この記事のテーマ
聖書、特に旧約聖書の中で私たちを惹きつける特徴の一つは、旧約聖書の著者が先に書かれたものに言及したり、引用したりすることによって、メッセージを伝えようとしているということです。
たとえば詩編81編では、次のような引用があります。「わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」(11節)。ここでは、出エジプト記から十戒の序文をほとんどそのまま引用しています。
旧約聖書全体を通して、「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし/空には光がなかった」(エレ4:23、創1:2も参照)のように、特に創世記の天地創造の記述の引用も多数見られます。
後の旧約聖書の著者たち、たとえば預言者たちは、初期のイスラエル人たちの契約生活の中で中心的役割を果たしていた申命記から何度も引用しています。今回、私たちは、申命記のどの部分が後の旧約聖書に引用されているかを学び、さらにそれらの引用が今日の私たちに対してどのような意味を持つかを考えます。
律法の書
ユダ王国のヨシヤ王は8歳で王になり、戦場で死ぬまで31年間ユダを治めました(640~609BC)。彼の統治の18年目に、少なくともしばらくの間、神の民の歴史を変えた出来事が起きます。
問1
列王記下22章に記された事件から何を学ぶことができますか。
聖書学者たちは長い間、ここに出てくる「律法の書」は申命記であると考えてきました(王下22:8)。この書は長年にわたって民の内で失われていました。
「ヨシヤはこの古い書物に記されている勧告と警告を初めて聞いた時に、深く感動した。彼は神がイスラエルの前に『命と死および祝福とのろい』をこれほどまでに明確に示されたことを自覚したことはなかった(申命記30:19)……。神は心から神に信頼する人々を、喜んで完全に救ってくださるという確証が、書物の中に満ちあふれていた。神は彼らをエジプトの奴隷生活から解放されたのと同じように、彼らを約束の地に確立させて、他の諸国の頭とするために力強く働かれるのであった」(『希望への光』536ページ、『国と指導者』下巻15ページ)。
次の章全部を通して、ヨシヤ王がどれほど真剣に改革に取り組んだかを見ることができます。「それから王は……心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った」(王下23:3、申4:29、6:5、10:13も参照)。そして彼の改革には、「口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃」することをも含まれており、「こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した」のでした(王下23:24)。
申命記には、民の周辺諸国の習わしに従うことへの警告と勧告に満ちています。サマリヤの町々の聖なる高台の祭司たちの処刑も含めて(王下23:20)、ヨシヤの取った行動と彼がしたことすべては、イスラエルが、彼らに委ねられた真理からいかに遠く迷い出ていたかを示しています。彼らはあるべき聖なる民の姿に反して、世と妥協し、異教の習わしに浸りきっていました。なんと危険な自己欺瞞でしょう。
天の天
申命記は、イスラエルと神との関係においてだけでなく、「選ばれた」民としての彼らの存在目的にとっても、律法と契約がその中心であることを明確に示しています(申7:6、14:2、18:5)。
問2
申命記10:12~15には、この律法とイスラエルの選民としての身分との関係が強調されています。しかし、「天の天」という表現は何を意味し、モーセは何を伝えようとしたのでしょうか。
前後の文脈の中で「天の天」が何を意味するかは定かではありません。しかしモーセは神の威厳、力、そして偉大さを伝えようとしていることは確かです。天だけでなく、「天の天」までもが神に属しているという表現は、神の天地創造の御業の果てにまで及ぶ完全な主権を示すための慣用表現であると言えます。
問3
次の聖句を読んでください。そこに共通する表現の初出はすべて申命記です。ここにも申命記の影響力を見ることができます。列王記上8:27、ネヘミヤ記9:6、詩編148:4
特にネヘミヤ記9章では、創造主としての神と、創造主だけが礼拝されるべきであるとの主題が鮮明です。神が「天とその高き極み」(口語訳では「天と諸天の天」)も「すべての軍勢」もすべてを創造されたのです(ネヘ9:6)。実際、ネヘミヤ記には彼らはヨシヤ王のときと同じように申命記、すなわち「律法の書を読み」とあり(同9:3)、数節後には、レビ人がなぜ彼らの神への賛美と礼拝のただ中に申命記の「天の天」という表現を引用したのかが説明されています。
エレミヤ書に見る申命記
数年前、不可知論者のある青年が熱心に真理を求めていました。彼は、それが真理であると思えば何でも跳びつき、どこへでも行きました。彼は最終的に、父なる神とイエスを信じるようになったばかりか、セブンスデー・アドベンチストのメッセージを受け入れたのでした。彼の好きな聖句は、「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレ29:13、14)でしたが、数年後に聖書を学んでいた彼は、その聖句を申命記の中に見つけました。それはエレミヤがモーセの書から引用したものでした。
問4
申命記4:23~29を読んでください。このイスラエルへの約束はどんな文脈で書かれていますか。また今日の私たちにどのように語っていますか。
すでに学んだように、申命記はヨシヤ王の時代に再度発見されます。そしてこの時代にエレミヤはその働きを始めました。ということは、申命記がエレミヤ記に影響を与えたとしても何ら不思議はありません。
問5
エレミヤ7:1~7を読んでください。ここでエレミヤは民に何をするよう命じていますか。このことは上記の申命記の内容とどのように関連していますか。
申命記の中で、モーセは何度も何度も、彼らのカナンの地での存在は条件的なものであることを強調しています。彼らが従わないなら、神が彼らのために選ばれた地にとどまることはできないのでした。エレミヤ7:4の警告を見てください。神殿は主のものであり、彼らは選ばれた民でしたが、彼らが従わないなら、それらの特権には何の効力もないという意味が含まれています。
