【エゼキエル書】わたしはあなたと共にいる【1〜3章解説】#2

目次

愛にみちた神の関心

たとえ状況がそうであったとしても, 神がご自分の民をお捨てにならないということがどのようにしてわかるでしょうか。たとえ気分的に落ち込んでいても,希望がないわけではないということがどのようにしてわかるでしょうか。多くの「災」のうちにある忠実な人々に対して,あなたはどんな慰めの言葉を語ることができますか(詩34:19)。

アウトライン

  • 神は嵐の中におられる(エゼ1:4、 26~28)
  • 神の御手は輪を導かれる(エゼ1:5~28、 10:8)
  • 神の御手はエゼキエルの上にある(エゼ1:3、3:14、22)
  • 神はエゼキエルを備えられる(エゼ2:8~10、 3:1~11)
  • 神は捕囚となったご自分の民と共におられる(エゼ11 : 16)

嵐のときの避け所 

1938年9月、時速320キロという猛烈な風をともなった大西洋のハリケーンが、ロードアイランドに上陸するまえに、「世界で最も豊かな工業地帯」と呼ばれていたアメリカの北東海岸を襲ったことがあります。この自然の猛威は、多くの国々を大混乱におとしいれた第二次世界大戦の前触れを思わせました。

紀元前6世紀にユダ王国を襲ったバビロニア軍の侵入も、この恐ろしいハリケーンと似ています(エレ4:13、19、20参照)。預言者たちは長いあいだユダに来るべき災いを警告し、悔い改めるように訴えてきました。同じように、聖書の預言も終末時代のクリスチャンに来るべき災いに備えるように訴えています。ユダの人々はほとんど預言者の言葉に耳を傾けませんでした。現代のクリスチャンはどうでしょうか。今回は、苦しみの中にあっても神の臨在を求める人たちに対する神の約束について学びます。

神は嵐の中におられる(エゼ1:4、 26~28)

質問1

エゼキエルは幻の中で、何が自分の方に近づいてくるのを見ましたか(エゼ1:3、4)。 

この幻はエゼキエルにとってどんな重大な意味を持っていましたか。北の方からエゼキエルに向かってやってくる黒雲と激しい風は、エゼキエルの暗い気分をいっそう深めました。バビロニア軍がユダに侵入したのも「北」の方向からでした。しかし、エゼキエルと仲間の捕囚の民たちはバビロンの南のテルアビブに住んでいました。ユダヤ人だけが嵐に巻き込まれるのでしょうか。これは、より大きな災いの前兆なのでしょうか。

質問2

恐ろしい雷雲が渦巻きながら近づいてきたとき、エゼキエルはどんな不思議なものを見ましたか。この光景は彼にどんな慰めを与えましたか。エゼ1:4、5、26~28

輝くにじの輪の下に座しておられる神の幻を見たとき、エゼキエルは、すべてのものが失われたのではないという励ましを与えられたことでしょう(黙示4:3比較)。 人間の失敗や残虐行為にもかかわらず、天の神はなおすべてを支配し、イスラエルに対するその目的を遂行されるのでした。

「ケバル川のほとりでエゼキエルに示された象徴は、地上の支配者より力ある支配者をあらわしていた。アッシリヤとバビロンの高慢で残酷な王たちの上に、あわれみと真理の神が座しておられた」(「教会へのあかし』第5巻752ページ)。 -16

質問3

祭司としての訓練を受けてきたエゼキエルは、神が住まれる場所を知っていたでしょうか(出エ25:22、サム下6:2)。 エゼキエル書1章の幻において神の御座を支え、動かしている生きものはだれですか(エゼ10:8、9参照)。 神が神殿を離れる幻は、エゼキエルとバビロンの捕囚たちにどういうことを教えましたか。

この驚くべき幻はエゼキエルに、神がエルサレムの神殿をお見捨てになったという事実以上のことを教えていました。のちに学ぶように、神は罪によってかたくなになったユダの人々をさばくためにあちこち移動しておられました。この幻はまた、次のように言っていました。「エゼキエルよ’わたしは一つの聖なる場所に制限されるのではない。わたしの働きの成否はバビロンにいるわが捕囚の民にかかっている。わたしは捕囚となったあなたと共にいるために来たのだ」と。

神の御手は輪を導かれる(エゼ1:5~28、10:8)

エゼキエル書10:18~22によれば、四つの生きものはケルビム、つまり天使でした。

「のちのユダヤ人の伝承によれば、四つの生きものの形は、エゼキエルが記している順に、ルベン、ユダ、エフライム、ダンの各部族が荒野で宿営を張ったときに掲げたとされる旗印である(民数記2:2)。 しかし、それらが当時の旗印であったという証拠はない」 ( 「SDA聖書注解』第4巻576ページ、太文字付加)。四つの生きものは人類に奉仕する天使たちの知恵、力、忍耐、速さを表しています(へブル1:14参照)。 彼らは「あらゆる被造物の知恵と洞察力、すなわち人間の理性・知性・献身・霊的熱意、ししの威厳・勇敢さ・大胆さ、牛の従順さ・忍耐力・力強さ、そしてわしの鋭い視力・俊敏さ.目ざましい力を兼ね備えている」(エドウイン.R・スイーレ「黙示録概説』第1部84、85ページ)。

