【出エジプト記・民数記】聖所からの教訓【解説】#9

目次

中心思想

旧約聖書の聖所にはいろいろな器物、儀式、犠牲、祭司制度がありましたが、それらはみな神の小羊イエス・キリストを象徴していました。神がイスラエルに聖所の務めをお与えになったのは、罪の問題を解決する世のあがない主イエスのなされる働きを実物教訓として教えるためでした。

序言

聖所とその器物の建造について、神はモーセに具体的な指示をお与えになりましたが、それらは出エジプト記25章から31章に書かれています。35章から39章にはその実際の造り方が述べられています。これらの部分に使われている用語はほとんど同じで、また材料も大部分が繰り返しになっているので、ここでは交互に引用することにします。聖所建設についての詳細は、かなり完全な描写がなされてはいるものの、すべてが明らかにされているわけではありません。全くその詳細がわからないものもありますが、なかには荒野の幕屋の2倍の寸法で建てられていたと思われるソロモンの神殿についての説明にもとづいてかなり正確なことがわかるものもあります。比較的ばく然とした建設についての記述を見ると、建て方の問題はそれに含まれる広い霊的教訓ほど重要な意味を持ってはいなかったのではないかと思われます。

へブル9:9には、旧約理書の聖所が「今の時代に対する比喩」と呼ばれています。「比喩」と訳された言葉は文字通りたとえのことです。聖所はある根本的な霊的真即を教えるためのたとえなのです。たとえはすべての点において霊的意味を持つとは限りません。

幕屋そのものは金でおおわれた枠と幕でできた長方形(ほぼ15m×5m)の移動式の建物でした。基本的には、それは三つの鰐の壁と4層の材料で造られた屋根を持った天幕でした。内部は垂幕で二つの部屋に仕切られていました。一方の部屋は他方の部屋の二倍の大きさで、小さい方の部屋(ほぼ5m四方)は至聖所と呼ばれ、契約の箱がおさめられていました。大きい方の部屋(ほぼ10m×5m)は聖所と呼ばれ、香の祭壇、供えのパンの机、それに燭台が置かれていました。中庭はほぼ45m×23mの広さで、柱にかけられた幕でできておりそれは幕屋を囲っていました。この中庭に蟠祭の祭壇と、祭司が幕屋に入る前に身を清める水盤(洗盤)がありました。

聖所建設についての指示 (出エジプト記25章―31章)

質問1
神は聖所を建てる目的について何と言われましたか。出エジプト記25:8

イザヤもまた聖所に対する神の真の目的を正しく理解していました。「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み』」(イザヤ書57:15)。

神が聖所とその務めをお与えになったのは、それによって人々の心をご自分が住むにふさわしいものとするためでした。神は彼らのうちにお住みになりたいと思われました。ある者たちはこのことを理解して、協力しましたが、大部分のイスラエルは聖所の持つ霊的意味を完全には理解していなかったようです。彼らはただ機械的に聖所の務めを守っていました。時が満ちるに及んで、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)。宿ったという言葉は天幕という言葉から来ています。つまり、イエスは私たちと共に「天幕を張られた」のです。聖所はこのイエスを指し示しています。

解説

「神は聖所の中に、すなわちご自分の民のまん中にお住みになった。イスラエル人が疲れはてて荒野をさまよい歩いていた問じゅう、神の臨在の象徴は彼らとともにあった。そのように、キリストはわれわれ人間の陣営のまん中にご自分の幕屋をお建てになった。キリストはわれわれのうちに住み、ご自分のきよい品性と/|括とをわれわれにあらわすために、人間の天幕のそばにご自分の天幕を張られた」(「各時代の希望上巻7ページ)。

質問2
使徒ヨハネは新エルサレムの神殿について何と言っていますか。それはなぜですか。黙示録21:22-21:3比較

神ご自身がその民の心に住むという聖所の目的は、罪が宇宙から根絶され、新エルサレムが地上に建設されるときに完全に成就します。そのとき、神はあがなわれた者たちと共に顔を合わせてお住みになるのです。

神はモーセに幕屋とその務めに関する細かな規定をお与えになりましたが、それは福音についての絶えざる実物教訓となるのでした。とりわけそれは、ご自分の犠牲によって罪を終わらせる小羊イエスを指し示していました。

型に従って建てられた聖所(出エジプト記35章3―9章)

質問3 
示された型どおりに幕屋を建てるように神はモーセに言われたと、へブル人への手紙の著者は述べていますが、彼はこのことによって何を言おうとしたのでしょうか。へブル8:1-8、9:24

