【ヘブライ人への手紙】われらの大祭司、イエス【聖所のテーマ】#5

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この記事のテーマ

【中心思想】

聖書の中で、『ヘブライ人への手紙』ほど、天におけるイエスの祭司職について明確な説明をしている書はほかにありません。

第1次世界大戦後、フランス人とドイツ人が互いに憎み合っていた頃の話です。ドイツ人で宿屋の主人、マックス・フラット氏はライン川へ泳ぎに行きました。川は水かさが増して、危険な状態でした。対岸では、フランスの兵士たちが平底舟で訓練をしています。突然、そのうちの一艘が転覆し、乗っていた4人の兵士が激流に流されました。数日前には、フランスが7人のドイツ人に死刑を宣告したばかりでした。フラット氏は躊躇することなく川に飛び込み、二人のフランス兵を助けました。翌日、フランス軍の大尉が彼のもとを訪ね、彼の英雄的な行為に謝意を表し、何か謝礼がしたいと申し出ました。フラット氏は次のように答えました。「素晴らしい返報の方法があります。命には命をもって報いることです。7人のドイツ人の赦免をお願いします」。

この話は執り成しがどのようなものであるかをよく表しています。

イエスの祭司職

「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」(ヘブ8:1)。

『ヘブライ人への手紙』は、祭司、大祭司、祭司職という三つの言葉で、天におけるキリストの働きを説明しています。これらの言葉がキリストに関して用いられているのは、新約聖書の中でここだけです。つまり、この手紙はほかにはない強調点を持っているということです。

祭司、あるいは祭司職という思想はこの手紙のあちこちに出てきます。それはレビ人の祭司職とメルキゼデクの祭司職を描写していますが、つねに、イエスの祭司職が背景になっています。

ヘブライ2:17、3:1、4:14、5:6、8:1を読んでください。これらの聖句に共通していることは何ですか。それらは私たちにとってどんな重要な意味を持ちますか。

イエスの天における祭司職は、『ヘブライ人への手紙』の中心的な要素です。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」(ヘブ8:1)。メシアなるイエスは天の聖所におられる大祭司なるイエスです。

祭司としてのキリストという思想は聖書のほかの個所でも見られますが(Ⅰヨハ2:1、2、Ⅰテモ2:5)、キリストの祭司職についてこれほど明確に書かれているのは『ヘブライ人への手紙』だけです。

イエスとアロンの祭司職(ヘブ5:1―10)

イエスの祭司職はレビ人の祭司職とは異なりますが、レビ人の大祭司アロンはイエスと比較されています。両者の間には明白な違いがありますが、共通点は研究に値します。ヘブライ5章において、アロンはキリストの象徴として描かれています。二人とも人間であり、神によって選ばれ、人類のために働きます。二人とも犠牲を捧げ、人類の「罪のため」に働きます。

アロンの祭司職とイエスの祭司職との間にはどんな違いがありますか。ヘブ5:1~10、9:6~12

イエスは人であり、同時に神の御子です。しかし、アロンはそうではありませんでした。これがヘブライ5:5、6で強調されている重要な点です。ここに引用されている詩編2編と110編の聖句がイエスの御子としての身分を祭司職と関連づけています。イエスが御子であられたゆえに、神はイエスにメルキゼデクの祭司職をお授けになりました。

犠牲に関しても違う点があります。イエスもアロンも犠牲を捧げますが、イエスの犠牲は1回限りで、しかもすべての人に十分なものでした。それは永遠に有効で、ほかの犠牲によって置き換えることのできないものです。

さらに、イエスは犠牲であると同時に祭司です。この点で、祭司だけのアロンとは大きく異なります。イエスはまた、アロンや他のすべてに祭司達と異なり、全く罪によって汚れていませんでした。レビ人の祭司職もイエスの祭司職も、同情をもって罪人を扱うと述べられています。しかし、これは理想的なレビ人の祭司にのみ言えることです。ある人々は乱暴で、無頓着で、不信仰でした(レビ記10:1、エレミヤ書20:1~6、マタイ26:3、4を参照)。対照的に、『ヘブライ人への手紙』は特にイエスの働きのこの面を強調しています。

