中心思想
神は私たちひとりびとりを神の「特有な」民、特別な民として召しておられます。神は私たちが特別に価値があるから選んだのではなく、ただ神ご自身の裁量によって私たちを選び、私たちと契約を結ばれたのです。それによって神は私たちの神となり、私たちは神の従順な民となるのです。これだけでも素晴らしいことです。しかし、それ以上に素晴らしいことがあります。神はその愛の律法を通して私たちを愛し、私たちが失敗するときにも私たちをその特別な契約関係に回復するということを示してくださいました。
序言
今回、とり上げる聖句は劇的な事件と感情の山並みを上ったり下ったりしています。神は火と煙の中でご自身を啓示し、イスラエルを「すべての民にまさる特別な宝」として選び(出エジプト記19:5、欽定訳)、シナイ山から戒めを与えられます。それから屈辱的な背信が来ます。イスラエルの民は何日もたたないうちに、金の小牛にひざまずくことによって神を礼拝しようとします。最後にモーセは自己犠牲の愛という最高の境地に到達しています。
今回学ぶ出来事はある意味で、私たちの人生の縮図とも言えるものです。神は私たちひとりびとりをご自分の「特別な宝」として選ばれました。私たちが神の恵み深い選びに愛をもって従うことを’神は望まれました。私たちは愛し従うことを約束しましたが、自分自身にはそうする力がないことに気づきます。しかしながら、仲保者イエスは御自身の犠牲によって私たちの罪を負い、私たちを神との契約関係に回復してくださいました。恵み深い神は砕かれた律法の破片を寄せ集め、私たちの心に改めて書き直してくださいます。
1. 結ばれた契約(出エジプト記19: 1―20:21)
1. 特別な民を選ばれる神(19:1―6)
質問1
神が地上の多くの国民のなかから、イスラエルをご自分の特別な契約の民として選ばれたのはなぜですか。申命記7:6-8(創世記12:1-3、17:1-8と比較)
出エジプト記19:5、6は旧約聖書の中で最高の表現、モーセの丘書の中心・主題と言われてきました。「わたしの宝」〔英語欽定訳では「特別な宝」〕と訳された言葉は共同財産に対する私有財産の意味です。その根底には貴重な、この上なく大切な財産という思想があります。イスラエルの責任と運命はそれほど厳粛で素晴らしいものでした。
神がイスラエルを選ばれたのは彼らが生来の資質をもっていたからではなく、神ご自身の絶対的恵みによってでした。彼らにその価値がなかったにもかかわらず、神は彼らについてアブラハムに約束しておられたことをすべて成就しようとしておられました。
質問2
神がイスラエルをご自分の選民として選ばれたのは全く恵みによるものでしたが、この関係は何を条件として継続することになっていましたか。出エジプト記19:5
神の選民としての私たちの立場は不従順や悔い改めのつど変化するような律法主義的な取り決めではありません。むしろ、それは愛にもとづく関係です。しかし、私たちの生き方はその関係が本物であるかどうかをあらわします。
解説
「心のうちに神の恵みをやどしているかどうかは私どもの堆活に現われてきます。……人の性格はときどきの善行とかまちがいとかでわかるのではなく、日常の言行動作の傾向によって知ることができるのであります」(「キリストへの道」71ページ)。
2. 服従の約束(19:7,8)
シナイにおけるイスラエルの例は、大祭司の庭におけるペテロのそれと同じく、約束だけでは不十分であることを示しています。いくら自信があっても罪に抵抗することはできません。イエスの力にたえず信頼することなしには、そのような約束を守ることはできません(ピリビ4:13、ヨハネ15:5参照)。
契約の条件は正式に満たされていました。モーセは民の返事を神に告げます。神はご自身を彼らにあらわすことによって、また律法を宣言することによって、民の前で目に見えるかたちで契約を批准されます。
3.神に会う備え(19:9―15)
解説
「神は、ご自分の律法を語られる時を、その重大性に応じて、荘厳(そうごん) な光景にしようともくろまれた。民は、神への奉仕に関連した1つ一つを最高の尊厳をもってみなければならないことを印象づけられるのであった」(『人類のあけぼの』上巻353ベージ)。
質問3
民は神に会うためにどんな特別な準備をしましたか。また、どんなことが禁じられましたか。出エジプト記19:10、15
