この記事のテーマ
第2次世界大戦も終わろうとする頃、若いドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーは牢獄から引き出され、大逆罪で処刑されました。
1996年、ベルリンの法廷は先の判決を撤回し、公式にボンヘッファーに無罪を宣告しました。
これと同じようなことが再臨前審判においても起こります。神の民は地上でサタンと彼の追随者たちによって非難・中傷されてきましたが、宇宙の前で無罪放免となります。確かに、裁きは神の忠実な民のためにあります。天の法廷は神の民の名誉を回復し、聖者たちに有利な判決を下します
(ダニ7:22)。したがって、この再臨前審判は福音の一部です。再臨前審判はアドベンチストの歴史の遺物であるどころか、神の救いの計画に欠かすことのできないものです。それを理解することによってのみ、私たちは福音のすばらしさを十分に理解することができます。
旧約聖書における調査審判(創世記3:9―19)
私たちセブンスデー・アドベンチストは、ダニエル書7章が、いわゆる再臨前審判または調査審判について教えていると考えています。興味深いことに、裁きに先立って調査がなされるという思想はすでに聖書の中に見られるものです。
問1
次の聖句は「調査」審判の思想についてどんなことを教えていますか。創3:9~19、18:20、21、19:24、25
最初の罪に対する神の取り扱いのうちに、すでに一定の裁判の手続きが示されています。まず初めに尋問、あるいは調査がなされています。それは次の言葉を見ればわかります。「どこにいるのか」、「誰が告げたのか」、「木から食べたのか」、「何ということをしたのか」(創3:9~13)。この調査がなされた後で初めて、評決が下されています(14~19節)。
ソドムとゴモラに対する神の取り扱いを描いた聖書の記述もまた意味深長です。創世記18章と19章の大部分は神の裁きに先立つ調査について述べています。主は、「わたしは降って行き……見て確かめよう(」創18:21)と言っておられますが、これは裁きを行う前に事実を調査されることを教えています。
問題は、すべてを知っておられる神(ヨブ37:16、箴5:21、イザ46:9、10、Ⅱテモ2:19参照)がなぜ改めて調査をされるのかということです。神はすでにこれら二つの町の運命について知っておられたのではないでしょうか。同様に、神はなぜアダムとエバにあのように尋ねられたのでしょうか。神は彼らのしたことを知っておられたはずです。
第一に、アダムとエバの場合は、神が罪を犯した者たちから説明を求めておられるように思われます。この尋問の過程は犯罪者に自分の行為の罪深さを認識させるものです。
第二に、大争闘の思想を心に留める必要があります。人間だけが宇宙の住民ではありません。罪と反逆の問題は人間だけの問題ではありません(ヨブ1、2章、エフェ3:10、黙15:4、ロマ8:22、23参照)。人間以外の知的存在者(神のように全知ではない)も見ているのです(Ⅰコリ4:9)。裁きに先立つ調査の必要性は、このような背景のもとに理解することができます。
新約聖書における再臨前審判(マタ22:1~14)
調査・再臨前審判の思想は新約聖書にも現れます。マタイ22章に出てくる「婚宴」のたとえがその例の一つです。
問2
マタイ22:1~14を読んでください。このたとえのどこに、裁きの執行に先立つ調査の働きを見ることができますか。
このたとえの中で、王が客を調べていますが、この行為が調査の働きを表しています。この調査の結果によって、残ることのできる人とできない人が決まります。これは、いま天で行われている再臨前審判を描写しています。
また、多くの聖書注解者は、黙示録20章が1000年によって隔てられた2種類の、文字通りの死者の復活について描いていることを認めています。
