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ローマ4章は多くの点において、信仰による救いに関する聖書の教理の基礎となるものです。パウロは、イスラエル人の父祖であるアブラハムを、律法の行いによらず、恵みによって救われた人の実例として用いています。もしアブラハムでさえ、彼を神の前に義とするに不十分であったとすれば、ほかのだれにその希望があるというのでしょうか。もしアブラハムが恵みによって義とされねばならなかったとすれば、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、ほかの人もみな同じです。
パウロは救いの計画における三つの主な段階について述べています。(1)神の約束(恵みの約束)、(2)その約束に対する人の応答(信仰の応答)、(3)信じる者たちに神から与えられる義の宣言(義認)。アブラハムの場合のように、私たちの場合もそうです。
パウロにとっては、救いは恵みによるものでした。いかに救いを受けるに値しない者であっても、それは私たちに与えられるものです。もし私たちがそれを受けるに値する者であるなら、私たちにはそれは当然の権利です。それは報酬であり、賜物とは言えません。堕落し、汚れた私たちにとっては、救いは報酬ではなく、賜物です。
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15:6)。これを信仰による義認についての、聖書の最も古い記述の一つと見ることができます。
確立された律法
問1
ローマ3:31を読んでください。パウロはここで、どんなことを強調していますか。この点が私たちアドベンチストにとって重要なのはなぜですか。
パウロはここで、信仰は神の律法を無にしないことを強調しています。たとえ旧約聖書にある律法の全体であれ、律法を守った人は決して律法によっては救われませんでした。新約聖書の宗教と同様、旧約聖書の宗教はいつでも、信仰によって罪人に与えられる神の恵みの宗教でした。
問2
ローマ4:1~8を読んでください。これらの聖句は、救いが旧約聖書においても律法の行いではなく信仰によるものであったことについて何と教えていますか。
この旧約聖書の記述によれば、アブラハムが義とされたのは「神を信じた」からでした。このように、旧約聖書そのものは信仰による義を教えています。したがって、信仰が律法を「無にする」(ギリシア語で“カタルゲオー”「、無用にする」「、無効にする」)という考えは誤りです。信仰による救いは明らかに旧約聖書の一部です。恵みは旧約聖書全体を通して教えられています。聖所の儀式が罪人の救われる方法、つまり罪人が自分自身の行いによってではなく、身代わりの死によって救われることを表しています。
ダビデがバト・シェバとの姦淫と殺人の後に赦されたのは、明らかに、律法の遵守によってではありませんでした。彼はいくつかの点で律法を破ったので、いくつかの罪で有罪とされました。ダビデが恵みによって救われなかったのであれば、彼は救われなかったはずです。
ダビデが再び神の好意にあずかるようになったことを、パウロは信仰による義認の実例としてあげています。赦しは神の恵みの行為でした。ユダヤの宗教はいつでも恵みの宗教でした。律法主義は旧約聖書の恵みの宗教を歪曲したものでした。
恵みか負債か
もし人が自分の力で救いを獲得しなければならない、あるいは義とされ、赦される前に一定の清めの標準に到達しなければならないとすれば、彼は必然的に内面に目を向け、自分自身と自分の行いを重視するようになります。そして、宗教はきわめて自己中心的なものとなります。
しかし、もし義認が神からの賜物であって、功績や価値と全く無関係であることを理解するなら、人はずっと容易に、また自然に、自己の代わりに神の愛と憐れみに心を向けるようになります。
神の愛と品性を反映するのはどちらでしょうか。自己中心の人でしょうか。それとも神中心の人でしょうか。
問3
ローマ4:6~8を読んでください。パウロはここで、信仰による義認についてさらに何と言っていますか。
「罪人は信仰をもってキリストのもとに来て、キリストの功績を捕らえ、罪を負うキリストの上に自分の罪を置き、キリストの赦しを受けなければならない。キリストが世に来られたのはこの目的のためであった。こうして、キリストの義が悔い改めて信じる罪人に転嫁される。彼は王族の一員となる(」『セレクテッド・メッセージズ』第1巻215ページ、英文)。
