【テサロニケの信徒への手紙1・2】きよめられた生活【解説】#13

目次

きよめは私たちの目標

きよめはクリスチャンの生涯の最高の目標です。ガリラヤ人、イエス・キリストはこの点において私たちの模範ですが、彼は単に私たちの模範であるだけではありません。イエス・キリストは私たちのきよめ(聖化)を可能にする理解力と再生の力を与えてくださいます。

アウトライン

1. きよい生活のすすめ( I テサ4 : 3、4、7 ) 

2. 聖霊によるきよめ(Ⅱテサ2:13)

3. からだのきよめ( Iテサ4 : 3 〜7 ) 

4. 完全なきよめ(Iテサ5 :23) 

5. 私たちをきよめてくださるキリスト(Iテサ5:24) 

パウロの手紙におけるきよめの強調

パウロはエペソの教会の長老たちに、「聖別されたすべての人々と共に」御国をつぐ者となるように望んでいます(使徒20:32)。彼はこの言葉をローマの異邦人のための働きに関連して用いています。ローマの異邦人はきよめによって受け入れられる者となりました(ロマ15:16参照)。パウロはコリントの信者を、「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがた」と呼んでいます(Iコリ1:2)。さらにまた、彼らに次のように言っています。「しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」(Iコリ6: 11)。エペソ人に対しては次のように言っています。「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり」(エペ5:26)。テモテに対しては、若い時の情欲を避け、「尊いきよめられた器となって、主人に役立つもの」となるように勧告しています(Ⅱテモ2:21)。そして、へブル人に対しては、「きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている」と言っています(ヘブ2:11)。パウロがテサロニケ人に望んでいたことは、彼らがある特定の罪を捨てることではなく、むしろ彼らが「きよめられた」状態に達することでした。彼のこの願望は至るところに表されています。テサロニケ人は、「神のみこころにかなって歩くように」(Iテサ2: 12、Ⅱテサ1:11)、「責められるところのない者」となるように(Iテサ3:13、 5:23)、 またきよくなるように(Iテサ4:7) 求められています。

テサロニケ人にこのように書き送ることによって、パウロは各時代のクリスチャンにもこの重要な真理を教えようとしたのでした。テサロニケの教会にきよめ(聖化)の重要性を説くことによって、パウロはそれが必要なもの、望ましいものであるばかりでなく、だれにでも与えられるものであることを強調しています。

きよい生活のすすめ(1テサ4:3、4、7)

質問1 
クリスチャンの理想的な生き方について、パウロは何と教えていますか。
1テサ3:13、1テサ4:3,4、1テサ4:7、2テサ2:13

「きよめられる」と訳されているギリシャ語は「聖とされる」とも訳することができます。たとえば、テサロニケ人への第1の手紙4:7は、「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、聖とされるためである」とも訳すことができます。新約聖書においては、「聖とされる」と「きよめられる」は同意語です。

質問2 
「清く、責められるところのない者」( I テサ3 : 1 3 ) とはどういう意味ですか。Iテサ5:23比較

さばきは神のもの

「『清く、責められるところのない者』とは、可能な最高の倫理的、霊的標準を表すものである。そのような標準は、キリストが愛に成長する弟子たちに与えられる恵みによって到達することができると、パウロは信じていた。そのように信じないことは福音を否定することである。……パウロが望んだことは、彼の信者たちが過ちの多い人間によってではなく、人の心をさぐり、その意図を知られる神によって責められるところのない者とみなされることであった」( 『SDA聖書注解』第7巻241ページ)。

質問3 
きよめにはどんな重要な二つのことが含まれていますか。Iコリ6:11をIテサ3:12〜4:3と比較

「真のきよめは、品性において神と調和すること、神と一つになることである」(「教会へのあかし』第6巻350ページ)。

「きよめとは、内も外も聖なる状態、きよくなることであり、形式ではなく真の意味において全く主のものとなることである」(『私たちの高い召し』214ページ)。

「〔きよめ〕とは、たえず恵みにおいて成長することである」(『教会へのあかし』第1巻340ページ)。

「きよめは習慣的に神と交わることを意味する」( 『S D A 聖書注解』第7巻908ページ、エレン・G・ホワイト注)。

「きよめは漸進的な働きである。それは、一時間や一日で得られ、その後、何も努力しないでも保持できるようなものではない」(『教会へのあかし』第2巻472ページ)。

「清めとは、神のみこころに完全に従いながら、日こ.との務めを快活に行なうことである」(『キリストの実物教訓』336ページ)。

きよめとは、現在、キリストにあって聖とされていることであり、またキリストにあってさらに聖とされることキリストが信じる者の心に宿られるとき、彼はキリストのきよめの賜物を受けます。しかし、彼はやはり悪への傾向を持った堕落した人間のままです(I コリ9:27参照)。きよめはまた、さらに聖とされることを含みます。それは日ごとにキリストの力を受けることによって可能となります。キリストの力だけが堕落した人間の弱さをいやすことができます。

