誰が律法を「変更」したか【終末時代への備え】#6

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今回の記事のテーマ

終末の諸事件を理解するうえで中心となるのは、神の律法の問題です。もっと具体的に言えば、第四条の戒め、第七日安息日の問題です。救いは信仰のみによるのであり、(安息日を含む)神の律法を守ることは決して救いをもたらさないと、私たちは理解していますが、終わりの時に、(第七日安息日を含む)神の律法を守ることが、私たちの真の忠誠がどこにあるかの、目に見えるしるしになるとも理解しているのです。

この違いは、黙示録13章、14章に描かれている最高潮を迎えた終末の諸事件の中で特にはっきりします。その時、あらゆる権力を握った宗教勢力と政治勢力の集合体が、世界中の住人に偽りの形式の礼拝を強制するために協力するでしょう。このことは、黙示録14:7とまったく対照的です。その箇所では、神の民が「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝」するように、つまり唯一の創造主だけを礼拝するように命じられています。

私たちは今週、神の律法、とりわけ安息日に目を向け、その律法の意図的変更にまつわる問題と、終末が間もなく訪れる私たちにとってそれが意味することに触れます。

約束

聖書の最もすばらしい約束の一つ「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」は、ローマ8:1にあります。これらの言葉は、直前の一連の思考の最後の仕上げ、つまり結論として登場しています。それゆえ、この聖句に先立ってパウロが語ったことを研究することによってのみ、私たちはここに見いだされる希望、約束をよりよく理解できるのです。

問1 
ローマ7:15〜25を読んでください。ローマ8:1のパウロの言葉を確証づけるどのようなことを、パウロはこの箇所で述べていますか。その要点は何ですか。

パウロが信者としての自分自身に的を絞って語っているのかどうかについて、キリスト教会の中で大きな議論がなされてきました。が、一つのことだけは、はっきりしています。確かに、パウロが罪の現実について語っているということです。パウロがここで言及している格闘は、だれもが、クリスチャンさえもが、何かしら共感できるものです。すべきではないとわかっていることをさせようとする、あるいは、すべきだとわかっていることをさせないようにする肉の力、自分の「中に住む罪」の力を感じたことのない人がいるでしょうか。パウロにとって、問題は律法ではありません。問題は、私たちの肉なのです。

正しいことをしたいのに、正しくないことをする自分に気づいたことのない人がいるでしょうか。たとえパウロがここで、生まれ変わった1人のクリスチャンの生活における罪の必然性について語っていないとしても、確かに彼は、神に従おうとするだれもが直面する、逃れがたい格闘があることを強く説明しています。

そうして彼は有名な言葉を語ります。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ7:24)。彼の答えは、イエスと先のすばらしい約束の中に見いだされます。恵みによって「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という約束です。確かに信者も格闘します。確かに誘惑に遭います。確かに罪は現実です。しかし、イエスへの信仰によって、信じる者たちはもはや律法によって死に定められません。彼らは確かに律法に従います。そうして、肉にではなく、霊に従って歩むことを身につけるのです。

律法と罪

私たちは「約束」の項目の中で、クリスチャンをも含むすべての人にとっての罪の現実について述べている聖句(ロマ7:15〜25)に目を向けました。しかしパウロは、それらの前の聖句において、律法に注意を向けています。律法は、罪がいかに蔓延しており、いかに致命的であるかを示すものです。

律法と罪の関係について、律法によっては救われえないことに関して、ローマ7:1〜14を読んでください。パウロがここで教えていることから、二つの重要な点が出てきます。第一にパウロは、律法が問題なのではない、と指摘しています。律法は「聖なるものであり、……正しく、そして善いものなのです」(ロマ7:12)。問題は罪であって、それが死をもたらします。第二の点は、私たちを罪や死から救う力が律法にはないということです。律法は罪や死という問題を指摘します。それどころか、律法は罪や死という問題をさらに一層明らかにしますが、その問題を解決するために何も提供しません。

(ほかの多くの聖句は無視し、)これらの聖句を用いて、律法(十戒)が無効になったと論じるのは、表面的な読み方をする者たちだけです。そのような理解は、パウロの指摘とは正反対です。もし律法が無効なら、パウロがここで書いていることは何もかも辻褄が合いません。彼の議論が機能するのは、律法は罪の現実とその結果生じる福音の必要性を指摘するがゆえに依然として拘束力があるという前提に基づいてのことだからです。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ロマ7:7)。

