【サムエル記上】追われる逃亡者と狂った王【21章〜23章、25章解説】#7

目次

ダビデ王の逆境

ダビデの王位への備えは,逆境という厳しい学校においてなされました。彼はときには逆境に勝利し,ときにはみじめな敗北を経験しました。逃亡者として追われる年月のあいだには,目ざましい勝利をおさめたことがあり,またひどく矛盾したことを行ったことがありました。それでも,彼は神に信頼しました。一方,サウルはさらに深い絶望へと沈んでいきました。

ダビデの苦悩 こんどはどこに逃れたらよいのでしょうか。預言者サムエルのところも安全ではありませんでした。秘かにヨナタンを訪ねても,恐れが増すばかりでした。サウルが彼を殺そうとしていたからです。自分の家も安全ではありませんでした。このような状況下で彼は逃亡者となり,追われる鹿のように,一つの場所から別の場所へと逃れます。

緊張の中にあって,彼は何度か重大な過ちを犯しますが,それでも決して神に対する信頼を捨てませんでした。そのようなときに,神は一人の敬けんな婦人を用いて,王位を失わせるほどの悲劇的な過ちから彼を救われます。彼の切々たる詩篇のいくつかは,この暗い時期に書かれたものです。

Ⅰ. 動揺するダビデの信仰(サムエル記上21:1~15)

ダビデがノブの聖所に逃れたのはなぜですか。彼は何と言って,祭司に自分の必要を信じさせますか。

サム上21:1~5,8 (マタ12:3,4比較)

レビ記24:8,9によれば,聖所の机から毎安息日ごとに取り下げられた供えのパンは,祭司が食べることになっていました。この時点までは,ダビデの記録は完全なものでした。ところが,サウルの激しい怒りと自分の家族や親友ヨナタンとの離別に直面したときダビデはうそとごまかしによって解決しようとしました。勝利を得させてくださる神を信じて,あれほど勇ましくゴリアテから剣を奪ったダビデが,いま自分自身を守るためにその同じ剣を取ろうとしていました。

イエスはダビデのうそを許してはおられませんが,飢えた人のために供えのパンを与えた祭司の行動を弁護しておられます。アヒメレクはこれによって道徳律を犯したのではありません。神は人間の必要を礼典律の要求よりも重視されました。同じように,イエスも弟子たちの肉体的必要を,安息日に脱穀することを禁じた人間の律法よりも重視されました。

ダビデはガテにおいてどんな二番目の過ちを犯しますか(サム上21:10~15)。詩篇34篇はこのときの悲しい経験について歌っています。この詩篇にはダビデが学んだどんな教訓が示唆されていますか。

4節
9,10節
13, 14節
17~19節
22節

「彼は,神を信じ,神の名のもとに出て行った。しかし敵に追われ,迫害されたときに,困惑と苦悩のために彼の天の父を見失ってしまうばかりであった。しかし,この経験はダビデに知恵を与えたのである。それは,彼に自己の弱さを自覚させ,常に神に信頼する必要を感じさせた。失望または落胆した魂に働きかけ,気落ちした者を励まし,衰えた者を強め,試練の中にある主のしもべたちに勇気と力を与える神の霊のお働きはなんと尊いことであろう。また,われわれの神は,何という神であろう。神は,誤った者をやさしく扱い,われわれが逆境または,大きな悲しみに圧倒されているときにも忍耐深くあわれんでくださるのである」(『人類のあけぼの」下巻335ページ)。

◆ 不正直な手段を用いてまで自分自身を守る必要があるでしょうか。神がダビデをゴリアテの手から守ってくださったのなら,彼をサウルの手からも守ることがおできになったのではないでしょうか。

Ⅱ. 悲しい結果(サムエル記上22:6〜23)

ダビデがノブの祭司の所に行ったことを,サウルはどうして知りましたか。

サム上21:7,22:6~10

サウルは祭司アヒメレクに対して,どんな偽りの告発をしますか(サム上22:11~13)。アヒメレクはどのように弁明しますか。

14,15節

アヒメレクに対するダビデの偽りの報告によって,大祭司とダビデを助けた多くの祭司たちが殺害されるという悲しい結果を招きました。「もしも彼が事実を明らかにしていたならば,アヒメレクは自分の生命を保つために取るべき手段を知っていたことであろう。神は,どんな危機にあっても,神の民が真実であることを要求されるのである」(『人類のあけぼの』下巻334ページ)。

近衛兵が王の命令を拒んだとき,だれがそれを執行しましたか(サム上22:17~19)。この悲しい出来事を知ったとき,ダビデは何と言いましたか(22節)。ダビデは詩篇52篇のなかでエドム人ドエグについて何と言っていますか。

