この記事のテーマ
ある牧師が一組の夫婦にカウンセリングをしていました。問題は夫の不倫でした。それも、一人の女性でなく、多くの女性が相手でした。彼は、確かにほかの女性と関係を持ったが、妻を愛していないわけではないと言って、弁解しました。実際のところ、ほかのどの女性よりも妻を愛している、とさえ彼は言いました。
当然のこと、彼の言葉は事態を好転させるどころか、いっそう悪化させる結果になりました。なぜでしょうか。だれかを愛する場合、言葉だけでなく、行為と行いによってもそのことを表す必要があるからです。
ヨハネは今回、神を知り、神を愛するとはどういう意味かについて語ります。主を愛していると、口で言うことはだれでもできます。問題は、聖書にあるように、その愛をどのように表すか、です。
何を知っているか(1ヨハネ2:3−5)
今日の聖句に、「それによって……分かります」という表現が二度用いられています。クリスチャンは何を知っていると、ヨハネは言っているのでしょうか。
第一に、クリスチャンが神を知っていること(3節)、第二に、クリスチャンが「神の内にいる」ことが分かります。永遠の命か永遠の滅びかという重大な問題がかかっていることを考えれば、これらは知る必要のある重要な問題です。
同時に、知識そのものを救いの手段としないように注意する必要があります。事実、これこそ、ヨハネが随所で扱っていた異端、つまり知識だけが救いをもたらすという思想そのものでした。
「知識」(グノーシス)は古代の宗教にとって重要な言葉で、キリスト後の最初の数世紀は宗教界において重要な概念となっていました。紀元2世紀頃には、それはグノーシス主義と呼ばれて、クリスチャンの間でよく知られた異端となっていました。グノーシス主義においては、道徳的な行動はほとんど重要視されませんでした。強調されたのは神や人間の性質についての神秘的な体験・空想的な神話でした。救いは主に対する信仰によってではなく、この秘密の知識によって得られるのでした。
問1
新約聖書は知識という概念をどのように用いていますか。マタ13:11、ルカ1:34、77、ヨハ17:3、ロマ3:20、Iコリ8:1、Iテモ2:4、IIペト3:18、Iヨハ4:8
新約聖書においては、「知ること」(知識)は理論的な、また神学的な意味を持っています。しかしながら、それはまた関係を描写しています。神を知ることは、神と親しい関係にあることを意味します。服従、愛、罪を離れることなどはみな、このような関係にあることを示しています。知識の持つ理論的な側面と経験的な側面は密接な関係にあります。
ヨハネは「知る」という動詞はよく使っていますが、「知識」という名詞は使っていません。グノーシス主義との混同を避けるために、あえて専門的な用語を避けたのかもしれません。
掟を守る(ヨハ2:3~5)
神を知っていると言うことはだれにでもできます。事実、ヨハネの時代も、多くの人々がそう言っていました。今日も同じです。口で言うのはたやすいことです。
問2
ヨハネにとって、人が神を知っていることの外面的な印、証拠は何でしたか。ヨハネはこの点に関してほかに何と言っていますか(ヨハ14:15、21、15:10、Iヨハ3:22、24、5:3、黙12:17、14:12)。これらの聖句は互いにどんな関係にありますか。それらは私たちアドベンチストの律法に対する立場をどのように支持していますか。
ヨハネにとって、またイエスにとって、掟を守ることは非常に重要でした。この言葉はヨハネの書にしばしば出てきます。掟を守ることは、私たちが神・イエスを知り、この方を愛していることの証拠です。愛と服従はここでは一つに結びついています。「この方」という言葉は父なる神またはイエスをさし、たぶん意識的に両方の意味が込められています。ヨハネの手紙Iの2:4は同じ真理を否定的な言葉で言い表していて、神を知っていると言いながら、掟を守らない人々の偽りの主張に言及しています。ヨハネはこのような考えを非常に強い言葉で非難し、そのように教える人を偽り者と呼んでいます。
問3