聖霊によるきよめ(Ⅱテサ2:3)

質問4 
きよめの過程で積極的な役割を果たされるのはどなたですか。Ⅱテサ2:13、ロマ15:16、1ペテ1:1、2 

聖書は決して、人間が自分で自分をきよめることができるとは教えていません。

「キリストがわれわれのうちに住まれるのは、みたまを通してであり、神のみたまが信仰によって心に受け入れられるときに、それは永遠のいのちの始まりである」(「各時代の希望』中巻136ページ)。

「キリストの弟子たちは、彼のようにならなければならない。神の恵みによって、神の聖なる律法の原則に調和した品性を形成しなければならない。これが聖書のいう清めである。この働きは、キリストを信じる信仰によってのみ達成されるもので、神の霊の内住の力によるのである」(「各時代の大争闘』下巻197ページ)。

質問5 
聖霊はきよめの過程においてどんな影響力を用いられますか。エペ5:26、使徒20:32、使徒26:15―18、ヘブ10:10,14

質問6
きよめられた人の生活にはどんなしるしが見られますか。使徒5:32、 1ペテ1:2 

「キリストはいつわりをおおせにならない。また聖書の教えは巧みにつくられた寓話ではないと確信するだけでは十分でない。わたしたちは、イエスのみ名こそ人を救う唯一の名であることを信じつつも、なお信仰によってキリストを自分の救い主として信じないでいることもできる。真理の理論を信ずるだけでは十分でない。キリストへの信仰を表明して名前を教会名簿に連ねるだけでは十分でない。『神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである』。『もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである』(ヨハネ第1.3:24、2:3)。これが回心のほんとうの証拠である。わたしたちが口で何を言おうとも、キリストが義の行為となってあらわされるのでなければ、それは無にひとしい」(『キリストの実物教訓』292、293ページ)。

からだのきよめ(Iテサ4:3〜7) 

質問7
パウロは、テサロニケ人がどんな点においてきよめられることを望みましたか。Iテサ4:3〜7 

パウロはテサロニケ人とコリント人に性的不道徳の危険性について警告しました( I コリ7 章参照)。彼の勧告を必要とする多くの問題があったからです。テサロニケ人への第1の手紙4章は、18節のうちの5節までが不道徳に対する戒告となっています。「不品行」(Iテサ4:3)と訳されているギリシャ語は、既婚者によるものであれ未婚者によるものであれ、性的不道徳をさしています(マタ5:32、19:9参照)。

繰り返される悲劇

「時が終わりに近づき、神の民が天のカナンの境界に立つとき、サタンは、昔と同じように、彼らをよい地にはいらせまいとして、いっそう努力する。彼はひとりひとりにわなをしかける。気をつけなければならないのは、無知で無教育な人々ばかりではない。彼は最も高い地位、最も聖なる職務の人々をも誘惑する。もし彼らをいざなってその魂を堕落させることができれば、彼らを通して多くの人々を滅ぼすことができる。そして彼は今も、三千年前に用いたのと同じ手段を用いる。この世の交わり、美貌の魅力、快楽の追求、歓楽、安楽、飲酒などによって、彼は第7条を犯させようとする」(「人類のあけぼの』下巻71ページ)。

完全なきよめ(Iテサ5:23) 

質問8 
パウロが信者に求めているきよめはどの程度のものですか。Iテサ5:23 

霊と心

「『霊』……は人間に与えられた知性と思想のより高い原則であって、神は聖霊によってそれと交わられる。……人がキリストのかたちに変えられるのは、心が聖霊の働きによって更新されることによる。……『心」……は霊と異なり、本能、感情、欲求を通して表される人間の性質である。人間のこの性質もまた、きよめられるものである。聖霊の働きによって、人の心が神の心と一致し、きよめられた理性が低級な性質を支配するとき、神に逆らう衝動は神のみこころにかなうものとなる。したがって、謙虚なクリスチャンは、神に従っているときに自分自身の衝動を遂行していると言えるほどに完全なきよめに到達することができる。彼は喜んで神のみこころを行う」( 『SDA聖書注解』第7巻257ページ)。