質問4

それぞれのケルブのそばには何がありましたか(エゼ1:15~21、10:9、10)。この象徴は何を意味していますか。

一つの大きな輪の中にべつの小さな輪があるのではなく、むしろ二つの輪がお互いに正しい角度で結合されたかたちになっています。だから、ケルビムは向きを変えることなく四つの方向に動くことができるわけです。

幻の中では、ケルビムの動きが強調されています。彼らは自分自身の手と腕を持っています(エゼ1:8、10:7比較)。 彼らはまた「その翼の下に人の手のような形のもの」を持っているように見えました(同10:8)。それは地上において、あるいは空中において彼らを導く「霊」を象徴しているのかもしれません(同1:12)。ケルビムの四つの顔と結合された輪の描写は、止まることなく瞬時にどの方向にも動くことができることを示唆しています。

質問5

これらの輪についている「目」は何を示唆していますか(エゼ1 :18、 10:12-黙示4:6、 5:6比較)。輪はケルビムとどんな関係にありますか(エゼ1:19~21)。

一見、この複雑な輪は、移動可能な神の御座の輪のように見えます(ダニ7:9参照)。しかし、この幻においては、これらの輪が地上の出来事を強調しているように思われます(エゼ1:15参照)。輪についている目は神の支配下にある知的勢力を象徴するかのようです。神は、この地球が無意味にあらゆる方向に回転するままに放置しておられるのではありません。人類全体のための、教会のための、そして私たちひとりびとりのための神の永遠の目的は、神の天使たちの働きによって遂行されています(エペ3:9~11、ロマ8:28、29参照)。

神は地上の諸事件を支配される

「それらの国々は、神の原則を退け、そのことによって自らの破滅を招いたが、一方また天来の支配的な目的がそれらの国々の動きを通して働いていたことが明らかにされた。

この教訓は、預言者エゼキエルが、カルデヤの地に亡命していたときに与えられた不思議な象徴的な表現の中に、教えられている。

輪は複雑な組み合わせになっていたので、一目見たときには混乱してみえたが、しかしそれらは完全な調和の中に動いていた。ケルビムの翼の下にある手によって、ささえられ導かれている天の聖者たちが、これらの輪を進めていた。これらの上の方にサファイヤの宝座があって、そこに永遠なる神がおられ、宝座のまわりを神の恵みの象徴であるにじがとりまいていた。

複雑な輪の形をしたものが、ケルビムの翼の下にある手によって導かれていたように、人間の世界の複雑な活動も神の支配下にある。国々の争乱のさなかにも、ケルビムの上方に座しだもう神はなお地上のできこ.とを導かれるのである」(「教育』209~211ページ)。(ダニ4:17、25、32、35、使徒17:26、27参照)

神の御手はエゼキエルの上にある(エゼ1:3、3:14 .22)

質問6

「主の手がその所で彼の上にあった」とはどういう意味ですか(エゼ1:3)。 エゼ3:14、22(列王上18:46、列王下3: 15比較)

エゼキエルはここで、民に語らせる力が神から与えられたものであることを認めています。つまり、彼は聖霊に動かされて神の言葉を語り、神からの直接的な啓示を受けたのでした(エゼ8:1、237:1比較)。エゼキエルの権威は自分自身のうちから出たものでもなければ、超自然的な洸惚(こうこつ) 状態において与えられたものでもありませんでした。むしろ、それは神から与えられたものでした。神はこの方法によってエゼキエルを通して民に語られたのでした。

質問7

エゼキエルの関心は御使いたちの上方の御座におられるおかたに引きつけられました。このおかたはどなたでしたか。エゼキエルはこの光景を見たときどうしましたか。エゼ1:26~28(黙示1:17比較)

聖書は神についての幻を与えられた預言者たちの経験を記しています。神は「近づきがたい光の中」に住んでおられるので(Iテモ・6:16)、 これらの描写は預言者の理解できる人間の言葉で神を表したものにすぎません。しかし、それらの幻は神の特異な側面を強調しています。イザヤの幻は神の聖なることを強調しています(イザ6:1~3)。 ダニエルの幻は人類のさばき主としての神を描写しています(ダニ7:9、10)。ヨハネの幻は全知の神を強調しています(黙示4:2、3、5:1)。ミカヤの幻はイスラエルに対する神の働きを示しています(列王上22:19)。エゼキエルの幻は、地上における人間の複雑な諸事件を完全に支配しておられる神を示しています。しかしながら、神についてのこれらの幻もイエスによる神ご自身の啓示に及ぶものではありません(ヘブ1:1、2参照)。函

