この記事のテーマ
自分の夫に強い憎しみを抱く女性が牧師のもとを訪ねてきました。彼女は離婚を望んでいるだけでなく、可能なかぎり夫を苦しめてやりたいと思っていました。牧師は彼女に、家に帰って、あたかも心から夫を愛しているかのように振る舞うように助言しました。夫が自分にとってどれほど大切な存在であるかを告白し、できるだけ親切にするのです。不変の愛をもって夫を愛していることを確信させた後で、離婚話を切り出すのです。これ以上に夫を傷つける方法はありません。
復讐心を抱きながらも、牧師に言われた通りに、数か月の間、彼女はかつてなかったほどの愛情を夫に注ぎました。牧師は彼女に電話をかけ、離婚話はどうなったかと尋ねました。「離婚するのをやめました」と彼女は答えました。「本当は夫を愛していることがわかったのです」
愛は私たちの世界を、教会を、家族を、私たちの結婚生活を変える力を持っています。今回は、ヨハネが愛について何と教えているか、イエスに従う者たちはこの愛をどのように現すべきかを学びます。
愛についての2つの教え(Iヨハ3:11~24、4:7~5:4)
前回の聖句は、神の子らは正しい生活を送ることによって、また主にある兄弟・姉妹を愛することによって識別されるという言葉をもって終わっていました(Iヨハ3:10)。この聖句は手紙の後半に出てくる愛についての議論への橋渡しになっています。
問1
ヨハネIの3:11~24と4:7~5:4の間には、どんな共通点が見られますか。
両者には明らかな共通点があります。どちらにも、「互いに愛し合いなさい」という表現が繰り返し出てきます(Iヨハ3:11、23、4:7、11、12)。どちらも愛の対象がおもにほかの信者であることを強調し、どちらも兄弟・姉妹を憎んではならないと警告しています。また、どちらの聖句も私たちに対する神の愛を強調しています。
ヨハネIの3:11~24は互いの愛に焦点を当て、さまざまなかたちで「愛する」という言葉を8回用いています。4:7~5:4は同じ言葉を30回以上用い、しかも主題を拡大しています。私たちは神の子らだけでなく、神御自身をも愛するように召されています。一方、神はまず私たちを愛し、今もなお愛しておられます。ヨハネIの4:7~5:4はイエスについて誤った解釈をしていた反キリストたちという文脈の中で理解される必要があります。これらの聖句は、イエスが神の御子(Iヨハ4:15)またキリスト(5:1)であって、私たちの罪を贖う犠牲、また世の救い主となられたと述べています。イエスとイエスの御業を通してのみ、神の愛は正しく理解されます。十字架において起こったこと、キリストがどのようにして私たちの罪のために刑罰を受けられたかを理解するときにのみ、私たちは神を愛することができるようになります。
愛の「定義」(Iヨハ3:11~16、4:7~16)
問2
ヨハネは次の聖句の中で愛をどのように定義し、説明していますか。Iヨハ3:12~16、4:7~10、16
興味深いことに、ヨハネは愛について辞書的な定義を与えてはいません。むしろ、彼はカインの例を用いて、愛とはどのようなものでないかを明らかにしています。
問3
カインの例はヨハネの論点を明らかにする上でどれほど助けになっていますか。
否定的な例の後に、肯定的な例が続いています。イエスは私たちのために命をお捨てになりました。御父は御子を贖いの犠牲としてお遣わしになりました。神は御子を世の救い主としてお遣わしになりました。ここに最高の愛があります。愛は人を助けるためならどんなことでもします。たとえ、自己犠牲をともなったとしても、です。カインが自分の兄弟に対して行ったことと対照的です。愛はまた、過去を赦し、過去を忘れます。イエスの場合、それは他者を祝福するために完全に自己を否定することでした。
しかし、愛は単なる見せ物ではありません。それは人の生き方に影響を与えるものでなければなりません。もしだれかが単に愛を証明するために水に飛び込み、おぼれ死んだのなら、何の意味もありません。しかし、もしだれかを助けるために飛び込んで、命を落としたのなら、それは愛です。
愛の最高の現れは、私たちのために御自身をささげられたイエスに見られるように、救いの計画において啓示された三位一体の神の品性と働きです。