模型にはその原型があります。地上の聖所は天上の「真の幕屋」(へブル8:2)にかたどって造られました。ヨハネはこの天の聖所を幻の中で見ています(黙示録4:5、8:3、11:19)。地上の聖所は天にある聖所の模型なので、私たちは天の聖所に照らして地上の聖所を学ぶ必要があります。しかしながら、実際問題としては、わかっているもの(地上の聖所)にもとづいて、まだわかっていないもの(天の聖所)を学ぶことになります。しかし、もし地上の聖所を厳密な尺度として天の聖所を判断するなら、過ちを犯す危険があります。

天の聖所はすべての点において地上のそれと同じであると断定すべきではありません。たとえば、燔祭の祭壇の上の犠牲はイエスの死を象徴していますが、イエスは十字架の上で死なれたのであって地上の聖所における小羊のようにナイフで殺されて焼かれたのではありません。

1.燔祭の祭壇(出エジプト記27:1―8、29:38―42、38:1―7)

聖書は明確な順序によらないで幕屋の付属品について紹介しています。しかしここでは、中庭から至聖所にいたる順序でそれぞれの器物について学んでみたいと思います。燔祭の祭壇は青銅でおおった板で造られていました。その大きさは約2.3 m四方、高さは1.4mでした。中は空洞になっており、青銅の網または格子がはめ込まれていました。

質問4
燔祭の祭壇の上のさまざまな犠牲は何を表していましたか。レビ記17:11、14、へブル9:22―26

血は生命を表します。ささげられるものが何であれ、祭壇の上の犠牲はすべて神の小羊イエスの死を表していました。それらはすべて、罪に対する神のさばきが分離であり死であることを教えていました。ここに示された死は単なる肉体の死以上のものでした。罪の支払う報酬は永遠の死。第2の死です(ローマ6:23)。イエスが十字架上で経験されたのはこの死でした。

動物の死は罪人を道徳的な汚れから清めることができませんでした。法的な意味で、イエスが十字架上で死なれないかぎり、人間はだれひとりゆるされることがありませんでした。アダムからキリストまでの人類の罪は、真の犠牲がささげられるまでは、いわば神の忍耐によって「兄のがされて」きたのでした(ローマ3:24-26参照)。この犠牲は来たるべきあがない主に対する悔い改めた者たちの信仰を表していました。罪人は経験的に、あがない主イエスに対する悔い改めと信仰によってゆるされたのでした。

質問5 
燔祭の祭壇の上にはどんな中心的な犠牲がささげられましたか。出エジプト記29:38ー42

朝と夕の犠牲は全会衆のための公のささげ物でした。小羊が適当な素祭や灌祭と共にささげられました。この犠牲の重要な特徴は、それが祭壇で継続して焼かれたということです。つまり、火は決して消えることがなかったのです。「日ごとの燔祭は祭壇の上で焼かれたが、一つの犠牲が次の犠牲まで持つように弱火で焼かれた。……夕の犠牲は朝まで続き、朝の犠牲は夕まで続いた」(『SDA 聖書注解」第1巻713ページ)。

このようにして、祭壇の上にはつねに犠牲がありました。したがって、それは「毎日の」ささげ物、「常供の」ささげ物と呼ばれました。この犠牲はキリストの犠牲の不変的有効性を示していました。悔い改めたイスラエル人は昼夜を問わずいつでも、自分のためにささげられている犠牲を信仰をもって仰ぎ見ることができました。

質問6 
この犠牲は罪のための真の犠牲であるイエスについてどんなことを教えていますか。へブル4:16、7:25

2. 洗盤(30 : 17―21、 38 : 8)

この洗盤は婦人の青銅製の鏡をもって造られました(出エジプト記38:8参照)。洗盤の置かれていた台が本体と切り離すことのできるものであったこと以外、何も記されていません。

質問7
この洗盤は何のためのものでしたか。また、その使用法を誤るとどんな結果になりましたか。出エジプト記30 : 17―21

私たちの大祭司キリストの代表者として聖所に入る祭両]にとって肉体的また霊的な清めは絶対に欠かすことのできないものでした。そのため、この義務を怠った者は死ななければなりませんでした。この清めは、ご自分の血によって私たちの罪を洗い流してくださるいのちの水なるキリストを表していました(使徒行伝22:16、1コリント6:11、黙示録7:14参照)。

質問8
この洗盤は今日の教会のどんな儀式を予表していましたか。ヨハネ13:5、使徒行伝2:38

バブテスマは、私たちの罪が主イエスを救い主として受け入れたことによって洗い流されたことを表しています。洗足式は私たちに日ごとの清めが必要であることを思い起こさせてくれます。

