預言者の「常軌を逸した行い」【民数記―放浪する民】#10

目次

バラムの物語

バラムの物語はよく知られていて、たとえば次のような冗談としても用いられるほどです。「神はバラムのロバを通して語られるとすれば、これこれによっても語れるはずだ」

しかしながら、ある意味で、この物語には何らおかしなところはありません。いろいろな意味に取れるかもしれませんが、バラムと主との出会いは、たとえば罪を神の力によって解決しなければ滅びの道に至るということの実例として理解することもできます。

バラムの名は新約聖書に3回出てきますが(Ⅱペト2:15、16、ユダ1:11、黙2:14)、あまりよい意味では語られていません。反対に、彼は罪の実例・象徴とされています。

ペトロはバラムの「常軌を逸した行い」について語っています。しかし、それは精神錯乱という「狂気」ではありませんでした。むしろ、それは貪欲に目がくらみ、金のためならどんな悪いことでもバラクの言う通りにしようとする人間の狂気でした。もし預言者バラムのような人間でも「常軌を逸した行い」をすることがあるとすれば、彼の悲しむべき実例を見ていながら同じようなことをする者はそれ以上に「常軌を逸した行い」をすることになります。

恐れ、当惑した王

モアブの王バラクの立場になって考えてみてください。ここに、大国エジプトを出て、40年間、荒れ野で、ただ奇跡によってのみ生き延びてきた遊牧民の大群衆がいます。この大群衆は今、自分の王国から遠くない「モアブの平野」(民22:1)に宿営していました。

イスラエルが何ら脅迫もせず、また侵略する意図もないというのに、バラクは不安になっていました。それもそのはずでした。イスラエルが最近、バシャンの王オグとアモリ人の王シホンに対して行ったことを知っていたからです──シホンは先にモアブを打ち破っていました(民21:26参照)。当然、イスラエルがカナン人に対して行ったことも知っていました(民21:1~4)。バラクが不安になるのも不思議ではありません。

問1

民数記22:1~6を読んでください。バラク王を特に恐れさせたのはイスラエル人のどんな行為でしたか。

問2

実際のところ、もしイスラエルが脅威であったのなら、バラクは具体的にどんなことを恐れたと思われますか。創48:21、出15:1、申1:30、20:4

とてもかなわないと思われる敵に直面したバラクが、呪われ、敗北することを願った民の神を信じる預言者を捜し求めていることは皮肉です。バラクが自分のしていることに気づいていたかどうかは分かりませんが、彼の計画が初めから失敗する定めにあったことは明らかです。また、彼がなぜ自分の国の「聖人」の一人に頼んで、モアブの神々に自分たちをイスラエルから守ってくれるように嘆願しなかったのかも不思議です。彼はまことの神の預言者に頼んでいます。その疑問を解く鍵は民数記22:6にあると思われます。「この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている」

バラム

このバラムという人はどんな人物だったのでしょうか。

「バラムは、かつては善人であって、神の預言者であったが、背教して欲に目がくらんでいた。それでいてもなお自分はいと高き者のしもべであると自称していた。彼は、神がイスラエルのためになされたみわざについて無知ではなかったから、使者が用向きを伝えたとき、自分としては、バラクの報酬を拒み、使者を去らせるのが義務であることをよくわきまえていた。それにもかかわらず、彼はあえて誘惑に手を出し……た」(『希望への光』228ページ、『人類のあけぼの』下巻45ページ)。

問3

民数記22:7~21を読んでください。表面的には、バラムは主のために固く立っていたように見えます。しかしながら、注意深く読むと、彼が誘惑をもてあそんでいたことがどこからわかりますか。

バラムは、主に勧告を求めるまでは返答することができないと言って、使者たちをその晩、家に泊まらせます。彼は、自分の呪いもイスラエルに害を及ぼすことがないとわかっていたはずです。というのは、バラムは主を知っていた、あるいは少なくともかつては知っていたからです。実際には、彼は主に求める必要がありませんでした。それにもかかわらず、彼がそうしたのは他に答えを期待していたためでしょう。いずれにせよ、使者をすぐに追い返すべきなのに、留まらせることによって、彼は自ら誘惑への道を開いたのでした。使者が「占いの礼物」を携えていたからです(民22:7)。

