【ヘブライ人への手紙】高く、優れたお方、イエス【聖所のテーマ】#4

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この記事のテーマ

【中心思想】

キリストの優越性は、キリストのお働き全体の基礎であり、私たちが受ける祝福に道を開くものです。

優越感の強い人優越感の強い人を好む人はあまりいません。つき合いにくいからです。だれでも人を見下すような人と一緒にいたくはありません。自己の優越感(高慢)は最初の罪であったばかりでなく、最も扱いにくい罪でもあります。

『ヘブライ人への手紙』はこの優越性について記しています。しかし、それは、イエス・キリストの優越性です。キリストの優越性には不快なところ、高慢なところ、嫌悪すべきところは全くありません。それどころか、キリストの優越性は私たちの信仰と服従を強めてくれます。なぜなら、キリストの優越性にこそ救いの希望があるからです。

今回は、『ヘブライ人への手紙』が、イエスの優越性をどのように描いているか、その生涯と死と、私たちのための天での奉仕は、イエスの優越性について何を教えているか、私たちはキリストが成し遂げられたことに、どのように応答すべきかについて学びましょう。

『ヘブライ人への手紙』はイエスの優越性について何と述べていますか。ヘブ1:4、ヘブ3:3、ヘブ7:26、ヘブ12:24 

イエスは天使、モーセ、大祭司よりも優れたお方です。イエスの血はアベルの血よりも優れています。イエスは天よりも高いお方です。それにもかかわらず、イエスは地上におられたとき、決して優位を求められませんでした。

福音書によれば、イエスは質素で、謙遜で、人々への奉仕に満ちた生涯を送られました。『ヘブライ人への手紙』に示されているように、もし望みさえすれば、いくらでも誇る理由があったにもかかわらず、キリストは決して優位な立場を求められませんでした。

イエスの態度を現代の状況と比較してください。現代人の行動は大部分、自己賞揚によって動機づけられています。悲しいことに、クリスチャンもこうした傾向と無縁ではありません。弟子たちと同様、私たちもだれが一番偉いか議論するかもしれません(ルカ22:24)。対照的に、今日の聖句は、キリストが天使やモーセよりも優れていることをはっきりと教えています。しかし、キリストの地上生涯とその行状を見るかぎり、謙遜、自己否定、自己犠牲のほかに何も見ることができません。しかも、それらはすべて自分よりも劣った人々のためになされたものです。モーセよりも優れたお方はまた、身をかがめて弟子たちの足を洗われたお方でした。

イエスが優れておられる理由

イエスが優れておられる理由の一つはもちろん、イエスが神であり、創造主であられるということです(これ以上の優越性はありません)。これが、『ヘブライ人への手紙』の指摘している点です。しかしながら、イエスの優越性はその先在性や神性から来ているとは思われません。興味深いことに、使徒パウロはイエスの優越性をその「劣性」に結びつけています。

ヘブライ2:9を読んでください。それは「劣性」と「優越性」の関係について何を教えていますか。フィリ2:4~9参照

ペトロは使徒言行録10:36で、イエスがすべての人の主であると言っています。しかし、その2節あとで、すべての人の主が地上においてなされた業について次のように記しています。「イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのです」(38節)。これが真の偉大さ、「劣等性」における偉大さです。

真の謙そんと奉仕の精神が栄誉をもって報われることは、聖書の中のどんな模範に示されていますか。

エジプトにおけるヨセフは、奴隷のときも囚人のときも、忠実に務めを果たしました。その結果、彼は指導者にまで高められました。モーセは、ミディアンで義父の羊を飼っていたときも、イスラエルの指導者になろうという野望を持っていませんでした。

「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」(民12:3)。ダビデは羊飼いでしたが、後に王となりました。イエスは言われます。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)。