クリスチャンの愛は神の愛から出ています。愛のうちに生きるとは神と親密な関係にあることです。聖書的な意味で、最終的に神から出ていない愛はありません(Iヨハ4:7)。しかしながら、同じ節にある「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」という表現は誤解される恐れがあります。それはヨハネの手紙Iの文脈において解釈する必要があります。ヨハネIの3:23によれば、信仰と愛は一つです。5:2によれば、愛することと掟を守ることも一つです。だれでも、神を愛すると言うことはできます。ヨハネは、いかにしてその愛を現すべきかを教えています。
確信の危機
問4
ヨハネIの3:19~21で、ヨハネは何と言っていますか。あなたはヨハネの言っているような思いを経験したことがありませんか。
問5
ヨハネIの4:17、18を読んでください。ヨハネはここで何と言っていますか。あなたはこのような不安を抱いたことがありませんか。
クリスチャンであっても、自分自身や自分の弱さ、愛のなさ、欠点を眺めるときに、良心の呵責や罪悪感を抱き、自分は救われないのではないかと感じることがあります。重要なのは、神が私たちよりも大いなる方、私たちの罪悪感や思いを超越した方であることを覚えることです。日毎に、私たちの救いの望みがイエスとイエスの御業にあることを覚えることです。自分自身ではなく、イエスとイエスの功績に頼ることによってのみ、私たちは確信と希望を抱くことができます。
確信はヨハネの手紙Iの中で何度も強調されています。ヨハネは、神に祈るときに確信を持つように(3:21、22)、キリスト再臨に際して確信を持つように(2:28)、神の裁きについて確信を持つように(4:17)、信者に望んでいます。神は御自分の子らである私たちを祝福してくださいます。神の愛にとどまることはあらゆる恐れを締め出します。
「サタンは、神の赦しと恵みを求める者たちがそれを手に入れることを知っている。それゆえ、サタンは彼らの罪を見せることによって彼らを失望させようとする。神に従おうとする者たちに関して、サタンは絶えず不満を述べる機会を求めている。最高の、非の打ちどころのない奉仕でさえ、彼は不完全であるように見せようとする。非常に狡猾で残忍な、数え切れない策略によって、サタンは彼らを非難する口実を見つけようとする。
人間は自分の力では敵の攻撃に対抗することができない。彼は罪に汚れた衣を着て、自分の罪を告白して、神の御前に立つ。しかし、私たちの弁護者であるイエスは、悔い改めと信仰をもって自らの魂をイエスにゆだねるすべての者たちのために効果的な執り成しをしてくださる。イエスは彼らのために弁護し、カルバリーの力ある論拠によって、彼らを告発する者を打ち負かされる。神の律法に対するイエスの完全な服従は天と地における一切の権力を彼に与えるので、イエスは罪ある人間のために憐れみと和解を御父に要求される」(エレン・G・ホワイト『驚くべき神の恵み』316ページ)。
愛を実践する(Iヨハ3:17、18、4:19~21)
ヨハネは愛を理論づけるだけで満足していません。彼は、神が私たちに愛を実践するように望んでおられることを教えています。それゆえに、憎しみが愛の態度と相容れないもの、一種の殺人であると述べているのです(Iヨハ3:15)。彼はまた、私たちが言葉だけでなく、行いをもって愛し合うべきであると言っています(18節)。
もちろん、ヨハネは親切で励ましに満ちた言葉に異論を唱えているのではありません。言葉は愛を伝える上で重要です。もし一度も励ましの言葉が与えられなければ、私たちの配偶者や子ども、親戚、友人はどのように感じるでしょうか。ヨハネ自身、言葉を用いて神の愛を伝えました。
しかしながら、ヨハネは行動のともなわない表面的な愛の告白に反対しています。彼はヨハネIの3:17で、ヤコブ2:15、16とよく似た状況について述べています。ある教会員が困っていたとします。ほかの教会員は彼を助けるだけの富を持っていますが、快い言葉をかけるだけで何もしません。それでは不十分です。神は私たちを愛すると言われただけではありません。私たちに代わって死ぬために御子を遣わしてくださいました。多く愛する人は多く行います。真の愛は行動だからです。
問6
