燭台の間を【ヨハネの黙示録-イエスキリストの働きを知る】#2

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詩編73編は、神に逆らう者たちの高ぶる傲慢を見たときの詩編記者の当惑を描いています。正しい人たちの苦しみとは対照的に、彼らは豊かで安穏と暮らしていました。この不公正が大いに詩編記者を悩ませ(詩編73:2〜16)、彼は当惑しつつ聖所へ行きます(同73:16、17)。そこにおいて、神の御前で、彼は事態を一層深く理解したのです。

何世紀もあとに、1人の年老いた使徒が、忠実にあかしをしたために岩だらけの監獄島に捕らわれていました。彼は苦悩の中にあって、彼が世話していた教会が苦しんでいるという知らせを受けたのです。しかしその重大な場面で、彼は、復活されたキリストが天の聖所におられる幻を見せられました。ここで主は、あの詩編記者と同様、この世の人生の謎と、人生がもたらす苦悩をヨハネに啓示なさったのでした。この聖所の場面は、キリストの存在と配慮をヨハネに確信させました。そしてその確信こそ、ヨハネがこれらの教会や、この世の歴史が終わるまでの何世紀もの間、後世のクリスチャンに伝えなければならなかったものだったのです。

天の聖所におけるキリストの働きを紹介することに加えて、私たちは今回、キリストの教会に対する七つの特別なメッセージの第一番目に目を向けます。そのメッセージは、アジアの七つの教会に宛てられたものですが、今日の私たちにとっても意味があります。次回は、ほかの六つの教会へのメッセージについて考えます。

パトモスにて

黙示録1:9を読んでください。パトモスは、エーゲ海の中の不毛で岩だらけの島でした。長さは16キロメートル、(最も広い部分で)幅は10キロメートルほど。ローマ人は、周辺のほかの島々とともに、それを追放された政治犯の流刑地として用いていました。黙示録の執筆時点と比較的近い時代に生きていた初期のクリスチャン著作家たちは、みな一致して、ローマの当局が、福音に忠実であったがゆえにヨハネをパトモスへ流刑にした、と述べています。年老いた使徒は、ローマによる監禁がもたらしたあらゆる苦難をパトモスで確かに耐えたのです。たぶん彼は犯罪者として扱われ、足かせに縛られ、十分な食事を与えられず、情け容赦のないローマの衛兵のむち打ちのもとで強制労働をさせられたことでしょう。

「パトモスはエーゲ海にある不毛の、岩の多い島であり、ローマの政府により犯罪者の流刑の場所として選ばれていた。しかし神のしもべにとって、この陰気な住居は天にいたる道となった。ここで、生活の忙しい場面から、また、これまでの活発な働きから遮断されて、ヨハネは神とキリストと天使たちとの交わりを持ち、彼らから今後の教会のための指示を受けたのである」(『希望への光』1574ページ、『患難から栄光へ』下巻273、275ページ)。

問1

神に忠実であったにもかかわらず(たぶん、忠実であったからこそ)、苦難に耐えた聖書の登場人物として、ほかにどのような人がいますか(ダニ3:16〜23、使徒7:54〜60参照)。

キリストに従う者たちは、ヨハネと同じような状況に自分が置かれるときにも、独りきりでないことを決して忘れるべきではありません。パトモスでの苦難のただ中で、希望と励ましの言葉を持ってヨハネのもとへ来てくださった同じイエスが、今もなお御自分の民とともにいて、困難な状況にある彼らを支え、支援しておられます。

ある「主の日」のこと

問2

黙示録1:10と一緒に出エジプト記31:13、イザヤ58:13、マタイ12:8を読んでください。これらの聖句によると、聖書の中で、何曜日が主の日としてはっきり特定されていますか。苦難のただ中にあったヨハネにとって、この日はいかに意義深かったことでしょうか。

「栄光の主がこの追放された使徒に現れたのは、安息日のことであった。ヨハネは、ユダヤの町や都市で人々に説教していた時と同じように、パトモス島においても安息日を聖く守っていた。彼はその日に関して与えられていた尊いみ約束を自分のものとして求めた」(『希望への光』1578ページ、『患難から栄光へ』下巻285ページ)。

使徒ヨハネが第七日安息日に幻を見たと、黙示録1:10がはっきり示唆しています。ヨハネは、「主の日」(イザ13:6〜13、Ⅱペト3:10)と呼ばれるキリストの再臨にまで至る(黙1:7と比較)未来の諸事件を期待して待っていましたが、彼が語っているのは、そのような未来の諸事件の幻を見た時についてであり、それは安息日、つまり「主の日」のことでした。