「幸いな者、聖なる者」だけが第一の復活にあずかるためには、だれが第一の復活にあずかるかを決めるための事前の裁きがなされねばなりません。この解釈はアドベンチストだけのものではありません。ルター派の神学者、ジョゼフ・A・セイスは次のように述べています。「生きている者たちの身に『一瞬のうちに』起こる復活と変化とは、先行する裁きの成果であり体現である。それらはその時すでに下されていた判決の結果である。厳密に言うならば、人は裁きを受けるために復活するのでも、昇天するのでもない。復活と昇天は、死者が死者として、生者が生者として先に受けている裁きの所産である。『キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活』するのは、彼らがすでにキリストに結ばれた者として宣告を受けていたからであり、生ける聖者が彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられるのは、生ける聖者がすでに聖者として、また来世にあずかるにふさわしい者として宣告を受けていたからである」(『黙示録講義』181ページ、1973年)。一方、黙示録14章を見ると、「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである」(7節)という第一天使のメッセージが、地の収穫(14~20節)に先立って与えられています。この章に描かれている出来事の順序からすると、7節に語られている裁きがキリスト再臨における裁きの執行に先立つことがわかります。
人の子と再臨前審判
ダニエルは、天の法廷の光景の中で、「『人の子』のような者が天の雲に乗り」、日の老いたる者の前に来るのを見ています(ダニ7:13)。「『人の子』のような者」という表現は、とりもなおさず、その者が人間の姿をしていたという意味です。新約聖書の時代になると、それはイエス御自身をさす称号となります(マタ20:28)。
問3
この「人の子」はだれをさしますか。彼は再臨前審判においてどんな役割を果たしますか。マコ10:45、ヨハ5:22、Ⅰテモ2:5
イエス御自身、「人の子」という称号を好んで用いられました。ほかの人たちはイエスを「あの預言者」「メシア」「ダビデの子」「神の子」と呼んでいます。これらの呼称が自分たちの望みを実現してくれる輝かしい王を意味していたからです。しかし、イエスは「人の子」という称号を40回近く用いておられます。御自身の人類とのかかわりを強調するためでした(マタ8:20、9:6、10:23、11:19、12:8など)。同時に、それはメシアの称号でもありました(ダニ7:13にもとづく)。大祭司たちもこのことを認めています(マタ26:64、65)。だからこそ、彼らはあのような行動を取ったのです。以上のことからも明らかなように、イエスはダニエル書7章の、天における裁きの光景の中心におられます。
問4
この天の裁きにおいてどんな評決が下されますか。ダニ7:22
重要なことは、この裁きが神の民にとって福音になるということです。22節に、「いと高き者の聖者らが勝ち」とあるように、裁きが神の民の聖者の勝利に終わるからです。ダニエル書7章は、とりわけ神の聖者のための神の働きについて詳しく描写しています。
ダニエル書7章で、主は苦難、迫害、虐待の中にある御自分の民のために働いておられます。私たちは大争闘の最中にあります。ダニエル書7章はこの大争闘の一面に焦点を当てています。神は、大争闘が最終的に神の民の勝利に終わることを啓示しておられます。
勝利と断罪――小さな角、聖者、再臨前審判
もしダニエル書7章の裁きが本当に聖者に関するものであるなら、それが迫害勢力である小さな角との関連において書かれているのはなぜでしょうか。
これは重要な問題です。その簡潔な答えは正義と裁きに関するヘブライ人の思想のうちにあります。この思想には無実の者たちの勝利と罪ある者たちの処罰が含まれています。小さな角は神の民を迫害しますが、最終的には主の民に勝利をもたらす裁きがなされ(「いと高き者の聖者らが勝ち」――ダニ7:22)、それによって邪悪な小さな角に最終的な処罰が加えられます(「やがて裁きの座が開かれ彼はその権威を奪われ滅ぼされ、絶やされて終わる」――26節)。
言い換えるなら、悪の象徴である小さな角の滅びは、再臨前審判との関連において完全に理解されます。それらが互いに関連しているのも不思議ではありません。このようなことは正義、裁き、勝利に関するヘブライ人の理解においては典型的なものです。すべては同時に起こるのです。
問5
申命記25:1と列王記上8:32を読んでください。これらの聖句のうちに、上記の思想がどのように反映されていますか。
裁きの結果が小さな角に最終的な滅びをもたらすことは明らかです(結局のところ、それは地上のすべての王国に滅びをもたらすのです)。再臨を導く裁きは小さな角の滅びだけに限られるものではありません。それはもっと広範囲に及ぶもので、聖者の(また、神の)敵の滅びだけでなく、聖者の勝利をももたらします。
