『ヨハネの手紙I』の重要なテーマ【ヨハネの手紙—愛されること、愛すること】#11 

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この記事のテーマ

2001年9月11日にニューヨークとワシントンD.C.を襲ったテロ攻撃のあらゆる悲劇の中にも、一つの積極的な新事実を見ることができます。多くの人々にとって、それは道徳的相対主義の終焉を告げるものでした。真っ昼間にテレビの画面に映し出された何千人もの冷酷な虐殺は、大量殺人にともなう恐怖をリアルタイムで多くの人々に印象づけるものとなりました。このような罪悪は決して文化にもとづいて正当化されるものでないことが突然、明らかにされました。9月11日、人々は道徳的悪、すなわちあらゆる文化、伝統、時代を超越した悪の外観を見たのでした。多くの人々は突然、道徳、特に悪の客観的性質をこれまでになく痛感したのでした。

当然ながら、ヨハネにとって、道徳的相対性は問題外でした。彼は絶対的な真理があることを知っていました。それはキリストに中心を置くものでした。今回は、ヨハネの手紙Iに含まれる重要な主題のいくつかについて学びます。その中には、つねに道徳の基礎となる真理の性質について、ヨハネがどのように理解していたかが含まれています。

三位一体の神

ヨハネの手紙Iの中に、私たちは三位一体の神、すなわち父なる神(Iヨハ2:16)、御子(23節)、聖霊(Iヨハ5:6)を垣間見ることができます。しかしながら、主要な強調はイエスと御父に置かれています。手紙の中に、神は光であって、神のうちには闇(悪)がないと記されています。神は義であり、愛であるとも記されています。事実、私たちの愛する能力は愛なる神から来ています。神と信者との関係は、神の愛と守りを表す「子たち」という言葉のうちに表現されています。要するに、ヨハネの手紙Iは、私たちの神がどのような方であるかについての非常に積極的かつ希望に満ちた描写です。

しかし、手紙に記されているのはそれだけではありません。それは、主が私たちのために何をしておられるかを明らかにしています。ここに、私たちの真の希望と慰めがあります。

問1

ヨハネの手紙Iによれば、神は私たちのために何をしてくださいましたか。今、私たちのためにどんなことがなされていますか。1ヨハネ1:9、2:1、2、2:27、3:8、4:8~10、5:11、5:14

ヨハネの手紙Iは、キリストが人となって来られること、私たちのために死なれること、それによって私たちに永遠の命を得る機会を与えてくださることについて記しています。同時に、キリストの死は私たちの敵である悪魔の業を打ち砕きました。ヨハネの手紙Iによれば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清め、私たちのために執り成し、永遠の命を与えてくださいます。神は私たちに保証を与え、私たちを御自分の子としてくださいます。重要なのは、私たちを救うのがイエスの十字架と血のみであるということです。

教会

新約聖書の中で、教会は次のような多くの象徴によって示されています。塩(マタ5:13)、柱(Iテモ3:15)、建物・家(エフェ2:21、22)、神殿(Iコリ3:16、17)、女(黙12:1、2)、花嫁(黙21:2)、キリストの体(エフェ1:22、23)。

問2

ヨハネの手紙Iには「教会」という言葉そのものは出てきませんが、教会の概念は存在します。この手紙には、あるべき教会について理解する助けになるどんな象徴が出てきますか。1ヨハネ2:9~11 2:13、14 2:12、18、3:1

ヨハネの手紙Iにおいては、教会はおもに家族として描かれているように思われます。天の御父が出てきます(12回)。ヨハネ自身は、いわば父親であって、教会員を「子供たち」と呼んでいます(Iヨハ2:18)。教会員は子どもであり(13回)、父親また若者であり(各2回)、兄弟(13回)です。

これらの言葉には、ある種の親密さ、相互の親しい関係、愛、帰属意識が含まれています。どの人も必要とされ、どの人も神の家族の中で役割を与えられています。さらに、この家族には三位一体の神が含まれています。したがって、この共同体は横と縦の次元を持っています。教会員として、私たちは文字通り神の家族の一員です。

問3

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」(Iヨハ4:7)。この聖句は神の教会の一員であることの意味を理解する上でどんな助けになりますか。

救い

聖書は、創世記から黙示録まで、イエスについて記しています。しかし、それはイエスについての空虚な記録ではありません。それはイエスと贖いについて記しています。神が堕落した人類のために成し遂げてくださった御業について記しています。それは、私たちを元の状態、またそれ以上のものに回復するための、神御自身の驚くべき自己犠牲について記しています。つまり、聖書は救いについて記していて、救いはヨハネの手紙Iの中心テーマとなっています。

問4

次の聖句によれば、私たちはどのようにして救いを与えられましたか。Iヨハ1:9 、Iヨハ2:2、Iヨハ4:9、10

私たちはキリストの血(Iヨハ1:7、5:6、8)、すなわち罪を償うあがないの供え物(Iヨハ2:2、4:10)によって救われます。キリストの十字架は直接、ヨハネの手紙Iには出てきません。しかしながら、血と、贖いの供え物はキリストの十字架を指し示しています。イエスの模範も重要ですが、私たちを救うのはイエスの模範ではありません。私たちを救うのはイエスの死です。しかし、イエスの模範は私たちにイエスの歩まれたように歩むように求めます(Iヨハ2:6)。