律法についてだけでなく、なぜ律法が依然として必要なのかということについて、ローマ7:13を注意深く読んでください。死をもたらすのは律法ではありません。罪です。律法は、罪がいかに致命的であるかを示すものにすぎません。律法は善いものであり、それゆえ罪を指摘します。律法には罪に対する答えがありません。答えを持っているのは福音だけです。パウロの論点は、クリスチャンとして、キリストによって救われている者として、私たちは「“霊”に従う新しい生き方」(ロマ7:6)で仕える必要があるということです。つまり私たちは、イエスとの信仰のつながりの中に生き、救いのための彼の功績と義(ローマの信徒への手紙の序盤での主題)を信じているのです。

安息日から日曜日へ

私たちアドベンチストは、他教派のクリスチャン兄弟姉妹が、律法は廃止されたとか、私たちは律法の下ではなく、恵みの下にいる、と主張するのをしばしば耳にします。彼らの真意は、第四条だけが廃止されたということなのです。しかし、多くの人の真意はそれですらありません。彼らは、第七日安息日が週の第一日に、つまり日曜日に、イエスの復活を祝って置き換えられたと言っています。

彼らは、それを証明する聖句があると信じているのです。以下は、多くのクリスチャンが、旧約聖書の第七日から新約聖書の第一日に安息日が変更された証拠だと信じている、よく知られた新約聖書の聖句のいくつかです。私たちはこれらの聖句を読むとき、それらが本当に日の変更について語っているのだろうか、あるいは、変更を命じるレベルには至っておらず、単にその日に起こった出来事を描写しているのだろうか、と自問する必要があります。

問2 
ヨハネ20:19〜23を読んでください。弟子たちはなぜこの部屋に集まっていたのですか。ある人たちが主張するように、その集まりがイエスの復活を祝う礼拝であったのかについて聖句は何と述べていますか。

問3 
使徒言行録20:6、7を読んでください。聖句に、安息日が日曜日に、つまり週の初めの日に変更されたことを示すものがありますか(使徒2:46も参照)。

問4 
Iコリント16:1〜4を読んでください。彼らが週の初めの日に家で献金をたくわえなければならなかったという事実を除けば、この箇所は安息日を日曜日に変更することについて、何か教えていますか。

ここにあるのが、週の最初の日が第七日安息日に取って代わったという教理を促進するために用いられる聖書的「証拠」の核心部分です。さまざまな理由のために信者が集まったいくつかの機会の記録を除けば、一つの聖句として、これらの集まりが、第七日安息日の代わりとして週の最初の日に持たれた礼拝であったとは述べていません。このような主張は、これらの聖句の中に何世紀にもわたる日曜順守の伝統を読み込んでいるにすぎないのです。それは、そもそもなかったものをこれらの聖句の中に注入しています。

新約聖書における第七日

きのう触れたように、日曜日が安息日に置き換わったという考えを広めるためによく用いられる聖句は、そのようなことを述べていません。それどころか、新約聖書において第七日安息日に言及している箇所はみな、安息日が神の十戒の一つとして守られ続けていたことを明らかにしています。

問5 
ルカ4:14〜16、23:55、56を読んでください。これらの聖句は、キリストの死の前後における第七日安息日について、どのようなことを述べていますか。

キリストと一緒にいた女性たちが、いかに「安息日には掟に従って休んだ」(ルカ23:56)かに注目してください。明らかに、その掟とは、シナイで石の板に記された第四条でした。このように、彼女たちがイエスと一緒にいたときに何を学んだにしても、彼女たちがイエスから(安息日の掟を含む)神の戒めを守ること以外の何かを学んだというしるしはありません。実際、キリストは御自分の弟子たちに、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(ヨハ14:15)と言われました。キリスト御自身が守っておられたキリストの掟には、第七日安息日が含まれていました。もし仮に日曜日が安息日の代わりだとしたら、彼女たちはそれについて何も知らなかったことになります。

問6 
使徒言行録13:14、42〜44、16:12、13を読んでください。これらの聖句は、第七日安息日を守ることに対して、どのような証拠を提供していますか。週の最初の日を守ることに対しては、どんな証拠を提供していますか。

これらの聖句の中に、安息日が日曜日に変わったという証拠は見つかりません。それどころか、これらの聖句は、初期のイエスの信者たちの間で、第七日が習慣的に守られていたことをはっきり示しています。