間違いなく、苦しみのただ中にあって、幻で満たされたこの安息日は、ヨハネにとって苦しみのない人生を前もって知る日になったに違いありません。それは、彼やあらゆる時代の忠実な者たちが再臨のあとに経験する人生です。確かに、ユダヤ人の思考において、安息日は「来るべき世界」(オラムハバ)を前もって知る日とみなされています。

「神がエデンで制定された安息日は、孤独な島にいるヨハネによって貴かった。……孤独な追放者にとって、なんという安息日だったことだろう。キリストの目からすれば、安息日はいつも貴いが、これまで以上に高貴なものであった。ヨハネはこれほどイエスについて多くを学んだことがなかった。これほど高貴な真理を聞いたことがなかった」(『SDA聖書註解』第7巻955ページ、英文)。

ヨハネがパトモスで見たキリストの幻

問3

黙示録1:12〜18を読み、ヨハネが記したキリストの描写と、ダニエル10:5、6の神を比較してください。ヨハネの幻の中で、イエスはどのような姿をし、どのようなことをしておられますか。

ヨハネは、祭司のような服を着て燭台の間を歩いておられるイエスを見ます。燭台の間を歩いておられるイエスの姿は、神が古代イスラエルの人々に約束されたこと、つまり神として彼らのうちを巡り歩くであろうという約束(レビ26:12)を指し示しています。黙示録において、その燭台は、この書巻がもともと送られたアジアの七つの教会をあらわすとともに(黙1:20)、(水曜日の研究で見るように)歴史上のイエスの教会をも象徴しています。聖霊を通して、イエスは地上の御自分の教会を見守り続けておられるのです。彼は、御自分の民を永遠の住まいへ連れて行くまで、絶えず彼らとともにおられるでしょう。

さらに、燭台の間にいる大祭司としてのイエスの姿は、エルサレムの神殿における儀式に基づくものです。当番の祭司の日々の仕事は、聖所の中のともし火が明るく燃え続けるようにすることでした。弱っているともし火を整え、油を補充しました。燃え尽きた芯を取り換え、ともし火の皿に新しい油を補充し、再び火をつけたのです。そのようにして、祭司はそれぞれの燭台の状態がよくわかるようになりました。同様にイエスは、御自分の民の必要と状況を知っておられ、彼らのために自ら執り成しをしてくださいます。

黙示録2:2、9、13、19と3:1、8、15を読んでください。イエスは、神の称号、すなわち「初めであり、終わりである」(イザ44:6、48:12)という称号によって、御自分がだれなのかを明らかにされました。「終わり」に相当するギリシア語は「エスカトス」で、「エスカトロジー(終末論)」という英語はその派生語です。このことは、終末論の焦点がイエス・キリスト、つまり終末の諸事件の決定権を持っておられるお方であることを示しています。彼は「生きている者」(黙1:18)であり、「死と陰府の鍵」(同)を持っておられます。イエスは御自分の死と復活によって、死の門を開く権能を与えられました(ヨブ17:16、詩編9:14〔口語訳9:13〕)。彼を信じる者はみな、墓から永遠の命へと復活します(Ⅰコリ15:21〜23)。イエスに忠実に従う者たちは、恐れる必要がありません。なぜなら、死者たちでさえ、イエスが見守っておられるからです。死者たちにそうであるなら、生きている者たちには、どれほどでしょう(Ⅰテサ4:16、17参照)。

当時と現在へのキリストのメッセージ

問4

黙示録1:11、19、20を読んでください。イエスは、アジア州の教会に向けて七つの独特なメッセージを語られました。この地域には七つ以上の教会があったという事実は、クリスチャン全般に対するこれらのメッセージの象徴的意味について、どのようなことを示唆していますか。

七つの教会に送るようにとイエスがヨハネに命じられたメッセージは、黙示録2章と3章に記録されています。そのメッセージの意味は、三つに適用されます。

歴史的適用—これらのメッセージは、もともと西暦1世紀の繁栄した都市にあった七つの教会へ送られました。そこにいたクリスチャンたちは、深刻な問題に直面していました。七つの都市は、ローマへの忠誠のしるしとして、神殿で皇帝礼拝を始めたのです。皇帝礼拝は強制的なものになり、市民も、公的な行事や異教の宗教儀式に参加することを要求されました。多くのクリスチャンがこういった活動への参加を拒んだため、彼らは試練に、時には迫害にさえ遭いました。キリストに命じられて、ヨハネはこのような試練を受けている彼らを助けるために七つのメッセージを書いたのでした。

