祭司とレビ人【民数記―放浪する民】#8

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この記事のテーマ

コラの反逆と杖の試験の後で、祭司の役割とレビ人の役割の違いを改めて強調する必要が生じました。それぞれに神から与えられた職務があり、主はこれらの職務をはっきりと区別しておられました。これらの役割と職務はとうの昔にすたれましたが、それでも今日、私たちはそれらから教訓を学ぶことができます。

たとえば、これらの役割がどれほど神聖で、厳粛なものであったか考えてください。私たちも自分に与えられた聖なる責任と信託を真剣に受けとめる必要があります。

また、これらの人たちが互いに、また国民全体とどれほど相互に依存していたかに注目してください。私たちは今日、一つの教会として、このことから教訓を学ぶことができます。

さらに、これらの章に記された恵みの役割に注目してください。民に与えられた賜物は彼ら自身の功績によるものではありませんでした。つまり、それらの地位は彼ら自身が生まれながらに持つ価値のゆえでなく、神によって与えられたものでした。これは福音についての力強い象徴です。

職務の区分

「今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出19:5、6)

問1

今日、世界に福音を宣べ伝えるように召された教会として、私たちは上記の言葉をどのように受けとめるべきですか。この招きは無条件のものですか。Iペト2:9、黙14:6~12

主は民数記18:1で、礼拝者たちが死ぬことはないという確証を与えようとされました(民17:28──口語訳、17:13)。しかし、それは彼らと主との間にあって仲保者の務めを果たすように神によって特別に選ばれた祭司を通して聖所に近づくことを条件としていました。レビ人の残りの者と区別される祭司は、資格のない者が聖所に近づき、聖所を汚すことのないように見張る責任を負っていました。そうすることによって、聖所に近づく会衆から死の恐怖を取り除くことができました。

問2

民数記18:1~7を読んでください。これらの人たちに与えられた役割にどんな区分が設けられましたか。

ここで留意すべきことは、すべての国民が「祭司の王国」であっても、特定の人だけが特定の役割を許されていたことです。それは、レビ人やアロンの子孫が一般の人と異なり、アロンの子孫がレビ人と異なっていたことからもわかります。明らかに、新約時代には、たとえばレビ人に見られるような世襲による役割は廃止されていましたが、それでも新約聖書の中に教会における独特な役割を見ることができます(Iコリ12:28~31、エフェ4:11)。

聖なる務めの賜物

民数記18:1~7に記された主の指示を読むとき、いくつかの要点が明らかになります。第一に、人々をこれらの地位につけられるのは主御自身であることが明示されています。このことが強調されているのは、コラとその仲間たち、さらにはミリアムとアロンが引き起こした問題のためだったと思われます。今や、彼らに与えられた地位に関して、疑念が解消されることになりました。彼らの地位はほかならぬ神から与えられたものでした。

さらに、主がこのような区分をされた理由に注目してください。神の「怒りが再びイスラエルの人々に臨むことがない」ためでした(民18:5)。ここにも、力強い神の裁きの最中にあって、神の憐れみが現されているのを見ます。神が望まれることは御自分の民を救うことであって、彼らを罪に定め、滅ぼすことではありません。救いの計画は初めから終わりまで、罪深く、堕落した人類を罪のもたらす滅びから救うという、主の願望の現れにほかなりません(ヨハ3:16~18)。

問3

レビ人は祭司職にとって、祭司職はアロンの子孫にとってどういうものとして与えられましたか。このことは私たちに何を教えていますか。

賜物という言葉は、自分で獲得したものでない何かを連想させます。それは完全に恵みによるものです。祭司職という賜物はこれらの人たちに与えられた特権でした。それは彼らの功績によるものではなく、ただ神の恵みと摂理を通して与えられたものでした。主はこの務めを行う者たちを必要とし、聖なる知恵によってこの者たちをお選びになったのでした。

言うまでもなく、この聖なる務めには聖なる責任がともないました。それは肉体的、霊的な意味で、生死にかかわる問題でした。幕屋は、神が地上でお住みになるところだったからです。聖所はまた、イエスが地上において行われることの、そして天における務めのひな型となるものでした(ヘブ9章)。それは、いわば型と影において行われるミニ・カルバリーでした。魂の運命がそれにかかっていました。主がこれらの者たちに与えられた役割を厳粛なものとされたのはそのためです。