質問8

神は祭司エゼキエルにどんな特別な使命を与えられましたか(エゼ2:1~5)。 彼はどういう人たちのために働くことになりましたか(エゼ3:10、11)。

エレミヤは、ユダがまだ独立を保っていたころ、ユダヤ人のうちで働きました。しかし、彼はバビロンに服従するように説いたために、反逆者、死に値する者とみなされました(エレ38:1~4)。一方、エゼキエルの働きはユダヤ人捕囚に限られていました。捕囚の民の大部分は落ちつきがなく、反逆的で、偶像を拝み、すぐにも解放されると考えていました。

質問9

エゼキエルの言葉を聞いて悔い改めたにせよ、悔い改めなかったにせよ、彼らはどういうことを知ることになりましたか(エゼ2:5、33:33)。このことにはどんな重要な意味がありますか。 

エゼキエルは罪にこりかたまった捕囚の民の苦々しい応答によって感情的に傷つけられたことでしょう。彼はいばらとさそりのような言葉によって苦しめられたことでしょう(エゼ2:6)。しかし、彼が神の真の預言者として語ったことが時とともに明らかになるのでした。

セブンスデー・アドベンチストも、預言の賜物を受けたエレン・G・ホワイトを通して大いなる特権をゆだねられています。

「私の兄弟たちよ、有害な不信仰に気をつけなさい。神のみことばは明らかで拘束力に富み、あなたの利己的な欲求と衝突する。それゆえ、あなたはそれに従わない。御霊のあかしはあなたの心を聖書に向けさせ、品性の欠陥を指摘し、罪を責める。それゆえ、あなたはそれに耳を傾けない。そこで、あなたは生来の、安楽を愛する心を正当化するために、それらのあかしが神からのものかどうか疑い始める。しかし、もしあなたがそれらの教えに従うなら、それらが神から与えられたものであることを確信するようになる。あなたの不信仰はあかしの真実性に何ら影響を及ぼすものではない。もしそれらが神からのものであるなら、それらはすたることがない。これらのあかしに対する神の民の信仰を弱めようとする者たちは、神に敵対しているのである。彼らが軽べつし、侮っているのはあかしを語る人ではなく、これらの警告と勧告によって語られる神ご自身である」(「教会へのあかし」第5巻234、235ページ)。

質問10

神がエゼキエルに与えられた使命には、どんな特別な役割が含まれていましたか。預言者としてのエゼキエルの働きがどのように描写されていますか。エゼ3:17~21、33:7

とりわけ「見守る者」に求められることは信頼と責任です。なぜなら、人々の生命そのものがかかっているからです。彼は正しい判断力の持ち主であって、決断力に富み、その決断に従って直ちに行動できる人でなければなりません。

霊的な領域においては、見守る者は真実と虚偽(きょぎ) を識別し、警告を発することができなくてはなりません。このような鋭敏な知覚力を持った人はともすると人々の中傷と誤解に会います。エゼキエルが反対に耐えることができるように、主は彼に鉄の意志をお与えになりました(エゼ3:8、9参照)。

神はエゼキエルを備えられる(エゼ2:8~10、3:1~11)

質問11

神は幻の中でエゼキエルに何を与えられましたか。その両面にはどういうことが書かれてありましたか。エゼ2:8~10(黙示10:8~10比較)

巻物はふつう、片面にしか書かれていません。この巻物が両面に書かれていたということは、その量が膨大なものであったことを示唆しています。まもなく下ろうとしていた激しい災害は、罪にこりかたまった人々を目ざめさせるためのものでした。神はご自分の愛する民の滅びをお喜びになりません(エゼ18:32)。

質問12

エゼキエルが巻物を食べるように言われたのはなぜですか。エゼ2:8、3:1~4(エレ15:16比較)

「食べる」ことは、エゼキエルが主のメッセージと教えを完全に理解することを示しています。それはまた、彼が自分の特別な働きに全的に献身することを示しています。イエスもこ.自分の献身について次のように言われました。「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」(ヨハ4:34—ヨハ3:34、マタ4:4、1ペテ3:14~16比較)。

神は捕囚となったご自分の民と共におられる(エゼ11 : 16)

質問13 ご自分の臨在がエルサレムの神殿に限定されるものではないことを、神はどのようにしてバビロンの捕囚の民に確証されましたか。エゼ11:16—22

この聖句は部分的にですが、なぜエゼキエルが、バビロンに旅するイスラエルの神を見ることを許されたのかについて説明しています。神の民が外国に捕らわれていこうとも、神は彼らをお見捨てにはなりません。いわば、主も彼らと共に捕囚となられるのでした。

「高い所であれ低い所であれ、町の中であれ山のほら穴の中であれ、みすぼらしい小屋の中であれ荒野であれ、自分の聖所を持つ人はさいわいである。もしそれが主にささげることのできる最良の場所であるなら、主はご自分の臨在によってその場所をきよめてくださる。なぜなら、それは、万軍の主に聖なるものとなるからである」(『教会へのあかし』第5巻491、492ページ)。

まとめ

大分以前から預言されていた敵の侵略と従属の嵐はついにユダの上に成就しましたが、神はご自分の民を捨てられませんでした。神は一見、不可能と思われる諸事件を完全に支配しておられました。同じように、神は今日もご自分の民と共にいてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。

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