神の御子を信じる【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#9

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イエスについての見方は、昔も今もさまざまです。ある人たちは聖書のイエスといわゆる歴史上のイエスを区別し、両者の間にあまり共通点がなかったと主張します。歴史上のイエスは神的なものに対する鋭い感覚を持った普通の人間であった、それだけのことだと考えます。イエスは決して死人から復活した神の御子などではなかった!別の人たちは、イエスは巧妙な方法でローマ帝国を倒そうとした、単なる政治的革命家であった、と信じています。

私たちはこれらの問題を単なる学問的、哲学的議論にすぎないと考えるかもしれません。しかし、イエスがどのような方で、御自分について何と主張されたかは、すべての人に影響を与える問題です。イエスについての考え方は私たちの神との関係、救いの計画についての理解、救いの確信に劇的な影響を与えます。ヨハネがその手紙の中でこの主題を扱っているのはそのためです。

イエスを信じることと勝利(Iヨハ5:1~5)

「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」(Iヨハ5:1)。

兄弟愛についてのヨハネの教えに続いて、ここではキリスト/メシア、神の御子としてのイエスに対する信仰について学びます。事実、信仰と愛という2つのテーマは5章の冒頭では重なり合っています。

ヨハネは読者にキリストとしてのイエスを信じるように望んでいます。そのように信じる人は神から生まれた者であると、ヨハネは言います。彼らは神を愛し、互いに愛し合い、掟を守ります。神の御子としてのイエスを信じる人たちはまた、世に打ち勝ちます(Iヨハ5:1~5)。

歴史において、ある人たちは、クリスチャンの世との戦いは、何らかの文字通りの軍事的戦闘であると考えました。しかし、それは誤りです。クリスチャンは聖書の中で、十字軍の戦士として、力づくで人々を回心させるようにとは要求されていません。いかなる国も新約聖書の中で神の国と同一視され、神の国であるゆえに力によって防衛・拡張すべきであるとは書かれていません。クリスチャンの戦う戦いは霊的な戦いです。ヨハネの文書においては、勝利は暴力や物理的な力の使用によるのではありません。勝利は信仰によるのであり、信仰は私たちの生き方によって現されます。

問1

ヨハネは次の聖句の中で、打ち勝つこと、勝利することについて語っています。これらの約束からどんなことを学ぶことができますか。ヨハ16:33、Iヨハ4:4、黙2:7、11、3:5、21、黙12:11

最大の勝利者はイエス・キリストです。キリストが勝利されたゆえに、彼に従う者たちも勝利することができます。彼らはある程度、すでに勝利を、つまり彼らのためのキリストの勝利を得ているのです。勝利する者たちは神から素晴らしい約束を受けているのですから、もはや罪の奴隷である必要はないのです(ロマ6:1~6)。イエスとイエスにあって与えられる新しい命の内にあって、私たちは古い主人であるサタンではなく、主に仕えるのです。

私たちの信じるイエス(1ヨハ5:6―8)

メシアまた神の御子としてのイエスを信じる重要性を説いた後で、ヨハネは、この神の御子がどのような方であったかを明らかにしています。彼は、イエスが「水と血を通って(」Iヨハ5:6)来られたと言っています。これは何を意味するのでしょうか。

ヨハネの手紙Iの中で、水は今日の聖句にしか出てきませんが、ヨハネの福音書と黙示録の中では何度も出てきます。ヨハネがヨハネIの5:6で述べている水は、イエスとイエスの初臨に関連したものです。それは、イエスがメシアまた神の御子であることをあかしする三つの要素の一つです。

「血と水」という言葉がヨハネ19:34でイエスの死に関連して用いられていますが、これはヨハネIの5:6~8にある水ではなさそうです。むしろ、ヨハネの福音書の冒頭では、水はバプテスマと関連しています(ヨハ1:26、31、33、3:5、23)。このことがヨハネの手紙Iの背景になっているようです。イエスは人の姿をした主として来て、水によるバプテスマを受けることによって公の働きを開始されました。イエスは十字架の上で血を流すことによって地上の働きを終えられました。明らかに、「水」はイエスのバプテスマを、「血」は十字架上のイエスの死を示しています(Iヨハ1:7)。