使者が再び来て、さらに多くのものを約束したとき、どうなったでしょうか。神は、「もしこれらの者があなたを呼びに来たなら」、わたしの言うことだけを話すことを条件に、あなたは行ってもよい、と言われました。ところが、朝早く──まだ使者がひと言も言わない前に──バラムはろばに鞍をつけ、直ちにモアブの長たちと共に出かけています。言い換えるなら、見せかけの信心深さと、どんな報償によっても買収されることはないという主張に反して、彼は申し出のあった礼物を残らず手に入れようと望んだのでした。

不自然な対決

王から申し出のあった報酬を受けようとして、バラムは長たちと共にモアブに向かって出立します。バラム自身、自分が忠実であると思っていたかもしれませんが、それは表面だけのことでした。主は彼の意図を見通して、それに応答されました。

問4

民数記22:22~34を読み、次の質問に答えてください。

  • ものの言えない動物が主の使いを見ることができ、神の預言者とされるバラムが見ることができなかったということには、どんな象徴的な意味がありますか(ゼファ1:17、マタ15:14、黙3:17参照)。
  • ろばが口をきいたとき、バラムは何と答えていますか。バラムの不合理な応答は彼の心の思いと富への欲求についてどんなことを明らかにしていますか。動物が口をきくと、たいていの人はどうしますか。
  • この物語は、神の恵みがバラムのような人間にも与えられていることをどのように啓示していますか。

聖書にあるこの不可解な物語については、長年、いろいろなことが書かれてきました。さまざまな注解者がさまざまな解釈をしてきました。しかし、次のことだけははっきりしているように思われます。つまり、バラムは主と特別な関係にあった人物でした。主はなおも彼に親しく語りかけておられました。そのような関係にあったにもかかわらず、バラムは自分の思いの通りにしようとしました。

「正しい人が死ぬように」

ろばとの一件の後、バラムはバラクのもとに来ます。バラクはバラムをともなって「バモト・バアル(バアルの高き所)」(民22:41)に上ります。近東の異教徒たちは自分たちの神々により近い山の上に神殿を築いたようです。バラムは王に命じて、この場所に7つの祭壇を築き、7頭の雄牛と7頭の雄羊をささげさせます。

問5

バラムが神に動かされてイスラエルの子らについて語った言葉を読んでください。その中にどんな力強い教えと約束が述べられていますか。それは私たちにもどんな希望を与えてくれますか。民23:5~10(Iコリ15章参照)

「彼ら[イスラエルの子ら]が死の陰の暗い谷にはいるとき、神のみ腕が彼らをささえるのを彼[バラム]は見た。さらに、彼は、彼らが光栄と誉れと不死の冠をいただいて墓から出てくるのを見た。彼はあがなわれた者が、新しくされた地の朽ちない栄光の中に喜んでいるのを見た。その光景を凝視しながら彼は叫んだ。『だれがヤコブの群衆を数え、イスラエルの無数の民を数え得よう』(民数記23:10)。すべてのものの額に栄光の冠を見、すべてのものの顔から輝き出る喜びを見、純粋な幸福に満ちた永遠の生命をながめたとき、彼の口から厳粛な祈りがほとばしった。『わたしは義人のように死に、わたしの終りは彼らの終りのようでありたい』」(『希望への光』232ページ、『人類のあけぼの』下巻55、56ページ)。

問6

「正しい人が死ぬように死に」とは、どんな意味ですか。どうすれば、そのような死に方ができますか。ロマ3:20~24

ある意味で、古代の神の民に語られたこれらの神の言葉は、各時代のすべての神の民に与えられる福音の約束──イエスの義にもとづいて与えられる永遠の命の約束──を反映しています。私たちはだれひとり義人ではありません。私たちはだれひとり自分を死から救うだけの義をもって生き、あるいは死ぬのではありません。私たちを救うのは信仰によって私たちのものとされるイエスの義のみです。ここ、民数記のバラムの物語の中で、神はイエスによる救いの約束を啓示しておられます。