掟を守ることが神を知っていることの現れであるのはなぜですか。掟を守る「行為」がどのようにして、神を「知っている」ことの現れとなりますか。両者はどのような関係にありますか。
聖書にあるように神を知ることは単に事実を認めることではありません。そのような知識は愛の関係の基礎を築くものです。人は自分の知らない相手を心から愛することはできません。もしあなたがだれかを愛しているなら、それは何らかの行動に表れるはずです。自分の妻を心から愛している夫は妻を裏切るようなことはしません。毎日、愛していると言いながら、その愛を行動に表さないなら、彼は、ヨハネの言葉を借りれば、「偽り者」です。
イエスならどうされるか(1ヨハネ2:6―8)
少し前のことですが、若いクリスチャンの間に、「イエスならどうされるか」を意味する“WWJD”(What Would Jesus Do?)という言葉を刻んだブレスレットを手首につけるのがはやったことがあります。子どもじみていると言って、あざ笑う人たちもいましたが、少なくとも考え方そのものは悪いものではありませんでした。基本にある考え方は、ある状況に直面したなら、イエスのように考え、イエスのように行動しようということでした。
これは、ヨハネがここで言っていることと合致します。今回の聖句の前半部分は、光の中を歩み、神を知ることは服従を意味することを強調しています。後半部分はイエスのうちに生き、光の中を歩むことを望むクリスチャンに、キリストの模範に従って生きるように求めています。どうしたら、それが可能でしょうか。彼らは、イエスの生き方について調べ、日ごとにイエスに倣った生き方をする必要があります。言い換えるなら、「イエスならどうされるだろうか」と考えながら生きることです。
問4
福音書をざっと思い出してください。あなたの好きなイエスの物語はどれですか。特にどの物語がイエスの人柄についてあなたの心に訴えますか。あなたはどれほどイエスに似ていますか。
イエスの死と復活は福音書のクライマックスですが、イエスの教えと生涯に関しても十分な情報がそこに記されています。それによって、私たちは人間の理想的な生き方がどのようなものであるかを理解することができます。
このことは重要です。なぜなら、私たちは主また模範としてのイエスよりも、救い主としてのイエス、身代わりとしてのイエスにのみ注目する傾向があるからです。ヨハネは救い主としてのイエス、模範としてのイエスの両方を受け入れています。ヨハネIの1:7で、彼はキリストの清めの血に言及していますが、これは私たちの代わりのイエスの十字架上の死をさしています。2:2によれば、イエスは私たちの罪のための贖いの犠牲です。イエスは私たちの身代わりでした。しかし、今回の聖句において、別の側面が明らかにされます。イエスは模範としての生涯を送られました。私たちは彼の足跡に従うべきです。
新しい掟(Iヨハ2:7、8)
掟に従うことの重要性を強調した後で(Iヨハ2:3、4)、ヨハネは7節と8節で「新しい掟」という思想について述べています。この「新しい掟」とは何でしょうか。その答えは同じ「新しい掟」という表現が出てくるヨハネ13:34にあります。
問5
ヨハネの福音書13章を読んでください。ここにある「新しい掟」の意味を理解するためには、どんな文脈に留意する必要がありますか。
仕えるとは、だれかの足を洗うように、身をかがめて、卑しい務めを果たすことであると弟子たちに教えた後で、イエスは御自身の「新しい掟」を紹介しておられます。イエスが弟子たちを愛されたように、弟子たちは互いに愛し合うべきでした。
これと似た状況がヨハネIの2:6~8でも見られます。イエスが歩まれたように歩むことについて語った後で、ヨハネはヨハネ13章にあるイエスの掟に言及しています。ヨハネIの2:7、8の意味を解く鍵はヨハネ13:34、35との関連にあります。ヨハネが語っている掟は兄弟・姉妹の愛についての掟です。
