中心思想
神のさばきのわざはいつでも救済的な目的を持っています訓練を必要としている人にとっても、また罪ある人々によって苦しむ無実の人にとっても。なぜそうなのでしょうか。
アウトライン
- 70年(エレ25:1~14)
- 怒りの杯(エレ25:15~29)
- 二重の焦点(黙示19:11~21)
- 諸国民に対する託宣(エレ46:1~6)
- 主の日(ゼパ1:12~18)
神の訓練には目的がある
ビル・ベンダルは良い子でした。隣人や友人たちは、若いビルが「非行少年グループ」と共に盗んだ車を運転していて逮捕されたと聞いても、とても信じられませんでした。彼らは盗んだ車を売らずに、ただ乗り回して遊んでいただけでした。
裁判の席で何人かの隣人たちがビルの証人となりましたが、彼を助けることはできませんでした。法廷は彼を長期間、感化院に送りました。ビルはそこで自分の過去を反省し、将来は別の生き方をしようと決心しました。訓練は彼の人生を変えたのです。
裁判官がビルに求めたことを、神はユダの市民ひとりひとりに求められました。それは生き方を変えるということでした。彼らは70年という長い期間、パレスチナの故郷に帰ることができませんでした。訓練は厳しいものでしたが、その効果はありました。偶像崇拝の酔いからさめたユダの民は新たな出発をすることができました。神は心から悔い改めてやり直そうとする罪人を喜んでおゆるしになられます。これ以上に神がお喜びになることはありません。
70年(エレ25:1~14)
神の訓練は愛の心から出たわざであって、圧制者のそれではありません(箴3:11、12参照)。
質問1
20年以上もユダのために慟いた後に、エレミヤらの預言者たちが見たものは何でしたか(エレ25:1~7)。ついにどんな宣告が下されましたか。エレ25:8~14
「エレミヤはエホヤキムの治世の初めから、彼の愛する国を破壊から救い、人々を捕囚から救おうと望むことができなくなった。しかし国家が全滅の危機にひんしている時に、彼は黙っていることは許されなかった。彼は神に忠誠をつくした人々が善事を続けるように励まし、もしできることならば、罪人が悪から離れるように勧めなければならなかった」(『国と指導者』下巻34ページ)。
70年の捕囚はふつう、紀元前605年におけるユダヤ人の第1回バビロン捕囚をもって始まると考えられています(エホヤキムの第3年、ネブカデネザルの即位年 ダニI:I~4)。
神のあわれみによって、ユダに対するさばきは段階的に下っています。これは、悔い改めがなお可能であることを示していました。ユダヤ人の2回目のバビロン捕囚は紀元前597年に起こりました。最後の捕囚は紀元前586年のことで、このときエルサレムと神殿が破壊されています。70年の期間は、ペルシヤのクロス王がユダヤ人のパレスチナヘの帰還を承認した時をもって終了しました。この布告は紀元前537年に公布され、同536年におけるユダヤ人の事実上の帰還をもって施行されました。したがって、70年の期間は紀元前605年から同536年ということになります(それぞれの年を含めて数える)。
質問2
捕囚民はこの期間、何をするように勧められましたか(エレ29:4~7、10)。彼らはユダの地をどのようにみなすべきでしたか(歴代下36:21―レビ26:33~35、25:1~7比較)。エレミヤの預言は後年のダニエルにどんな影響を与えましたか。ダニ9:2~20
イエスは罪のうちにある者たちをどのように扱うように教えられましたか(マタ]8:15~35参照)。神がご自分の民を扱われる方法は私たちのお互いに対する態度とどのように比較されますか。神がご自分の方法に従うように望まれるのはなぜですか。
家庭の訓練は一時的な場合もあれば長期に及ぶ場合もあります。ユダにとって後者の方がより効果的だったのはなぜですか。
怒りの杯(エレ25:15~29)
質問3
国々の民に飲ませられる怒りの杯は何を象徴していましたか。エレ25:15、16(イザ51:17、22、黙示14:10、16:19比較)
神の「怒り」は、私たち人間がよく罪深い衝動や感情の結果として経験する利己的な怒りとは異なります。神の怒りはあらゆる種類の悪に対する聖なる神の反応です。
