【ヘブライ人への手紙】われらの兄弟、イエス【聖所のテーマ】#3

目次

この記事のテーマ

【中心思想】

イエスは肉体をとってこの世に来られました。彼は肉において誘惑を受け、苦しみ、死なれました。しかもその肉において一度も罪を犯されませんでした。このイエスが、今、私たちの大祭司として天におられます。

指揮者で作曲家のレオナード・バーンスタインが、一番難しい楽器について尋ねられたとき、次のように答えました。

「第2バイオリンです。第1バイオリンを希望する人はたくさんいますが、第2バイオリンや第2フレンチ・ホルンや第2フルートを希望する人は少ないのです。でも、第2バイオリンを弾いてくれる人がいなければ、ハーモニーが生まれません」。

どんな場合でも、2番になることは容易ではありません。1番になる資格のある場合は特にそうです。1番にいた人があえて2番になる場合はなおさらです。1番であった者が2番になったことで見下されることはそれ以上につらいものです。

しかし、これがまさにイエスのなされたことでした。今回は、イエスの謙遜の意味について考えます。

イエスの謙遜

「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」(ヘブ2:9)。

ヘブライ1章には、イエスが天使にまさるお方であると書かれていました(5~14節)。ところが、2章では、イエスの地上における働きに関連して、イエスが「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」と書かれています。何という相違でしょう。

ヘブライ2:5~18を読み、その要旨を2~3行にまとめてください。

明らかに、この箇所はイエスの人性について述べています。イエスは王、また天使にまさるお方であられたにもかかわらず、「アブラハムの子孫」(16節)として生まれ、すべての人のために死に(9節)、私たちのために「憐れみ深い、忠実な大祭司」(17節)となられました。

もう一つ注目したいのは、1章がイエスの高揚に言及し、2章がイエスの謙遜に言及していることです。著者は、読者が自分たちの信じるお方を再認識し、その信仰を再確認するために、まず初めにイエスの威厳に満ちた役割について描写しようとしたのでしょう。

身代わりの死を含むイエスの受肉は非常に重要な意味を持ちますが、それらはイエスの神としての永遠の存在に照らして理解する必要があります。そのとき初めて、イエスの謙遜の持つ深い意味を正しく理解することができます。

最も優秀な人、イエス

「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ」(詩8:6)。

ヘブライ2:6~8と詩編8:5~7を比較してください。『ヘブライ人への手紙』の著者はこの詩編をどのように用いていますか。彼はそれをどのように解釈し、適用していますか。

「詩編8編の用い方は……興味深い。この部分がメシアに関するものとは考えられていなかったからである。原文の文脈は人間について述べている。しかし、それは通常の人間ではなく、理想的な人間である。……人間は創造において地を支配する権限を与えられたが、堕落以後、その権限は失われた。したがって、この詩編はただひとりこの権限をお持ちになる理想的な人間、イエス・キリストにおいてまさに完全に実現した。……同じ詩編はイエス

(マタ21:16)とパウロ(Ⅰコリ15:27)によって、イエス御自身において成就したものとして引用されている」(ドナルド・ガスリ『ヘブライ人への手紙』84、85ページ、1993年)。

真に私たちを代表するために、イエスは私たちのひとりとならなければなりませんでした。そのとき初めて、イエスは私たちのために救いの道を開き、人類のために神の御前に立つ真の大祭司となることがおできになります。

詩編8編の基本的な意味は人類全体に当てはまりますが、『ヘブライ人への手紙』は特にそれを、「最後のアダム」(Ⅰコリ15:45)であり、詩編8編で人類の新しい代表者として描かれているイエスに当てはめています。そうすることによって、著者は、イエスが人間であると同時に、私たちを罪から贖うにふさわしいお方であったことを確証しています。

イエスの苦しみ

ヘブライ2章はキリストの苦しみに関して強い表現を用いています。著者は「死の苦しみ」について語り、イエスが神の恵みによってすべての人のために死なれると言っています(9節)。死と苦しみはヘブライ2:18、5:8、12:2、13:12にも言及されています。