しかし、彼が新しい掟でなく古い掟について書いていると言っているのはなぜでしょうか。それは、隣人愛についての掟がすでに旧約聖書の中に提示されているからです(レビ19:18)。ヨハネがその手紙を書いていた頃には、ヨハネ13:34にあるイエスの「新しい掟」がすでに長年にわたって掟となっていました。とはいえ、ある意味で、つまりイエスの生涯において絶えず現され、イエスに従う者たちによって先例のない方法で守られるという意味において、この掟は新しいのでした。というのは、イエスの初臨によって新しい時代が始まったからです
(「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」、8節)。
最後に、神の律法の概念が今回の聖句の前半部分(Iヨハ2:3~6)と後半部分(Iヨハ2:7、8)とを一つに結んでいます。これらの掟は互いに愛し合いなさいという掟によって要約することができます。光(イエス)の中を歩むこと、イエスが歩まれたように歩むことは、掟を守り、互いに愛し合うことを意味します。
人を愛する(1ヨハネ2:9―11)
問6
ヨハネが今日の聖句の中で言っていることを要約してください。
彼はヨハネIの2:5で短く愛に言及しています。明らかにこの愛は神に対する私たちの愛をさしていて、私たちが神の掟を守るときに現されます。愛は今回の聖句の後半部分、新しい掟の中で間接的に扱われていました(6~9節)。しかしながら、同じクリスチャンに対する愛は今回の聖句の最後の部分で明らかにされています(9~11節)。それはまた、「~と言う人は」という表現をもって始まっています(4、6、9節参照)。
9節は自分の兄弟を憎む教会員について述べています。この人は闇の中にいます。10節は積極的な面、つまり自分の兄弟を愛する人について述べています。11節では再び、自分の兄弟を憎む人について述べています。そのような人は闇の中にいるだけでなく、その目も見えなくなっています。
ヨハネはその手紙の中でクリスチャンの共同体に関心を示しています。そのことは、クリスチャンが自分の隣人や敵を愛するように召されている事実を否定するものではありません。しかし、そのことは今の彼の関心事ではありません。彼はほかに問題を抱えていました。
問7
兄弟を憎むというのは強い表現なので、それは自分や自分の態度には当てはまらないと思うかもしれません。むしろ、憤りや怒りを覚えると言いたいのではないでしょうか。しかし、聖書はしばしば、今日あまり用いられない意味で「憎む」という言葉を用いています。どのように用いられていますか。次の聖句では、それをどのように理解すべきですか。マタ6:24、24:9、10、ルカ14:26、ヨハ3:20
聖書の中で、「憎む」という言葉は今日の意味のほかに、だれかをほかの人よりも好む、だれかを無視するといった意味でも用いられています。言い換えるなら、聖書にときどきあるような「憎しみ」を表すためには、だれかを軽蔑する必要はないということです。
まとめ
創世記39:7~12、ダニエル書3:8~18、黙示録13:16、14:5を読んでください。
終末時代においては、光の中を歩むこと、つまり戒めを守り、イエスのように生き、愛を実践することは特に重要です。神の律法が無視されている今日、創造主に対する真の礼拝と服従の問題がさらに前面に出てくるでしょう。聖書の中には、どんな困難なときにも信仰を守り通した人たち、たとえばヨセフ、ダニエル、彼の友人たち、そのほか多くの人たちの模範が示されています。最高の模範はイエスです。どんなときにもイエスに従う決意を新たにしたいものです。
「ヨハネは、神に対する真の愛は十戒のすべてを守ることにあらわされる、と述べているからである。真理の理論を信じ、キリストに信仰の告白をし、イエスが詐欺師ではないことや、聖書の宗教は巧妙に考案された作り話ではないことを信じるだけでは十分でない。……ヨハネは、従順によって救いを得るべきだと教えているのではなく、従順が信仰と愛の実であると教えた」(『患難から栄光へ』下巻266ページ、『希望への光』1571ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。