地上におけるイエスの比類ない奉仕はその地位を優れたものとし、同時に現在の務めを優れたものとしました。

イエスの優れた務めの結果

『ヘブライ人への手紙』はキリストの優れた地位と務めの結果についてどのように記していますか。ヘブ7:22、ヘブ8:6、ヘブ10:34、ヘブ11:16、35      

イエスの優越性がもたらす結果の大部分――優れた希望・契約・財産・故郷・復活など――は将来に関するものです。イエスは御自分に従う者たちに輝かしい未来を約束しておられます。その中に、優れた復活、すなわち最終的な復活があります。これは一時的な、死すべき生命への復活(聖書にもそのような例が記録されています)ではなく、新しい世界における終わりのない生命への復活です。

これらの約束が将来に関するものであるとはいえ、今日の私たちにとっても効力を持ちます。現世は永遠への前触れとして重要な意味を持ちます。なぜなら、それはイエスと共に永遠を勝ち取る機会を与えてくれるからです。この意味において、優れた約束、優れた契約は現世の私たちにも影響を与えるものです。主が御自分の律法を私たちの心に記し、それを守る願望を与えてくださるのは今、この世においてです。私たちがイエスに従い、イエスを愛し、イエスの品性を反映する力を受けるのは今、この世においてです。

ヘブライ11:13~16を読んでください。著者はここで特に何を強調していますか。それは手紙全体の主旨とどのように調和しますか。それは現在の私たちに何を語りかけていますか。

神はキリストを通して御自分の民に素晴らしい真理を啓示してくださいました。彼らは信仰をもってこれらの真理を受け入れるでしょうか。それともこれらのものから目をそらし、元の状態に戻るのでしょうか。これがヘブライ人に突きつけられた挑戦でした。それはまた私たちに対する挑戦でもあります。

私たちの応答(その1)

イエスがあらゆる点においていかに優れていようとも、またイエスとイエスの優越性に中心を置く救いの計画がいかに広範囲で完全、かつ効果的なものであろうとも、神にはおできにならないことが一つあります。それは従うように強制することです。いつでもそうですが、問題は私たちの応答にかかっています。「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュ24:15)。当時のヘブライ人に対するヨシュアのこの命令は、パウロの時代のヘブライ人にも、また今日の「ヘブライ人」にもあてはまります。

『ヘブライ人への手紙』はイエスの優越性について語っていますが、その一方で人々を比較しています。ヘブライ11:4を読んでください。それはアベルについて何と述べていますか。彼の「優れた」いけにえは何でしたか(創4:1~8参照)。

アベルの名は『ヘブライ人への手紙』に2回出てきます。アベルはカインよりも優れたいけにえを献げることによって神を崇めました(11:4)。12:24では、イエスの血がアベルの血と比較されています。アベルは神を信じて義とされました。アベルは死後もなお「語って」いますが、イエスの血はアベルの血よりも力強く語っています。アベルは11章に登場する最初の信仰の勇者であり、最初の殉教者です。しかし、イエスは彼よりもはるかに優れたお方です。

ヘブライ11:25を読んでください。ここにも比較がなされています。どんな比較ですか。モーセはどんな選択をしましたか。

アベルと同様、モーセもイエスを選びました。彼は罪の楽しみにふけるよりは、むしろ(字義的には「すすんで」)神の民と共に虐待される方を選びました。彼はキリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。

私たちの応答(その2)

きのうの研究では、良いものと悪いものとの間でどちらかを選ばねばならない状況に直面して、良いほうを選んだ二人の人物について学びました。しかし、いつでもそうであるとは限りません。

「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか」(ヘブ12:25)。もう一度、優れたものとそうでないものとを比較してください。

ヘブライ12:25で著者は何を言おうとしていますか。このことは手紙全体の趣旨とどのように調和しますか。

「モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか」(ヘブ10:28、29)。

イエスの優越性に対する人間の応答はいつでも二面的です。ある人たちは喜んでイエスを主として受け入れます。ある人たちは故意にイエスを拒みます。ある人たちは、主がどのようなお方で、自分たちのために何をしてくださったかを知りながら、主を拒んでしまいます。『ヘブライ人への手紙』は特にこのような人たちに訴えています。この訴えは手紙全体に見られます。

