【ローマの信徒への手紙】パウロとローマ【1章解説】#1

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この記事のテーマ

理想的に『ローマの信徒への手紙』を学ぶには、まず歴史的な背景について学び、それからローマ1:1から1節ずつ全体を学ぶべきです。しかし、本書の研究には1期しか割り当てられていないので、研究する個所を選ばねばなりません。したがって、ここでは基本的なメッセージを含む聖句だけを取り上げることになります。

『ローマの信徒への手紙』を学ぶ者にとって、本書の歴史的背景を理解することはきわめて重要です。この背景を知ることなしには、パウロの述べている内容を理解することは困難です。パウロは特定の理由から、特定の時代の特定のクリスチャンに宛てて書いていたのです。どのような背景のもとにこの書簡が書かれたかを知ることは、私たちの学びに大いに益になります。

私たちは想像力を働かせて、時代をさかのぼり、ローマに身を置き、ローマ教会の会衆の一人となり、そして1世紀の教会員として、パウロと、パウロが聖霊を通して与えられた言葉に耳を傾けねばなりません。

驚くべきことに、遠い昔の、全く異なった背景の中で書かれたにもかかわらず、本書はあらゆる国の、さまざまな状況にある神の民に必要なメッセージを持っています。この意味で、私たちは本書に書かれている言葉を祈りのうちに読み、私たちの生活に適用する必要があります。

年代と場所

ローマ16:1、2によれば、パウロが『ローマの信徒への手紙』を書いたのはコリント市の東側の港町ケンクレアイにおいてであったと思われます。パウロがケンクレアイ教会の女執事であるフェベに言及していることも、『ローマの信徒への手紙』の書かれた場所がその町であることを暗示しています。新約聖書の書かれた場所を特定する目的の一つは、その手紙の書かれた年代を明らかにすることにあります。パウロはいろいろな場所を旅していたので、彼が特定の時期にどこにいたかを知ることは手紙の書かれた年代を知る手がかりになります。

パウロは第2次宣教旅行(紀元49~52年)のおりにコリントの教会を建設しました(使徒18:1~18参照)。彼は第3次宣教旅行(53~58年)のおりに再びギリシアを訪れていますが(使徒20:2、3)、このとき旅の終わり頃にエルサレムの信徒のための献金を受け取っています(ロマ15:25、26)。とするなら、『ローマの信徒への手紙』はたぶん、紀元58年の初めの数か月のあいだに書かれたと思われます。

問1

パウロは第3次宣教旅行のおり、ほかのどんな重要な教会を訪問していますか。使徒18:23

ガラテヤの教会を訪れたとき、パウロは自分の留守の間に偽りの教師たちが信者に割礼を施すように、またモーセの律法の規定を厳格に守るように教えたことがわかります。敵対者たちが自分より先にローマに着くのを好まなかったパウロは、ローマでも同じ悲劇が起こることのないようにあらかじめ手紙(『ローマの信徒への手紙』)を書いたのでした。

「パウロは、ローマ人への手紙の中で、福音の大原則を説明した。彼は、当時ユダヤ人や異邦人の教会において議論になっていた問題についての、彼の立場を表明した(」『希望への光』1497ページ『、患難から栄光へ』下巻55ページ)。聖書の書巻を研究するにあたっては、それがなぜ書かれたのかを知ることが大切です。したがって、『ローマの信徒への手紙』を理解するためには、ユダヤ人と異邦人の教会にどんな問題が持ち上がっていたのかを知ることが重要です。

個人的な接触

手紙も一つの手段ですが、個人的な訪問はまた別の手段です。パウロがローマの信徒に手紙を書き送る一方で、手紙の中で彼らに直接、会いたい旨を伝えているのはそのためです。彼は手紙の中で、自分がローマに赴くこと、またその理由について述べています。

問2

ローマ15:20~27を読んでください。自分がもっと早くローマに行かなかった理由について、パウロは何と言っていますか。今回、ローマに行くことにしたのはどんな理由からでしたか。パウロの言葉から宣教とあかしについて何を学ぶことができますか。パウロは27節でユダヤ人と異邦人についてどんな興味深い──しかも重要な──ことを述べていますか。

