この記事のテーマ
モーセとアロンに対する隠しきれない憎しみは、なお群衆の心に残っていました。荒れ野をさまよい、ついにはエジプトを出た第1世代が死ぬように運命づけられることは、多くの者たちにとって耐えがたいことのように思われました。一部の者たちは、神の判断にゆだねる代わりに、自分自身の手で2人の兄弟を排除する方法を考え始めました。自分たちを苦境に陥れたのが神でなく、これらの兄弟であるかのように思われたからです。
「この運動の主謀者のコラは、コハテの氏族のレビ人でモーセのいとこであった。彼は才能に恵まれた有力者であった。彼は幕屋の務めに任じられていたが、その地位では満足せず、祭司職の地位につきたいと切望した。……彼はついに、一般の民事と宗教の両方の権威を打倒する大胆な謀略を考えた」(『希望への光』204ページ、『人類のあけぼの』上巻477ページ)。
今回の研究は、堕落した人間の心をまざまざと思い起こさせてくれます。高慢やねたみ、権力欲を心に抱き、肥大するままにしておくと、恐ろしい結果をもたらします。よりよい道を知りながら、これらの苦々しい種が実を結ぶままにしておくと、どのような苦痛と損失をもたらすことになるかは、神だけが知っておられます。私たちも同じ過ちを犯すことのないように、これらの経験を通して教訓を学びたいものです。
反逆(再び)
問1
民数記16:1~3を読んでください。モーセに対する反逆者たちの言葉を注意深く読んでください。どんな4つのうそが隠されていますか。
この攻撃に対するモーセの応答(民16:4)には、当然理解しているべき者たちの、的外れな非難に対するモーセの落胆がよく表れています。「彼らは、モーセと共に山に登り、神の栄光を見せられた者たちであった。……彼らは民の繁栄に大きな関心をもっていると表明した。彼らは、まず自分たちの間で不平をささやきあい、引き続いてイスラエルの指導者たちにそれをひろめた。人々は、彼らのほのめかしの言葉を直ちに信じた。そこで、彼らは、さらにそれを押し進め、ついに自分たちは神のための熱意に動かされていると思い込むようになった」
(『希望への光』205ページ、『人類のあけぼの』上巻479ページ)。
ここでも、天におけるサタンの最初の罪の現れを見ることができます。これらの者たちは、いかに賞賛されようとも、また高い地位を占めようとも、それで満足することはありませんでした。彼らはさらに多くのものを望みました。私たちも十分に注意する必要があります!
問2
彼らの反逆の背後には、ほかにどんなことがありましたか。また、これらの非難はどんな点で全く誤っていましたか。民16:12~14
信じがたいことに、これらの者たちはあのエジプトの地を「乳と蜜の流れる土地」と呼んでいます。彼らが罪によって判断力を歪められるあまり、かつて隷属と束縛の中に置かれていた国を神の約束の地を意味する言葉で呼んでいることは驚きです。
もし主が新しいことを創始されるなら
これらの者たちに対するモーセの応答に注目してください(民16:4~11)。彼らは高い地位を与えられていたにもかかわらず、さらに多くのものを要求しました。モーセには、そのことがはっきりとわかっていました。
彼らの言い分によれば、彼らはモーセとアロンに逆らっているかのように聞こえます。あたかも、モーセとアロンがこれらすべての権威を奪い、自分たちの分を超えて、ほかの人たちの上に立ち、彼らを荒れ野に導き出して死なそうとしているかのように聞こえます。
問3
実際には、彼らはだれに逆らっていましたか。民16:11
これらの者たちの偽りの非難がどこから出てくるのか理解に苦しむところです。だれの力が紅海を2つに分けたのでしょうか。神の力でしょうか。モーセとアロンの力でしょうか。だれが毎朝、彼らのためにマナを降らせたのでしょうか。神でしょうか。モーセとアロンでしょうか。だれが昼は雲、夜は火を出現させたのでしょうか。神でしょうか。モーセでしょうか。これらすべてのことを目撃していたにもかかわらず、彼らがこのような行動に出るとは想像しがたいことです。
問4
民数記16:15~35を読んでください。特に28~30節のモーセの言葉に注目してください。真の問題はどの言葉に表されていますか。
