確信【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#10 

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[アメリカの政治家・科学者]ベン・フランクリンはかつて、この世に確かなものは二つしかない、それは死と税金だ、と言いました。確かなものはもう一つあります。人生が不安で満ちているということです。

自分がいつ失業するかを知っている人はだれもいません。私たちを病気やテロ、戦争、自然災害から守ってくれるものは何もありません。夜、寝床に入ったら、翌日目覚めるという保証はありません。

このような状況にあって、私たちは何とかして苦境から逃れようと努力します。しかし、結局のところ、どんな努力も私たちを守ってはくれません。

では、神はどうなのでしょうか。また、私たちのための神の約束はどうなのでしょうか。神の約束は確実でないのでしょうか。私たちは神への確信と信頼なくして生きることができるのでしょうか。神との関係を保つこと、神と永遠に生きることはほかの何よりも大切です。ヨハネはこの、人生における最も重要な問題について何と教えているでしょうか。

確信をもつ(1ヨハネ5:13―21)

ヨハネIの5:14に「確信」という言葉が出てきます。この言葉には信頼、自信、大胆さ(使徒4:29、31)、率直さ(ヨハ16:25、29)という意味もあります。ヘブライ4:16と10:19によれば、クリスチャンは確信をもって神の御座に近づくことができます。なぜでしょうか。第一に、イエスが十字架の上で彼らのために血を流してくださったからです。第二に、イエスが彼らのために大祭司として仕えるために天に昇られたからです。

ヨハネはヨハネIの4:17でも同じ言葉を用いて、裁きの日の「確信」と「大胆さ」について語っています。クリスチャンは裁きを恐れていません。彼らは自分たちのためになされたイエスの御業に信頼しています。彼らの確信は自分自身や、自分の業・能力にあるのではありません。彼らは全面的にイエスに信頼します。ヨハネはヨハネの手紙Iの終わりで繰り返し「わたしたちは知っています」という表現を用いていますが、このこともまた彼の確信の現れです。この表現は手紙の結びまでに2回しか出てきませんが(Iヨハ3:2、14)、結びでは5回も用いられていて、「確信」の主題を強調しています。

問1

次の聖句によれば、私たちは何を確信することができますか。Iヨハ5:13、Iヨハ5:15、Iヨハ5:18、Iヨハ5:19、Iヨハ5:20

ヨハネの手紙I・5章13節で、使徒は「あなたがたに……悟らせたい」と、救いの確信について語り、15節から、「わたしたちは知っています」という表現を用い[英語聖書参照]、祈りが聞かれるという確信を強調しています。18節では、

「わたしたちは知っています」の後に、神の守りが約束され、19節では、神に属することの素晴らしさが述べられています。20節では、私たちがイエスを知っていること、イエスを通して神を知り、神の内にあることが強調されています。したがって、クリスチャンは神との関係について、祈りの生活について、また自分たちの現在の状態と将来の運命について確信を持つことができます。

永遠の命を得る(Iヨハ5:13)

ヨハネの手紙Iの5:13には、ヨハネがこの手紙を書いた重要な理由が述べられています。彼は自分の読者に救いの確信を持ってほしいと願ったのでした。ヨハネの聴衆・読者は、自分たちがすでに永遠の命を得ていることを知るべきです。永遠の命は現在の事実なのです。ヨハネは福音書の終わりにも同じことを述べています(ヨハ20:30、31)。

ヨハネIの5:13は永遠の命を扱った新約聖書中のほかの聖句をしのぐものです。ほかの聖句は条件に触れ、約束について述べていますが(たとえば、ヨハ3:36)、ヨハネIの5:13は、神の子らが永遠の命を得ていることを悟るべきであると述べています。これは選択可能なもの、つまりクリスチャンの生活に付加しても、省略してもよいものではありません。神は私たちに救いの確信を持つように望んでおられます。モーセも(出32:32)、ペトロも(Iペト5:1)、パウロも(IIテモ4:7、8)、エフェソのクリスチャンも(エフェ2:8)、コロサイの信者も(コロ1:12~14)、この確信を持っていました。

問2

確信が傲慢にならないようにするためにはどんなことに気をつけたらよいですか。マタ10:22、Iコリ9:27、黙3:11参照

救いの「確信」が「無条件の保証」、つまり「いちど救われたなら、つねに救われている」ことを意味すると考えている人がいます。もしそのようなことがあるとすれば、人は神を忘れ、不道徳で倫理にもとる生活を送るようになります。聖書によれば、そのような生き方は私たちを天国から締め出すものです(ガラ5:21、黙21:8)。事実、人間が神に背きがちな存在であることを考えれば、自分自身を清く守ることだけでも十分に難しいことです。どのような生き方をしても全く問題ではない、などと考えることは論外です!

