【ローマの信徒への手紙】ユダヤ人と異邦人【15章解説】#2

目次

この記事のテーマ

キリスト教への最初の回心者はみなユダヤ人でしたが、新約聖書には、彼らが割礼の慣習を捨てるように、あるいはユダヤ人の祭りを無視するように要求されたという暗示はありせん。しかし、異邦人がキリスト教を受け入れ始めたとき、深刻な問題が起こりました。異邦人も割礼を受けるべきでしょうか。彼らはどの程度、ユダヤ人の律法に従うべきでしょうか。ついに、この問題を解決するために、エルサレムで会議が招集されました(使徒15章参照)。

さまざまな規定・律法で異邦人を困らせてはならないという会議の強い決定にもかかわらず、一部の教師たちは異邦人の回心者も割礼を含むこれらの規定・律法を守らねばならないと主張し、教会を悩ませ続けました。

かたちは違っていますが、このような問題は今日でも存在します。私たちアドベンチストは、十戒(実際には、安息日の戒め)を忠実に守っているという理由で、ユダヤ主義者、あるいは律法主義者であるという非難を受けてはいないでしょうか。私たちは今や新しい契約のもとにあるのだから、律法(安息日の戒め)は廃止されたのである、という声を聞かないでしょうか。その一方で、私たちの教会には、もっと旧約聖書の規定や規則に従うべきであると主張する人たちもいます。この意味で、『ローマの信徒への手紙』は、当時のローマ教会と同様、今日の私たちにとっても重要なメッセージを持っています。

さらにまさった約束

問1

ヘブライ8:6を読んでください。この聖句は何について教えていますか。「更にまさった約束」とは何のことですか。

旧約聖書の宗教と新約聖書の宗教との最大の違いはたぶん、新約時代がメシア、ナザレのイエスの到来によって始まったということです。イエスは救い主となるために神から遣わされました。人はイエスを無視して、救いを期待することはできません。イエスによる贖いを通してのみ、人は罪を赦されます。イエスの完全な命を自分のものとすることによってのみ、人は神の前に罪なき者として立つことができます。言い換えるなら、救いはイエスの義によるものであって、ほかのいかなるものによるものでもありません。

旧約時代の信者はメシア時代の祝福と救いの約束を待ち望みました。新約時代においては、人々は神からメシア、救い主として遣わされたナザレのイエスを受け入れるべきか否かという問題と直面しました。もしイエスを信じるなら、つまりイエスをありのままに受け入れ、イエスに献身するなら、彼らはイエスが無償で与えてくださる義によって救われるのでした。

一方、神と人への道徳的な要求は新約聖書においても変わることがありません。というのは、それが神とキリストの品性にもとづいているからです。神の道徳律に従うことは、古い契約と同じくらい、新しい契約の一部です。

問2

マタイ19:17、黙示録12:17、14:12、ヤコブ2:10、11を読んでください。これらの聖句は新約聖書の道徳律についてどんなことを教えていますか。

明らかにキリストの犠牲を予表した儀式・礼典律とかイスラエルの古い契約によるアブラハムの子孫に関する約束は、キリストの犠牲の死によって廃止され、「更にまさった約束」にもとづく新しい秩序が始まりました。

ユダヤ人の律法と規定

問3

時間が許す範囲で、レビ記を読んでみてください(特に、12、16、23章)。これらの規則や規定、儀式について読むとき、どんなことを考えますか。

旧約聖書の律法をいくつかの種類に分類すると便利です──(1)神と人とに対する道徳律、(2)キリストの贖罪を予表する礼典律、(3)イスラエルを祭司の国とする民法、(4)その他の法令、(5)健康に関する規定。

この分類はいくぶん人為的なものです。実際には、あるものは相互に関連していますし、かなり重複しています。古代人はそれらを別々の、異なったものとは見ていませんでした。

聖書のなかで律法とか戒めと呼ばれるものは、明白に「しなさい」という肯定的命令文で書かれていたり、「してはならない」という否定的文章となっているものがあります。また、「罪を犯せば、罰せられる」などの原因と結果を示す条件文なども民法の特徴的戒めです。