ヨハネにとって、信じる者たちの救いは現在の事実です。彼はさまざまな方法で救いを描写しています。

・彼らは神を知っています(Iヨハ2:2、3)

・彼らは神の内にいます(Iヨハ2:5、5:20)

・彼らの罪は赦されています(Iヨハ2:12)

・彼らは悪い者に打ち勝っています(Iヨハ2:13)

・彼らは死から命へと移っています(Iヨハ3:14)

・彼らは永遠の命を得ています(Iヨハ5:12、13)

ここに、救いの本質が見事に描写されています。

クリスチャンの行い

ヨハネはその手紙Iの中で誤った神学について述べていますが、繰り返し倫理についても述べています。神学が倫理を特徴づけること、また誤った神学が誤った行為を導くことを、ヨハネはよく知っていました。この意味で、私たちの神学は可能なかぎり正しいものでなければなりません。たとえば、律法と恵みを誤って理解したために、多くの人が神の安息日を無視するようになりました。したがって、神と聖書についての私たちの神学的理解は成熟したもの、成長するもの、正しいものとなるように心がけなければなりません。

私たちはまた、自分の神学が正しく実践されるように心がけなければなりません。正統的な神学の偉大なる擁護者が隣人の配偶者と駆け落ちするのを見るのは悲しいことです。神学生や研究生が試験でカンニングをすることは悲劇です。救いと天の聖所、死者の状態についての真理を知っている安息日遵守者が互いにうそをつくのは嘆かわしいことです。

問5

次の聖句を読み、それらが倫理的な行動について何と教えているか要約してください。Iヨハ1:7、2:1、15、16、3:4、7、15、17、18、4:7、5:2、3

ヨハネは直接的、間接的な言葉をもって倫理的行動の重要性を強調しています。彼はクリスチャンに対して、うそをつかないように、罪を犯さないように、兄弟・姉妹を憎まないように、欲望と高慢に満ちた世を愛さないように、不法を働かないように求めています。その一方で、私たちは従順であって、正しいことを行い、目に見えるかたちで互いに愛さなければならないと教えています。パウロはヨハネよりも具体的ですが(たとえば、エフェ4:25~5:21参照)、ヨハネは、神の掟を守り、イエスが歩まれたように歩みなさいという勧告の中にこれらすべてを要約しています(Iヨハ2:6)。

ヨハネによれば、神から生まれること、神を知ること、神を愛することは私たちの生き方を変える出来事です。なぜなら、ヨハネにとって、真理は単に信じるものではなく、実践するものだからです。ヨハネの手紙Iの3:7以上に、このことをはっきりと示している聖句はほかにはないでしょう。「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です」。

真理と嘘

古代ギリシア人の時代から現代に至るまで、真理は相対的なものであって、絶対的なものはない、つまり人間には自分自身とその行為を導く絶対的な基準などはなく、人間はかなりの程度、真理と虚偽、善と悪、道徳と不道徳を自分で判断しなければならないという考え方があります。これは、一般的に相対主義と呼ばれるもので、さまざまなかたちをとるとはいえ、その基本的な考え方は同じです。つまり、真理や善、道徳には絶対的な基準はないということです。この考え方に従えば、私たちは自分自身の文化や共同体、伝統の中で最善を尽くすことによって、これらの問題に対処しなければなりません。

問6

ヨハネ14:6を読んでください。イエスはここで絶対的な真理の性質について何と言っておられますか。

イエスは明らかに、真理が相対的なものであるという考え方を受け入れておられません。イエスは可能な限り明らかで、誤解の余地のない言葉を用いて、絶対的な真理があることを示しておられます。私たちは、それがイエスの内に人のかたちをとって現されたのを見ます。

問7

ヨハネは真理について何と教えていますか。Iヨハ2:4、21、3:19、4:6、5:20

ヨハネは、絶対的な真理があることを認めています。その上で、真理とうその間にはっきりした区別があることを明らかにしています。この差異は相対主義的な世界観においてはあいまいにされがちです。絶対的な真理は確かにあります。神は真理です。イエスと聖霊は真理です。一方、根拠のないことを主張する者、愛すると言いながら、掟を守らない者、イエスがキリストであることを否定する者は偽り者です。対照的に、誠実なクリスチャンは真理を知り、真理を愛し、真理に属しています。このように、真理は知的に理解するものであり、実践するものです。

まとめ

今日、ヨハネの手紙Iは大いに必要とされています。あらゆる種類の偽りの思想が宣伝されているからです。ヨハネは読者に、また私たちに、すべての人を信じたり、新しい思想を無条件に受け入れたりしないで、教えが本当に聖書に合致するかどうかを試すように勧めています。真理と虚偽を識別する洞察力が必要です。

ヨハネによれば、真のキリスト教には次のような印が見られます。(1)人となって来られた神の御子、イエスを信じる。(2)神の掟を守る。(3)神と人を愛する。ヨハネは堅固な土台を置こうと望んでいます。それによって、読者が聖書に示されたイエス・キリストを信じる信仰によって救いの確信を持つためです。

*本記事は、安息日学校ガイド2009年3期『愛されること、愛することーヨハネの手紙』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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