この記事のテーマ
今回の研究を始めるにあたって、ある興味深い点に気づくことでしょう。それは、聖書注解者が長年にわたって論じてきたことです。コヘレトの言葉は箴言とよく似ています。箴言は日常生活についての実際的な知識を扱った短い格言です。しかし、その順序は必ずしもわかりやすいとは言えません。
たとえば、箴言6章を例にとってみると、この章は「怠け者よ、蟻のところに行って見よ」(箴6:6)という労働についての思想をもって始まります。その後に、「ならず者」(12節)についての言葉、「主の憎まれる」(16節)6つのことについての警告、両親に従うことについての言葉(20節)、最後に悪い女の危険性についての警告が続いています(24~35節)。
これとほぼ同じ形式がコヘレトの言葉4章にも見られます。ソロモンはここで多くの問題について論じています。それは、多くの人が味わう虐待に始まり、人生の意味、ねたみの問題、労働の目的、最後に共同体と交わりへと続いています。彼の文章はあるときは鋭く、適切ですが、あるときは非常に詩的で、あまり説明がありません。しかし、現代の私たちにも必要なさまざまな問題について多くのことを教えています。主がここで私たちに語っておられることに注目してみましょう。
虐げる者
問1
コヘレト4:1~3を読んでください。ソロモンがここで言っていることをあなたの言葉で表現してください。
ソロモンは再び、人生を世俗的な視点、「太陽の下」からながめています。これらの言葉は、その著者が王であることを考えると、特に興味深いものとなります。奴隷が主人の手中にある自分の運命を嘆いている、あるいは貧しい者が富める者の虐待下にある自分の運命を嘆いている、というのであれば、まだ話はわかります。しかし、ここでは、国家の最も豊かで、力ある指導者が不正と虐待を嘆いているのです。
問2
虐待はふつう、政治や富に関連して起こると考えられがちです。しかし、虐待にはさまざまな種類があります。夫と妻、あるいは両親と子供についてはどうでしょうか。宗教を用いて人を抑圧し、搾取する宗教的な抑圧についてはどうでしょうか。雇用者と被雇用者についてはどうでしょう。いわゆるセクハラはどうでしょうか。これも虐待の一種です。ほかにもいろいろ考えられます。人は知らない間に虐待者になっていることさえあります。次の聖句はそのような過ちに陥ることから私たちを守るどんな原則について教えていますか。マコ10:43、44、Iコリ9:19、フィリ2:3、IIテモ2:24、Iヨハ3:16、4:11
権力は諸刃の剣のようなものです。正しく使えば、大いに祝福になります。権力によって、人を正しい方向に導くことができるからです。反面、権力は容易に乱用されがちです。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対的に腐敗する」と言われる通りです。たいていの人は、何らかの意味で、だれかに対して権力を持っています。重要なことは、それをどのように用いるか、です。
人生は生きるに値するか
「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(コへ4:2、3)。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」(アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』3ページ、1955年、清水徹訳)。
表現は異なっていますが、上記の引用文はともに同じ問題について述べています。つまり、人生は苦しみながら生きるに値するか、ということです。人生のさまざまな痛み、苦しみ、失望を考慮しても、人生は生きるに値するものなのでしょうか。
その答えは、結局のところ、人生の意味をどのように考えるかにかかっています。この世の生が死をもって終了・完了し、その後には何もない、と考えるのが一つの立場。一方、この世の生はよりよいもの、永遠のものに至るための一時的な休止にすぎない、と信じるのがもう一つの立場です。このように、人生は生きるに値するかという問題は、皮肉にも、死の問題にかかわってきます。死は終わりでしょうか。それとも始まりの終わりにすぎないのでしょうか。
ねたみ
ソロモンは乗りに乗っています。人間は生きて、「太陽の下」(コへ4:1)に行われるあらゆる虐げを見るよりも、生まれて来なかったほうがよかったと言った後で、別の主題、つまり「ねたみ」に話題を変えています(4~6節)。確かに、聖書の視点からねたみについて考えるのも価値のあることです。十戒の一つでさえ、ねたみの問題を扱っているからです(出20:17)。ただし、ソロモンは別の視点から次のように述べています。「すべての労苦とすべての巧みな業は、人が隣人をねたんでいること以外の何ものでもない」。これは皮肉な見方で、なるほど一面の真理を表してはいますが、極端な見方と言わねばなりません。
とはいえ、ねたみは人間的な問題です。いや、人間的な問題以上です。実際のところ、それは最初の罪でした。「サタンはイエス・キリストをうらやみ、ねたんだ。すべての天使がイエスに腰をかがめ、その主権と高い権威、正義にもとづく統治を認めたとき、サタンも彼らと共に腰をかがめた。しかし、彼の心はねたみと憎しみで満ちていた」(エレン・G・ホワイト『預言の霊』第1巻18ページ)。この意味で、ねたみと嫉妬心を表すとき、私たちはサタンの品性を映しているのです。
問3
ねたみが大きな役割を果たした物語を聖書から3つ捜し出してください。そのねたみがもたらした結果を書き出してください。どんな教訓を学ぶことができますか。
