汚れから清めへ【ダニエル―主イエス・キリストの愛と品性の啓示】#9

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ダニエル8章で報告されている幻は、紀元前548年か547年に与えられたもので、ダニエル7章で言及されている裁きについて、いくつかの明快な説明を与えています。ダニエル2章や7章の幻とは違い、8章の幻はバビロンを省き、メディアとペルシアから始まっています。なぜなら、当時バビロンは衰退の一途をたどり、ペルシア人が次の世界勢力としてバビロンに置き換わろうとしていたからです。ダニエル8章の幻は7章の幻と似ています。言葉や象徴が8章で変わっているのは、天の贖罪日との関連で、天の聖所の清めに焦点をはっきり合わせるためです。このように、ダニエル8章の際立った貢献は、天の聖所という側面に焦点を合わせていることです。ダニエル7章が天の法廷と王権を受ける人の子を示しているのに対して、8章は天の聖所の清めを示しています。二つの章の類似点からわかるように、8章で描かれている天の聖所の清めは、7章の裁きの場面と関係しているのです。

雄羊と雄山羊

問1

ダニエル8章を読んでください。この幻はいったい何に関するものですか。この幻は、私たちがダニエル2章、7章で見たことと、どのように似ていますか。

ダニエル2章、7章と同様、ここには世界帝国の興亡に関するもう一つの幻が出てきますが、使用されている象徴は異なります。この象徴は、神の聖所と直接関係しています。ここでの場合、雄羊と雄山羊という象徴が用いられているのは、それらが贖罪日(古代イスラエルの裁きの時)の聖所の儀式とつながりがあるからです。雄羊も雄山羊も、聖所の奉仕においていけにえとして用いられました。しかし贖罪日においてだけ、両者は一緒に言及されています。それゆえ、これら二つの動物は、贖罪日を連想させるために意図的に選ばれているのであり、贖罪日がこの幻の主要な焦点なのです。

幻が展開するにつれて、ダニエルは、雄山羊が三つの方角(西、北、南)に突進するのを見ます(ダニ8:4)。この三つの動きは、雄山羊が象徴する勢力の拡大を示しています―─「これにかなう獣は一頭もなく、その力から救い出すものもなく、雄羊はほしいままに、また、高慢にふるまい、高ぶった」(同)。天使が説明するように、2本の角を持つその雄羊はメディアとペルシアの帝国をあらわしており(同8:20)、三つの方角は、たぶん文字どおりに、この世界勢力の三つの主要な征服地を指していました。

次に、大きな角を持つ雄山羊が登場しますが、これはアレクサンダー大王の指揮下にあったギリシア帝国をあらわします(ダニ8:21)。雄山羊が「全地の上を飛ぶよう(に)」(同8:5)動くことは、それが素早く動いていたことを意味します。この象徴はアレクサンダーの征服の迅速さを伝えており、ダニエル7章は翼を持つ豹としてそれを描いていました。しかし預言が示すように、その雄山羊は「非常に尊大になったが、力の極みで角は折れ」(同8:8)、代わって4本の角が生え、それらは羅針盤の四つの方角に伸びました。このことは、アレクサンダーが紀元前323年1月に33歳でバビロンにおいて亡くなったときに成就します。彼の王国が4人の将軍たちの間で分割されたからです。

小さな角が生え出る

問2

ダニエル8:8~12を注意深く読んでください。この小さな角は、どの方角に向かっていますか。それを理解することは、なぜ重要なのですか。

4本の角が天の四方に広がる様子を描いたあと、聖書は、その一つから小さな角が生え出たと述べています。ここでの疑問は、この小さな角(勢力)が4本の角の一つから出てくるのか(きのうの研究で見たように、4本の角はアレクサンダーの4人の将軍たちをあらわしています)、それとも四方のうちの一つの方角から出てくるのかということです。原語におけるこの聖句の文法構造は、この角が天の四方のうちの一つから出てくることを示しています。そして、この勢力はギリシア帝国と四つの枝分かれした国々のあとに生え出るのですから、通常、この角はローマ(最初は異教ローマ、のちに教皇制ローマ)であると理解されます。「この小さな角は、異教ローマと教皇制ローマの二つの段階におけるローマをあらわしている。ダニエルはまず、その異教的、帝国の段階のローマを見て、ユダヤ人や初期のクリスチャンたちに警告し、次に教皇制の段階のローマを見たのである。後者は私たちの時代まで、さらには未来へと続いていた」(『SDA聖書注解』第4巻841ページ、英文)。

