読むことから理解することへ【ダニエル―主イエス・キリストの愛と品性の啓示】#10

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ダニエル9章には、聖書の最もすばらしい祈りの一つが含まれています。ダニエルは待ち受ける挑戦に立ち向かうため、人生の重要な場面で祈りに頼りました。ダニエルと彼の仲間が、異教の王の不思議な夢のために殺されそうになったとき、この預言者は祈りによって神に近づきました(ダニ2章)。また、王以外のいかなる神に嘆願することも王の勅令によって禁じられたとき、ダニエルはエルサレムに向かって日ごとの祈りをささげ続けました(同6章)。従って、ダニエル9章の祈りについて考えるとき、8章の「二千三百の夕と朝」に関する幻が預言者に大きな影響を及ぼしていることを念頭に置くべきです。この預言の全体的輪郭は説明されましたが、ダニエルは2人の天の存在の会話で伝えられた時の期間の意味がわかりませんでした―─「二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」(ダニ8:14、口語訳)。より多くの光がダニエルに与えられるのは、この9章においてだけであり、今回もまた、それは熱心な祈りに対する応答でした。

神の言葉の重要性

問1

ダニエル9:1、2を読んでください。ダニエルは、注意深く研究していた預言を「文書を読んでいて……悟った」と言っています。彼が言う聖書の書巻とは、どの書巻のことですか。

この祈りを調べるとき、それが、神からモーセや預言者たちに与えられたこれまでの啓示の徹底的な研究によって生じたものであることが明らかになります。ダニエルは、捕囚期間が70年続くことをエレミヤの書巻から学んでいたので(エレ25:11、12、29:10参照)、彼が生きている歴史的時点の重要性を理解していました。

ダニエルがこの祈りをささげたのは紀元前539年、ペルシア帝国がバビロンに取って代わった年であることを、私たちは心に留めておきましょう。ですから、ネブカドネツァルがエルサレムを征服し、神殿を破壊してから、ほぼ70年が経過していたのです。それゆえ、エレミヤの預言によれば、神の民はまもなく祖国に帰ることになります。神の言葉を信じていたダニエルは、何か重大なことが同胞に起ころうとしていること、また神が御言葉の中で約束されているように、バビロンでの捕囚がじきに終わり、ユダの人々が故郷に戻るであろうことを知っていました。

ダニエルは、入手できた聖書を研究することで、同胞の罪がいかに深刻であったかということも自覚していました。契約を破ったために、彼らは神との関係を断ってしまい、それゆえの必然的結果が捕囚でした(レビ26:14~45)。このように、時に関する理解をダニエルに与え、同胞のために神に嘆願する切迫感を彼に抱かせたのは、神の啓示の研究だったのです。

私たちは地球史の終わりに近づいているので、これまで以上に神の言葉を研究し、それに従って生きる必要があります。私たちの住む世界に関して信頼できる説明をしてくれるものは、聖書しかありません。何しろ聖書は、善悪の大争闘について語り、人類史が悪の除去と神の永遠の王国の樹立をもって終わることを明らかにしているからです。私たちは聖書を研究すればするほど、この世の現状と、その中における私たちの立場とともに、希望を何ら提供しない世の中で私たちが希望を抱く理由を、より良く理解することができます。

恵みに訴える

問2

ダニエル9:3~19を読んでください。何に基づいて、ダニエルは慈しみを乞うていますか。

私たちは、この祈りの中のいくつかの点にとりわけ注目すべきです。

第一に、ダニエルはその祈りのどこにおいても、ユダの人々に起こった災難の説明を一切求めていません。それどころか、この祈りの大部分は、ダニエル自身による理由の詳しい説明です―─「(わたしたちは)あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした」(ダニ9:10)。私たちが最後にダニエルを見たのは8章の終わりで、彼は何かを理解する必要がありました。その場面で彼は、「二千三百の夕と朝」に関する幻が理解できない、と言っています(同8:27参照)。

第二に、この祈りは、神の民が罪を犯し、悪事を行ったにしても、彼らを赦してください、と神の恵み、神の積極的意志に訴えています。ある意味で、私たちはここに福音の慰め、つまり、功績がないにもかかわらず、受けるに値しない恵みを求め、獲得できなかった赦しを求める罪深い人間の慰めを見ます。これは、私たち1人ひとりが神の前にいる状況の一例ではないでしょうか。