バプテスマと十字架は、したがって、イエスがどのような方で、私たちのために何を成し遂げようとしておられたかを示しています。これらの場面において、神の現れと人間の応答は、イエスが確かに神の御子であったことを示していました(マタ3:17、27:50~54)。

これらの聖句において、ヨハネはなおも反キリストたちの偽りの教えに対処していました。彼らの思想は信者の考え方に影響を及ぼしていました。もしイエスがメシアでも神の御子でもないとすれば、彼らの教えは次のようなものだったでしょう。神の御子の贖いの死は私たちの救いにとって必要ではない。神の御子は私たちを贖うために私たちに代わって十字架上で死なれたのではない。

このような考えは救いと三位一体の神について全く異なった理解をもたらします。贖いは知識(グノーシス)によるのであって、イエスの十字架によるのではないことになります。そこで、ヨハネは教会員に、イエスがどのような方で、その生涯と死を通して彼らのために何を成し遂げてくださったのかを正しく知ってほしいと望んだのでした。教会員がこれらの偽りの教えによってだまされることはヨハネの望みではありませんでした。

イエスと神のあかし(Iヨハ5:9、10)

イエスが神の御子であることについての第1と第2のあかしは水と血です。第3のあかしは聖霊です(Iヨハ5:6、8)。イエスはヨハネの福音書の中で、聖霊がイエスについてあかしをすると言っておられます(ヨハ15:26)。

なぜこれらのあかしが必要なのでしょうか。旧約聖書には、物事を確定するためには2人または3人の証人が要求されています(申19:15)。ヨハネは明らかにイエスにも確実な根拠を与えようとしたのです。私たちが十分な根拠にもとづいて信じることができるようにという配慮からです。

問2

ヨハネはヨハネIの5:9、10で何と言っていますか。彼は私たちに何を信じるように望んでいますか。

ヨハネにとって、イエスについての証言やさまざまなあかしは非常に重要なものでした。彼は福音書の中でさまざまなあかしに言及しています──バプテスマのヨハネのあかし(ヨハ1:6、7)、イエス御自身のあかし(ヨハ3:32)、サマリアの女のあかし(ヨハ4:39)、イエスの御業のあかし(ヨハ5:36)、聖書のあかし(39節)、父なる神のあかし(ヨハ8:18)、ラザロの復活を目撃した人々のあかし(ヨハ12:17)、聖霊のあかし(ヨハ15:26)、使徒ヨハネ自身のあかし(ヨハ21:24)。これは非常に印象的です。ヨハネは、イエスに対する信仰が力強い証言にもとづいたものとなるように望んでいます。

今日の聖句にある父なる神のあかしは異なった理解をされています。それは、先の聖句にある三重のあかしと関連づけるときにその意味を理解することができるように思われます。つまり、この三重のあかしは基本的に神のあかしです。

もし私たちが人間のあかしを喜んで受け入れるのであれば、神御自身のあかしはなおさらそうすべきではないのか、とヨハネは言います。事実、出版物であれテレビ番組であれ、たとえ十分な根拠がなくても、私たちは人間の言うことを額面どおりに受け入れます。もしそうだとすれば、私たちは喜んで神御自身のあかしを受け入れ、新約聖書に描かれている通りにイエスを信じるべきではないでしょうか!

神は信頼できる方、真実な方です(Iヨハ5:20)。もし神のあかしを受け入れないとすれば、それは神を偽り者とすることです。これは重大な罪です。

三位一体の問題(1ヨハネ5:7、8)

一部の聖書では、ヨハネIの5:7、8が次のようになっています。「天であかしをするものが三つある。御父と御言葉と聖霊である。これら三つは一つである。地上であかしをするものが三つある」(英語新欽定訳)。問題は、これらが後に付加されたもので、元の写本にはないということです。

聖書学者によれば、この記述は真実ではなく、おそらく三位一体の教理を裏づけるために付加されたものであろうと考えられています。言うまでもなく、聖書の言葉は決して手を加えてはならないものです(黙22:18)。最も重要な理由の一つは、人々が聖書の信頼性に疑問を抱き、神の御言葉を信用しなくなる恐れがあることです。

