【エゼキエル書】訓練の働き【4〜7章解説】#3

目次

神はなぜご自分の民を訓練されるのか

神のさばきがときには厳しい場合があるのはなぜでしょうか。

アウトライン

  • 預言の無言劇(象徴的動作による啓示)(エゼ4、5章)
  • 訓練の日々(エゼ4:4~8)
  • 苦悩と滅び(エゼ4:9~5:17)
  • 原因と結果(エゼ6:1~7、7:1~27)
  • 回復された残りの民(エゼ6:8~10)

最終的なさばきに先だつ訓練

バビロニア人による征服と捕囚は、神にそむいた人たちばかりでなく、神に忠実であった人たちにも影響を与えました。バビロニア人によるユダ王国の破壊はひどいものでした。神はあらゆる方法を用いてユダの背信を正そうとされました。しかし、かたくななユダはみだらな道を改めようとせず、「ついに救うことができないように」なるまで神の使者たちをあざけりました(歴代下36:16)。それでも、神のあがないを拒絶しなかった多くの者たちが神のあわれみに満ちた訓練によって悔い改めと救いに導かれました。

神とサタンとのあいだの大争闘という広い視点から見れば、罪と反逆にとどまる者たちは神からの分離と死というさばきを受けなければなりません。神の御子もこのさばきを受けられました。私たちの救いはキリストのあがないと身代わりの死によって可能となりました。多くの小さなさばきは油断している者たちをキリストに導くためのものです。最終的なさばきは、どんな方法によっても積極的な応答を引き出すことができない場合にのみ下されます。

預言の無言劇(象徴的動作による啓示)(エゼ4、5章)

質問1

イスラエルの捕囚の民に対する神の代弁者になるようにという神の召しに対して、エゼキエルはどのように応答しましたか。エゼ3:14、15

ここで「熱く」と訳されているヘブル語は、「怒り」、「憤激(ふんげき)」、「立腹」とも訳すことができます。それは、エゼキエルが自分の召しを怒り、恨んだことを暗示しています。彼はハバククのように声に出して神と議論しませんでしたが、心のうちでは憤慨(ふんがい) し、テルアビブの捕囚のうちに黙って座しました。エゼキエルは憤慨の理由について説明していませんが、いくつかのことが考えられます—希望が失われたこと、使命の困難さ、同胞の霊的堕落に対する義憤、自分は神の召しにふさわしくないという思い。

質問2

神が7日後、ふたたびエゼキエルを召されたとき、彼にどんな肉体的現象があらわれましたか。エゼ3:16、17、22~27

「御使いの言葉を信じなかったザカリヤ(ルカ1:22)の場合と同様に、ここでも命令されたときに語ることを拒んだエゼキエルに叱責(しっせき) が下っているように思われる。しかし、主はこの経験を善のために用いられた。エゼキエルがものを言えなくなったこと、そして主が彼の口を開かれるときのみ語ることができたことは、それらの言葉がたしかに主の言葉であることを反逆の民に示す別のしるしとなった」( 「SDA聖書注解』第4巻587ページ)。

断続的にものが言えなくなるという状態は約7年半、つまり紀元前586年におけるエルサレムの滅亡まで続きました。ほかの預言者たちも実物を用いて教えていますが(エレ27: 2、3、28:10、イザヤ20:3、4参照)、エゼキエルも言葉が話せなくなったことで多くの預言を行動で示さなければならなくなりました。

質問3

エゼキエルは捕囚の民に対する最初のメッセージをどのように実演しましたか。それはどういうことを予告していましたか。エゼ4:1~3、5:5~8

質問4

ユダの滅亡と神の民の離散を通して、神はどんな目的を達成しようとされましたか。エゼ20 : 37、 38、 43 (エレ30: 11比較)

「かつては、地上の他のあらゆる国民にまさって天の神の祝福を受けた者として認められていた民が、諸国の前で捕囚の屈辱を受けることによって、将来の幸福のために彼らがぜひ必要としていた服従という教訓を学ぶことになるのであった。彼らがこの教訓を学ぶのでなければ、神が彼らのためにしようと望まれたすべての事をすることがおできにならないのであった。神は彼らの霊的幸福のための懲(こ) らしめに対して『わたしは正しい道に従ってあなたを懲らしめる。決して罰しないではおかない」と言われた(エレミヤ書30:11)」(「国と指導者』下巻89ページ)。

質問5

神ご自身、「わたしは力ルデヤびとを興す(おこ) 」と言っておられますが(ハバ1:6)、 私たちはこの言葉をどのように理解したらよいのでしょうか(エレ27:5~8)。 エルサレム包囲についてのエゼキエルの象徴的動作によるたとえは、ユダに対する神のさばきを表していました(エゼ5:8)。 神はなぜ邪悪な国々を用いてご自分の民を訓練し、試されたのでしょうか(イザ10: 5~13ヨブ42:11、1:9~12、2:5~7比較)。