聖書は救いの確信について教えていますが、私たちは自らの選択によってこの確信を失ってしまう危険があります。服従と悔い改めと信仰によって日毎に主に献身することによって、命の冠をしっかりと守る必要があります。私たちはつねに警戒し、祈っていなければなりません。サタンがだれかを食い尽くそうと探し回っているからです(Iペト5:8)。狙われているのは、ほかならぬ私たちです。

神の御心にしたがって(1ヨハネ5:14―17)

問3

ヨハネの手紙Iの5:14、15を読んでください。ここに、どんな約束が与えられていますか。これは私たちにとって何を意味しますか。

私たちはあらゆる喜びと重荷、要求を持って神のもとに行きます。私たちは、お金が必要だと言って、神に祈ります。子どもたちとのあいだで問題があり、仲裁を必要としていると言って、神に祈ります。重い病気にかかっていて、いやしを必要としていると言って、神に祈ります。神は小切手を送り、子どもの考えを改め、悪い病気をいやしてくださるでしょうか。必ずしも、そうとは限りません。イエスはゲッセマネで祈られたとき、最後に「あなたの御心が行われますように」と祈られました(マタ26:42)。しかし、神はイエスを十字架からお救いになりませんでした。

しかしながら、もし私たちが自分の罪を告白し、赦しを求めるなら、神は私たちを順番が来るまで待たせるようなことはされません。むしろ、祈りを終えたときに、赦しが与えられたという確信が与えられます。イエスを救い主また主として受け入れるゆえに、私を神の子としてくださいと神に祈るなら、神はそのような祈りをすぐに聞き入れてくださいます。戒めの中であれ、約束の中であれ、神の御心が聖書に啓示されている場合、もし神の御心の現れを求めて祈るなら、その祈りが答えられることを、私たちは知っています。神がどのように導いてくださるか確信することができないときには、最後に「あなたの御心が行われますように」と祈り、主が最善のことをしてくださると信じるべきです。

ヨハネIの5:16、17は難解な聖句です。学者のあいだでも、意見が分かれています(聖霊に対する罪をさすと言う人もいます)。しかしながら、すべての罪は不当なものであって、正当化することも黙認することもできません。ヨハネがこれらの聖句で述べている罪はどのようなものなのでしょうか。答えは簡単ではありません。いずれにせよ、ヨハネが罪の重大さを軽く見ていないことだけは確かです。

神の守りを確信する(Iヨハ5:18、19)

ヨハネIの5:18、19で、ヨハネは二度、「わたしたちは知っています」と記しています。どちらの聖句もこの言葉で始まっています。しかしながら、ヨハネは知識だけに関心があったわけではありません。

問4

18節と19節には、どんな間接的な要求が含まれていますか。

18節に、「神から生まれた」という言葉が二回用いられています。初めの言葉はすべての真の信者をさし、後の言葉はイエスをさしています。ギリシア語では、両者の間に非常に重要な時制の違いが見られます。「すべて神から生まれた者」

(初めの言葉)は完了時制になっていて、新たに生まれた人間の経験で、再生の効果が継続していることをさしています(ヨハ3:3、5、Iヨハ3:9)。後の言葉は過去におけるある特定の出来事をさす時制になっています。それはイエスの受肉を描写しています。イエスがベツレヘムでマリアから生まれ、私たちの近くに来て、私たちと同じ人間になられた事実を示しています。その一方で、イエスは私たちと異なったお方でした。イエスは、私たちが絶対になりえない神の御子です。