彼らの置かれた状況について考えてください。もしこれらの者たちがさらなる反逆をするままにさせられたら、その恐るべき結果はいかに大きなものであったでしょうか。イスラエルの子らは、いわば全く主に信頼しないかのように、容易に道を踏み外していたはずです。彼らは、主が支配しておられること、主が彼らを導いておられること、またモーセとアロンが自分のためでなく、神の御旨に従って行動していることを知るべきでした。これらのことが明らかであったとしても、罪は私たちの理性を曇らせる力を持っています。反逆の精神は、ひとたび火がつくと、抑えることが困難であるばかりでなく、さらに勢いを増すことがよくあります。
記念物
パレスチナにおける考古学的調査は、それほど多くの書かれた文書(死海文書の他に)に明らかにしているわけではありませんが、聖書はほかにさまざまな目に見えるしるしとしての記念物に言及しています。その目的はイスラエルに絶えずそれらの持つ意味を思い起こさせることにありました。たとえば、創世記28:11~22で、ヤコブは石の記念碑を立てています。神がヤコブとヤコブの子孫に対してなされた契約の約束を記憶するためでした。
問5
モーセとアロンに対するこの恐ろしい反逆はどのようにして記憶にとどめられましたか(民17:1~5──口語訳、16:36~40)。この記念物は特に何を思い起こさせるものでしたか。
旧約聖書に記された記念物の大部分は神の御心と慈愛、恵み、契約の祝福をイスラエルに思い起こさせるものでした。それらは人を神に、天に、主に向けさせるものでした。たとえば、衣服に縫いつけた青い房(民15:38~41)、洪水後の虹(創9:13)、割礼(創17:10~14)、過越の祭り(民9:1~14)、ヨシュアがヨルダン川に立てた12の記念の石(ヨシュ4:3~9)などがそれです。
対照的に、聖所の中庭の青銅の板は、寄留者やアロンの子孫以外の者に対して祭司職を奪うことのないように警告する予防的な記念物でした。それはまた、より広い意味においては、人間が自己の貪欲や野心、権力欲を正当化し、神に背いたときに起こった出来事を人々に思い起こさせるのでした。それは、「コラとその仲間のようにならない」ように人々に警告する記念物でした(民17:5)。
問6
聖書に記されている記念物をほかにあげてください(たとえば、出20:8~11、民31:54、マタ26:13、ルカ22:19)。その目的は何ですか。動物の犠牲もどんな意味で一種の記念物と言えますか。
生きている者と死んだ者との間
私たちは当然、コラとダタン、アビラム、それに250人の名のある人々の上に下った裁きが荒れ野の会衆に落ち着きをもたらしたと考えるでしょう。何しろ、天から火が降り、一部の者たちを焼き尽くし、地が口を開き、ほかの者たちを呑み込んだのですから。あからさまな反逆と背信に対して御自分の義憤を示すために、主はこれ以上のことをなさることができたでしょうか。
問7
民数記17:6~15(口語訳、16:41~50)を読んでください。この記事は堕落した人間の性質についてどんなことを教えていますか。彼らの非難はコラとその仲間の非難とどんな点で似ていますか。
この記事からも明らかなように、民のうちに始まった反逆の精神はコラをもって終わったわけではありませんでした。反逆の精神は、これらすべての出来事の後にも、宿営のうちになお続いていました。あのような災いを目撃した後で、人はどうして同じ行動を繰り返すことができるのか理解に苦しむところです。人がひとたび反逆と背信の道をくだり始めると、同じような狂気と愚行を繰り返すものであることを、このことは示しています。私たちは神の恵みによって神の約束に信頼し(Iコリ10:13、フィリ1:6)、滅びに至る前にこのような感情を締め出す必要があります。
問8
民数記17:13(口語訳、16:48)を読んでください。アロンが生きている者と死んだ者との間に立つとはどんな意味ですか。この光景はどんな意味で、私たちのためのイエスの御業を垣間見せてくれますか。
この世界には、実際のところ、2種類の人間、つまり生きている人と死んだ人、それも肉体的にではなく、霊的に死んだ人しかいません。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハ3:18)。イエスは生きている者と死んだ者との間に立っておられます。イエスは一方から他方への境界線であり、移行点です。私たちはイエスを通してのみ、死から命に移ることができます。