「裁判において、一方が勝利し、他方が敗北するのは、両者が互いに対立しているからである。調査によって、一方が正しく、他方が誤っていることが判明する。この『角』はキリストに反対している。それは『いと高き方』に対して尊大な言葉を語り、神の民を抑圧し、神の律法を変えようと計る。この角の権力はキリストに代わって支配すると主張する反逆者である。キリストが裁きにおいて勝利するとき、彼の忠実な民も彼と共に勝利する。キリストの民は角の抑圧から解放され、王国を獲得する」(ロイ・ゲイン『講壇の招き』241ページ、1999年)。
再臨前審判の時
ダニエル書7章は、再臨前審判の始まる正確な日時は明らかにしていませんが、審判がなされる時間的枠組みは明らかにしています。
問6
ダニエル書7:8~10、21、22、25、26は調査審判の時期について何と述べていますか。
調査審判に関するこれら3つの描写はどれも、それが小さな角の権力の、特定の段階の後に始まることを明らかにしています。どの場面においても、小さな角の権力とその活動のことが述べられており、それから裁きの光景が天で始まっています。
一方、ダニエル書7:25にはさらに詳しいことが書かれています。そこには、小さな角に関して「一時期、二時期、半時期」(つまり、1260年――先週の研究参照)と書かれていて、この期間の後に裁きの光景が始まっています。すでに学んだことの繰り返しになりますが、この1260年という期間は第4の獣、つまり異教ローマから興った小さな角の権力と関係がありました。ということは、この裁きの光景が小さな角の権力の台頭から少なくとも1260年後に始まるということです(1260年という期間は紀元583年に始まり、同1798年に終わる)。重要なことは、この権力が紀元6世紀までには世界の大きな勢力になっていたということです。
問7
もし小さな角が6世紀頃に大きな勢力になり、裁きが少なくとも1260年後に始まるとすれば、この天における裁きはいつ頃始まったことになりますか。
この裁きについて理解すべき重要な点は、それが再臨前、つまりキリスト再臨の前に起こるということです。ダニエル書7:22、25は、この裁きが再臨に先立つことだけでなく、再臨を導くことをも教えています。この裁きの結果として、聖者は王国を受けるのです。
このようなわけで、ダニエル書7章に描かれているのは、1260年の後に、そして再臨の前に起こる裁きです。
まとめ
「心から罪を悔い改め、信仰によってキリストの血を自分の贖いの犠牲として要求する者はみな、天の書にある彼の名の横に赦しが書き込まれる。彼らがキリストの義にあずかる者となり、その品性が神の律法に調和するものとなるとき、その罪は取り除かれ、彼ら自身、永遠の命を受けるにふさわしい者と認められる」(エレン・G・ホワイト『私を生かす信仰』212ページ)。
「イエスは、彼らの罪の弁解はなさらないが、彼らの悔い改めと信仰を示して、彼らの許しを主張なさり、天父と天使たちの前で、ご自分の傷ついた両手をあげ、わたしは彼らの名を知っている、わたしは彼らを、わたしのたなごころに彫り刻んだ、と言われるのである。『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません』(詩篇51:17)。そして、ご自分の民を訴える者にむかって、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか』と宣言される(ゼカリヤ書3:2)。キリストは、忠実な人々に、ご自分の義の衣を着せて、父なる神の前に『しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会』として立たせてくださる(エペソ5:27)。彼らの名は、いのちの書に書きとめられる。そして彼らについて、『彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である』と記されているのである(黙示録3:4)」(『各時代の大争闘』下巻217ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ダニエル書 ダニエルに学ぶゆるぎない祈り、忍耐、愛』からの抜粋です。