(1)モーセは民を「きよめる」ように命じられました。これは儀式的なきよめを含みましたが、それ以上に、祈り・断食・告白による罪からのきよめを含んでいました。
(2)民はからだを清潔にしなければなりませんでした。これは着物をも含みました。
(3)彼らは一定期間、性的関係を避けなければなりませんでした。これはたぶん儀式的なきよめと関係がありました。彼らはこのあいだに十分な霊的備えをすべきでした。
(4)彼らは神がご自身をあらわされる山にふれることができませんでした。
4. ご自身をあらわされる神(19 :16―25)
質問4
神はシナイ山でどのようにご自身をあらわされましたか。申命記4:11―15
イスラエル人の見守るなかで、神は激しい雷雨とともにシナイ山に下られました。神に従う天使の群れは山の頂上を包んでいる厚い黒雲の中から輝く火の炎のように見えました。非常に荘厳で感動的な光景のなかで、神の声が聞こえます。厚い雲の向こうに、神はその力と栄光をあらわされます。地は震え、山は煙り、ラッパの音が山の頂から頂へと反響します。ラッパの音がひときわ高く鳴り響いたあと、深い沈黙が続きます。群衆は静かに、威厳に打たれて立っています。その沈黙の中で、モーセは神に語り、神はモーセに答えられます。
質問5
神がシナイ山でご自身をあらわされるのを見て、人々は何と言いましたか。申命記5:23-28
5.十戒(20:1―21)
十戒にもられた原則は永遠の昔から存在しました。神の律法の最高の重要性は、それが神の品性の表現であるという事実から来ています。
律法は罪以前から、あるいは罪がまだなかったときから存在したはずです。なぜなら、罪は律法によって規定されるものだからです。シナイ山における公式の律法の賦与は永遠の昔から制定されていた大いなる諸原則の反復にすぎませんでした。律法を守ることには二つの重要な霊的意味が含まれています。(1)私たちは自分の律法順守によって救われるのではなく、神の恵みによって救われます。(2)救われた音たちは律法を受け入れ、神の恵みによってそれを守ります。
まず最初に、イスラエルが神によってあがなわれた民であることが確認されています。そのあとで、あがなわれた民がいかに生きるべきであるかについての、十カ条におよぶ宇宙の大原則が要約されています。前半の四条は神との関係について、後半の六条は人間相互の関係について規定しています。これらの十項目は人生のすべての領域を細かく規定してはいませんが、基本的には人間のすべてのあてはまるものです。
質問6
シナイ山で律法をお与えになったのは三位一体の神のどなたでしたか(1コリント10:1―4、ヤコブ4:12)。 このことは地上におけるイエスの働きの一側面にどんな光を与えてくれますか。
解説
「石の板に刻まれた律法をモーセに与えたのも彼〔キリス卜〕であった」(「人類のあけぼの』上巻435ページ)。
例話
イエスが字を書かれたのは、聖書によれば2回だけです。パリサイ人と律法学者が姦淫を犯した女を引きずり出してきたとき(ヨハネ8:1―11)、イエスは中庭の広い石をおおった土の上にご自分の指で彼らの罪を列挙されました。イエスは先にもシナイ山で、ご自分の指で石の板に律法を書いておられました。石に書かれた律法と砂に書かれた罪。主は十戒を石の上に書かれることによって、その永続性と重要性を私たちに教えようとされました。しかし、私たちが自らの罪に失望することがないように、主は流れ去る砂の上に私たちの罪を列挙されたのです。これはイエスの積極的なゆるしを強調しています。
キリストがご自分の指で石に律法を刻まれたことは、罪に対する彼の変わることのない態度を示しています。彼は決して罪を軽く見ておられませんでした。律法から少しでも離れることはキリストに対する重大な反逆です。この変えることのできない、きわめて重要な律法の性格のゆえに、律法をお与えになったキリストご自身が人性をとって、人間として律法のもとで生活しなければならなかったのです。イエスが砂の上に私たちの罪を書くことができるのは、彼が自らの死をもって石に刻まれた律法を守り通されたゆえなのです。
イエス・キリストは人のかたちをとった神の律法でした。律法は彼の品性の表現でした。聖書が律法について述べている特徴はすべて、イエスにもあてはまります。以下の聖句を比べてみましょう。
●詩篇19:7とへブル2:10、5:9……
●詩篇19:9、119:172と1ヨハネ2:1……