預言的適用—黙示録が預言の書であり、七つの教会だけがこれらのメッセージを受けるために選ばれたのではなかったという事実は、そのメッセージの預言的性格をも指し示しています。七つの教会の霊的状態は、さまざまな歴史上の時代における神の教会の霊的状態と一致します。七つのメッセージは、西暦1世紀からこの世の終わりまでのキリスト教の霊的状態を、天の視点から概観できるように意図されているのです。

普遍的適用—黙示録という書巻全体が、すべての教会で読まれる一つの手紙として送られたように(黙1:11、22:16)、七つのメッセージには、あらゆる時代のクリスチャンに適用できる教訓が含まれています。そして、七つのメッセージは、さまざまな時代と場所のさまざまなクリスチャンを代表しているのです。例えば、今日のキリスト教の一般的な特徴はラオディキアですが、あるクリスチャンたちは、ほかのいくつかの教会の特徴を自分たちに重ね合わせるかもしれません。ありがたいことに、私たちの霊的状態がどうであれ、神は、「堕落した人間がいる所で、会ってくださるのです」(『セレクテッド・メッセージⅠ』13ページ)。

エフェソにある教会へのメッセージ

エフェソは、ローマのアジア州の中で最大の都市、また州都であり、主要な通商路に位置していました。アジア随一の海港として、エフェソは非常に重要な商業と宗教の中心地でした。この町は、神殿、劇場、競技場、浴場、遊郭など、公共の建物であふれていました。またこの町は、魔術や魔術使いでも有名でしたし、不道徳や迷信行為でも知られていました。しかし、アジア州の中で最も影響力のあるキリスト教会は、このエフェソにあったのです。

問5

黙示録2:1〜4を読んでください。イエスはこの教会に、どんな姿であらわれていますか。イエスはどんなすばらしい資質について、この教会をほめていますか。どのような懸念を表明していますか。

エフェソの信徒は、忠実さと愛で知られていました(エフェ1:15)。教会の内外から圧力を受けたにもかかわらず、エフェソのクリスチャンは、揺るぎなく、忠実であり続けました。彼らは勤勉で、真理に忠実でした。実際、彼らの中にいた偽りの使徒たちに我慢できませんでした。しかし、キリストや仲間の信者に対する彼らの愛は、薄れ始めてしまいました。人々は揺るぎなく、忠実でしたが、キリストの愛がないために、彼ら自身のともし火でさえ消えかかっていたのです。

問6

黙示録2:5〜7を読んでください。キリストや仲間の信者に対する最初の愛と献身を回復するために、どんな三つのことをするように、キリストはエフェソの教会に勧めていますか。三つのことは、順序的にいかに関係していますか。

預言的に言えば、エフェソにある教会の状況は、西暦30年から100年までの教会の全体的状況と霊的状態に一致します。使徒たちの教会は、愛と福音に対する忠実さで特徴づけられていました。しかし、西暦1世紀が終わる頃には、教会は最初の愛の火を失い始め、福音の単純さと純粋さから離れてしまったのです。

さらなる研究

参考資料として、『患難から栄光へ』第56章「パトモス島に流される」を読んでください。

「ヨハネに対する迫害は、恵みの手段となった。パトモスは、復活された救い主の栄光で光り輝いた。ヨハネは、栄光となる釘跡を手と足に持つ人間の姿のイエスを見たことはあった。しかし、今やヨハネは、人間が見ては生きていられないほどの栄光を身にまとわれた復活の主を再び目にすることを許された。

ヨハネへのキリストの顕現は、信じる人であれ、信じない人であれ、すべての人にとって、私たちには復活されたキリストがおられるということの証拠となるべきである。教会は、その顕現によって生きる力を得るべきである。時として、暗雲が神の民を包む。あたかも、弾圧と迫害が彼らを消し去るかのように思える。しかし、そのような時に、最も有益な教訓が与えられる。キリストはしばしば牢獄に入り、御自分がお選びになった者たちに御自身をあらわされる。危機に瀕して、キリストは彼らとともに火の中におられる。真っ暗な夜にこそ星が最も輝くように、神の栄光の最も輝かしい光は、最も深い闇の中にあらわれる。空が暗ければ暗いほど、義の太陽、復活された救い主の光は、一層鮮やかで印象的なのである」(『ユース・インストラクター』1900年4月5日号)。

*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。

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