光の中を歩む─世のものを捨てる【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#5

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フランスの作家アンドレ・マルローは1933年に『人間の運命』[邦訳『人間の条件』]を著し、その中で1920年代に中国・上海で反乱を起こした不運なマルクス主義者の姿を描いています。マルクス主義者でテロリストのチェンが通りを歩いていると、彼の最初の教師で、キリスト教の牧師に出会います。2人の会話は、チェンが信仰を捨てたことにまで及びます。チェンがそのとき爆弾を持って、政治家を暗殺しに行くところであったことを、元教師は知る由もありませんでした。チェンは次のように言いました。

「自分は信仰を捨てたのではない、ただそれを政治に置き換えただけだ」

「いかなる政治的信仰が死を滅ぼすことができるというのだ?」

元教師は悲しそうに尋ねました。言い換えるなら、人間がいかなる政治的思想を持っていようとも、いかなる理想郷を構築しようとも、それは人類最大の災いである死を滅ぼすものではないということです。

今回の研究では、引き続き「光の中を歩む」ことの意味について考えるとともに、神のうちにある永遠の命とは対照的に、この世が一時的なものに過ぎないことを学びます。

「イエスの名によって」

「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである」(Iヨハ2:12)。

ヨハネの手紙Iの2:12~15で、ヨハネは「子たちよ」、「父たちよ」、「若者たちよ」と呼びかけています。このような区分の意味については、さまざまな解釈がなされていますが、「子たち」はすべての教会員をさすと考えられます。なぜなら、ヨハネは彼の手紙の中で「子たち」という言葉を教会員の意味に用いているからです(Iヨハ2:1、12、28、3:7、4:4、5:21)。同様に、「父たち」は年輩の教会員を、「若者」は若い教会員をさすと思われます。つまり、彼はすべての人に宛てて書いているのです。

問1

ヨハネはヨハネIの2:12で、子たちの罪が赦されていると言っています。この赦しは何にもとづいていますか。クリスチャンにとって、自分の罪が赦されていることを知ることはなぜ重要ですか。使徒5:31、ロマ4:7、エフェ4:32、コロ1:14、2:13参照

ヨハネは自分の読者、つまり忠実な教会員に自らの救いに対する絶対的な確信を持ってほしいと願っています。彼はヨハネIの1:9と2:1、2でふれた罪の問題に再びふれ、クリスチャンであることはこの赦しを受けることであると強調しています。クリスチャンは自分の罪深さを否定しませんが、イエス・キリストによる救いを受け入れており、したがって赦されているという確信を持って生活します。

クリスチャンに欠かせないことは、自分の救いの基礎がイエスのうちに、またイエスが成し遂げてくださった御業のうちにあることを理解することです。彼らが赦されているのは自分のよい行いや、自分の信仰や、あるいは神についての知識のゆえではなく、「イエスの名によって」、つまりイエスとイエスの御業のゆえであると、ヨハネが言っているのはそのためです。このようなわけで、ヨハネは勝利と服従について語る一方で、救いがただイエスから来ることをつねに強調しているのです。

問2

ヨハネの手紙Iの2:13、14を読んでください。これらの聖句は何を教えていますか。それらはどんな積極的なメッセージを伝えていますか。私たちはそれをどのように自分自身に適用したらよいですか。

子どもたちは父なる神を知っていると言われ、父たちは初めから存在なさる方を知っていると言われています。明らかに、初めから存在なさる方とはイエスのことです。ヨハネIの1:1で、「初めから」がイエスについて言われているからです。ここでは、父なる神と初めから存在なさる方とが異なった人格であることに意味がありそうです。

若者たちに2度目の呼びかけがなされ、「あなたがたが悪い者に打ち勝った」という節が繰り返されていますが、その言葉は拡大されています。若者たちが悪い者とサタン自身に打ち勝ったのは、彼らがキリストに結ばれ、キリストの勝利にあずかったからです。原語は、勝利が過去において達成されたが、その結果が今も続いていることを暗示します。若者たちはまた霊的に強く、「神の言葉」が彼らのうちに宿っています。

神の言葉はその著者である聖霊をさし示しています(エフェ6:17、IIペト1:21)。したがって、聖書注解者の中には、これらの聖句が暗に三位一体の神に言及していると言う人たちもいます。すなわち、御父なる神、初めから存在なさる方としてのイエス、神の言葉を通して表される聖霊がそれです。真の信者は神を知るばかりでなく、神を知り続けるのです。つまり、彼らは神と親密な関係を保ちます。このように、これらの聖句には、クリスチャンの信仰生活の本質──罪を赦されること、三位一体の神を知ること、罪に勝利すること、神の言葉によって生かされること──が述べられています。

信者は、神と神の言葉が自分のうちに生きていることを知っているので、彼らは15節~17節にある問題に対処することができます。12節~14節は肯定的な表現になっていますが、15節は命令形になっています。──「世も世にあるものも、愛してはいけません」。

世を愛する心を捨てる(Iヨハ2:15)

問3

クリスチャンは世を愛してはならないと言われています。聖書は「世」をどのように定義していますか。ヨハ12:19、15:19、使徒17:24、ロマ1:20、コロ2:8、Iテモ6:7、ヤコ4:4、黙11:15

“コスモス”(「世」)という語は、世界、地上、人類、存在領域、神に反する生き方を意味します。この語はヨハネの手紙IとIIに20回以上出てきます。世界は救いを必要としていますが(Iヨハ4:14)、それは神と神の民に敵対しています(Iヨハ3:13)。それは悪い者の支配下にあって(Iヨハ5:19)、偽預言者、反キリスト、人を惑わす者で満ちています(Iヨハ4:1、3、IIヨハ7)。世の富を持つことは悪いことではありませんが、それは貧しい人々と分かち合うべきものです(Iヨハ3:17)。最後に、世に打ち勝つ必要があります(Iヨハ5:4、5)。ヨハネの手紙においては、「世」という言葉には否定的な意味が込められています。世が神に反逆しているからです。