3.金の燭台(25 : 31―40、 37 : 17―24)

七枝の燭台(より正確には灯台)は幕屋の第一の部屋一聖所一を照らす唯一の光源でした。それは至聖所に向かって左側にありました。(出エジプト記40:24参照)。ユダヤの神殿が紀元七十年に破壊されたとき、この燭台は戦利品としてローマに持ち去られました。それはローマの広場にあるティトゥスの凱旋門に美しく描かれています。それは両側に同じ高さの三つの枝を持った燭台で、一タラント(約34kg)の純金を打って造られていました。

質問9
神が燭台の火をともすことについて与えられた命令にはどんな深い意味がありましたか。出エジプト記27:20、レビ記24:1―4

七つのともしびが一度に全部、消えてしまうことは決してありませんでした。イエスは聖霊の働きを通して絶えず私たちに光を与えておられます。私たちもこの光を世に与えることをやめてはなりません。

4. 供えのパンの机(25:23―30、37:10―16)

木で作られ、金でおおわれたこの机は聖所の北側、至聖所に向かって右側に置かれていました。大きさはほぼ90 cm×45cm、高さが60cmほどでした。机の上には十二個のパンが六個ずつ二列に並べられていました。

質問10 
神はパンとパンの机に関してどんな指示をお与えになりましたか。レビ記24:5-9

祭司は安息日ごとにパンを新しいものと取り替え、古いものを食べました。「供えのパン」は字義的には「神のみ前のパン」という意味です。十二個のパンは十二部族に分かれたイスラエルを表していると思われます。この象徴は、イスラエルの部族が自分たちの日ごとのパンを主に依存していることをたえず認めていたことを示していました。より深い意味では、それは生けるパンであるイエスを示していました。

5.香の祭壇(30 : 1 -10、 37 : 25―29)

木で造られ、金でおおわれた香の祭壇は、ほぼ45cm四方、高さが1mありました。それは聖所と至聖所を隔てる幕のすぐ前に置かれていました。特別に調整された香が朝に夕に、この祭壇の上でたかれました。

質問11 
天の聖所を示されたヨハネは、この祭壇の持つ意味について何と言っていますか。黙示録8:2ー4(黙示録5:8、詩篇141:2と比較)

「救い主キリストの義によって香りをつけられた私たちの祈りは聖霊によって父なる神の前にささげられる。ヨハネは幻の中で、香の煙が祈りと芳香をおびて無限なる神の前に立ちのぼるのを見た。罪なきイエスの御名によって恵みの座に嘆願することを知る最も弱い聖徒は、天のあらゆる宝を自分のものとすることができる」(S・N・ハスケル『十字架とその影」61ページ)。

6.契約の箱(25:10-22、37:1―9)

至聖所の唯一の器物である契約の箱は木で造られ、その内と外を金でおおわれていました。長さが1.2 m、幅が60cm、高さが60 cmどのものでした。「贖罪所」と呼ばれる厚い金のふたが箱をおおっていました。贖罪所の両端には金のケルビムが立っていました。この契約の箱は神の御座を表しており、神の栄光であるシェキーナが金のケルビムのあいだに現れました。

質問12
契約の箱には何が入っていましたか。それは贖罪所とどんな関係にありましたか。出エジプト記40:20、申命記10:1ー5

契約の箱のふたを意味する語のもとの意味は「ゆるし」です。「契約の箱と贖罪所とは聖所の中核を占めていた。……箱の中の律法の板は、神の国が不変の義の標準の上に築かれている事実を証明していた(詩篇17:2)。それは神の恵みでさえ尊ばなければならないものである。……箱の中の板は人間に不利な証言をするものであるが、贈罪所は律法の要求が満たされる道、罪人が律法の刑罰である死から救われる道を指し示していた」(「SDA聖書注解』第1巻637ページ)。

聖所はイエス・キリストを象徴していました。使徒パウロは、神はイエスを「あがないの供え物」とされたと言っています(ローマ3:25)。彼がここで用いているギリシャ語は贖罪所をさす言葉です。つまり、イエスは律法の違反者に下る刑罰から私たちを救う贖罪所なのです。

まとめ

神は聖所を通してイスラエルに福音を示されました。その儀式は目的のための手段であって、目的そのものではありませんでした。イスラエル人はこのことを理解しました。しかし、ときには形式的な礼拝におちいることもありました。ミカの言葉は、古代イスラエルばかりでなく今日の霊的イスラエルにとっても真実です。「主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。……人よ。彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ書6:7、8)。

*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次