質問4
特にどの国々が自らの罪のためにさばきを受けることになっていましたか。最大の責任はだれにありましたか。その理由は何でしたか。エレ25:17~29
ここに列挙されている中東のおもな国々はユダヤ人と血縁関係にあった民か、いわゆる「肥沃な半月地域」に住んでいた民です。さばきはユダヤ人から始まりました。彼らが神の要求を最もよく理解していたからです(Iペテ4:17参照)。2番目にあげられているエジプトはユダの政治的同盟国でした(エレ37:5、7)。バビロンの征服のための戦いはこれらの国民をその罪のために罰するために許されたものでしたが、バビロン自身もその罪のためにさばきを受けるのでした(エレ25:26、50章、51章)。
質問5
ユダと異邦の国々は強制的にさばきの杯を飲まされました。自発的に飲んだのではありません(エレ25:15、17、28)。イエスはご自分に与えられたさばきの杯をどうされましたか。マタ26:39(IIコリ5:21、ガラ3:13比較)
ユダとその周辺諸国に下ったさばきは矯正的なものでした。キリストに下ったさばきはあがないでした。彼は私たちの罪のためのあがないをされたのでした。「正義の剣はさやから抜かれ、不義に対する神の怒りが神のひとり子、人の身代わりであるイエス・キリストに注がれた。……人の身代わりであり保証であるキリストに応報的な正義を加えられた力は、同時に罪深い世に下っていたはずの恐るべき怒りの下で苦しまれるキリストを支え、力づけた力でもあった。キリストは神の律法の違反者たちに代わって死のうとしておられた」(『SDA聖書注解』第5巻1103ページ、エレン・G・ホワイ卜注)。
二重の焦点(黙示19:11~2I)
神のさばきについての旧約聖書の描写はしばしば、実際の出来事よりも厳しい言葉で表現されています。このことは、局地的、部分的な神の怒りはもちろんのこと、同時に諸国民に対する最終的な将来のさばきをも預言者に示されていたことを暗示しています。この意味において、これらの聖句は二重の焦点を持っています。
質問6
主はバビロンの攻撃を受けて壊減するユダと諸国民の軍隊をどのように描写しておられますか(エレ25:28~33)。この預言はどのように完全に成就しますか(黙示19:11~21―イザ11:4、IIテサ2:8比較)。エレミヤ書4:19、20、23~31は終末の時においてどのように成就しますか。黙示20:1~3
ここに描写されているような破壊がバビロンによる征服において全く起きていないことから、ある人たちはエレミヤが詩的誇張を用いたのではないかと言います。恐らく、彼は局地的なバビロンのさばきを越えて、反逆したこの地球の最終的な滅びを見せられたのでしょう。「主の日」を描写するにあたって、預言者エレミヤは二重の焦点を用いています。「預言者エレミヤは、神の大いなる日を待ち望んでこう宣言している。『わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった』」(『各時代の大争闘』下巻442ページ)。これは千年期をさしています。
質問7
神の行為はすべて目的を持っています。過去のさばきは今日の私たちに何を教えてくれますか。IIペテ2:6、9、10、ユダ5~7
「恵みの申し出を軽んじる人は、天の帳簿に負債として記入された大きな数字を考えてみるがよい。そこには、国家、家族、個人の不信の記録がある。神は、それらの記録が続くかぎり、忍耐して、悔い改めをうながし、許しをお与えになる。しかし、記録が満ちるときがくる。そのとき、魂の決定は下され、人間は、自分の選択によって自分の運命を決定する。こうして、刑罰執行の合い図がくだされる」(『人類のあけぼの』上巻174ページ)。
諸国民に対する託宣(エレ46:1~6)
エレミヤ書の3箇所に、ユダの周辺異教諸国に対する託宣が与えられています。その一つ(エレ25:15~28)には、彼らが神のさばきの杯を飲むことが、もう一つ(エレ46~51章)には、そのうちの10の国々に関する広範囲に及ぶ預言が、そしてゼデキヤの治世に与えられた最後の託宣には、これらの国々のいくつかがバビロンのくびきに屈することが記されています(エレ27:2~11)。