星と笏

バラムがイスラエルを祝福し始めたときの、王の驚きを想像してください。王は怒りましたが、すぐにはあきらめませんでした。彼は預言者をイスラエルの一部だけが見える別の山頂につれて行き、そこに7つの祭壇を築き、再び雄牛と雄羊をささげます。しかし、バラムは、多額の報酬を支払って呪わせようとするバラクの意向に反して、再び神の導きによってイスラエルを祝福します。3度目も、バラクは別の山頂で7つの祭壇と犠牲を用意しますが、バラムはイスラエルにまじないを用いる許可を神に求めても無駄であることを知っていました。第3の地点からイスラエルの宿営を眺め、彼は再びイスラエルを祝福します(民23:27~30、24:1~10)。イスラエルを呪わせることに失敗したことによって面目を失ったバラクはバラムを故郷に帰らせます。

問7

バラムが民数記24:15~17で語ったたとえを読んでください。これは何についての預言で、どのように実現しましたか。創49:10、マタ2:1、2

「もっとはっきりした知識を求めて、彼ら[占星術の学者たち]はヘブライの聖書を調べた。……バラムは一時は神の預言者だったが、魔術士に属していた。聖霊によって彼はイスラエルの繁栄とメシヤの現れを預言した。……バラムの預言には、『ヤコブから一つの星が出、イスラエルから一本のつえがおこり』とあった(民数記24:17)。このふしぎな星は約束されたおかたの前ぶれとしてつかわされたのではないだろうか」(『希望への光』692ページ、『各時代の希望』上巻48、49ページ)。

聖書学者はこれらの言葉にメシア、つまり来るべき贖い主イエスについての預言を認めています。笏(権力)と星(光)はどちらもイエスにふさわしい象徴です。主が預言の中で用いられた象徴は局地的なものであって、その時それを聞いた人々に対して意味を持つものでしたが、その預言の背後にある原則──キリストの力と勝利──は全世界に当てはまるものです。イエスは世の光、世の正当な所有者です。人間が何を計画しようとも、最後には全世界がイエスの勝利を見ます(イザ45:23、ロマ14:11、フィリ2:10参照)。

まとめ

「動物が自分の権威の下にいるからと言って、彼らを虐待する者は卑怯者であり暴君である。隣人であれ、動物であれ、それらに苦痛を与える性質は悪魔的である。あわれな物言わぬ動物たちは、話すことができないので、多くの者は自分たちの残酷な行為が知られるとは思っていない。しかし、もしこれらの人の目が、バラムと同じように開かれたならば、彼らは神の使いが天の法廷で証人として立ち、彼らに有罪の証言をしているのを見るであろう。記録は天にのぼる。そして、神が造られたものを虐待する者にさばきが宣告される日が来るのである」

(『希望への光』230ページ、『人類のあけぼの』下巻52ページ)。

ベオルの子バラム(民数記22:5)は、聖書の神エホバ(正しくはYihweh)の預言者でした(同24:11,13)。アブラハムの親族は「アラムナハライム」に住んでいました。また彼の妻ケトラとその子たちは「東の方、東の国」(創世記25:6)へ移り住みました。モアブの王バラクは、アブラハムの子孫であるミデアン人と親しくしており、ミデアンの長老たちと相談して(民数記22:4)、同じアブラハムの親族か子孫の中から、イスラエルを呪える預言者を探し求めて、アラムナハライム(=メソポタミヤ)に住むベオルの子バラム(申命記23:4)を招くことにしました。エドムにもベオルの子ベラという同じ意味の名前を持つ人がいましたが、彼は別人です。東メソポタミアのバビロニヤ地方にもバルと呼ばれる預言者がいて、王と共に戦場に出かけました(ANET432)が、バラムの場合と似ています。バラムという名は、「(敵を)飲み滅ぼすお方」(創世記36:32;46:21;民数記26:38,40)を意味し、「ベラ」に神であることを示す接尾辞(-ム)をつけた名前です。例えば、メレク「王(なる神)」に接尾辞(-ム)をつけるとミルコムというアンモン人の偶像の神(王上11:5,33;王下23:13)になります。モアブの王バラクはこのようにイスラエルを滅ぼすのに好都合な名を持つ神の預言者バラムにイスラエルを呪ってもらいたかったのでしょう。

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