モーセとアロンの罪【民数記―放浪する民】#9

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この記事のテーマ

何年か荒れ野を放浪した後で、イスラエルはついに約束の地の南の境界にあるカデシュ・バルネアに到達します。これまでのさまざまな経験、主から受けた厳しい教訓、さらには公然と反逆した者たちに下った強力な裁きのことを考えると、イスラエルもやっとのことで、完全に主に用いられる備えができたに違いないと、私たちは考えるかもしれません。しかし、事はそのようには運びませんでした。

今回は、聖書全体に一貫して流れているテーマ、つまり神の民の不信仰と罪、忘恩と対照的な神の憐れみと恵みについて学びます。エデンにおけるアダムとエバからラオディキアの教会(黙3:14~18)に至るまで、神の与えられる勝利と信仰、清めについての約束を受け入れようとしない者たちに、神が憐れみと恵みをもって接しておられるのを、私たちは何度も見ます。同時に、神が、たとえば偉大なモーセのように善悪をわきまえているべき者たちの失敗と堕落をも喜んで赦しておられるのを見ます。モーセは、弱さと短気、そしていくぶん傲慢の中で、神を見失ってしまいました。モーセでさえ失敗することがあるとすれば、私たちはなおさらです。

巨人が倒れるとき

カデシュ・バルネアのイスラエルの宿営で水がなくなったとき、神に助けを求める大いなる機会が訪れました。神はこれまで彼らの必要を満たしてくださいましたので、今回もそのようになるはずでした。しかし、彼らはすぐに過去を忘れ、以前と同じ不満をもってモーセとアロンに食ってかかりました。

問1

民数記20:1~13を読んでください。主はモーセにどうするように言われましたか。モーセはどうしましたか。柔和で忠実な、献身した神の僕モーセが信仰と信頼に欠けるような行動に出たのはなぜだと思いますか。

ある意味で、モーセの欲求不満はよく理解できます。まず、彼は姉[ミリアム]を葬ったばかりで、明らかに悲しみのうちにありました。その上、民が先祖と同じ不満を訴えるのを聞かねばなりませんでした。しかし、主の目には、これらは自分の行動を正当化する理由になりませんでした。

「水は豊かにわき出て、群衆を満足させた。しかし、大きなあやまちがなされた。モーセは、短気を起こして語った。……彼が自分で彼らを責めようとしたとき、彼は、神の霊を悲しませ、民に害毒を及ぼしただけであった。彼が忍耐と自制を欠いたことは明らかであった。こうして、これはモーセのこれまでの行動が神の指導のもとにあったかどうかを人々に疑わせ、彼ら自身の罪の弁解をする機会を与えた。民と同様に、モーセも神を怒らせた。彼の行動は、最初から批評非難の的であったと彼らは言った。今や彼らは、そのしもべによって語られた神のすべての譴責を拒もうとして待機していた口実をみつけたのである」(『希望への光』215ページ、『人類のあけぼの』下巻13、14ページ)。

最も忠実で勤勉な主の僕であっても、注意深くあらねばなりません。この罪をいっそう悪くしたのは、それが大いなる特権を与えられた人物によってなされたことでした。モーセはこれまで神の力の現れを見てきました。彼は信じがたい主の啓示を何度も目撃してきました。これらすべての事実にもかかわらず、彼は自我の現れと支配を許してしまいました。これは私たちにとっても厳粛な警告です。

アロンの死

問2

民数記20:23~29を読んでください。アロンの死を描いたこの記事は現代の私たちと直接、どんな関係がありますか。それは私たち自身に関連して、また私たちの働きに関連してどんな教訓を与えていますか。

民数記20章はミリアムの死をもって始まり、アロンの死をもって終わっています。古い世代が去り、新しい世代が彼らの残したものを受け継ぐのでした。今日の教会も同じです。一つの世代が去り、新しい世代が彼らの遺産を受け継ぎます。重要な問題は、新しい世代がどの程度、古い世代の成功から、そして失敗から学ぶかということです。

ミリアムの死についての記述とアロンの死についての記述との間に違いがあることに注意してください。彼女の死はわずか1行で書かれていて、あたかも突然、不意に訪れたかのようです。それは、はっきりと予告されているアロンの死とは対照的です。