質問8
特別な託宣が与えられている10の国々の名前をあげてください。エレ46:1、2、47:1、48:1、49:1、7、23、28、34、50:1
イスラエル人はこれらの国々のうちの四つ、すなわちモアブ人、アンモン人(ロトの子孫)、エドム人(エサウの子孫)、ケダル人
(イシマエルの子孫、創世25:13)と血縁関係にありました。ところが、これらの国々は周辺の異教信仰を受け入れ、独自の偶像崇拝を生み出しました。それらのうちのある国々はイスラエルを悩ます敵となり、ある国々はイスラエルの宗教に悪い影響を及ぼしました。
質問9
これらの国々のうちの三つが滅びたことの原因としてどんな罪があげられていますか(エレ48:29、42、49:7、15、16、50:29)。オバデヤはエドムに関してどんな託宣を与えられていますか(オバ1~4)。エレミヤと同時代の預言者エゼキエルも、諸国民に対する預言を与えられています。ユダの周辺諸国はほかにどんな罪を犯していましたか。25:1~3、6、8、12
ユダの罪深い反逆の原因は高慢にありました。それはほかの異教諸国にも行きわたり、彼らに対するサタンの支配を反映していました(イザ14:13、エゼ28:2、6、9参照)。
バビロンの支配によって頂点に達したパレスチナの危機は、ユダの近隣諸国において最悪の状態になります。誇り(アンモン)、侮り(モアブ)、復瞥(エドム)があらわになります。彼らはゼデキヤ王に使者をつかわしますが(エレ27:2、3)、ねたみとしっとがその巧みな言葉の裏に隠されていました。
主の日(ゼパ1:12~18)
エレミヤと彼の同時代の預言者たちは、二種類の象徴、つまり神の怒りの杯を飲むことと主の日とによって、ユダに対する刑罰を描写しています。
質問10
エレミヤの先輩であるゼパニヤはどんな衝撃的な言葉を用いて、バビロンによる征服がユダにもたらすさばきを描写していますか(ゼパ1:14~18)。「主の日」はユダに住む人々をどんなニつのグループに分けましたか。ゼパ1:12、2:1~3
私たちは自分の好きなように自分の「日」を定めることができます。預言者の言う「主の日」とは、神が介入される日のことです。神は悪人にさばきを執行し、ご自分の忠実な民を救われます。
ユダに対する「主の日」は段階的に訪れました。最初の2回の捕囚は「良いいちじく」(エレ24:5、ダニ1:1~6)を悪いいちじくから分けました。神は前者をもってユダを再建しようとされました。
「滓(おり)」(ゼパ1:12)とは、ぶどう酒のかす・沈殿物のことであって、罪に執着し、罪を捨てようとしない人々をさしています。
質問11
預言書に記された局地的な主の日はすべて、どんな大いなる出来事を予示していましたか。Iテサ5:1~10、IIペテ3:3~5、10~13
最終的な主の日はキリストの再臨によって始まります。人々の予想に反して、主は地上の諸事件を完全に支配されます。主の日とは瞬間的な時間だけでなく、キリストの再臨から地球の再創造までの期間をもさしています。神の「日」は、最後の審判における調査と執行がなされる千年期を含みます(黙示20:4、Iコリ6:2、3、黙示20:11~15)。
神のあわれみが続いている今日こそ、私たちが主を求める「日」です(ゼパ2:3)。「牧師と信徒は、人を救わない福音の真理が滅びるということを覚えなければならない。日ごとにあわれみの招きを拒む魂は、最も緊急の訴えを耳にしても魂を感動させる感情を覚えなくなる」(『教会へのあかし』第5巻134ページ)。
まとめ
神は900年近くにわたって、イスラエルが神の恵みを世界に伝える民となるように訓練してこられました。成功した時期もありましたが、全般的には墜落の傾向にありました。彼らが異教の偶像崇拝に従ったからでした。最後の手段として、主は70年の間、彼らを捕囚の身とされました。ラオデキヤの私たちは古代ユダの経験からどんなことを学ぶことができるでしょうか。
*本記事は、安息日学校ガイド1994年2期『エレミヤ書、哀歌 神の計画と私たちの役割』からの抜粋です。