問3

ダニエル9:18、19を読んでください。ダニエルは、主が彼の祈りに応えてくださるよう、ほかにどんな理由を挙げていますか。

ダニエルの祈りのもう一つの側面も言及に値するでしょう。神の御名の名誉に訴えているという点です。つまりこの祈りは、ダニエルの個人的な都合や同胞の都合に動機づけられたものではなく、神御自身のためのものなのです(ダニ9:17~19)。言い換えれば、この嘆願は、神の御名が称賛されるのだから、認められる必要があるということです。

執り成しの価値

問4

ダニエル9:5~13を読んでください。ダニエルは、「わたしたちは」悪行を重ねた、と言い続けており、そう言うことによって、最終的にこのような災難をユダの民にもたらした罪の中に自分自身も含めています。その事実は、どういうところが重要ですか。

ダニエルの祈りは、聖書に収められている重要な執り成しの祈りの中の一つにすぎません。このような祈りは神の心に触れ、裁きを食い止め、敵からの解放をもたらします。神がイスラエルの民を滅ぼし尽くそうとなさったとき、モーセの執り成しが御手を抑えました(出32:7~14、民14:10~25)。ひどい干ばつが〔サマリアの〕地を荒廃させようとしていたときでさえ、神はエリヤの祈りに応え、その土地をよみがえらせるために雨をお降らしになりました(王上18章)。

家族、友人、そのほかの人や状況のために私たちが祈るとき、神は私たちの祈りを聞き、執り成すことがおできになります。時として、祈りが応えられるのに時間がかかるかもしれませんが、私たちは、神が御自分の子らの必要をお忘れにならないことを確信して安んじることができます(ヤコ5:16参照)。

この場合、ダニエルは神と民の執り成しをする者、仲保者の役割を果たしています。預言者は自らの聖書研究によって、民が神の律法を犯し、神の警告に耳を傾けることを拒絶したことで、いかに罪深くなったのかを自覚したのです。それゆえ、彼らの絶望的な霊的状態を認めつつ、ダニエルはいやしと赦しを祈り求めました。しかしこの預言者は、自分を同胞と同一視しています。ある意味において、ダニエルは私たちの仲保者としてのキリストの役割を明らかにしているのです(ヨハ17章)。しかし、根本的な違いがあります。キリストは「罪を犯されなかった」(ヘブ4:15)ので、自分の罪を告白したり、自分の赦しのためにいけにえをささげたりする必要がありませんでした(ヘブ7:26、27)。しかし、キリストは独特な形で御自分を罪人と同一視しておられます―─「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Ⅱコリ5:21)。

油注がれた者の働き

ダニエルの執り成しの祈りは、二つの主要な懸念を伝えています。民の罪とエルサレムの荒廃です。それゆえ、神の応答はこれら二つの嘆願に対してなされました。油注がれた者の働きによって、民は救われ、聖所は清められます。しかし、その具体的な二つの嘆願は、ダニエルの目前の歴史的範囲を超えた形で応えられるでしょう。油注がれた者の働きは、人類全体に恩恵を与えることになるのです。

問5

ダニエル9:21~27を読んでください。70週の間に、どのような働きがなされねばなりませんでしたか。なぜイエスだけがそれを成し遂げることがおできになるのですか。

①「逆らいは終わり」―─「逆らい」に相当するヘブライ語(「ペシャ」)は、下位の者が上位の者に対して意図的に行う違反行為を意味します(例えば、箴28:24)。この言葉は聖書の中で、人間による神への公然とした反抗に関して用いられることもあります(エゼ2:3)。しかしイエスの血を通して、神に対する反逆は制圧され、人間にはカルバリーから流れ出る功績が提供されるのです。

②「罪は封じられ」―─この動詞は、「封印する」という意味を持ち、ここでは罪が赦されることを意味しています。罪に堕ちて以来、人類は神の基準に従って生きられなくなりましたが、油注がれた者が私たちの不足に対処してくださいます。

③「不義は償われる」―─パウロが言うように、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロ1:19、20)。ここにおいても、イエスだけがこの現実をもたらすことがおできになります。