聖書においては、私たちと世との関係が興味深い緊張関係の中で描かれています。私たちは世を愛してはならないと言われていますが、その一方で、聖書によれば、神は世を愛しておられます(ヨハ3:16)。私たちは世のものを愛してはならないと言われていますが、その一方で、聖書の中で繰り返し、世の中にいる人を愛するように教えられています。

問4

あなたはこの緊張関係をどのように理解しますか。世がおもに人からなっているのに、どうしたら世を愛さないで人だけを愛することができますか。人以外に、世に愛するものがあるとすれば、それは何ですか。

ヨハネの手紙Iの2:15後半と16節はヨハネの思いを理解する上で助けになります。彼は、人を憎み、この地球を嫌悪しなさいと言っているのではありません。むしろ、世にあるものを憎みなさいと言っているのです。なぜなら、世にあるものに心を奪われるとき、それは私たちが自ら神の愛を知り、経験するのを妨げるようになるからです。私たちは神との救いの関係を妨げる世のものから遠ざかる必要があります。

世の問題

「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです」(Iヨハ2:16)。

15節は世を愛することに対する一般的な警告ですが、16節は具体的な内容を述べています。世を愛するとはどういう意味でしょうか。ヨハネは3つのことをあげています。(1)肉の欲、(2)目の欲、(3)生活のおごりがそれです。ヨハネはこれら3つのことが御父からではなく世から出たものであると言っていますが、私たちの肉、目、生活はみな神から来ます。では、何が問題なのでしょうか。ヨハネは私たちに何を警告しているのでしょうか。

肉の欲とは情欲のことですが、それだけに限られるわけではありません(ガラ5:19~21参照)。

目の欲は明らかに肉と関連していますが、より深いところ、私たちの心の思い、欲望、目で見て欲するものをさします(出20:17)。

問5

ヨハネの言う「生活のおごり」とは何のことですか。それはそれほど悪いものですか。ヨブ12:10、使徒17:28参照

「生活のおごり」という言葉は神から独立することを暗示します。それは、あたかも自分が自分を創造したかのように、自分の業績に対する栄光と誇りは自分自身のものだと考えることです。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた」(詩編100:3)。対照的に、私たちの息と鼓動、持ち物、存在のすべてが私たちの全く依存する神から来ることを認めるとき、おごりは心から消えます。私たちは罪深く、堕落した者であって、その存在を完全に神の恵みと慈愛に依存しています。自分自身を永遠の死と滅びから救う力は全くありません。したがって、自分の生活におごることなく、謙遜で、柔和でなければなりません。ルシファーが完全な世界にあって堕落したのはおごりのせいでした。不完全な世界の住民である私たちは、おごりを疫病のように避けねばなりません。

世のものは一時的(Iヨハ2:17)

使徒はヨハネIの2:16で、私たちが世を愛してはならない第一の理由をあげています。世の愛と御父の愛は相容れません。次の17節で、ヨハネは第2の理由を付け加えています。過ぎ去ってゆく世を愛することは理にかないません。永続するものを選ぶことは有益で、賢明です。そうすることによって、私たち自身も永続する、つまり永遠に生きることができます。

人間はその場かぎりに生き、物的な世界にとらわれ、目に見えるものだけを重視する傾向があります。それゆえに、ヨハネ同様、パウロは次のように言うのです。「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(コロ3:1~4)。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(IIコリ4:18)。

問6

聖書はこの世界と惑星地球の一時的な性質に関してほかに何を教えていますか。ダニ2:35、Iコリ7:31、IIペト3:10~12

ヨハネはヨハネIの2:8ですでに、闇が過ぎ去ると言っています。今、彼は同じ動詞を用いて、世と世の欲は過ぎ去ると言っています。光なるイエスの受肉と共に、新しい時代が始まりました。この世のものは過ぎ去ります。これはだれの目にも明らかです。政治的な解決も決して最終的な解決とはなりません。この世も、私たちも過ぎ去るからです。

もし世が過ぎ去るのであれば、私たちはどのようにして生き延びるのでしょうか。ヨハネは、神の御心を行うことによってである、と言います。正しい神学は重要で、ヨハネもイエスと罪に関する誤った理解をしている偽教師を論駁していますが、従順な生活を送ることもまた重要です。道徳は神学と切り離すことができません。敬虔な言葉と正しい神学も十分ではありません。私たちの神学は実践されるべきものです。

この世のもので満足することによって、永遠の目標を見失ってはなりません。神と相容れないものや生き方に心を奪われることによって、私たちの神への愛を危うくするようなことがあってはなりません。

まとめ

「自称キリスト者たちが、毎年、無用で有害な道楽のために莫大な額を消費している一方で、魂は生命の言葉が与えられずに滅びている。彼らは、什一や献金において神のものを盗み、貧しい人々の救援や福音の支持に与えるよりもっと多くのものを、破滅的な欲望の祭壇で焼き尽くしている。……

世界は、すべて放縦に陥っている。『肉の欲、目の欲、持ち物の誇り』が大多数の人々を支配している。しかし、キリストの弟子たちは、より聖なる召しを受けている。……神の言葉に照らしてみても、邪悪な習慣や世俗の欲望の満足を全く放棄しない清めは真実のものでないという、われわれの主張は正しい」(『各時代の大争闘』下巻204、205ページ、『希望への光』1827ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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