罪なき神の御子が世の罪のために苦しまれる光景は、残酷な光景です。イエスは御自分が一度も犯したことのない罪のために神の怒りを一身に負い、すべての人のために、また最後には自らの不従順と反逆のために死なねばならない者たちのためにさえ死なれるのです。

確かに、これは残酷です。しかし、それがまさに何を意味するかを表していたのです。それは罪の代価と罪からの贖いの代価の大きさを私たちに理解させてくれます。

キリストの苦しみはどのような結果をもたらしますか。ヘブ2:9~11、ヘブ2:14~16、ヘブ2:17、18      

キリストの死ははかり知れない苦しみの結果でしたが、次の結果をもたらしました。(1)イエスが栄光を受けられた。(2)サタンが敗北した。(3)私たちの救いが保証された。(4)イエスが人類と密接な関係になられた。(5)イエスが私たちの大祭司にふさわしいお方であることがわかった。(6)イエスは私たちを誘惑から守ってくださる。ほかに何が必要でしょうか。

ヘブライ2:14、15を読んでください。そこには、イエスが来られたのは御自分の死によって死をつかさどる者を滅ぼすためであったと書かれています。この聖句によれば、イエスは死の恐怖を取り除くために何をしてくださいましたか。

私たちの兄弟、イエス

特に11節に注意して、もう一度、ヘブライ2章を通して読んでください。この章の中で「兄弟」という言葉はどのようなことを意味しますか。著者は何を強調していますか。

「兄弟」という言葉はここでは親密な関係を表します。イエスとイエスに従う人たちとは一つの家族です。イエスは苦難に満ちたその経験のゆえに私たちのひとりです。彼は偉大な王であられるにもかかわらず私たちのひとりであり続けられます。ヘブライ2:14は、イエスが私たちと同じ血と肉、同じ性質と経験にあずかられたことを強調しています。イエスは私たちのひとりとなることによって、私たちと親密な関係にお入りになります。イエスがなされた方法以外に、神が御自身の被造物と親密な関係に入られる方法がほかにあったでしょうか。

親密さはある種の危険を含む場合があります。たとえば、イエスを私たちの相棒のように考えてしまうことです。確かに私たちとイエスの間には友だちの要素がありますが(ヨハ15:15)、それだけではありません。聖書は私たちとイエスとの関係に関してほかにどんな象徴を用いていますか。ヨハ10:11、20:28、Ⅰテモ1:1

イエスを単に遠く離れた宇宙の支配者として見ることも、あるいは単に私たちの仲間として接するようなことも避けなければなりません。私たちはしかるべき崇敬と愛をもって「兄弟」としてのイエスに接するべきです。なぜなら、たとえ私たちと親しい関係にあるとはいえ、イエスはなお創造主、私たちはその被造物であって、両者の間には大きな隔たりがあるからです。

われらの大祭司、イエス

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブ2:17)。

ヘブライ2章は私たちの兄弟イエスの大祭司としての務めと、大祭司に必要な資格を列挙しています。それはまた、イエスが行っておられる大祭司としての働きを簡潔に描写しています。その資格の一つは、主は人間と同じように罪の誘惑に直面しなければならなかったということでした。

イエスが試練を受けられたことは『ヘブライ人への手紙』に二度しか書かれていません(2:18、4:15)。それらは互いにどのように補足し合っていますか。イエスが「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とは、どういう意味ですか。

イエスは決して罪に屈服されませんでした。しかしながら、主はだれよりもよく罪の力を知っておられました。

いや、それ以上です。私たちは石をパンに変えるように誘惑を受けたり、天使の軍団に命じて自分を助けるように試みられたことがあるでしょうか。大争闘の争点について考えるなら、サタンは私たちに罪を犯させることよりも、イエスに罪を犯させることの方にはるかに関心を持っていたはずです。それにもかかわらず、これほどの誘惑の中にありながら、イエスは決して誘惑に屈したり、罪を犯すことがありませんでした。この経験こそ、イエスを私たちの大祭司にふさわしいお方としている理由の一つです。