アロンが死ぬ前、アロンとモーセ、それにアロンの子エレアザルはホル山に登ります。そして、共同体の見守る中で、モーセはアロンの祭服を脱がせ、甥のエレアザルに着せます。それは、ある役割が一つの世代から次の世代に引き継がれることの力強い象徴でした。アロンは間もなく、「先祖の列に加えられる」ことになっていましたが、大祭司の働きは受け継がれねばなりません。言い換えるなら、教会の働きと使命は一人の人間よりも大きいということです。もし望むなら、私たちは自分の務めを忠実に果たすことができますが、遅かれ早かれ、私たちはこの世を去り、他の人が私たちの働きを受け継ぎます。

関係者にとって、これは確かに痛みのともなう出来事でした。モーセは、自分もやがて死なねばならないことを知っていましたが、兄アロンの聖なる衣を脱がせ、自分の甥、アロンの子に着せます。アロンも、明らかに過去の失敗を悔いてはいましたが、自分がやがて死ぬことを知っていました。そして、エレアザルは、やがて死ぬ父の前に立ち、大祭司という重い責任を負うのでした。一方、山のふもとでは、イスラエルの子らが事の成り行きを見守っていました。

忘恩の罪

イスラエルはエドム人(エサウの子孫)の領土を通過するのを拒否されたために、エドムの領土を迂回しなければなりませんでした(民20:14~21参照)。エドム人は死海からアカバ湾にかけて南に広がる領土を支配していました。

問3

民数記21:1~5を読んでください。民の不満は何でしたか。彼らの身に起こったこと、経験したことについて考えてください。彼らの不満には、正当な理由がありましたか。

彼らは不満を述べるだけの十分な理由があると考えたかもしれませんが、それは主に受け入れられることではありませんでした。結局のところ、彼らは毎日、神の恵みの奇跡によって守られてきたのです。つまり、彼らは荒れ野の中で必要な水を与えられ、天から天使の食べ物であるマナを与えられ(詩編78:25、口語訳)、昼は雲、夜は火の柱によって安全に守られてきました。彼らのうちに弱い者はなく、長旅によって足のはれる者はなく、その着物は「古びる」ことがありませんでした(申8:3、4、詩編105:37)。彼らも私たちと同じく悩みや問題、恐れを抱えていたことでしょう。しかし、彼らはこうした問題ばかりに目を向け、それまで自分たちに与えられた神の祝福を忘れてしまいました。ここに、彼らの問題がありました。つまり、神の憐れみと恵み、備えに慣れるあまり、それを当たり前のことと考え始めたのです。ひとたび物事を当たり前のことと受け取るなら、容易にそれらを忘れるようになります。

問4

毎日の生活の中で当たり前のことのように考えているものはありませんか。そのように考えることが愚かなことであるのはなぜですか。

そのような愚かな考えに対する唯一の解決策は、毎日、主から与えられたものに感謝することです。賛美の重要性はここにあります。神は私たちの賛美を必要とされませんが、私たちは努めて主を賛美する必要があります。なぜなら、そうすることによって、私たちがどれほど主に感謝すべきかを絶えず思い起こすようになるからです。

炎の蛇

民の言い分がどれほど不満に値するものに思われても、主は彼らの苦情に同情されなかったでしょう。荒れ野におけるこれらの年月の間、数々の神の御業を見てきたというのに、神は自分たちを死なせるために荒れ野に導いたのだという以前からの不満を繰り返すだけだったからです。主が同情されなかったのも当然です。彼らの立場をいっそう悪くしたのは、カナン人との戦いに勝利を収めたばかりであるということでした。

問5

民数記21:5~9を読んでください。再び、モーセの仲裁者としての役割がどのように描かれていますか。特に今回、民が仲裁者を必要としたのはなぜですか。

パレスチナには35種類ほどの蛇がいます。猛毒の蛇も何種類かいます。荒れ野に住んでいた蛇は、その毒牙に猛毒を持っていたので「炎の蛇」と呼ばれていました。神の守りの御手がイスラエルから取り去られたとき、多くの民がこれらの毒蛇にかまれました。神が毒蛇をイスラエル人に送られたのではありません。むしろ、イスラエルから主の守りが取り去られたときに、彼らがその結果に苦しんだということです。

