七つの教会へのイエスのメッセージ【ヨハネの黙示録-イエスキリストの働きを知る】#3

目次

この記事のテーマ

イエスは、パトモスからヨハネ経由で御自分の民へ、七つのメッセージを含む手紙を送られました。それらのメッセージは、ヨハネの時代のアジアの諸教会に関係するものですが、同時に、歴史上のあらゆる教会の状態を象徴によって預言的に描いてもいます。

これらのメッセージを比較対照すると、それらが同じ六重の構造になっていることがわかります。各メッセージは、イエスが特定の教会の名前を呼びかけることで始まります。次の部分は、「……次のように言われる」という句で始まり、その中でイエスが、1章に見いだされる表現や象徴を用いつつ、各教会に自己紹介をなさっています。それらのイエスの描写は、各教会の具体的な必要と一致しています。そうすることでイエスは、さまざまな困難や状況に対処できる御自分の能力を指し示されました。次にイエスは、教会を評価し、続いて、その苦境からの脱し方を助言されます。最後に、各メッセージは、“霊”の告げることを聞くようにという訴えと、勝利を得る者への約束で結ばれています。

西暦1世紀のエフェソの教会へのメッセージを分析した先週の研究で見たように、また今週の、残りの六つのメッセージの研究で見るように、イエスが希望を与え、それぞれの状況の中にある各教会の必要に応えてくださるのを目にするでしょう。それゆえイエスは、今日の私たちの必要にも応えることがおできになるのです。

スミルナとペルガモンにある教会へのメッセージ

スミルナは美しい豊かな町でしたが、強制的な皇帝礼拝の中心地でもありました。この命令に従うことを拒めば、法的身分の喪失、迫害、さらには殉教につながる可能性がありました。

黙示録2:8〜11を読んでください。イエスの自己紹介のなさり方は、この教会の状況と関係していました。スミルナにある教会へのメッセージは、使徒時代後の教会、つまりクリスチャンがローマ帝国によって激しく迫害された時代に当てはまります。黙示録2:10で言及されている「十日の間」は、西暦303年から313年まで続いたディオクレティアヌス帝の10年間の迫害を指しており、西暦313年には、コンスタンティヌス大帝がミラノの勅令を発してキリスト教信仰を公認しました。

ペルガモンは、さまざまな異教カルトの中心地で、その中には、ギリシアの神で、「救い主」と呼ばれ、蛇によって象徴された医神アスクレピオスのカルトも含まれていました。人々は、いやされるために至る所からアスクレピオスの神殿へ来ました。ペルガモンは、皇帝礼拝のカルトを推進する中心的役割を担っており、スミルナと同様、それは強制的なものでした。聖句に、ペルガモンのクリスチャンが「サタンの王座がある」町、サタンの座がある町に住んでいると記されているのは、無理からぬことです。

黙示録2:12〜15を読んでください。ペルガモンのクリスチャンは、教会の内外からの誘惑に直面しました。彼らのほとんどは忠実であったものの、ニコライ派という一部の人たちは、迫害を逃れるために異教との妥協を唱えました。彼らは、背教者となって神に背くよう約束の地へ向かう途中のイスラエルの人々を誘惑したバラムのように(民31:16)、自分たちの信仰を妥協させたほうが便利であり、利益があるとさえ思ったのです。エルサレム会議は、「偶像に献げられたものと……みだらな行い」(使徒15:29)を禁じていましたが、「バラムの教え」は教会員に、この決定を拒むように教えました。イエスがペルガモンに与えることがおできになる唯一の解決方法は、「悔い改めよ」(黙2:16)でした。

ペルガモンにある教会は、およそ西暦313年から538年の教会の預言的な描写です。福音に忠実であり続けた教会もありましたが、霊的衰退と背教が急速に進みました。

ティアティラにある教会へのメッセージ

ほかの都市と比べると、古代史において、ティアティラには政治的、文化的な重要性がなく、そこの教会は目立ちませんでした。事業を営んだり、仕事を得るために、ローマ帝国内の人々は組合(ギルド)に属さなければなりませんでした。ティアティラは、この要求を強要することで特に知られていました。ギルドの組合員は、組合の祭りに出席し、神殿の儀式に参加しなければならず、その儀式には、しばしば不道徳な活動が含まれていました。従わない人たちは組合を退会させられ、経済的制裁を受けました。当時のクリスチャンにとって、それは、妥協するか、福音のために排除されるか、いずれかを選ぶことを意味しました。

問1

黙示録2:18〜29を読んでください。イエスは人々に、どう自分を紹介していますか(ダニ10:6も参照)。イエスはどんなすばらしい資質について、教会をほめていますか。どんな問題がこの教会を困らせていましたか。