パウロはさらに続けて、信仰による救いはユダヤ人だけでなく異邦人のためでもあると述べています(ロマ4:9~12)。アブラハムが義とされたとき(創15:6)、彼は割礼さえ受けていませんでした。こうして、彼は無割礼の者と割礼を受けた者の父となりました。パウロはまた、救いの普遍性について強調するために、アブラハムを偉大な模範として用いています。キリストの死は、人種や国籍に関係なく、すべての人のためでした(ヘブ2:9)。
約束と律法
「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」(ロマ4:13)。
この聖句の中で、「約束」と「律法」が対比されています。パウロは旧約聖書に基づいて信仰による義による救いを教えようとしています。彼は、すべてのユダヤ人の祖先であるアブラハムを例として用いています。アブラハムが神に受け入れられ、義とされたのは律法によってではありませんでした。神はアブラハムに、「世界を受け継ぐ者」になるという約束を与えられました。アブラハムはこの約束を信じました。そして神は、アブラハムの信仰を彼の義と見なされました。神は彼を受け入れ、彼を通して世界を救うためにお働きになりました。これは、恵みが旧約聖書の中で働いていることの力強い実例です。
問4
ローマ4:14~17を読んでください。パウロはなおも、信仰による救いが旧約聖書の中心であることについて何と教えていますか。ガラ3:7~9参照
多くのユダヤ人信者は、旧約聖書にはそう教えられていないにもかかわらず、自分たちの救いが律法を厳格に守ることによって達成されると信じていました。
パウロはこの誤解を解くために、アブラハムがシナイで与えられた律法以前に律法の行いでなく信仰による[義の]約束を受けたことを強調したのでした。アブラハムの時代には、モーセに示されたような儀式制度を含む律法はまだ与えられていませんでした。
パウロはここで、律法を行うことによって神の約束を受けようとすることは信仰を無意味で無用のものとする、と言ったのでした。これは強い言葉です。彼が強調していることは、信仰は人を救うが、律法は人を罪に定めるということです。彼が教えようとしていることは、人を罪に定めるものによって救いを得ようとしても無益であるということです。なぜなら、ユダヤ人であれ異邦人であれ、私たちはみな、律法を犯した罪人です。したがって、私たちはみな、アブラハムと同じ者、すなわち信仰によって私たちに与えられるイエスの救いの義を必要としているのです。
律法と信仰
アブラハムに対する神の扱いにおいて、救いが律法を通してではなく、恵みの約束を通して与えられたことをパウロは明らかにしています。したがって、もしユダヤ人が救われることを望むなら、彼らは行いによって救われようとする思いを捨て、メシアの到来によって実現したアブラハムの約束を受け入れる必要がありました。これは、実際には、ユダヤ人であれ異邦人であれ、自分の「善い」行いこそが神との和解をもたらしてくれると誤解しているすべての人が悟らなければならないことです。
問5
「人は自らのわざによって自分自身を救うことができるという思想が異教のすべての宗教の根底にあった。……この考えを信じているところではどこでも、人は罪に対する防壁がない」(『希望への光』684ページ『、各時代の希望』上巻26ページ)。人は自らの行いによって自分を救うことができるという思想が人を罪に対して無防備にするのはなぜですか。
問6
パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』の中で律法と信仰の関係をどのように説明していますか。ガラ3:21~23
もし命を与える律法というものがあるとすれば、神の律法以外には考えられません。しかし、パウロによれば、たとえ神の律法であれ、律法は罪人に命を与えることができません。なぜなら、すべての人がその律法を犯し、それによってすべての人が律法によって有罪とされているからです。
しかし、キリストによって示された信仰による救いの約束は、すべての信じる人を「律法の下」にあることから解放します。律法によって救いを獲得しようと努力しても、それは私たちを有罪宣告から解放してくれません。律法を信仰なしに、恵みなしに提示するとき、それは救いのない重荷となります。なぜなら、信仰と恵み、また信仰によって与えられる義がなければ、律法の下にあることは罪の重荷と有罪宣告の下にあることを意味するからです。