問6

ヨハネ3:14、15を読んでください。イエスはこの毒蛇事件を救いの計画とどのように結びつけておられますか。どんな意味で、私たちはみな炎の蛇にかまれていますか。

旗竿の先に青銅の蛇を掲げるだけでは、蛇にかまれた人は助かりませんでした。彼らは仰がねばなりませんでした。彼らは従うことを選び、自分のためになされた備えの恩恵を受け入れねばなりませんでした。同じように、イエスの死そのものは自動的に世に救いをもたらすのではありません。イエスの死は救いの道を備えましたが、イエスが無償で与えてくださるものを受けるためには、私たちはイエスを仰ぎ、信じなければなりません。イスラエルの民が荒れ野において仰がねばならなかったのと同じです。

初期の勝利

ほぼ40年前にも、イスラエルは同じ場所でカナン人を攻撃しましたが、みじめな敗北を喫しました(民14:40~45)。この世代は40年にわたり荒れ野を放浪する間に死に、新しい世代が彼らの遺志を受け継ぎました。

問7

民数記21:10~33を読み、次の質問に答えてください。

  • ヘブライ人は異教の王シホンにどんな約束をしましたか。それはどんな約束でしたか。
  • だれがだれを攻撃しましたか(23節)。
  • シホン王に対するイスラエルの対応とオグ王に対するイスラエルの対応との間には、どんな違いがありましたか。

「もし、カナンの辺境にあるこれらの国々が、神のことばに反抗せず、イスラエルの進軍をさまたげなかったならば、滅びをまぬかれたことであろう。……アモリ人は偶像教徒であって、彼らが滅ぼされるのは、当然彼らの大いなる悪のゆえであったが、神は……400年の間、彼らに生きることをおゆるしになった。彼らは、イスラエル人がエジプトから導き出されたときに行なわれた神のすべての不思議なみわざを知っていた」(『希望への光』225、226ページ、『人類のあけぼの』下巻38、39ページ)。

2つの王国に対する戦略の違いに注意してください。平和裏にオグの領土を通過させてくださいという丁寧な要求はなされていません。むしろ、主はオグ王とその軍隊を、「高い城壁で囲まれ、かんぬきで門を固めた要害の町」(申3:5)から外に引き出しておられます。彼らを要害の外に引き出したので、イスラエルはモーセを通して与えられた神の導きと約束のもとで、オグ王とアモリ人の軍隊を野で完全に打ち破ることができました。

ヨルダン川東方地域のアモリ人の王シホンとオグに対する勝利は、歌(詩編135:10~12、136:18~26)と記憶(士師11:18~22)の中に永遠にとどめられることになりました。

まとめ

「ニコデモはだんだんキリストにひきつけられた。救い主が新生について説明された時、彼はこの変化が自分のうちに行われるようにと切望した。どんな方法によってそれを達成することができるのだろうか。イエスは、口に出されないこの質問に答えて、『ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るたである』と言われた(ヨハネ3:14、15)。

ここにニコデモのよく知っている根拠があった。上げられた蛇の象徴によって、彼は救い主の使命をはっきりさとった。イスラエルの民が火の蛇のかみ傷のために死にかけていた時、神はモーセに青銅の蛇を作って会衆のまん中に高くかかげるように命じられた。そして蛇を仰ぎ見る者はみな生きられるという布告が陣営中に伝えられた。人々は、蛇そのものには彼らを助ける力がないことをよく知っていた。それはキリストの象徴だった。滅ぼす蛇の形に作られた像が彼らのいやしのためにあげられたように、『罪の肉の様』につくられたおかたが彼らのあがない主となられるのであった(ロマ8:3)。イスラエル人の多くは、いけにえの儀式そのものに彼らを罪から解放する力があると思っていた。青銅の蛇に価値がなかったように、いけにえの儀式そのものにも価値がないことを彼らに教えようと神は望まれた。それは彼らの心を救い主に向けさせるのであった。きずをいやされるためであろうと、罪をゆるされるためであろうと、彼らは神の賜物キリストへの信仰をあらわす以外に自分では何もできなかった。彼らは仰いで見て、生きるのであった」(『希望への光』751、752ページ、『各時代の希望』上巻205、206ページ)。

キリストは、「多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた」のです(へブル9:28)。「救い主は、二度と犠牲になられるべきではなかった」(『人類のあけぼの』巻9ページ)。民に語ったモーセの言葉は、神のみ栄えが汚されたことに対する義憤からではなくて、人間の感情の表現でした。彼は「そむく人たちよ、聞きなさい」と言いました。この譴責の言葉は事実でした。しかし、真実でさえも、感情的になり、短気を起して語るべきではありません。彼が忍耐と自制を欠いたことは明らかでした。2度目には、ただ岩に命じるだけでよかったのです。(同14~15ページ)

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