異邦人への偉大な宣教師パウロは、福音がすでに伝えられた地域をほかの人たちに任せて、自分はまだ福音の伝えられていない地域で働かねばならないと強く感じていました。キリスト教がまだ若く、伝道者も少なかった時代にあっては、パウロがすでに福音の伝えられた地域で働くことは貴重な伝道力を浪費するに等しいことだったでしょう。「このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。『彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう』と書いてあるとおりです」(ロマ15:20、21)。

ローマに定住することはパウロの目的ではありませんでした。彼の目的はスペインに伝道することでした。この計画のためにローマのクリスチャンから援助を得たいと、彼は考えました。

問3

パウロは新しい地域に伝道するために確立された教会から援助を得ようとしましたが、このことから宣教全般についてどんな重要な原則を学ぶことができますか。

パウロ、ローマに到着する

問4

「わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された(」使徒28:16)。この聖句から、パウロがどのような状態でローマに到着したことがわかりますか。このことから、私たちがしばしば予期しない、好ましくない事態に直面することについてどんな教訓を学ぶことができますか。

人生は時に不可解な展開を見せることがあります。たとえ細心の注意を払って立てた計画であっても、全く予期しない結果に終わることがよくあります。使徒パウロは確かにローマに到着しましたが、それは彼の期待していた訪問の仕方ではなかったでしょう。

パウロが第3次宣教旅行を終えて、ヨーロッパ・小アジアの会衆から集めた献金を携えてエルサレムに帰ったとき、予期せぬ出来事が彼を待ち受けていました。彼は逮捕され、拘束されてしまったのでした。カイサリアで2年間、監禁された後、彼は皇帝に上訴します。逮捕されてからほぼ3年後、彼はローマに到着します。しかし、そのときの様子は、彼が何年か前に訪問の目的についてローマの教会に宛てて書いたときのそれとは異なるものでした。

問5

次の聖句はローマにおけるパウロの暮らしぶりについてどんなことを教えていますか。これらの聖句からどんな教訓を学ぶことができますか。使徒28:17~31

「宮廷は、パウロの説教によってではなく、彼の受けた束縛によって、キリスト教へと注目するようになった。彼は捕らわれの身でありながら、罪の奴隷となっていた多くの魂から束縛を断ち切ったのである。こればかりではなかった。『兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった』(ピリピ1:14)と彼は言明した」(『希望への光』1532ページ、『患難から栄光へ』下巻156ページ)。

「聖なる者」となる

問6

パウロはローマの教会に次のような挨拶を送っています。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ロマ1:7)。これらの言葉は真理と神学と信仰についてどんな原則を教えていますか。

神に愛され:神が世界を愛されることは事実ですが、特別な意味で、神は御自分を選び、御自分の愛に応答した人たちを愛されます。人間の世界でもそうです。私たちは自分を愛してくれる人を特別に愛します。両者が互いに愛し合っているからです。愛は応答を要求します。応答が期待されないときには、愛は限られたものとなります。

聖なる者となった:「聖なる者(聖徒)」は「聖なる者たち」を意味するギリシア語“ハギオイ”の翻訳です。すべての者は神の救いに招待され、召されているが、その召しに応答した人が神と連なりました。「聖なる者」とは神に連なる者となった者たちであり、神との誠実な愛の関係に入った献身した人々を意味します。彼がキリストを主として選んだという事実は、彼が聖書的な意味で「聖なる者」となったことを意味します。

問7

パウロは、「召されて聖なる者となったローマの人たち」と言っています。このことは、召されていない者もいるという意味ですか。エフェソ1:4、ヘブライ2:9、IIペトロ3:9はこのことを理解する上でどんな助けになりますか。

キリストの死は普遍的、つまりすべての人のためのものでした。これが福音です。すべての人は世界が造られる前からキリストによって救われるために召されています。神の当初の目的は、すべての人がイエスにおいて救いにあずかることでした。地獄の最後の火は悪魔とその天使たちのためにありました(マタ25:41)。同じように、提供されている召しを受けない人がいるからといって、その召しの価値がなくなるわけではありません。