イエス御自身は罪がありませんでしたが、罪人を優しく思いやり、憐れみと同情をもって彼らを扱われました。さらに言えば、アロンは地上で仕えましたが、イエスは天で仕えておられます。

イエスとメルキゼデクの祭司職

「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう」(ヘブ7:11)。

人間的に言うならば、イエスには祭司として働く資格はありません。レビ族の出身であるアロンとは異なり、イエスはユダ族の出身だからです。また、旧約聖書によれば、祭司はみなアロンの家系に属する者でなければなりませんでした(出28:1、40、41)。

しかしながら、イエスは御子、すなわち神性と人性を同時に共有される唯一のお方でした。彼は人間のうちに住み、十字架上で私たちのために死なれました。このことのゆえに、イエスはただひとりの完全な仲保者であり、最終的な意味において私たちの真の大祭司となることのできるただひとりのお方です。

メルキゼデクとはだれのことですか(創14:18~20参照)。

ヘブライ7章はメルキゼデクについて簡潔に記しています。彼はレビよりも偉大な人物です。なぜなら、レビの先祖のアブラハムも彼に十分の一を献げ、祝福しているからです。メルキゼデクはキリストの型として描かれています。

キリストが祭司であることと御子であることとの間にはどんな関係がありますか。ヘブ3:1~6、5:5~8、7:28

『ヘブライ人への手紙』においては、御子に関する論題は非常に重要です。イエスは御子であられるゆえにモーセ(ヘブ3章)やアロン(5章)よりも優れたお方です。イエスはまた御子であられるゆえに、メルキゼデクよりも優れたお方です。

祭司にして大祭司なるイエスはどんな特性を持っておられますか。ヘブ2:17、ヘブ4:14、15、ヘブ7:24~26  

ヘブライ2:17で、イエスは憐れみ深く、忠実なお方と言われています。それに加えて、ヘブライ4:14~5:10にはイエスの罪のなさが描写されています。著者は、イエスが私たちと親しいこと、またその人性、兄弟であることを強調する一方で、イエスが「罪を犯されなかった」こと(ヘブ4:15)、「罪なく」「汚れなく」、したがって「罪人から離され」ておられたことを明記しています(ヘブ7:26)。

イエスの潔白さは地上における働きだけでなく、天における働きにとってもきわめて重要な問題でした。もしキリストが地上で罪を犯していたなら、天において私たちのために働くことがおできにならなかったでしょう。キリストは聖なるお方、永遠に完全なるお方、もろもろの天よりも高いお方であるにもかかわらず、弱く、罪深い私たち人間に関心を寄せてくださいます。

『ヘブライ人への手紙』はイエスの大祭司としての働きの時期と場所について何と述べていますか。ヘブ5:5、6、9:11

『ヘブライ人への手紙』は、キリストの祭司としての働きがその受肉と苦難にかかっていることを明らかにしています。「厳密に言うなら、復活が終わるまではキリストを祭司と呼ぶことはできない。私たちはしばしば、ゲッセマネの園における嘆願をキリストの大祭司としての祈りと呼んでいる。しかし、これは『ヘブライ人への手紙』の神学に背くものである」(ウィリアム・G・ジョンソン『絶対的確信をもって』93ページ、1979年)。

大祭司としてのイエスの務め

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブ4:16)。

イエスの祭司職は独特なものです。イエスは犠牲であり、同時に仲保者です。このような特徴はほかのだれにもありません。イエスだけが私たちの身代わりとして死なれました。イエスだけが天の聖所における私たちの大祭司です。

さらに、イエスは独特な仲保者です。人であり神であるお方はほかにいないからです。この特徴のゆえに、イエスは天と地を結ぶ完全な架け橋です。

イエスの働きの結果もまた独特です。イエス以外に、永遠に救うことのできるお方はいないからです。永遠の命はただイエスによってのみ与えられます。

このような偉大な大祭司が天で私たちのために仕えておられます。このことを知っている私たちはどのように応答すべきですか。ヘブ4:14~16、ヘブ10:22、23、ヘブ12:1、2    