聖所の支え

宗教的な働きに携わる2種類の人々を区分した後で、主は彼らの経済的な支えについて教えておられます。これらの人たちの地位は明らかに「全時間」のものでした。つまり、彼らは自分自身を養うために「食事の世話」(使徒6:2)をすることはありませんでした。支えはほかのところから与えられるのでした。

問4

民数記18:8~20を読んでください。それは私たちにどんなことを教えていますか。

これらの聖句は多くの興味深いことを教えてくれます。たとえば、主が御自分にささげられたものを祭司にささげられたものと見なしておられることに注目してください。献げ物や賜物は主にささげられたものでしたが、主はそれらを祭司に与えておられます。このように、人々は主に献げ物をささげることによって、同時に祭司にそれらをささげていたのです。このことから、神と人との仲保者の役割を果たした祭司と主とのあいだに密接な関係があったことがわかります。

同時に、このことは祭司も人間であったことを教えています。彼らは特権的な地位にありましたが、それでも生計を維持するためには自分たちの仕える民に依存していました。祭司たちは、最上の油やぶどう酒、穀物などを民から受けることによって、彼らに忠実に仕え、自分たちの地位を利用しない義務を絶えず思い起こしたことでしょう。

また、お金によって子供や動物を贖うという方法によって、主はイスラエルに身代わりの思想を教えられました。キリストは後に罪人の身代わりとして御自分の命をささげられるのでした(Iペト1:18、19)。すべての献げ物にかけられた塩は、御自分の民に対する神の契約が永遠のものであることを示す象徴でした(レビ2:13参照)。

十分の一制度

レビ族は嗣業の土地を持っていませんでしたが、その代わり48の町を与えられていました。そのうちの13の町が祭司の家族に与えられていました(ヨシュ21:19)。主御自身が彼らの受けるべき「割り当て」分でした(民18:20)。

問5

主は献げ物の一部に加えてどんな制度を、祭司とレビ人を養うために定められましたか。民18:21~32

収入の十分の一を主に返すことは古代の慣例でした(レビ27:30)。アブラハムがサレムの王・祭司であるメルキゼデクに十分の一をささげたのが、聖書に出てくる最初の例です(創14:20、ヘブ7:1、2)。ヤコブは自分に与えられるすべてのものの「十分の一」をささげると主に約束しています(創28:22)。主はこのイスラエルの十分の一制度を適応し、祭司の家族を含むすべてのレビ族を支えるものとしてお与えになりました。

十分の一を受け取るレビ人も、自分の十分の一をアロンにささげました。レビ人は受け取ったものの中の「最上のもの」を十分の一としてささげねばなりませんでした。このように、十分の一は祭司を支えるために用いられたと同時に、レビ人に対して、自分たちが神に依存していること、自分たちの受けるすべてのものが神から来ることを理解させてくれました。彼らもまた、「十分の一の十分の一」を忠実に返すことによって、感謝の念を表す必要がありました。民が主に依存していることをつねに覚える必要があったとすれば、レビ人はなおさらのことでした。

問6

民数記18:32を読んでください。レビ人の召命が神聖なものであったことに関して、このことは何を教えていますか。

この聖なる制度においては、すべての人が自分の役割、自分のなすべき分を持っていました。祭司とレビ人は聖所の儀式に関してなすべき聖なる務めを持ち、民は十分の一を忠実に返すことに関して自分の務めを持っていました。レビ人と祭司が民のために執り行う務めのことを考えれば、十分の一はささいなことでした。ある意味で、すべての集団がお互いの役割に依存し、すべての人が主に依存していました。

赤毛の雌牛

問7

一度も軛を負ったことのない、無傷で赤毛の雌牛をささげることは、イスラエルの聖所の制度の中でもきわめて異例の儀式です(民19章)。これは何を教えていますか。

雌牛は赤毛でなければなりませんでした。明らかに、それは血、つまりキリストの血を象徴していました。それはまた傷がなく、一度も軛を負ったことのないものでなければなりませんでした。これも、贖いの業を行うために自発的に来られた傷のない犠牲、キリストの象徴でした。キリストの上にはいかなる強制的な軛もありませんでした。彼は独立していて、すべての法律を超越しておられたからです。犠牲の雌牛は宿営の外に引き出され、屠られました。同じように、キリストもエルサレムの門の外で苦難に遭われました(ヘブ13:12)。カルバリーは城壁の外にあったからです。このことは、キリストがヘブライ人だけでなく、すべての人類のために死なれたことを示しています(ロマ5:12~21)。キリストは堕落した世界に、御自分が世の贖い主として来られたことを宣言し、世に御自分の与える救いを受け入れるように求められます。