へブル人は一般的に、たとえ人間の責任が否定できないにしても、すべてのことは最終的には神に起因すると信じていました。したがって、神が許されることは起こる、あるいは神が妨げられないことは起こるというように言われるのです。このようなわけで、神が不従順なイスラエルと反抗的なユダの上から祝福と守りの手を引かれたとき、アッシリアとバビロニアの軍勢がその征服と略奪の野望にもえてイスラエルに侵入したのです。神はご自分の民を訓練し、矯正(きょうせい)する手段として彼らの行動を許されました。

訓練の日々(エゼ:4~8)

質問6

エルサレムの包囲を象徴的動作によって預言するに当たって、エゼキエルはどんな新しい任務を与えられましたか(エゼ4:4~8)。

 彼はどれだけの期間、それぞれの国を代表しましたか。イスラエル、ユダの「家の罰を負わなければならない」とはどんな意味ですか。エゼキエルは因果応報の原則を描写しています。使徒パウロもこの原則について次のように述べています。「まちがってはいけない神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」(ガラ6:7-筬11:5、詩34:21、エレ2:19比較)。エゼキエルは毎日、何時間かを脇を下にして寝たのでしょう。人人は彼を見て、その動作の意味を知ろうとしました。超自然的な力が彼の姿勢を支えました(エゼ4:8)。ここに述べられた特定の期間が何を表すのかは明らかではありませんが、この象徴的動作によって示された預言の要点は明らかです。神はアッシリアとバビロニアによる捕囚を用いて、過去におけるヘブル人の罪と反逆を罰し、懲らしめようとされました。

質問7

神はエゼキエルに対して象徴的に、イスラエルとユダの「罰を負う」ように命じておられますが、これは民数記14:34の思想と同じものです(エゼ4:4~6と民数14:34を比較してください)。民数記の言葉はだれによって語られたものですか。

エゼキエルに与えられた主の言葉(エゼ4:4~6)は、ダニエル(エゼキエルと同時代の人)に与えられた幻、またのちに黙示録において与えられた幻の象徴的期間を知る重要なかぎです。エゼキエルはここで、象徴的な1日が文字通りの1年をさすという1日1年の原則を用いています。エゼキエルヘの神の言葉は先に与えられた民数記の言葉にもとづいています。これらの聖句を逐語的(ちくごてき) に訳すと、次のようになります(それぞれの聖句に書かれた数字は似ている表現を示しています)。

民数記1434 「あなたがたは、かの地を探った40日の、 (1)日数にしたがい、(2)その1日を1年として、40年のあいだ、(3)自分の罪を負わなければならない」。

エゼキエル書446「あなたはこのようにして寝ている(1)日数(3)彼らの罰を負わなければならない。わたしは彼らの罰の年数に等しいその(1)日数、すなわち390日をあなたのために定める。(3)あなたはイスラエルの家の罰を負わなければならない。……40日のあいだ、(3)あなたはユダの家の罰を負わなければならない。わたしは(2)1日を1として、あなたのために定める」。

これらの比較から、エゼキエル書における神の言葉が民数記における神の言葉を反映していることがわかります。エゼキエル害に用いられている1日1年の原則は民数記に始まったものです。これらの聖句は、象徴的な聖書の預言においては、1日が1年を表すことを示しています。この原則を用いることによってのみ、ダニエル書と黙示録に記された預言的期間を理解することができます。

苦悩と滅び(エゼ4:9~5:17)

質問8

エゼキエルはエルサレム包囲についての象徴的行為による預言のためにどんな食物を用意しましたか。彼は毎日、どれだけの量を飲み食いすることができましたか。エゼ4:9~111

日に200グラムのパンと0.5リットルの水は、やっと生命を維 持することのできる量でした。エルサレムが包囲されるとき、このような飢きんが訪れるのでした。

質問9

包囲されたエルサレムはどんな絶望的な状態におちいりますか。エゼ5:10 (エレ19 :9、哀4:10比較)

恐ろしい残虐行為をともなったこの飢きんは、起こるべくして起こったものでした。ゼデキヤ王と民は、包囲攻撃とそれにともなう滅びを免れるために、バビロニア人に降伏するよう、繰り反し勧告されていました(エレ21:8、9参照)。エゼキエルの描いている極度の苦しみは、エルサレムの住民が罪にこりかたまっていたことを示しています。彼らは神と人とに対する罪を悔い改めて、降伏するよりも、自分の親や子供を食べるという恐ろしい野蛮行為のほうを選んだのでした。

質問10

エゼキエルの象徴的動作による預言はさらに、バビロニア軍の攻撃と征服によってもたらされるどんな結果について描いていますか。エゼ5:5、創世記22:15―18(申命記7:6―11、出エジプト15:17比較)

質問11

神はイスラエルをパレスチナに導かれた当初、どんな輝かしい計画を持っておられましたか。エゼ5:5、創世22:15~18(申命7:6~11、出エ15:17比較)