道徳律は十戒によって要約されています(出20:1~17)。この律法は人間の道徳的要求をまとめたものです。これら10の戒めは聖書の初めの5書にあるさまざまな法令や裁きの中で拡充・適用され、さまざまな状況において神の律法を守ることの意味を明らかにしています。民法はこれらと無縁ではありません。これも道徳律にもとづいています。民法は当局者と隣人に対する市民の関係を規定しています。そこには、さまざまな違反に対する刑罰が述べられています。礼典律は聖所の儀式を規定し、種々の供え物と個人の責任を明らかにしています。祭りの日とその守り方が明示されています。

健康に関する規定はほかの規定と重複します。汚れに関するさまざまな律法が儀式的な汚れを定義していますが、それらは、神の民と異教の民とを区別する意味を含んでいます。

民法は大部分、ユダヤ人が独立を失い、他国の支配下に入った後は、もはや拘束力を持ちませんでした。礼典律の多くも、キリストの死によって成就され、現実化された後は必要がありませんでした。つまり、メシアの死後は、予型が対型と出会い、もはやその効力を持ちませんでした。

「救われるためにはどうすべきでしょうか」

問4

使徒言行録15:1を読んでください。どんな問題が意見の対立をもたらしていましたか。この慣習[割礼]がユダヤ人だけのものでないと、ある人たちが考えたのはなぜですか。創17:10参照

使徒たちはアンティオキアの牧師・信徒と共に多くの魂をキリストに導こうと熱心に努力しましたが、その一方で、ユダヤから下って来た人たちで「ファリサイ派から信者になった」数名のユダヤ人たちが、ある問題を持ち出すことに成功します。それはやがて教会に激しい論争を生み出し、異邦人の信者を驚かせることになります。これらの教師たちは強い確信をもって、人は救われるためには割礼を受け、すべての礼典律を守らねばならないと主張します。ユダヤ人はつねに、自分たちが神から与えられた儀式を誇りにしていたので、キリスト教信仰に回心した後も、多くの人はなお、神がひとたびヘブライ人の礼拝様式を明示されたからには、その規定の変更を承認されるようなことはないと信じていました。彼らは、ユダヤ人の律法と儀式がキリスト教の宗教儀式に組み入れられるべきであると主張しました。彼らは、すべての犠牲の供え物が神の御子の死を予表するものであって、御子の死において予型が対型と出会った後は、モーセの律法にある儀式はもはや拘束力を持たないということを理解していませんでした。

問5

使徒言行録15:2~12を読んでください。この論争はどのようにして解決しますか。

パウロが、自発的に教会と協力して働いたことは興味深いことです。どのようなかたちで召されたにせよ、自分が全体としての教会の一部であって、可能なかぎり教会と協力して働く必要があることを、彼は認めていました(『希望への光』1431ページ、『患難から栄光へ』上巻215ページ参照)。

「一切あなたがたに重荷を負わせない」

問6

使徒言行録15:5~29を読んでください。使徒会議はどんな過程を経て、どんな決定を下しましたか。

決定はユダヤ主義者の主張に反するものでした。これらの人たちは、異邦人も割礼を受け、礼典律を守るように、また「ユダヤの律法と儀式が、キリスト教の宗教儀式と結び合わされる」べきであると主張しました(『希望への光』1427ページ、『患難から栄光へ』上巻204ページ)。

面白いことに、ペトロは使徒言行録15:10で、これらの古い律法が負いきれなかった「軛」であると言っています。これらの律法を与えられた主は律法を御自分の民に負わせる軛とされるのでしょうか。そうではなく、一部の指導者がその後、口伝によって、祝福として与えられたものを重荷に変えてしまったのです。使徒会議は異邦人にこれらの重荷を負わせないようにしました。

また、異邦人が十戒を守らなくてもよいとはどこにも書かれていないことに注意してください。結局のところ、使徒会議が、姦淫や殺人などを禁じる戒めは無視してもよいが、血は食べてはならない、などということはあり得ないことです。

問7

異邦人信者に対して、どんな義務が負わせられましたか。特にこれらの義務が選ばれたのはなぜですか。使徒15:20、29

ユダヤ人信者は異邦人に自分たちの規則や伝統を強制すべきではありませんでした。その一方で、使徒会議は異邦人もイエスによって一つに結ばれたユダヤ人の感情を害するような行為を避けるように配慮したのでした。