ヨハネIの3:16と17を読んでください。どちらの教えに従うほうがより困難ですか。なぜですか。
私たちはほかの信者のために死ぬように求められることはまずないでしょう。しかし、困っている人のために愛を表すように求められることはあります。私たちは仕事や食物、着物、キリスト教教育、避難所などを提供するだけの富を持っているかもしれません。しかし、自分自身が安楽な生活を送ることのほうを選びます。初期のクリスチャンは自分の財産を共有しました。人を愛することは容易ではありません。自分自身に犠牲を要求するときは特にそうです。
愛を現す必要のある場所(しかも、時として最も困難な場所)があるとすれば、それは家庭です。家族に愛を現す方法は数え切れないほどあります。ちょっとした家事手伝い、心のこもった食事、家族との外出など、ささいな行為であっても、時として力強い愛と受容のメッセージとなります。愛を現す方法はいくらでもあります。愛はまず他人のことを考えます。そして、他人のために行動します。
愛と掟(Iヨハ3:22~24、4:21~5:4)
今回学んできた聖句は掟への言及をもって終わっています。掟という言葉はそれぞれの部分に4回ずつ用いられています。ヨハネIの5:2は掟を行うことについて述べています。3:22、24、5:3は掟に従うこと、掟を守ることを強調しています。
問7
上記の聖句は掟を守ることのほかにどんなことを教えていますか。1ヨハネ3:22、3:23、3:24 、4:21、5:2 、5:3
神の掟を守り、神の御心に適う行い(Iヨハ3:22)によって、神が祈りを聞いてくださるという確信をクリスチャンに与えてくれると、ヨハネは言っています。神は、イエスを信じ、互いに愛するように命じておられます。掟を守ることは相互の内にとどまること、つまり私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまることを可能とします。神を愛することは掟を守ることを含みます。そして実際、神の掟を守ることは可能です。それらは重荷ではないからです。
掟の中でどれが最も重要で、第一のものであるかと尋ねられたとき、イエスは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛すること、また隣人を自分のように愛することである、と答えておられます(マコ12:28~31)。同時に、イエスを愛する者たちはイエスの掟[複数]を守ることを強調しておられます(ヨハ14:15)。山上の説教の中では、いくつかのほかの掟にも言及しておられます。
ヨハネは、単数の掟から複数の掟に切り替えることによって、愛という一つの掟が多くの掟となって表されることを示しているのかもしれません。
まとめ
コリントIの13章を読んでください。
「われわれは、苦しんでいる魂のそばを通りすぎる時にはかならず、自分自身が神から慰めてもらった慰めをその魂に与えるように努めなければならない。こうしたことはすべて律法の原則、──よいサマリヤ人の物語に例示され、イエスの一生にあらわされている原則の成就にすぎない。イエスのご品性は律法の真の意味をあらわし、隣人を自分自身と同じように愛するということがどういうことであるかを示している。こうして神の民が、どんな人に対しても同情と親切と愛とをあらわすとき、彼らはまた天の規則の性格についてあかしをたてているのである。……心のうちにある神の愛は、われわれの隣人に対する愛のただ一つの泉である」(『各時代の希望』中巻309ページ、『希望への光』936ページ)。
「あなたは早急に、冷淡で、冷ややかな形式的態度を捨てねばなりません。毎日の生活の中で、優しい、好意的な感情を養う必要があります。真の礼儀正しさとクリスチャンの丁寧さを表すべきです。真にイエスを愛する心は、イエスが死んでくださった人々を愛します。磁針が極点を指すのと同じくらい真実に、真にキリストに従う者たちは、真剣な努力をもって、キリストが命を捨ててくださった魂を救おうとします。罪人の救いのために働くことは心にキリストの愛を温め、その愛にふさわしい成長と発達をもたらします」(『教会へのあかし』第3巻466ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。