「ユダヤ民族を通して豊かな祝福を全人類に与えることが神のみ旨であった。イスラエルを通して、神の光を全世界に輝かせる道が備えられなければならなかった。世界の諸国は、堕落した習慣におちいることによって神の知識を失っていた。しかし、あわれみある神は彼らを滅ぼしたりなさらなかった。神は、教会を通して神を知る機会を彼らに与えようと意図なさった。神は、神の民を通してあらわされる原則が、人間の中に神の道徳的なみかたちを回復する手段となるように計画された」(「キリストの実物教訓」264ページ)。 

質問12

罪深いユダヤ民族は今、神の訓練のもとでどんなあかしを立てることになりますか。エゼキエル書5:11、14、15(申命28:27、列王上9:6~9比較)

三つの大陸(アフリカ、アジア、ヨーロッパ)の十字路にあって、イスラエルは諸国民を神にみちびく役割が与えられていました。イスラエルは部分的にはこの役割を果たしました。周辺の諸国は、彼らが賢明で正しい民族であることを認めました(申命4:6、 8)。しかし、神の律法とさばきに対するイスラエルの不服従もまた、他国民に影響を与えました。神のさばきは現代のクリスチャンおよび諸国民に対する有益な教訓です。

原因と結果(エゼ6:1~7、7:1~27)

質問13

エゼキエルはどこに向かって預言するように命じられましたか。それはなぜですか(エゼ6:1~3、13-ホセ4:13、エレ3:6比較)。

神は先にイスラエルに対して、これらの場所をどうするように命じておられますか(申命12:2、3)。山、丘、森は偶像崇拝に好んで用いられた場所でした。「高き所」とは屋外の聖所でした。それらはいつでも山の頂上にあったわけではなく、ある場合には高く築かれた場所にありました。たぶん、山頂や高い場所のほうが神々に近いと考えたのでしょう。緑の木々は彼らを炎熱から守り、そのみだらな儀式を隠してくれました。

質問14

偶像礼拝に関して、神はどんな警告を与えておられましたか(レビ26:2聴糾)。その数百年後に、神はご自分の民に対してどんな恐ろしい懲罰的なさばきを宣告されましたか。エゼ6:3~7、11~14

預言者たちが最初にエルサレムと国家の滅亡について警告し始めてから、すでに1世紀半以上が経過していました。しかし、まだ何も起こっていませんでした(ミカ3:12、アモ2:4、5参照)。自己満足におちいった人々を目ざめさせるために、エゼキエルは「終りが来た、終りが来た」(エゼ7:2、3、6)とくりかえし宣告しました。恐るべき懲罰もこれ以上、遅くなることはありませんでした。エゼキエルが象徴的動作によって滅びを予告したほぼ6年のうちに、エルサレムは破壊され、その住民は殺され、一部は捕囚となりました。

回復された残りの民(エゼ6:8~10)

ユダに災難が下ったとき、悪人だけでなく善人も苦しんだことは明らかです。ダニエル、エゼキエル、それに彼らの兄弟たちは、背信的な人々と共に神の懲罰の結果に苦しみました。しかし、彼らは神に対する忠誠を守り、捕囚の地にあって公然と神に仕えました。

質問15

エルサレムの懲罰についての預言のなかで、エゼキエルは残りの民の救いをどのように描写していますか。エゼ5:1~3、6:8、9 -31

質問16

エゼキエルは切り取った少しの毛をどうしましたか。エゼ5:4(エレ43:1~7比較)

ネブカデネザルがユダの総督として任命したゲダリヤを殺害したユダヤ人たちは、バビロンからの仕返しを恐れてエジプトに移住しました。この行動は神のみこころに反することでした。エレミヤは彼らと共にエジプトに連れて行かれました。罪にこりかたまったこれらの逃亡者たちはエレミヤの勧告を拒みました。預言者エレミヤは彼らに向かって、バビロン軍がエジプトに侵入するとき、彼らが殺されることを予告しました(エレミヤ書44:26~30参照)。エジプトにおけるこの反逆的なユダヤ人たちは、衣のすそに包み、あとで取り出して火で焼かれた毛によって表されているのです。

神の懲罰は祝福

アッシリアおよびバビロニア軍の侵入によって、イスラエル人は外国に移され、近東、そしてのちにはローマ帝国のおもな都市に会堂を建設しました。これらの会堂は使徒たち、また初期のクリスチャンに一時的ではありましたが「講壇」を提供しました。そしてこれらの都市を中心として、キリスト教会が急速に発展していきます。このように、神の懲罰は罪を悔い改めた残りの民を救っただけでなく、キリスト教の教えが異邦人に宣べ伝えられる道を開くことにもなったのでした(「国と指導者』上巻259ページ参照)。

まとめ

神はご自分の民を個人的に、また集団的に訓練されます。それは、私たちが自分の必要を真に気づいて、ゆるしと回復を求めて神に立ち返るためです。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年2期『雨の中のにじ エゼキエル書』からの抜粋です。

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