●詩篇119:89と1ヨハネ5:11……
●ローマ7:12と使徒行伝4:2とヨハネ10:11、13
質問7
神の律法の基礎は何ですか。マタイ22 : 35-40、ローマ13:8―10
破られた契約(出エジプト記32:1―29)
1.許すことのできない背信(32:1―6)
シナイ山で神を見、神の契約の民になる約束をしてから何週間もたたないうちに、イスラエル人はモーセがいなかったので失望し、不信仰におちいります。このことから、彼らの信仰がいかに目に見えるものに依存していったかがわかります。
質問8
アロンと民はどのような方法で自分たちの背信の罪をおおい隠そうとしましたか。出エジプト記32:4、5
解説
「エジプトで雄牛アビスの礼拝を見ていたイスラエル人が『子牛』を思い立ったとしても不思議ではなかった。しかし、この金の子牛は異教の神の目に兄える表象ではなく、おそらくまことの神の表象であった。……大衆が受入れたと思って、アロンは『祭』と両言することによって彼自身この背信に加担した。不思議なことに、それは『主の祭』となるのであった。主の礼拝を偶像の礼拝と調和させようとするこの妥協の精神は、単に今回の出来事だけにとどまるものではなかった。この精神はまた、将来、彼らを苦しめることになる多くの偶像禁拝の根底にあった」(「SDA聖書注解』第1巻665ページ)。
2.神にとりなすモーセ(32:7―14)
イスラエルに関して、ここに興味深い代名詞の用い方がされています。神はモーセに対して、「あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民」と言っておられます(7節)。神がイスラエルを見捨てられたかのようです。しかし、モーセはこのことを認めようとしていません。彼は神に向かって、「エジプトの国から導き出されたあなたの民」と答えています(11節)。彼はここで、たとえ罪を犯したイスラエルであっても、彼らは神の民であることに変わりがないと言っているのです。
解説
「モーセは、彼らのために深い関心と愛をいだいて嘆願しているうちに、臆する気持ちがなくなった。主は、彼の願いに耳を傾け、彼の無我の祈りをお聞きになった」(「人類のあけぼの』上巻375ページ)。
3.罪の恐るべき結果(32:15―29)
質問9
モーセはどんな行為によって、民が犯した罪の重大さを表現しましたか。出エジプト記32:19
砕かれた石の板は、罪が人間と神とのあいだの愛の関係を破壊するものであることを示しています。罪を犯すことは天の律法全書に害かれた律法を破る以上のことです。それは神の心を破ることです。許すことのできない背信は処罰されなければなりません。モーセは偶像崇拝に加わらなかった者たちを自分のもとへ集めます。レビ人は全員、神に従いました。罪を犯したけれども悔い改めた荷たちも別にされました。残りの大部分一主に入り混じった群衆一は、かたくなに反抗しました。害悪は会衆から取り除かれなければなりません。彼らを処罰する命令がレビ人に下されます。
回復された契約(出エジプト記32:30―35、34:1―29)
1. 「わたしの名を消し去ってください」(32:30―35)
これらの聖句はゲッセマネとカルバリーに次ぐ高尚な自己犠牲的な愛の模範を示しています。イエスと同様に、モーセは進んで第二の死に直面しました。
モーセがシナイ山で示した驚くべき愛は、イエスがゲッセマネとカルバリーにおいて完全に示された愛と同じものです。イエスは私たちにもこれと同じ愛を示すように望んでおられます。
2.ふたたび与えられる砕かれた律法(34:1―29)
質問10
あがないが完成され、契約が回復されたしるしとして、神はどんなことをされましたか。出エジプト記34:1、27
まとめ
私たちはイスラエルの経験のなかに自分自身の人生を見ることができます。罪から救われた神の特別な宝となった私たちは再び罪におちいり、神との関係をそこないます。私たちは当然、死ぬべき運命にあります。しかし、悔い改めた者たちのために、仲保者イエスがモーセのように私たちに代わって進んで第二の死を遂げてくださいます。このあがないを受け入れるとき、私たちは神と和解します。律法が私たちの心に記され、関係が回復されます。
*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。