実際には、たとえこれらの記述がなくても、三位一体の教理はヨハネの文書においてしっかりと確立されています。新約聖書の記者たちは神がひとりであると信じてはいますが、イエスと聖霊も神として描いています。神はひとりという思想を御父、御子、聖霊の神性と調和させるためには、三位一体の思想は欠かせないものです。

問3

ヨハネはイエスの神性について明言しています。彼は次の聖句の中でイエス・キリストについて何と教えていますか。ヨハ1:1~3、14、ヨハ8:58、59、ヨハ10:30、31、ヨハ20:28、Iヨハ2:23、Iヨハ5:20

これらの聖句(また、多くのほかの聖句)によって確立されたイエスの神性については疑問の余地がありませんが、今回の聖句は三位一体の教理を確立しようとはしていません。それが目的でなかったからです。今回の聖句は神の御子としてのイエスに対する信仰の聖句であり、またイエスについて世に与えられたあかしの聖句なのです。

イエスの神性を心にとめ、イエスの生涯の最後の場面を十字架に至るまでたどってみてください。同時に、この方が創造主なる神であったことを覚えてください。これらの真理の意味について瞑想してください。

イエスを信じることの結果(Iヨハ5:11、12)

神は人類に素晴らしい賜物を与えておられます。この賜物は永遠の命です(Iヨハ5:11、12)。しかしながら、それはイエス・キリストにおいてのみ与えられています。では、どうしたらこの賜物を受けることができるのでしょうか。それは、御子についての神のあかしを受け入れること、つまりイエスを信じ、受け入れることによってです。

問4

使徒ヨハネは福音書の中で永遠の命について何と教えていますか。ヨハ3:16、ヨハ3:36、ヨハ5:24、ヨハ6:54

イエスを信じる信仰についての、またイエスがだれであって、私たちがなぜ神のあかしを受け入れることができるのかについてのヨハネの議論は単なる学問的な演習ではありません。それは神の御子における永遠の命を見いだすという明白で実際的な目標を持ったものです。ヨハネに敵対する者たち──キリストの真の神性を疑う者たち、キリストの真の人性を疑う者たち、また神性と人性を切り離そうとする者たち──は、イエスについて異なった考えを抱き、聖書に従ってイエスを信じようとしませんでした。聖書のイエスと結ばれていなかったゆえに、彼らには永遠の命がありませんでした。たとえ自分たちに永遠の命があり、よりすぐれた知識があり、永遠の命についての十分な感触があると主張したとしても、その主張は真実ではなかったでしょう。

問5

「永遠の命はイエス・キリストによってのみ可能である」。このような陳述にはどんな含みがありますか。Iヨハ5:11、12

ヨハネははっきりと、イエスを持つ者には永遠の命があるが、神の御子を持たない者には命はない、と述べています。これは非常に強い言葉であって、全人類にとって信じがたいほどの含蓄に満ちています。救いの問題がきわめて重要であるのも不思議ではありません。それは文字通り、生きるか死ぬかの問題、いや永遠に生きるか永遠に滅びるかの問題です。これ以上に重大な問題はありません。

まとめ

マタイ16:13~17、ヨハネ12:37~46を読んでください。

「『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』(ヨハネ1:4)。ここに明記されているのは物理的な命ではなく、不死、すなわち全く神のものである命である。神と共にいた言、神であった言にこの命があった。各人が受けるのは物理的な命である。それは永遠のもの、不死のものではない。なぜなら、命の賦与者である神が再びそれを取られるからである。人間は自分の命を支配することができない。しかし、キリストの命は借りたものではなかった。だれもキリストからこの命を奪うことはできない。『わたしは自分でそれを捨てる』(ヨハネ10:18)と、キリストは言われた。キリストの内には、本来の、借りたものでもなければ、派生したものでもない命があった。このような命は人間には備わっていない。人間はキリストを通してのみこの命を持つことができる。人間はそれを獲得することができない。自分の個人的な救い主としてキリストを信じるときに、それは無償の賜物として彼に与えられる。『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです』(ヨハネ17:3)。これは世のための開かれた命の泉である」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻296、297ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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