世界的評判

「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」(ローマ1:8)。

ローマ教会の会衆がどのようにして形成されたかはわかっていません。五旬節の日にエルサレムで回心し(使徒2章)、その後ローマを訪れたか、移り住んだ信徒たちによって設立されたかもしれません。あるいは、後になって、回心者たちがローマに移住し、そこで信仰をあかししたのかもしれません。

いずれにせよ、紀元31年の五旬節から20数年後(おそらく28年後)に、使徒の訪問を受けたことのない教会が広く知られるようになったということは驚きです。「反対があったにもかかわらず、キリストの十字架から20年後に、ローマには活発で、熱心な教会があった。この教会は強く、熱意に満ちていて、主がそのために働いておられた」(『SDA聖書注解』第6巻1067ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。

問8

ローマ15:14を読んでください。パウロはここで、ローマの教会をどのように描写していますか。

パウロはローマのクリスチャンの経験に関して、注目に値することを3つあげています。

1.「善意に満ち」:私たちも人々からそのように言われているでしょうか。彼らが私たちと交わるのは、私たちの豊かな善意に心が引かれるゆえでしょうか。

2.「あらゆる知識で満たされ」:聖書は繰り返し、啓発と情報、知識の重要性を強調しています。クリスチャンは聖書を学び、その教えに精通するように勧められています。「『わたしはお前たちに新しい心を与え[』エゼ36:26]とは『、わたしはお前たちに新しい精神を与え』という意味でもある。心の変化には、つねにクリスチャンの義務についての明らかな自覚、真理の理解がともなう」(エレン・G・ホワイト『私の今日のいのち』24ページ、英文)。

3. 「互いに戒め合う」:ほかの信者との交わりがなければ、私たちは霊的に成長しません。私たちは人を励まし、同時に人から励まされる必要があります。

まとめ

「一見活動的な働きが絶たれたように見えたが、パウロは、以前のように諸教会を自由に訪問して歩いた年月よりもっと広い、永続性のある感化を及ぼした。主の囚人として、彼は兄弟たちに一層強い愛情をいだいた。キリストの名のゆえに拘束された者として書いた言葉は、彼が直接彼らと共にいたとき語った言葉より、もっと熱心な注目と尊敬を集めた」(『希望への光』1528ページ、『患難から栄光へ』下巻146ページ)。

「当時の世界の大中心地において、クリスチャンの信仰が確立されることは、彼の最も切に願った計画の一つであった。ローマには、すでに教会が建設されていた。そしてパウロは、イタリアやその他の国々における働きを達成するために、ローマの信者たちの協力を得たいと願ったのである。彼は、これらの兄弟たちの多くをまだ知らなかったので、彼らの間で行う働きの準備として、彼らに手紙を書き、彼のローマ訪問の目的とスペインに十字架の旗を立てたいという希望とを述べたのである」(『希望への光』1497ページ、『患難から栄光へ』下巻55ページ)。

「永遠の神は、聖徒と罪びと、悔い改めた者と悔い改めない者との間に境界線をひいておられます。この両者は、虹の色のように微妙に混ざり合うことなく、真昼と真夜中のようにはっきりと区別されます」(『青年への使命』392ページ)。

多くの研究者は、ローマの教会の状況を次のように推測しています。ローマにおける最初のキリスト者はユダヤ人だったかもしれませんが、次第に異邦人クリスチャンも増えてきました。その頃、教会ではユダヤ人と異邦人は仲良くできていたことでしょう。ところが一つ大きな変化が起こります。「クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため」、ユダヤ人クリスチャンも首都から去って行くことになってしまったのです(使徒18:2)。しばらくの間、ローマの教会員は異邦人だけになってしまいました。後に退去命令が解かれ、ユダヤ人が教会に戻ってきた際、彼らと異邦人の間に摩擦が生じたのではないか、というのです。最も注目すべきことは、パウロがこの問題にいかに対処したか、です。彼は、「福音を説くこと」を選んだのでした。私たちの教会にもさまざまな問題がありますが、パウロを模範として、「福音の再発見」を最優先課題とすべきではないでしょうか。

*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。

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