使徒言行録16:13は興味深い聖句です。なぜなら、その出来事は会堂の外で起こっているからです。その信者たちは川岸に集まっており、そこは、何人かの人が「習慣的に」行って、祈る場所でした。しかも彼女たちは、イエスの死後何年も経過してから、第七日安息日にそうしていました。もし日曜日への変更がなされたとしたら、これらの聖句はそのことを何も伝えていないことになります。

小さな角と安息日の変更

神の律法、すなわち十戒は、依然として拘束力があり(ヤコ2:10〜12も参照)、その律法には第七日安息日が含まれています。では、なぜ多くのクリスチャンは、正当化する聖書的理由がないにもかかわらず、日曜日を守るのでしょうか。

ダニエル7章は、四つの大きな帝国の興隆について述べています。バビロン、メディアとペルシア、ギリシア、そして第四にして地球上最後の帝国ローマです。ローマ帝国の終盤で、小さな角の勢力がこの帝国から生え出てくる様子が描かれています。生え出てきたものですが、それはローマ帝国の、まさに後期の一部です。この勢力が、法王制以外の何かである可能性があるでしょうか。法王制はローマから直接生じ、今日に至るまで、依然としてローマの一部です。イギリスの哲学者トマス・ホッブスは、17世紀にこう記しました。「もし人がこの大いなるキリスト教会の支配権の起源を考えるなら、それは、滅亡したローマ帝国の亡霊にほかならず、その帝国の墓の上に冠をいただいて座っている法王制度だ、と容易にわかるだろう」(『レビヤタン』463ページ、英文)。

ダニエル7:23〜25を読んでください。この聖句は、日曜順守の起源を理解するうえで助けとなることを教えています。原語のアラム語は25節で、この小さな角の権力が律法を変えようと「企てた」ことを明らかにしています。どんな地上の権力が、実際に神の律法を変えることができるでしょうか。

歴史の中で詳細ははっきりしませんが、私たちは、法王制ローマの下で第七日安息日が日曜順守の伝統に、つまり宗教改革が存続させ、21世紀に入っても続いているほど確実に定着している伝統に、置き換えられたことを知っています。今日、ほとんどのプロテスタントは、第七日に関する聖書の命令に従うよりも、依然として週の初めの日を守っています。

黙示録13:1〜17を読み、ダニエル7:1〜8、21、24、25と比較してください。私たちが終末の諸事件を理解するうえで助けとなる比喩が、これらの聖句の中で用いられています。ヨハネの黙示録は、ローマの後期(法王制の段階)に関する比喩を含むダニエル書の比喩をそのまま用いることで、黙示録に登場する権力者たちの命令に従って「礼拝」することを拒む人たちに降りかかる終末時代の迫害を指摘しています。

さらなる研究

天で神に戦争をしかけた竜(黙12:7)、つまりサタンと、「神の掟」(同12:17、さらに13:2、4も参照)を守る地上の神の民に戦争をしかける竜とは、同じものです。実際、サタン自身が礼拝の対象にもなります(同13:4)。それゆえサタンは、天で始めた神との戦争を地球でも続けようとします。そして、神に対するサタンの攻撃の中心は、神の律法を攻撃することなのです。

「神は、第4条の戒めのなかで、天と地の創造主として示されており、それによってすべての偽りの神々との区別が明らかにされている。第七日が、人間の休息の日として聖別されたのは、創造の業の記念としてであった。それは人間が、生ける神を、存在の根源、尊崇と礼拝の対象として、常に心に留めておくためであった。サタンは人々に、神への忠誠をつくさせず、神の律法に従わせまいと努力している。それゆえに彼は、神が創造主であることを指し示す戒めを、特に攻撃するのである」(『希望への光』1613ページ、『各時代の大争闘』上巻48、49ページ)。

私たちが主を礼拝するのは、彼が「天と地」の創造主であられ、第七日が彼の創造者たることの基本的しるし、創造週にさかのぼるしるしだからです(創2:1〜3)。神の権威に対する攻撃において、サタンがそのような第一にして基本的な権威のしるし(第七日安息日)を狙うのも、不思議ではありません。

神は終わりの時に、神への忠誠を決して曲げない人たちを地上に持っておられることでしょう。その忠誠とは、神の戒め(創造主、私たちの礼拝に値する唯一のお方として具体的に主を指し示す唯一の戒めを含むすべての戒め)に従うことで明らかにされる忠誠です。

*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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