雌牛を屠った後で、純白の衣を着た祭司が犠牲の体から流れ出る血を指で取り、それを7度、神殿に向かって振りまきます。同じように、キリストも御自身の汚れなき義をもって、尊い血を流した後で、罪人に奉仕するために天の聖所にお入りになりました。そこで、キリストの血は神を人に和解させる儀式に供されます(ヘブ10:21~23参照)。

雌牛は焼かれて、灰にされました。これは完全にして十分な犠牲を表していました。その灰は死体に触れたことのない清い人によって集められ、宿営の外の清い場所に置かれました。清めの儀式を行うためには、その灰を新鮮な水の入った容器に入れ,身の清い人が緋色の布とヒソプの束のついた杉の枝を取り、容器の中身を天幕と会衆に振りかけました。これは完全なものとなるために何度か繰り返され、罪の清めとして行われました。

汚れたものに振りかけられる清めの水は、私たちを道徳的な汚れから清めるために流されたキリストの血を象徴していました。繰り返し振りかけられるのは、悔い改めた罪人のためになされる働きの完全性を例示していました。罪人はすべての持ち物をささげねばなりませんでした。罪人自身の魂が清められることはもちろんのこと、彼は生活のあらゆる面で純潔と神聖を求めなければなりませんでした。

まとめ

「十分の一制度における神の計画はその単純さと平等性において申し分のないものである。すべての人が信仰と勇気をもってこの制度に信頼することができる。なぜなら、その起源が神にあるからである。それは単純さと有用性を兼ね備えていて、それを理解し、実行するには深い学問は要求されない。すべての人が尊い救霊の働きに参加できることを実感することができる。すべての男女、青年が主のための会計係となり、金庫の必要を満たす代理人となることができる。……大いなる目標がこの制度によって達成されている。それを受け入れるなら、各自は神のための用心深い、忠実な会計係となる。最後の警告の言葉を世に伝えるという大事業を遂行する資金が欠乏することもなくなる」(『福音宣伝者』223ページ、英文)。

【過越しの祭り】モーセがエジプトへ行く途中、神は彼に会って彼を殺そうとされました。モーセの妻チッポラは長男に割礼をほどこしたとき、その出血に驚き、二男の生まれたときには、夫のモーセを説得して割礼をしませんでした。彼女は夫の危険を察知すると同時に、神に従わなかったことを思い出し、自ら火打石の小刀で無割礼の二男の前の皮を切り、その子の血をモーセの両脚に塗りました。神はモーセを赦されました。イスラエルの民がエジプトを出て初めておこなった過越しの祭りでは、キリストを象徴する子羊の血がイスラエル人のそれぞれの家の二つの柱と鴨居に塗られました。モーセの両脚に血を塗ることと、家の二つの柱に血を塗ることは似ています。キリストはご自分の血で贖うイスラエルの家々を過ぎ越して罪を赦されました。キリストの流された血は、人のあらゆる罪を贖います。

【贖いによる罪の赦し】罪を犯して死ぬ運命にあったアダムとエバにご自分の身代わりによる贖いの計画を示されました。神である救い主ご自身の身代わりによる死を象徴する動物犠牲の儀式その他を司るのが祭司やレビ人でした。贖いに関連して最も重要なヘブル語はカーファルで、たまたま日本語の「かわる」とその発音が似ていますが、人の罪の贖いのための「身代わり」とか「身の代」の意味があります。贖いの日には、民の罪のために1頭のやぎがその身代わりになって死にました(レビ16:15)。これは人のためのキリストの死を予表していました。あと1頭のやぎはサタンを象徴していました。このやぎは祭司によって人の罪が移され、その罪を負って、荒野に送り出されました。このようにして、人の罪は赦されるのです。

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