だれのために働くのか
「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」(使徒20:35)。
コヘレト4:7、8を読んでください。あらゆる労苦と巧みな業を、ねたみ以外の何ものでもないと一蹴した後で、ソロモンは7、8節で労働に関して新たな解釈を加えています。人は何のために働くのか。ソロモンがここで言っているのは、孤独な人のこと、子供もいなければ、扶養する人も、資産を譲る人もいない人のことです。このような人はただ自分自身のためだけに働いているのでしょうか。もしそうなら、その目的は何でしょうか。
直接的な文脈がどうであれ、これらの聖句は人間であることに関して重要な問題を投げかけています。あらゆる人間の中で最もみじめな人間はたぶん、自己中心的な人、自分のためだけに生き、自分のことしか考えない人でしょう。そのような人は、たとえ今は豊かであっても、そのうちに、自分がちっぽけな存在であること、人生がはかないものであること、自分が「太陽の下」でなされる計画の中で取るに足らない存在であることに気づきます。そのとき、彼は自分の存在に目的と意味を見いだすことができません。私たちは人間として、自分自身のためだけに生きるようには造られていません。イエスの生涯に例示されているように、無我の愛の目的は他者を助けるために生きることです。自分自身を他者のためにささげるところには、満足と喜びと目的意識があります。しかも、幸いなことに、それは既婚・未婚、あるいは子供のある・なしと、全く関係がありません。周りに人間がいるかぎり、私たちはだれかの祝福になることができるし、人を祝福することによって私たち自身も祝福を受けます。
問4
次の各聖句は、今日の研究のテーマに関して、キリストに従う私たちにどんなことを教えていますか。マタ25:31~46、マコ10:45、使徒2:43~45、ヘブ13:1~3
糸と共同体
ソロモンはコヘレト4:8~12で、別の思想へと移行しています。彼はここで、自分自身のためだけに生きることから、共同体の持つ有利さに話を発展させています。彼は非常に詩的な表現で、一人よりも二人のほうがはるかによいことを説明しています。ここで言われていることは、私たち人間が共同体のために造られているということです。私たちは他人との関係において生きるように、他人を必要とするように造られています。
1998年のこと、ある家主がドイツのボンに住むウォルフガンク・ダーク氏のアパートに入りました。銀行から振り込まれるはずのダーク氏の家賃が滞っていたからです。部屋に入った家主はテレビの前の椅子の上に骸骨!を発見しました。テレビは壊れていましたが、スイッチはオンになっていました。しかも、驚いたことに、そばに置かれたクリスマス・ツリーの電球がなおも点滅していました。椅子のそばには、1993年12月5日のテレビ番組が置かれていました。彼はたぶん、この日に死に、5年間もの間、だれからも発見されなかったのです。隣人の大切さがよくわかります。
問5
コリントIの12章を読んでください。これはどんな意味で、ソロモンがコヘレト4:8~12で言っていることと基本的に同じですか。
「一人用の物理」というものがないように、「一人用のキリスト教」というものもありません。人が神との一対一の関係を持たないかぎり、キリスト教信仰は無意味です。これはきわめて重要な点です。しかし、この人と神との、垂直的な関係とは全く別に、人はまた共同体、教会との関係の中に置かれています。
「組織された教会とかかわりを持ちたくない」と言う人がときどきいます。では、彼らは組織されていない宗教を求めているのでしょうか。もちろん、そうではありません。そのような言い分は、特定の団体に加わることによって、献身や責任、服従を強制されたくない人がよく口にする言い訳にすぎません。
まとめ
米国の小説家カート・ヴォネガットは次のように言っています。「今日の若者はどんなことにその生涯をささげるべきでしょうか。いろいろなことが考えられるでしょう。しかし、最も勇気あることは、孤独という恐ろしい病がいやされるように、ゆるぎない共同体を創造することです」。
“コイノニア”は「交わり」を意味するギリシア語です。人間は共同体のために、また相互の交わりのために造られています。しかし、どんな交わりでもよいというわけではありません。人間的な交わりのためなら、バーやフットボールに行けばよいでしょう。しかし、聖書の言う交わりはそのような交わりとは異なります。それは、神への愛にもとづいて、互いに愛し合い、助け合う契約を結んだ人々の共同体から出る交わりです。それは、共通の考え、共通の目標、共通の夢、共通の目的、とりわけ互いに思いやり、互いに助け合うために献身した人々です。
オーストリアの生んだ精神科医で、アウシュビッツ収容所を経験したヴィクトール・フランクルは、その著書『それでも人生に「イエス」と言う』の中で、誰かまたは何かに待たれている人が、その希望のゆえに生き抜き、そのような希望を持たなかった人々は死んでいった例を紹介しています。
長い間、教会を欠席している人々は、誰か(あるいは何か)によって待たれているという思いを持つことができるでしょうか。私たちの救いのために、とことん待ってくださった、そして今も待っていてくださるイエスを私たちの交わりの中心にお迎えし、キリストにある愛の共同体の形成を目ざしたいものです。
*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。