ペルガモンにある教会と同様、ティアティラの教会は、異教の環境と妥協するように迫られました。「イゼベル」という名前は、イスラエルの人々を背教へ導いたアハブ王の妻を指しています(王上16:31〜33)。イエスは彼女を霊的に不道徳な者として描いています(黙2:20)。真理に妥協し、「汚れた」異教の考えや習慣を受け入れた人たちは、彼女と霊的姦淫を犯していました。

ティアティラにある教会は、西暦538年から1565年のキリスト教の状況を象徴しています。その頃の危機は、外部からではなく、内部からもたらされました。言い伝えが聖書に置き換わり、人間の祭司職や聖遺物がキリストの祭司職に置き換わり、行いが救いの手段とみなされました。堕落させるこの影響を受け入れなかった人たちは、迫害されたり、殺されたりしました。何世紀にもわたって、真の教会は荒れ野に逃げ込みました(黙12:6、13、14参照)。しかしイエスは、ティアティラにある教会の信仰と愛、行いと奉仕をほめておられます。これは、改革と、聖書への回帰の始まりを指し示しています。

サルディスにある教会へのメッセージ

サルディスには輝かしい歴史がありましたが、ローマ時代までに、その名声を失っていました。この町は、依然として豊かさを享受していたものの、その栄光は、当時の現実に根差したものではなく、過去の歴史に根差したものでした。この古代都市は険しい丘の上に建設されており、難攻不落でした。市民はすっかり安心していました。ですから町の城壁は、しっかり守られていませんでした。

問2

黙示録3:1〜6をマタイ24:42〜44、Ⅰテサロニケ5:1〜8と一緒に読んでください。イエスはサルディスのクリスチャンに、霊的状態の治療法としてどのような三つのことを勧めておられますか。「目を覚ませ」というイエスの警告は、この町の歴史とどのように一致していますか。

イエスは、サルディスの少数のクリスチャンが忠実であることを認めておられますが、ほとんどは霊的に死んでいました。この教会は、(ペルガモンやティアティラのクリスチャンのように)明らかな罪や背教を告発されているのではなく、霊的無気力を告発されています。

サルディスにある教会へのメッセージは、宗教改革後の時代(およそ西暦1656年から1740年)のプロテスタント教徒の霊的状況にも預言的に当てはまります。プロテスタント教会が、生気のない形式主義と霊的自己満足の状態へ陥ってしまった頃です。合理主義と世俗主義の台頭のもとで、救いをもたらす福音の恵みやキリストへの献身を次第に重視しなくなり、それらは信条的(で不毛な)哲学的議論に取って代わっていきました。この時代の教会は、表面的には生きていましたが、霊的には死んでいました。

この手紙はまた、あらゆる世代のクリスチャンに当てはまります。かつてキリストに忠実であったことを、いつも誇らしげに話すクリスチャンがいます。残念ながら、その同じ人は、キリストとの現在の体験については分かち合うものをあまり持っていません。彼らの宗教は名ばかりであって、真の心の宗教も、福音に対する純粋な献身も欠いています。

フィラデルフィアにある教会へのメッセージ

イエスに呼びかけられた第六の教会は、フィラデルフィア(「兄弟愛」の意)でした。この町は帝国の通商路にあり、広大で肥沃な高原への玄関口、「開かれた門」としての役割を果たしていました。フィラデルフィアは、人々が健康といやしを求めて集まる中心地であったことを、発掘は明らかにしています。たびたび地震に襲われたため、町の住人は田舎へ移り、粗末な小屋に住んでいました。

黙示録3:7〜9を読んでください。イエスの自己紹介のし方と「あなたは力が弱かった」(黙3:8)というイエスの言葉は、この教会の状況について物語っています。この教会へのメッセージは、イギリスやアメリカにおいて、およそ1740年から1844年にかけて起こった第一次、第二次大覚醒の中でのプロテスタント主義の大信仰復興に預言的に当てはまります。与えられた光で、神の民はこの頃、「わたしの言葉」(黙3:8)を守ろうとしました。神の掟に従うことと純粋な生き方が、一層重視されるようになりました。「開かれた門」は、天の聖所への入口です。なぜなら、「神の神殿」(黙3:12、さらに4:1、2と比較)が言及されているからです。閉じられた1つの扉と開かれている1つの扉は、1844年に大祭司としてのキリストの働きに起こった変化を示しています。

黙示録3:10〜13を読んでください。時は短く、キリストの来臨は近づいているという兆候が示されています。そして、神の名前が神の民の上に書かれることには、意味があります(IIテモ2:19)。また、出エジプト記34:6は、神の名前を持つ人たちの特長が述べられています。