④「とこしえの正義が到来し」―─キリストは私たちの身代わりとなって十字架にかかり、それによって、神と「正しい関係にある」という恵まれた状態を私たちに与えてくださいました。神からもたらされるこの義を私たちが受けることができるのは、信仰によってのみです。

⑤「幻と預言は封じられ」―─キリストが御自分をいけにえとしてささげられたとき、その贖いの業を指し示していた旧約聖書のさまざまな預言は、それらが成就したという意味において、封じられました。

⑥「最も聖なる者に油が注がれる」―─ここで言及されている「最も聖なる者」とは、人間のことではなく、場所のことです。つまりこの言葉は、天の聖所におけるキリストの執り成しの働きの開始に言及しているのです(ヘブ8:1)。

預言の年表

「二千三百の夕と朝」に関する幻が終わったとき、預言者は衝撃を受けました。その預言を理解できなかったからです(ダニ8:27)。10年後、幻を「理解する」のを助けるため、ガブリエルがダニエルのところにやって来ます(同9:23)。後のこの啓示が、欠けていた情報を提供し、油注がれた者の働きが70週の終わりに向かって成し遂げられることを明らかにします。「1日=1年の原則」と預言された諸事件の成り行きに従えば、70週は490年と理解されねばなりません。そしてこの期間の起算点は、エルサレムを復興し、再建せよとの命令です(同9:25)。この命令は、アルタクセルクセス王によって紀元前457年に出されました。それは、エズラの指導の下、エルサレムを再建することをユダヤ人に許可しました(エズラ7章)。聖句によれば、70週は「定められて」、つまり「切り取られて」いました。このことは、490年という期間が、それよりも長い期間、つまり8章の幻の中で指定された2300年から切り取られていることを示しています。このことから、2300年と490年は、同じ起算点の紀元前457年となります。

70週の預言は、三つの部分に分けられます―─7週、62週、そして70週目。

7週(49年)は、エルサレムが再建される期間に当てはまります。7週のあと、「油注がれた君」(ダニ9:25)に導く62週(434年)が来ます。こうしてアルタクセルクセス王の勅令から483年後の西暦27年に、メシアなるイエスがバプテスマをお受けになり、メシアの働きのために聖霊によって油を注がれるのです。

70週目には、ほかの重要な出来事が起きます。①「油注がれた者(が)/……断たれ」(ダニ9:26)ます。これはイエスの死を指しています。②油注がれた者は、「一週の間、多くの者と同盟を固め」(同9:27)ます。これは、ユダヤ人に対するイエスと使徒たちの特別な宣教のことです。それは最後の「週」(西暦27~34年)の間に行われます。③「半週でいけにえと献げ物を廃止する」(同9:27)。バプテスマから3年半(つまり、半週)後、イエスは犠牲制度を―─もはや預言的な重要性を持たないという意味において―─廃止されました。そして、新しい契約の最後のいけにえ、完全ないけにえとして御自分をささげ、これ以上の動物のいけにえの必要性を無効になさいました。70週の預言の最後の週は、西暦34年に終わり、ステファノが殉教し、福音のメッセージはユダヤ人だけでなく、異邦人にも届けられ始めたのです。

ダニエル9:24~27を読んでください。メシア(油注がれた者)の大いなる希望と約束の中にさえ、暴力、戦争、荒廃について書かれています。このことは、人生の苦悩の中にあっても希望が存在することを私たちが確信するうえで、いかなる助けとなりえますか。

さらなる研究

以下の図表は、ダニエル9:24~27の70週の預言がいかにダニエル8:14の2300年の預言と結びついているか、またいかに後者の起算点になっているかを説明しています。もし2300年を紀元前457年から(存在しない西暦ゼロ年を引くことを忘れずに)数えるなら、1844年になります。あるいは、西暦34年に(2300年から490年を引いた)1810年を加えても1844年になります。このように、ダニエル8:14の聖所の清めは、1844年に始まると示すことができるのです。

また、1844年という年が、ダニエル7章と8章で見たことといかに一致するかという点にも注目してください。つまり、ダニエル書7章の裁きは、8章の聖所の清めと同じものですが(過去2週間の研究を参照)、1260年間の迫害のあと(ダニ7:25)でありながらも、イエスの再臨と永遠の王国の樹立の前に始まっています。

*本記事は、安息日学校ガイド2020年1期『ダニエル書 主イエス・キリストの愛と品性の啓示』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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