質問9
きよめ(聖化)がこれほど重要なのはなぜですか。ヘブ12 :14 

へブル人への手紙12:14は信者に対するパウロの願望、つまり和合ときよめについて述べています。和合は同胞との関係を、きよめは神との関係を表します。後者がなければ前者はなく、両者がなければ人は神を見ることができません。

私たちをきよめてくださるキリスト(Iテサ5:24) 

質問10 
聖霊はどんな権威によって私たちをきよめてくださいますか。Iテサ5:24 

質問11 
きよめが一生の働きであるのはなぜですか。ガラ5:16〜18 

闘いは続く

「サタンが支配しているかぎり、われわれは自我を静めて、絶えずつきまとう罪にうち勝たねばならない。生きているかぎり、留まる場所もなければ、完全にやり遂げたと言えるところもない。きよめは生涯の服従から生じるものである」(『患難から栄光へ』下巻264ページ)。

質問12
生涯つづくきよめの過程において罪に勝利する秘訣は何であると、パウロは言っていますか。ロマ6:9〜14 

キリストにあって生きる

ローマ人への手紙6:11の「認む」という言葉は、たとえば「考える」(改訂標準訳、モファット、詳訳聖書)、「みなす」(ウェイマス、新英語聖書)などのように、さまざまに訳されています。現代英語訳では、「罪に関して、あなたがた自身を死んだ者とみなしなさい」となっています。「認む」と訳されているギリシャ語には、「本当のものを本当とみなす」という意味もあります。パウロが昔の罪深い生き方と定義している罪の「古き人」はもはや、キリストを救い主として受け入れている人を支配することがありません(ロマ6 :6 、エペ4 :2 2 〜2 4 、 コロ3 :1 〜1 0 参照)。しかしながら、新しく生まれ変わった信者も悪への傾向を持った堕落した人間なので、キリストによって与えられる力をもって絶えずこれに対抗する必要があります(ガラ6:16〜11 コ9、 リ9 :27)。

今、内にあって支配されるキリスト(コロ1:27参照)

キリストが私たちの心を占領されるとき、私たちの堕落した人間性はイエスの内住の力によって無力なものとなります。イエスに支配していただくかぎり、私たちはもはや失望したり、敗北したりすることがなくなります。私たちの肉体は不浄なものであって(『セレクテッド・メッセージズ」第2巻32ページ参照)、イエスが来られるまで、この宿命からのがれることはできません。しかし、「新しい人」であるキリストご自身が聖霊によって私たちの心に住んでくださるときに、私たちは今でも肉欲の誘惑に打ち勝つことができます(ロマ8:1〜11参照)。

質問13 
霊的成長は一生かかっても完成されることがありません。そこで、イエスは私たちを救うためにどんな重要な役割を果たされますか。Iコリ1:30、31、エレ23:6 (Iヨハ5:4、 5比較)

私たちの義キリスト

「私たちは肉体的に完全な者となることはできないが、クリスチャンとして霊的に完全な者となることができる。私たちのためになされた犠牲によって、罪は完全にゆるされる。私たちは人間のできることにではなく、神がキリストによって人間のためにしてくださることに信頼すべきである。私たちが全的に神に献身し、心から信じるとき、キリストの血がすべての罪からきよめるのである。良心は罪の宣告から解放される。キリストの血に対する信仰によって、すべての人がキリスト・イエスにあって完全な者となることができる。感謝すべきことに、私たちは不可能に挑戦しているのではない。私たちはきよめを要求することができる。神の恵みにあずかることができる。私たちが関心を持つべきなのは、キリストと神が私たちをどうみなされるかではなく、むしろ神が私たちの身代わりであるキリストをどうみなされるかということである。あなたがたはキリストにあって受け入れられている。主は悔い改め、信じる者に対して、彼に魂をささげる者を受け入れ、ご自分のかたちに造り変えてくださると言われる」(『セレクテッド・メッセージズ』第2巻32、33ページ)。(「教会へのあかし」第5巻471、472ページ参照)

まとめ

御霊によって啓発され、十字架によって罪を悟らされ、みことばによってきよめられ、血によってあがなわれ、キリストによって義とされ、神の恵みによって救われることによって、私たちはみな幸福で、きよい生活を送ることができます。それは日ごとにきよめられる経験です。それは私たちの愛にみちた神との信頼関係によって達成されます。

*本記事は、安息日学校ガイド1991年3期『再臨に備えて生きる』からの抜粋です。

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