まとめ

ヘブライ2章は、イエスがその人性において成し遂げられたことを描写しています。彼は私たちのために死を味わい、救いのさきがけとなり、サタンと死に勝利し、私たちを実存的な恐れから解放し、罪のあがないをし、試みの中で助けを与えられます。彼は私たちの兄弟であるゆえに、私たちは確信を持つことができます。

「キリストのうちには、神性と人性、創造主と被造物とが一つに結びついていた。御自分の律法を侵犯された神の性質と違反者アダムの性質とが、神の御子であり、しかも人の子であるイエスのうちに出会う。御自身の血をもって贖いの代価を払うことによって、人としての経験をすることによって、人のために誘惑に遭い、勝利することによって、自らは罪がなかったにもかかわらず、罪の恥辱と責任と重荷を負われることによって、イエスは人の弁護者また仲保者となられる。キリストが『憐れみ深い、忠実な大祭司』となられるということは、試練に遭い、戦っている魂にとって何という保証、目撃する宇宙にとって何という保証であろうか!」

(『SDA聖書注解』第7巻926ページ、エレン・G・ホワイト注)。

「神の御子の人性は私たちにとってすべてである。それは私たちの魂をキリストに、そしてキリストを通して神に結びつける黄金の鎖である。キリストは真の人であられた。彼は人となることによって御自分の謙遜を証明された。しかし、彼は肉における神であられた。この問題を扱うときには、キリストが燃える柴の中からモーセに語られた言葉に留意する必要がある。『足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから』(出3:5)。私たちは学習者の謙遜と悔い改めた心をもって、この研究に当たらなければならない。キリストの受肉に関する研究は実り多い分野であって、隠れた真理を熱心に探し求める探求者に報いをもたらす」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻244ページ)。

『各時代の希望』下巻173~189ページ(ゲッセマネ)を読んでください。

ミニガイド

聖書の読み方について

ご存じのように、聖書のひとつひとつの書巻には、もともと、「章」や「節」による区切りはありませんでした。これは、読みやすいように、後世の学者がつけたものです。日本聖書協会によって刊行された最新の聖書である『新共同訳聖書』のように「小見出し」までつくと、ますますそれにとらわれてしまう危険がありますので、この点は、気をつけねばなりません(もっとも初めて聖書を読む人々にとっての利点もありますが)。

要するに、各章はそれ自体で完結するものではないということです。これは、当たり前のようで、とても大切なことなのです。つまり、思想の連続性と継続性を頭に置いて読むことが肝要です。この意味でも、書全体を読む、いわゆる「通読」には無限の価値があります。

『ヘブライ人への手紙』の中のキリスト(2)――われらの兄弟

1章の中心テーマは、ひとことで言えば、「イエスは神である」と言えるでしょう。続く2章。この部分でパウロが一番強調しているのは、「イエスの受肉と死」です。

マーク・トウェーンの『王子と乞食』の物語や、昔のロシア皇帝アイバンが、民心を探るために乞食に変装して町に出かけた話など、心そそられるものがあります。

しかし、どの話も、王子様や皇帝(あるいは王様)が、本当に自分の身分を変えたわけではありません。その点で、キリストの受肉はまさに圧巻であり、信じがたいほどの驚きです。

「救い主は、われわれの性質をおとりになることによって、決してたちきれることのないきずなでご自分を人類にむすびつけられた。永遠にわたって、キリストはわれわれとつながっておられる。……われわれの罪を負い、われわれのいけにえとして死ぬために、神はみ子をお与えになっただけではない。神はみ子を堕落した人類にお与えになったのである。……神とともに宇宙のみ座を占めておられるのは……われわれの兄弟である。天は人間のうちに宿り、人間は限りない愛の神の胸にいだかれている」(『各時代の希望』上巻11、12ページ、強調付加)。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次