そしてそれらの服従には、彼らが寄留者、孤児、寡婦たちをどのように扱うか、すなわち、彼らが従うよう申命記に記された規定と義務が含まれていました。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない」(申24:17、同24:21、10:18、19、27:19も参照)。
主がお求めになることは何か
預言者たちが書き残した多くの部分は、忠実であるようにという呼びかけです。それは一般的な忠実さではなく、約束の地を前に再確認された神との契約における彼らの側の忠実さです。それこそが、申命記に描かれている、神がイスラエルと再び結ばれた契約なのです。神は、40年の回り道を経て、今、その契約の約束の多くを成就しようとして(あるいは、成就し始めて)おられました。そのようなわけで、モーセは、契約における自分たちの最後の部分を果たすように民を諭したのです。預言者たちが書いた物の多くが基本的に同じ内容でした。
問6
ミカ6:1~8を読んでください。主は民に何と言っておられますか。その内容はどのように申命記と関係していますか(アモ5:24、ホセ6:6も参照)。
ミカ書のこれらの聖句は、聖書学者たちの間で、民の契約違反に対して起こされた主の「契約の訴訟」として知られています。ここでミカは、「主はご自分の民を告発し」と述べ、「告発」という法的論争用語を使っています。契約の中心は律法であることを考えれば当然ですが、これは主が、民に対して法的に訴訟を起こされたことを意味し、同時に契約の持つ(関係的性質でなく)法的性質を想起させます。
さらにミカが申命記からどのように引用しているかにも注目してください。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」(申10:12、13)。ミカは、これを直接引用するのではなく、申命記の「律法の字句」を、その正義と憐れみという「律法の精神」に置き換えて変更しています。
つまりここで言われていることは、信心深さや敬虔さは(「幾千の雄羊」や多くの動物たちによる犠牲など〔ミカ6:7〕)、その外面の行為はどうあれ、それがイスラエルの神との契約関係を法的に認可するのではないということです。たとえば、「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げ」、「住人から家を、人々から嗣業を強奪する」とすれば、その外面の敬虔さは何になるでしょう(同2:2)。イスラエルは周囲の諸国から驚きと共に、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言わしめる世の光となるはずでした(申4:6)。ですから、彼らは人々を正義と憐れみをもって扱う知恵と悟りをもって行動しなければならないのでした。
ダニエルの祈り
旧約聖書すべての中でもっとも有名な祈りの一つはダニエル書9章です。彼はエレミヤの預言を読んで、70年のイスラエルの「荒廃」の時がまもなく終わるのを知り(2節)、真剣に祈り始めます。
彼は自分の罪を、そして彼の民の罪を告白する一方、民に臨んだ災いの中に神の正しさを見ます。
問7
ダニエル9:1~19を読んでください。ここに申命記に示されたどのような主題を見ることができますか。
ダニエルの祈りは、申命記にすでに警告されていたこと、すなわち神との契約の彼らの分を果たさないことの結果をまさに要約したものです。ダニエルは「モーセの律法」に二度言及しています(ダニ9:11、13)。それには確かに申命記が含まれており、ここでは具体的に申命記を指していたのかもしれません。
申命記が記していたように、彼らはモーセが勧告していたことに従わなかったために、約束の地から追われることになったのです(申4:27~31、同28章)。
さらに悲しむべきことに、彼らは「この大いなる民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言われる代わりに(申4:6)、イスラエルはそれらの諸国民から「嘲られ」たのでした(ダニ9:16)。
ダニエルの涙の嘆願の中で、彼は、多くの人々が災いに遭ったときに尋ねる問いを一度も口にしていません。彼は「なぜ」とは問いませんでした。それは申命記を読んでいた彼は、なぜこれらのことが起こったのかを理解していたからでした。言い換えれば、申命記は、ダニエル(そして、ほかの捕囚の者たち)に、彼らに臨んだ災いが意味も目的もない運命や偶然によるものではなく、彼らの不服従の結果であり、まさに彼らが警告されていたことなのだということを教えたのです。
しかし、おそらくもっと重要なことは、ダニエルの祈りは現実に目を向けながらもなお希望を語っていることです。神は彼らを見捨てられたのではありませんでした。申命記は彼らの悲しい現実だけでなく、回復の希望をも示していたのです。
さらなる研究
「これ〔ミカ6:1~8〕は旧約聖書中最もすばらしい聖句の一つであり、アモス5:24やホセア6:6のように、8世紀の預言者たちのメッセージを要約している。この箇所は、ご自分の民に対するヤハウェの告発を聞かせるため、預言者が彼らを招集するという契約訴訟の見事な例でもって始まる。陪審員は山々、峰々である。彼らは、神が民をどのように扱われたかの証人なのだから。直接イスラエルの契約違反を訴える代わりに、神は彼らに、神に対しての訴えがあるかと尋ねられる。『わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか』と。不正の面前には『働きに疲れた』貧しい者たちがおり、素早く富を得るための好機の面前には、契約の律法を守ることに疲れた地主たちがいる」(ラルフ・L・スミス『ミカ・マラキ聖書語句注解』32巻50ページ、英文)。
「引き続いて起こった改革において、王〔ヨシヤ〕は残っていた偶像をあとかたもなく破壊することに注意を向けた。国民は長い間、周囲の国民の風習に従って木や石の偶像を礼拝していたので、これらの害悪をことごとくぬぐい去ることは、人間の力ではとうていできそうもなかった。しかしヨシヤは、たゆまず努力して国内を清めた」(『希望への光』539ページ、『国と指導者』下巻25ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。