クリスチャンは大祭司なるイエスが世の終わりまで共にいてくださることを知っています。イエスは日ごとに彼らのために仕え、御自身の栄光の王国を打ち立てるために人間の歴史に終止符を打とうとしておられます。主が共にいてくださるという、この明るい展望は私たちの人生に意味を与えてくれます。私たちは神の子、キリストの兄弟です。キリストがそうであられたように、私たちも人々に仕えるために生きます。『ヘブライ人への手紙』が書かれたのは、最初にそれを読む人々を励ますためでした。それは現代の私たちにも同じ励ましを与えてくれます。

まとめ

『ヘブライ人への手紙』は、イエスの祭司職について教え、それを定義しています。パウロはイエスの祭司職をメルキゼデクの祭司職になぞらえていますが、だからと言って、レビの祭司制度と無関係なわけではありません。それぞれの祭司制度とのつながりがどうであろうと、天の聖所におけるキリストの奉仕は、そのどちらをも、はるかに超えるものです。

「信仰によって、地獄のようなサタンの影を突き破り、私たちのために幕の内に入られた大祭司なるイエスに信頼しよう。どのような雲が空を覆おうとも、どのような嵐が魂に押し寄せようとも、この錨はしっかりしているので、必ず勝利することができる」(『天上で』127ページ)。

「コリントにある会堂で説教をし、モーセや預言者たちの書き物から説いて、聞く者たちを約束のメシヤの来臨へと導いている使徒パウロを見よ。あがない主が人類の大祭司として、ご自身の命を犠牲にすることにより、一度だけすべての者のために罪の償いをされて、それから天の聖所においてご自分の務めをなさる、その主のみわざをわかりやすく説くパウロに耳を傾けよ。パウロの言葉を聞いていた者たちは、自分たちの待望していたメシヤが既に来られたこと、キリストの死がすべての犠牲のささげ物の本体であったこと、また、天の聖所におけるキリストの務めは、背後にその影を持ち、ユダヤの祭司の務めを明らかにする、偉大な実体であるということを理解させられた」(『患難から栄光へ』上巻265,267ページ)。

ミニガイド

『ヘブライ人への手紙』の中のキリスト(4)――大祭司

『ヘブライ人への手紙』は、13章のうち9つの章が、大祭司キリストに言及しています。そのうち、5つの章はこのテーマに章全体を充てています。聖書66巻の中で、キリストの祭司職について、これほど色濃く述べられている書は、ほかにありません。

天の聖所のキリスト――ユダヤ人クリスチャンにとっての「現代の真理」

十字架によってキリストは、「四千年の間キリストの死をさし示してきた型と儀式の制度に終止符をうたれ」ました(『各時代の希望』下巻130ページ)。地上生涯最後の夜、聖餐式を制定された時、主はそれをはっきりと意識しておられました。

キリストの復活と昇天後、福音は急速に異邦人に対して拡大されていきます。そうした中でエルサレム会議が開かれ(使徒15章)、異邦人クリスチャンに対する儀式律法の免除が決議されます。

しかしユダヤ人クリスチャンにとって、神ご自身によって制定された犠牲制度が廃され、儀式律法の要求事項がもはや拘束力を持たないものとなったという主張は、受け入れがたいものでした。それは、彼らのアイデンティティーを根底から覆すものだったからです。強烈な選民意識が、儀式律法がキリストのうちにその完全な成就を見た事実を認めるのを妨げていたのです。そればかりか、彼らは、異邦人クリスチャンにも、割礼等の慣習の遵守を強要します。

このような危機にあってパウロは、救いの手段としてこれらの儀式律法に依存することは、信仰による救いの祝福を無効にするものだと言います。しかも、彼らが頼みとしている神殿とその奉仕は、まもなく永遠にその幕を閉じることになります。この時に当たって、パウロは、ユダヤ人クリスチャンが、彼らの目を地上の祭司制度の代わりに神が定められた天の聖所における大祭司キリストと彼の奉仕に向けるよう訴えたのです。それはまさに、彼らにとって「目からウロコ」のメッセージであり、「現代の真理」でした。それは「あなたがたは決して見捨てられることはない」という、同族に対するパウロの渾身の語りかけでもあったのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2003年3期『聖所のテーマーヘブライ人への手紙』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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