問5

これらの聖句には、どんな慰めがありますか。Iヨハ5:18、19

ここに言及されている悪い者という言葉は、ヨハネIの2:13、14、3:12にも出ています。それはサタンを描写しています。ヨハネはまた彼を悪魔と呼んでいます(Iヨハ3:8、10)。黙示録12:9によれば、サタンは年を経た蛇、悪魔です。ヨハネIの5:18、19に、キリストとサタンの大争闘を垣間見ることができます。この争闘は黙示録、特に12章に啓示されていますが、ヨハネの手紙Iには、すでに異なった当事者が登場しています。

ヨハネの手紙Iの5:18、19には、悪い者の活動領域としてのこの世のことが書かれています。戦いの相手は父なる神およびイエスと共にいるイエスの弟子たちです。これらの信者はイエスによって守られています。イエスは彼らを守り、サタンが彼らに触れるのをお許しになりません。それゆえに、彼らは罪を拒み、誘惑に耐えることができます。

19節には、私たちが神に属する者であると書かれています。私たちは、神と直接的で親密な関係を持ち、この世から離れているゆえに、確信を抱くことができ、神の子として、神の約束を求めることができます。

神についての真の知識(1ヨハネ5:20、21)

ヨハネはここでも、「わたしたちは知っています」と記しています。私たちは真実な方を知っています。神の御子イエスはこの世に来て、私たちに父なる神を啓示してくださいました。この知識は単なる頭だけの知識ではありません。それは私たちを神との親しい関係に導く知識です。

問6

ヨハネIの5:20によれば、真実な方とはどなたのことですか。

ヨハネの手紙Iで、ヨハネは簡単に父なる神からイエスに移行しています。ある場合には、人称代名詞の「神」と「神に」が父なる神と御子の双方をさすことさえあります。「御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれて」いることを考えれば(Iヨハ2:23)、これは驚くにはあたりません。ヨハネの手紙Iの5:20には、「真実な(の)」という言葉が3回出てきます。最初のそれは明らかに父なる神をさしています。イエスが来て、ある程度ですが、私たちに父なる神を理解する洞察力を与えてくださいました。

二番目の「真実な」はイエスをさします。「わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです」。この節の最後の部分は前半部分を説明しているように思われます。神の御子は真実な方です。「真実な」という言葉はヨハネIの2:8にもあり、またイエスを描写していますが(黙3:7、14参照)、それは父なる神の特性でもあります(ヨハ7:28)。

最後の「真実の」は次の文章の中に出てきます。「この方こそ、真実の神、永遠の命です」。この文章は父なる神、イエス、または双方をさします。注解者の間でも意見が異なるところです。いずれにせよ、もしイエスをさすとすれば、意味は完全に通じます。

問7

ヨハネIの5:21は何と教えていますか。

ヨハネの手紙Iの中で、ヨハネはこれまで偶像崇拝には言及せず、イエスに関する偽りの思想とその影響について論じてきました。それなのに、手紙の終わりに、最後の勧告として、今までにない主題を持ち出しているのは、ヨハネがその偽りの見解を偶像崇拝と考えたからでしょう。三位一体の神についてのこの反キリストの理解は、父なる神の代わりに偽りの神々を礼拝することと見ることができます。父なる神はイエスにおいて、すべての真実な信者に永遠の命と確信を与えてくださいます。

まとめ

「この世の祝福を祈り求めるときに、われわれの祈りに対する答えは遅れるかもしれない。あるいは神はわれわれの求めるものよりもほかのものをお与えになるかもしれない。しかし罪からの救いを求めるときにはそうではない。われわれを罪からきよめて神の子とし、聖なる生活を送ることができるようにしてくださるのが神のみこころである。『キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである』(ガラテヤ1:4)。『わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである』(ヨハネ第I・5:14)。『もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』(ヨハネ第I・1:9)」(『各時代の希望』上巻336ページ、『希望への光』801ページ)。

「もし病人の人生が神の栄光を現すのであれば、私たちは彼らが生きるように祈る。しかし、私たちの思いでなく、神の御心がなされるために、である。願いを全能の神にゆだねることによって、また焦燥や不安のない、完全な確信をもって、すべてを神に任せることによって、私たちの信仰は堅固に、さらに信頼に満ちたものとなる。私たちは約束を与えられている。もし神の御心にしたがって求めるなら、神が聞き入れてくださることを、私たちは知っている。私たちの嘆願は命令のかたちでなく、神に私たちの望むことをしていただく執り成しのかたちでなければならない」(『教会へのあかし』第2巻149ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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