律法と罪
律法は新しい契約の中で廃棄されたと主張し、そのことを裏づけるために聖句を引用する人たちがいます。しかしながら、そのような主張の背景にある論理や神学は、聖書に照らして正しいとは言えません。
問7
ヨハネIの2:3~6、3:4、ローマ3:20を読んでください。これらの聖句は律法と罪の関係について何と教えていますか。
どこの国でも昔から、うそや殺人、盗みが今もなお罪深く、悪いこととされています。もし神の律法が廃止されたのなら、だれも罰されずに救われるのでしょうか。もし神の律法が廃棄されたのなら、だれも死ぬことなく救われるのでしょうか。そのようなことは聖書に書かれていません(Iヨハ1:7~10、ヤコ1:14、15参照)。
新約聖書には、律法と福音の両方が現れます。律法は罪の本質を明らかにし、福音はその罪に対する解決法、すなわちイエスの死と復活を示します。もし律法がなければ、罪もありません。とするなら、私たちは何から救われることになるのでしょうか。律法とその継続的な有効性という背景においてのみ、福音は意味を持ちます。
十字架は律法を無効にしたという言葉をしばしば耳にします。しかし十字架は律法が廃棄も変更もできないものであることを示しています。神はキリストの十字架以前に律法を廃棄・変更されませんでした。十字架以後にも律法は廃棄・変更されていません。人類が罪を犯した後で律法が廃棄されたのであれば、イエスは決して死ぬ必要がなかったはずです。イエスの死は、律法が変更・廃棄が不可能なものであったことを示しています。律法が変更不可能であるゆえに起こったイエスの死は、律法の継続的な有効性を示しています。もし律法が人間の堕落した状態に見合うように変更可能であったなら、救い主イエスの死は必要ありませんでした。神と被造物との間の愛に基づいてたてられた契約関係は、永遠の定めです。
まとめ
「人間の諸権利が認められないことがしばしばあった当時の階級制の時代に、パウロは神が『ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ』てくださったことを述べて、人類同胞についての偉大な真理を明らかにした。神の御目には、すべての者は同等であった」(『希望への光』1445ページ、『患難から栄光へ』上巻257ページ)。
「人間が救われ、律法の栄光が保たれるためには、神の御子が罪のための犠牲として御自身を献げられる必要があった。罪と何のかかわりもない方が私たちのために罪となられた。彼はカルバリーで私たちに代わって死なれた。御子の死は人間のための神の驚くべき愛と神の律法の不変性を示している」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻240ページ、英文)。
「義とは律法への服従である。律法は義を要求し、罪人はこれを律法に負う。しかし、彼はそれを返すことができない。罪人が義に到達する唯一の道は信仰によってである。彼は信仰によってキリストの功績を神のもとに携えてくることができる。主は御子の服従を罪人のものと認めてくださる」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻367ページ、英文)。
「もしサタンが人を導いて、自分自身の業を功績と義の業として重視させることができるなら、彼は自分の誘惑によって人に勝利し、人を自分の犠牲・餌食にすることができることを知っている。……カルバリーの小羊の血を柱に塗りなさい。そうすれば、あなたは安全である」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』9月3日、1889年、英文)。
律法は神の栄光の御品性を表しています。罪人の私たちが、自らの力で神の栄光を表すことなどできるわけがありません。キリストの十字架を信じるしか道はありません。自分の行いによって救われようとする人は、主の御生涯と十字架が不完全であると言っているのと同じです。これほど神を悲しませることはありません。
*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。