パウロの時代のクリスチャンがこの訴えに耳を傾ける必要があったとすれば、現代の私たちはなおさらです。

まとめ

キリストの優れた奉仕は、地上におけるさらにまさった犠牲と、天における私たちの大祭司としてのさらに優れた奉仕に分けられます。これらの奉仕の結果、私たちはさらにまさった契約、さらにまさった希望、さらにまさったみ国、さらにまさった復活の受益者となりました。かくも偉大な救いを与えてくださる主に、私たちのすべてをささげないでおられるでしょうか。

「キリストは不名誉と恥辱に対して無感覚であられたわけではない。彼はそれを非常に強くお感じになった。私たちが苦しみを感じるよりもはるかに深く、鋭く、キリストはそれをお感じになった。彼の性質が罪深い人類のそれよりも高尚で、純粋で、聖なるものであったからである。キリストは天の大君であり、父なる神と同等であり、天の万軍の司令官であられたが、人のために死なれた。その死はとりわけ恥辱と不名誉に覆われていた。ああ、人間の尊大な心がこのことを認識するとよいのに!ああ、彼らが贖いの意味を理解し、イエスの柔和と謙遜に学ぶとよいのに!」(『イエスを知るために』339ページ)。

「イエス・キリストの血は私たちをすべての罪から清める。それはアベルの血よりも力強く語る。キリストは常に生きていて、私たちのために執り成しておられるからである。私たちはたえずイエスの血の効力に目をとめる必要がある。生きた信仰によって自分のものとなるこの命を清める血、命を支える血は私たちの希望である。私たちは計り知れないその価値をもっと深く理解する必要がある。なぜなら、私たちが信仰によってその徳を要求し、良心を清く神に対して平安に保つときにのみ、イエスの血が私たちのために語るからである」(『SDA聖書注解』第7巻947ページ、エレン・G・ホワイト注)。

ミニガイド

『ヘブライ人への手紙』の中のキリスト(3)――優れたお方

『ヘブライ人への手紙』が、救いに関して一貫して読者に伝えているメッセージは、「キリストの苦しみによって、われわれの救いはまっとうされた」ということです。この調べが、あたかもテーマソングのように、手紙全体に繰り返されています。その最初のものが2:9であり、また2:14~18にもこのメッセージが反響しています。すなわち、人類が「生かされる」道は、優れたお方が徹底的に卑しめられ、低められ、あげくの果てに、はずかしめの死を受けることでした。

今回の研究で、最も強調したいポイントの一つを、この中の言葉で表現しますと、「すべての者に優っていながら、すべての者に仕える」(29ページ)、また「劣性の中にあらわされたイエスの優越性」(30ページ参照)ということになりましょうか。

私たちがイエスの優越性を受け入れるということは、キリストの模範にならって「自己に死ぬ」ということです。これは、言葉で言うのは簡単ですが、現実には大変難しいことです。秘訣はただ一つ、徹頭徹尾、この書を通して啓示されたキリストを仰ぐことです。

三浦綾子さんの本に、元日本共産党議長宮本顕治氏の夫人ですぐれたプロレタリア作家でもあった宮本百合子のことが記されています。

百合子がまだ実家の中條家にいた頃、彼女の誕生パーティーがあって、みんなの前に半熟の卵が出された時のことです。招かれた客の中に尾崎ふさという貧しい家の娘がいました。小さい頃から親に、皿は隅々までなめろと言われて育った彼女は、半熟卵のべったりとついた皿をペロペロなめたのです。ほかの客たちはそれを見て驚き、皆うつむいてしまいました。上流階級で格式がありマナーの徹底した百合子の家では考えられない無作法をしてしまったのです。パーティーの席がシラーッとしたその時、百合子が尾崎ふさと同じように、自分の皿をペロペロなめて、「今どき卵なんて貴重品なんだから、もったいないよね」と言ったのです。

三浦さんは、「私には一生真似の出来ないゆるしである」と言っています。真の優越性とは何かを考えさせられるエピソードですね。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

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