聖句によれば、小さな角はまず水平方向の動きを始め、「非常に強大になり、南へ、東へ、更にあの『麗しの地』へと力を伸ばし(た)」(ダニ8:9)とあります。この三つの方角は、異教ローマの支配下に入った三つの主要な地域に相当します。

小さな角が幻の中で主役になるにつれて、その垂直方向への伸張が細部にわたって注目されます。この点に関して小さな角は、次の比較が示すように、ダニエル7章の小さな角とよく一致しているのです。①いずれの角も最初は小さい(ダニ7:8、8:9)。②いずれものちに大きくなる(同7:20、8:9)。③いずれも迫害する勢力である(同7:21、25、8:10、24)。④いずれもうぬぼれが強く、冒瀆的である(同7:8、20、25、8:10、11、25)。⑤いずれも神の民を標的にする(同7:25、8:24)。⑥いずれもその活動が預言的時間によって説明されているという側面を持つ(同7:25、8:13、14)。⑦いずれも終わりの時まで拡張する(同7:25、26、8:17、19)。⑧いずれも超自然的な破滅に直面する(同7:11、26、8:25)。⑨ダニエル7章の小さな角が教皇制をあらわすのだから、8章において小さな角が垂直方向に拡張することも同じ勢力をあらわしているに違いありません。

それゆえ、ダニエル2章、7章と同様、この最後の主要な勢力もローマ(異教ローマと教皇制ローマ)なのです。

聖所への攻撃

問3

ダニエル8:10~12を読んでください。小さな角は、どのような活動をしているとここで描かれていますか。

ダニエル8:10で小さな角は、霊的意味において、バベルの塔の建設者たちと同じ努力をしようとしています(創11:4)。「万軍」「星」といった言葉は、旧約聖書では神の民を意味することがあります。イスラエルは主の全軍と呼ばれているからです(出12:41、口語訳)。ダニエルはまた、神の忠実な民を星のように輝いていると描写しています(ダニ12:3)。しかし、これは明らかに、天の集団に対する文字どおりの攻撃ではなく、神の民への迫害です。彼らの「国籍は天にある」(ピリ3:20、口語訳)からです。異教の皇帝たちによって多くのクリスチャンが殺害されましたが、ここで焦点を合わせているのは、小さな角の垂直方向の活動です。従って、この預言の最終的成就は、教皇制ローマと、時代を通じてなされたその迫害に関連づけられねばなりません。

ダニエル8:11はまた、「長」についても述べており、この人物はダニエル書のほかの箇所で、「油注がれた君」(ダニ9:25)、「お前たちの天使長ミカエル」(同10:21)、「大天使長ミカエル」(同12:1)と呼ばれています。イエス・キリスト以外に、この表現が指し示しうる者はありません。イエス・キリストは前述の「万軍」の長であり、天の大祭司です。それゆえ、教皇制とそれが代表する宗教制度は、イエスの祭司の役割をあいまいにし、奪おうとするのです。

ダニエル8:11に「日ごとの供え物」という言葉が、地上の聖所と関連して登場しています。それは、(いけにえや執り成しを含む)儀礼的奉仕の多様で継続的側面を指し示すためです。罪人が赦され、幕屋で罪が処理されるのは、これらの奉仕を通してでした。この地上の制度は、天の聖所におけるキリストの執り成しの働きをあらわしています。それゆえ、預言どおりに、教皇制はキリストの執り成しを司祭の執り成しに換えました。そのような偽りの礼拝を利用して、小さな角はキリストの執り成しの働きを廃し、象徴的にキリストの聖所を倒したのです。

「また、(小さな角は)……真理を地になげうち、思うままにふるまった」(ダニ8:12)。イエスは、御自分が真理であると宣言するとともに(ヨハ14:6)、神の言葉は真理であると指摘しておられます(同17:17)。それとは対照的に、教皇制は聖書を人々の言語に訳すことを禁じて聖書の翻訳を教会の権威の下に置き、聖書とともに言い伝えを信仰の最高の規範としました。

聖所の清め

問4

ダニエル8:14を読んでください。ここでは何が起きていますか。

角の破壊的攻撃のあと、聖所が清められるという告知がなされます。このメッセージを理解するためには、ダニエル8:14で言われている聖所の清めがダニエル7:9~14に描かれている裁きの場面と関連していることを忘れてはなりません。さらに、その裁きは天で行われているのですから、聖所も天になければなりません。このように、ダニエル7章は、神が人間の出来事に介入されること、神が人間の出来事と関係しておられることを裁きの観点から描いていますが、ダニエル8章は、同じ出来事を聖所の観点から描写しているのです。