芽を吹いたアロンの杖
コラによって引き起こされた反逆によって、何千人もの人が死にました。しかし、主は祭司職のリーダーシップの問題を完全に解決しておく必要があるとお考えになりました。神のなされたすべての業、つまり反逆者の上に下された力強い、苦痛に満ちた裁きにもかかわらず、民がなお反逆的であることを、神は知っておられました。神は当然ながら彼らを滅ぼし尽くすこともおできになりました。しかし、それは決して神の御心ではありませんでした。そこで、これらの出来事の後で、主はなおも彼らを導き、彼らに御自分の救いの恵みを現そうとされたのでした。
問9
民数記17章を読み、以下の質問に答えてください。
- このようなテストが与えられたのはなぜでしたか。
- このテストはどんな意味で、さらなる反逆とそれにともなう断罪を予防する手段となりましたか。
- 祭司職が一部の人だけに許されるものであることを民がやっと理解したように思われるのは、彼らのどんな反応から明らかですか。
アロンの杖が花を咲かせ、アーモンドの実を結んだというこの奇跡は否定することのできないものでした。イスラエル人は、神が聖所の中で奇跡を行い、はっきりとアロンとアロンの子孫を主の聖所の祭司とされたことを認めざるを得ませんでした。悲しいことに、要点を理解させることには、多大の苦しみがともないました。主が彼らの過ちを正すためにさらなる配慮をしてくださったことは驚きです。
まとめ
「私は本物の反逆が果たして治癒可能かどうか疑問に思う。……
反逆や背信は私たちの呼吸する空気そのものの中にある。信仰によって私たちの無力な魂をキリストに置かない限り、私たちはそれに負けてしまう。もし簡単にだまされるのであれば、サタンがキリストの姿をして、奇跡を行うときに、どのようにして立つことができようか。だれがサタンの欺きに耐えることができようか。サタンがキリストを告白し、キリストの姿をとり、明らかにキリストの働きを行うのである。神の民はどうしたら偽りのキリストを崇拝することから守られるのであろうか。『それらの後に従ってはならない』
教理をしっかりと理解していなければならない。真理を教えることを受け入れた者たちは錨を下ろしていなければならない。そうすれば、彼らの舟は嵐や暴風雨にも持ちこたえられる。錨が彼らをしっかりと支えてくれるからである。欺瞞は増すであろう。私たちは反逆に正面から立ち向かわねばならない。完全な武具を身につけて立たねばならない」(『SDA聖書注解』第1巻1114ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。
「イスラエルの人々の会衆は、みなモーセとアロンとにつぶやいて言った、『あなたがたは主の民を殺しました』……彼らは、モーセとアロンに向かってつぶやき、神を冒瀆していながらも、なお、自分たちは正しく、彼らの罪を忠実に譴責した人々をサタンに動かされているとみなすほどに欺かれていた。……彼らは、民を欺いた者の滅びを見て、……神の刑罰をサタンのせいにし、モーセとアロンが、正しく清い人々を悪魔の力によって死なせたと言った。彼らの運命を決定したのは、この行為であった。彼らは聖霊に対する罪を犯した。……そして、雲から声がモーセとアロンに語って言った。『あなたがたは、この会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼそう』。……彼は、急いで会衆を離れて、彼らを滅びるままにしておかなかった。……彼は神の選民が、神の怒りによって全滅されないように嘆願した。アロンは、モーセの指示に従って、薫香を手にして、急いで会衆のまん中に行き、『彼らのために罪のあがない』をした。彼は、『すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立』った」(『人類のあけぼの』上巻486~490ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2009年4期『放浪する旅ー民数記』からの抜粋です。