。実際、こういった出来事は、公平でも正しくもありません。
私たちは今日、同じような疑問に直面します。6歳の子ががんで死ぬということ、20歳の女子大生が車から引きずり出されて暴行を受けるということ、3人の子どもを持つ35歳の母親が交通事故で死ぬというこれらは、公平でしょうか。2011年の東日本大震災(津波)で死んだ約1万9000人の日本人は、どうでしょうか。1万9000人全員が、罰として受けなければならない罪を何か犯したのでしょうか。これらは難しい問題です。
その日だけで十分……
問2
次の聖句を読み、描かれている人たちの早い死について考えてください。「人生は彼らをいかに公平に扱っただろうか」と自問してみましょう。ヨブ記1:18~20、創世記4:8、出エジプト記12:29、30、サムエル記下11:17、マタイ14:10、ヘブライ11:35~38、(エレミヤ38:6)
聖書は、私たちの堕落した世界における人生の厳しい現実を反映しています。災いや苦しみは現実です。いくつかの聖句を抜き出し、神の御言葉を表面的に読むとき、この世の人生は公平公正で、私たちが神に忠実でありさえすれば苦しみは襲ってこないといった考えを人に与えることがあります。確かに、忠実であることによって大きな報いを得ることはできますが、忠実さが苦しみや痛みに対する完全な障壁になるという意味ではありません。ヨブに聞いてみてください。
イエスは山上の説教の中で、私たちがなぜ神を信頼する必要があるのか、また何を食べ、飲み、着るかを心配する必要がないのかについて、力強い説教をなさいました。そして、私たちの必要を満たされる神の恵みを、自然界の実例を用いて説明されました。それから、イエスは次の有名な言葉で締めくくられました。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。
「その日の苦労は、その日だけで十分である」という日々の生活の中にイエスは(「悪」「堕落」「悪い出来事」といった意味のギリシア語に由来する)苦労が存在することを否定していません。イエスは私たちの日常生活の中に災い(苦労)が存在し、行き渡っていることを認めておられます。主であるイエスは、私たちのだれよりもこの世の災いについてよくご存じだからです。
見えないもの
箴言3:5を読んでください。だれもがよく知っている聖句ですが、そこには(とりわけ、私たちが学んできたこととの関連において)重要なメッセージが書かれています。
ヨブの場合は極端な例ですが、それは堕落したこの世における人間の苦しみの悲しい現実を反映しています。この現実を知るために、私たちはヨブの物語も、聖書に収められているほかの物語さえも必要としません。至る所でそれを目にするからです。私たちはみな、ある程度、確かにその現実を生きています。
「人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ/影のように移ろい、永らえることはない」(ヨブ14:1、2)。
つまりここでも、私たちが格闘する疑問は、理にかなわないように思える類の苦しみ、罪のない者の血が流されるような類の苦しみを、私たちはいかに説明するのか、ということです。
ヨブ記の最初のほうの章が示していたように、また聖書がほかの箇所で明らかにしているように、サタンは実在するものであり、直接的または間接的に、多くの苦しみの原因です。このシリーズの研究で先に触れたように(第2課参照)、大争闘という枠組みは、この世における災いの現実を論じるうえでとても役に立ちます。
しかしそれでも、なぜそういうことが起きるのかを理解することは、ときとして困難です。時折(実際には、多くの場合)、物事はまったく理にかなっていません。私たちに理解できないこと、私たちが神の善意を信じることを学ぶ必要のある物事が起きるのは、そういうときです。答えがすぐにわからないときや、身の回りの災いや苦しみから何も良いものが生じたと思えないときでさえ、私たちは神を信頼することを学ぶ必要があります。
問3
ヘブライ11:1には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と書かれています。私たちは目に見えない物事に関して、目に見える物事から、いかに神を信頼することができるようになるでしょうか。これまでにヨブ記の中で読んだ内容から、ヨブはどうすることを学びましたか。私たちはいかにして同じことができるでしょうか。
さらなる研究
今回の導入部分はアルベール・カミュで始まりましたが、彼は苦しみの問題に対する答えだけでなく、(苦しみによって一層深刻になるばかりの)人生の意味全般に対する答えを求めての格闘についても、たくさん書いています。大抵の無神論者と同様、彼はあまり良い答えを見いだせませんでした。彼の最も有名な引用文が、そのことを示しています。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」(『シーシュポスの神話』新潮文庫ページ)。確かに、人間の苦しみという問題は、簡単に答えられるものではありません。ヨブ記はベールを取り払い、私たちがほかの書巻で見るよりも大きな全体像を見せています。
しかし、神なしで苦しみの問題に対する答えを求めて格闘する人たちと、神ありでそうする人たちとの間には、極めて大きな違いがあります。確かに、痛みと苦しみの問題は、あなたが神の存在を信じるときに一層難しくなります。神が存在されるにもかかわらず災いや苦痛があるという避けがたい問題が生じるからです。しかし一方で、私たちには、カミュのような無神論者たちが持っていないものがあります。それは、この問題が答えられ、解消されるという見通しです(カミュは後年、バプテスマを受けたいと望んだものの、交通事故で急死してしまったことが明らかになっています)。「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙21:4)。たとえ、この約束や、聖書の中の多くの約束を信じなかった人でも、次のことは認めざるをえないでしょう。ほかのことはともかく、少なくともそのような希望を持つほうが、ただ労苦と格闘の中で生き、やがて何の意味もないまま永遠に死んでいくという見通しよりも、今の人生がはるかにすばらしくなるでしょう。
*本記事は、安息日学校ガイド2016年4期『ヨブ記』からの抜粋です。