地上の聖所は天の聖所をまねたもので、救済計画の大まかな輪郭を具体的に説明する役割を果たしました。毎日、罪人たちはいけにえを聖所に携えて来て、その場所で人々は告白した罪を赦されました。ある意味で、その罪が聖所に移されたときに赦されたのです。結果として、聖所は汚れます。それゆえ、その中に記録された罪を清めるために、定期的な清めの手続きが必要とされました。それが贖罪日と呼ばれるもので、1年に1回行われました(レビ16章参照)。

なぜ天の聖所は清めを必要としたのでしょうか。私たちは類推によって、悔い改めたイスラエル人の罪が地上の聖所に移されたのと同じように、イエスを受け入れた者たちの告白した罪が天の聖所に「移された」のだ、と言うことができます。地上での贖罪日には、多くの動物が殺されました。それは将来におけるイエスの死を象徴しており、そのようにして罪人は贖罪日に立つことができたのです。

聖所が清められた地上の贖罪日にそのようなことが起きたのであれば、天の聖所では、どれほどのことが起きるのでしょうか。その時、私たちはキリストの血によってのみ、裁きを切り抜けることができます。ダニエル8:14に描かれている聖所の清めは、地上の奉仕に対応する天の奉仕であり、その基本的メッセージは、「罪人である私たちは、自分の罪を赦され、裁きの場に立てるように、メシアの血を必要としている」ということです。

預言の予定表

問5

ダニエル8:13を読んでください。ここではどのような質問がなされていますか。その質問は、次の節の答えを理解するうえで、いかなる助けとなりますか。

「二千三百の夕と朝」とは、どういうタイミングのことでしょうか。まず注目しなければならないことは、幻がダニエル8:13の質問へと移行するのは、雄羊と雄山羊がダニエルに示され、小さな角による行動とその被害がそれに続いたあとだという点です。この質問は、預言の期間の長さに関心があるのではなく、その期間の終わりに起こることに特に関心を寄せています。加えて、その期間というのは、小さな角の活動の長さにだけ限定することができません。なぜなら、「この幻」という言葉は、雄羊から小さな角の活動に至るまでのすべてを含んでいるからです。それゆえ、これは実際の歴史的な時間の長い期間に違いありません。

「この幻……は、いつまで続くのか」(雄羊〔メディアとペルシア〕、雄山羊〔ギリシア〕、小さな角とその行動〔異教ローマと教皇制ローマ〕)という質問に対して、別の天の存在が答えます―─「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」(ダニ8:14、口語訳)と。すでに指摘したように、この期間はとても長いものです。なぜなら、それはメディアとペルシアの帝国の時代に始まり、ギリシア帝国、異教ローマと教皇制ローマの時代を通過し、数千年にわたっているからです。歴史主義的解釈に従えば(第1課参照)、この預言の期間は「1日=1年の原則」に基づいて計算されるべきであり、それはつまり、「二千三百の夕と朝」が2300年に相当することを意味します。さもなければ、2300日は6年ちょっとにしかならず、幻の中のあらゆる出来事が起きるにはあまりにも短すぎます。それゆえ、「1日=1年の原則」が有効であるに違いありません。

ダニエル8章は、この期間の始め(言うまでもなく、それは終わりを確定するもの)を算出するための情報を提供していません。しかし次の9章は、重要な情報を提供しています(来週の研究を参照)。

さらなる研究

以下の図表は、ダニエル2、7、8章に描かれている王国の順序に関して、私たちがこれまで見てきたものをまとめたものです。これは聖所の清めについて、どのようなことを教えていますか。

ダニエル2章ダニエル7章ダニエル8章
バビロンバビロン——
メディアとペルシアメディアとペルシアメディアとペルシア
ギリシアギリシアギリシア
異教ローマ異教ローマ異教ローマ
教皇制ローマ教皇制ローマ教皇制ローマ
——天における裁き聖所の清め
再臨再臨再臨
〈人手によらずに切り出された石〉〈聖者らが王権を受ける〉〈人手によらずに滅ぼされる〉

これを見てわかるように、三つの章の間には類似点があります。描かれている国が互いに並列しているだけでなく、ダニエル7章の裁きの場面は、教皇制ローマの1260年(西暦538~1798年)のあとに登場し、8章で、やはりローマのあとに登場する聖所の清めと直接対応しています。要するに、ダニエル7章における天の裁き(この世の終わりをもたらす裁き)は、ダニエル8章で聖所の清めとして描かれていることと同じものだということです。ここでは、同じことが二つの異なる描かれ方をされており、いずれも小さな角の勢力によってなされる1260年の迫害の期間のあとに起こるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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