このようなわけで、使徒・長老たちは異邦人に対して、偶像に供えた肉、みだらな行い、絞め殺した動物の肉と血を避けるように書面で通告することに同意しました。ある人たちは、安息日遵守のことが書かれていないので、異邦人は安息日遵守を求められてはいなかったと言います(うそをつくことや殺人を禁じた戒めも特に言及されていないので、このような議論は無意味です)。

ガラテヤ人の異端

使徒会議の勧告は明白なものでしたが、それでも自分たちの思い通りにして、異邦人にもユダヤ人の伝統と律法を守らせようとする人たちがいました。パウロにとって、これはきわめて重要な問題でした。キリストの福音そのものを拒むまでになっていたからです。

問8

ガラテヤ1:1~12を読んでください。パウロはガラテヤで直面していた問題をどれほど深刻な問題と考えていましたか。

『ローマの信徒への手紙』の内容は大部分、ガラテヤにおける問題がきっかけとなっています。パウロはこの手紙の中で、『ガラテヤの信徒への手紙』の主題をさらに発展させています。ユダヤ主義者たちは、モーセを通して神から与えられた律法は重要なものであって、異邦人信者も守るべきものである、と強く主張していました。パウロは律法の真の役割と機能を明らかにしようとしました。彼は、ユダヤ主義者たちがガラテヤにおけるようにローマでも活動することを望みませんでした。

パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』と『ローマの信徒への手紙』で論じているのは、異邦人信者も割礼を受け、モーセの律法を守るべきか否かということでした。エルサレム会議はすでにこの問題に関して決定を下していましたが、一部の人たちはその決定に従うことを拒みました。

ある人たちは『ガラテヤの信徒への手紙』と『ローマの信徒への手紙』の中に、道徳律、つまり十戒(実際には第4条のみ)がもはやクリスチャンを拘束するものではないとする証拠を読み取ります。しかし、彼らは手紙の要点を見失い、パウロが述べている歴史的な背景と争点を見落としています。後で学ぶように、パウロは救いがただ信仰によるのであって、律法、それも道徳律を守ることによるのではないことを強調しています。しかし、それは道徳律を守らなくてもよいという意味ではありません。十戒を守ることは全く問題になっていません。十戒を守ることを問題視する人たちは、パウロの扱っていない今日的な問題を聖句の中に読み込んでいるのです。

まとめ

「ところが、もし、アブラハムに与えられた契約が、贖罪の約束を含んだものであったならば、なぜ、シナイでもう一つの契約を結ぶ必要があったのであろうか。人々は、その奴隷時代に、神に関する知識と、アブラハムに与えられた契約の原則の大部分を忘れてしまっていた。……人々は、自分たちの心の罪深さと、キリストの助けがなくては神の律法を守ることができないことを自覚しなかった。そして、彼らは直ちに神と契約を結んでしまった」(『希望への光』190ページ、『人類のあけぼの』上巻441ページ)。

「エルサレムの信者たちの中から起こった偽教師の影響によって、分裂、異端、肉欲主義が、急速にガラテヤの信者たちの間に広まっていた。これらの偽教師たちは、福音の真理にユダヤの伝承を混ぜ合わせていた。彼らは、エルサレム会議の決定を無視して、異邦人の改心者たちに礼典律を守るように勧めた」(『希望への光』1501ページ、『患難から栄光へ』下巻67ページ)。

今回の学びは、救いが純粋に「信仰のみによる」ということと、教会における「配慮」の大切さを教えています。それを最もよく伝えているものの一つが、エルサレム会議の決定です(使徒15章)。教会は、イエスへの信仰によってキリストの体に加わった異邦人を、仲間として受け入れています。その上で教会は、ユダヤ人のために、異邦人に「配慮」を求めています。これは妥協ではなく、愛に基づく配慮です。イエス・キリストも「彼らをつまずかせないために」とおっしゃって、配慮をお示しになりました(マタイ17:27)。

もう一つ教えられている大切なことは、「聖霊と私たちは……決めました」という事実です(使徒15:28)。神はこの時、問題の解決を一方的に与えるという方法をお取りになりませんでした。教会が祈りつつ話し合うという過程を通して、聖霊は働かれたのです。神は、文字通り人々と共に歩んでくださるのです。ときには天から直接命令が与えられることもあります。と同時に、神は、私たちが祈り、考えつつ、話し合いながら歩む中で、成長することを望んでおられるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次