大西洋の両側で、大きな信仰復興が起きました。1844年に至る歳月の中、キリストがすぐに来られるというメッセージが、世界のさまざまな場所で宣べ伝えられました。勝利を得る者たちに神の名を書き記すという約束は、神の御品性が神の民の中に見られるであろうことを示唆しています。キリストがすぐにおいでになるというメッセージは重要ですが、それと同じくらい、キリストが御自分の民の罪を赦し、彼らの心に神の律法を書きつけることで、その大いなる出来事に彼らを備えさせると約束しておられるというメッセージは重要です(フィリ1:6、ヘブ10:16、17参照)。

ラオディキアのクリスチャン

イエスが最後に呼びかけられた教会は、主要な通商路にある豊かな都市、ラオディキアにありました。この町は、毛織物の製造、銀行業(大量の金を保有)、目薬(軟膏)を作る医学校などで有名でした。ラオディキアの繁栄のために、市民は自給自足の精神であふれていました。西暦60年頃、地震によってこの町が破壊されたとき、市民はローマからの援助の申し出を断り、再建に必要なものはすべて持っている、と言いました。この町は水が不足していたので、ヒエラポリスの温泉から引いた水路を通して水を供給しました。温泉は届いた時点でぬるくなっていました。源泉がラオディキアから遠く離れていたからです。

黙示録3:14〜17とホセア12:9(口語12:8)を読んでください。イエスはラオディキアのクリスチャンを、深刻な罪や異端や背信のゆえに非難していません。問題は、霊的無気力をもたらす自己満足でした。町に届く温泉のように、冷たくもなければ熱くもなく、生ぬるかったのです。自分たちが金持ちで、満ち足りていると主張しましたが、実は貧しく、裸で、自分たちの霊的状態に対して盲目でした。

ラオディキアの教会は、黙示録の終末時代の部分との関連性が示すように、地球史の終わり近くにおける神の教会の霊的状態を象徴しています。そのような関連性の一つが、(黙示録16:15において、イエスの挿入句の中で警告されているように)霊的に裸であるラオディキアが必要とするキリストの義の「白い衣」への言及です(黙3:18参照)。衣を身に着け、裸で歩かないようにという警告は、ハルマゲドンの霊的戦いへの言及の真っただ中に登場します。イエスの警告のタイミングは、かなり奇妙に思えます。だれにとっても恩恵期間はすでに終わっており、このような衣を受け取ることは、不可能だからです。しかし、衣を身に着けるようにという警告は、六つの災いとハルマゲドンとの関係において登場しています。なぜなら、イエスはラオディキアに、その激しい戦いに先立って今(永遠に手遅れになる前に)、備えることを思い出させたいと願っておられるからです。それゆえ、黙示録16:15はラオディキアの人たちに、イエスの勧告に耳を傾けず、裸のままでいるなら(黙3:17、18)、彼が来られるときに恥をかき、失われてしまうだろうと(Ⅰヨハ2:28〜3:3参照)、警告しているのです。

イエスはラオディキアの人たちに、彼らを愛していることを保証し、「悔い改めよ」(黙3:19)と訴えておられます。イエスは御自分の訴えを、雅歌5:2〜6の恋人に自身をたとえることによって結んでおられます。その恋人は、戸口に立って戸をたたき、中に入れてくれるよう嘆願しているのです(黙3:20)。扉を開いて彼を中へ入れる者はだれでも、イエスとの親しい食事と、最終的には、玉座で彼とともに統治することが約束されています(同20:4参照)。

さらなる研究

参考資料として、『患難から栄光へ』第57章「ヨハネ、黙示録を書く」を読んでください。

諸教会への七つのメッセージは、七つの教会の霊的衰退を示しています。エフェソにある教会は依然として忠実でしたが、最初の愛を失っていました。スミルナとフィラデルフィアにある教会は、おおむね忠実でした。ペルガモンとティアティラは、圧倒的多数が使徒たちの純粋な信仰を完全に捨ててしまうまで、妥協し続けました。サルディスにある教会は、非常に深刻な状態にありました。この教会の大多数が福音と調和していませんでしたが、フィラデルフィアは、少数の忠実な人たちを代表していました。ラオディキアにある教会は、良いといわれる点が何もないような霊的無気力と自己満足の状態でした。

それぞれのメッセージを終える際に、イエスは彼の勧告を受け入れる人たちに約束をしておられます。しかし、教会における霊的衰退が明らかになるにつれて、与えられる約束は比例的に増えていることが見て取れます。イエスが最初にメッセージをお与えになったエフェソは、一つの約束しか与えられていません。各教会が霊的下降傾向をたどるにつれ、与えられる約束の数は、前の教会より増えていくのです。最後に、ラオディキアにある教会は、一つの約束しか与えられませんが、最大の約束が与えられます。それは、イエスの玉座にともに座らせよう、というものでした(黙3:21)。

*本記事は、アンドリュース大学神学科新約学教授ランコ・ステファノビック(英: Ranko Stefanovic)著、安息日学校ガイド2019年1期『ヨハネの黙示録 イエス・キリストの働きを知る』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次