ノブの町については,あまりよくわかっていません。シロの滅亡後,聖所がそこに置かれていました。聖所の儀式は,祭司および町の住民の殺害というこの恐ろしい出来事によって終わりを告げたことでしょう。こうして,エルサレムに神の箱と聖所が置かれる道が備えられました。

◆ 私たちもダビデのように自分の罪の恐ろしい結果を率直に認めているでしょうか。これがダビデとサウルの大きな違いでした。私たちが素直に自分の罪を告白し,悔い改めるとき,神はその過ちをゆるしてくださいます。ダビデのように,私たちも自分の罪の結果を悔い改めながら生きなければならないことがあります。

Ⅲ.逃亡者,ダビデ(サムエル記上22:1~5,23:1~28)

ガテにおける出来事のあと,ダビデはどこに行きますか。だれが彼についてきましたか。このことは彼の家族関係についてどういうことを教えていますか。

サム上22:1~5

そのときのダビデは,ある意味で無法者でした。彼はユダヤの荒野に身を隠していました。暴君の手から逃れて,自分たちの小王国を建設しようと望む者たちが一緒でした。

両親に対するあたたかい配盧は彼の品性をよく表しています。過去に見られた兄弟たちのねたみも,今は受容と支持に変わっています。ダビデがやがてイスラエルの王となることを知っていたからでしょう。詩篇133:1はこのときに書かれたものと思われます。「見よ,兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」(『人類のあけぼの』下巻336,337ページ参照)。

逃亡者としての苦悩のなかで,ダビデは叫びました。「主よ,いつまでなのですか。とこしえにわたしをお忘れになるのですか。いつまで,み顔をわたしに隠されるのですか。いつまで,わたしは魂に痛みを負い,ひねもす心に悲しみをいだかなければならないのですか。いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか」(詩13:1,2)。

主が,「わたしはいま立ちあがって,彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と言われるときを,ダビデは待ち望みました(詩12 :5)。

嘆きの詩篇 嘆きの詩として知られる詩篇の多くは,嘆きと嘆願の祈りです。ダビデの詩篇のなかには,それが作られたときの状況を明示したものがあります。その多くは,彼が狂った王によって追われていたこの時期に書かれたものと考えられています。

嘆きの詩篇の構成はふつう,次のようになっています。(1)神の助けを求める叫び、2)嘆き、3)信仰の告白,(4)嘆願(5)賛美。

詩篇54,57篇を,その表題を念頭において読んでください。それぞれの詩篇に嘆きの詩としての要素を読みとってください(必ずしも次の順序どおりには書かれていません)。

助けを求める叫び
嘆き
信仰の告白
嘆願
賛美

マルチン・ルターはかつて,迫害された聖徒が詩篇を最もよく理解することができると言いました。すべてが順調に行き,神の祝福と恵みを受けているときに神を賛美することは容易です。しかし,危機のなかで生まれ,逆境という厳しい試練のなかで鍛えられた信仰は,最も明るく輝き,最も力強く神を賛美するものです(詩篇11 篇は,ダビデがジブの荒野に隠れていたときに作られたと考えられています-「人類のあけぼの』下巻339~341ページ参照)。

◆ 自分の過去を振り返るときに,神がどんなときにも導いておられたという実感を抱くことができますか。

Ⅳ. サムエルの死(サムエル記上25:1)

ダビデとサウルとのあいだには,一時的に和解が成立しました。(このことについては来週,学びます)。サムエルの死後,ダビデはふたたびパランの荒野に逃れます(サム上25:1)。

サムエルの死の影響  預言者サムエルの死は国家にとって悲劇的な損失となりました。預言者の学校の創立者にして校長であった彼は,サウル以上に大きな影響を与えました。民は強情に王を求めたことの非を認めていましたが,彼らのためのサムエルの働きと執り成しによって一種の安心感を得ていました。その霊的巨人がもういなくなったのです(「人類のあけぼの』下巻345~347ページ参照)。

ダビデは彼の霊的指導者の死を心から嘆きました。狂った王から自分を守ってくれるきずながまた一つ,絶たれたのです。ダビデにとって,安全な場所はなくなりました。彼はこんどは,パランの荒野に逃れます。荒野に身を隠すなかで,彼は詩篇121篇を作りました。

◆ ダビデの立場になって,祈りと瞑想のうちに詩篇121篇を読んでみましょう。あなたはこのような状況に置かれたら,どんなことを考えますか。

「われわれの前にある苦悩と苦悶の時は,疲労と遅延と飢えに耐えることのできる信仰,すなわち,激しく試みられても落胆しない信仰を要求する。…嘆願者の上に,言葉では表現することのできない絶望の波が押し寄せるときに,確固不動の信仰をもって神の約束にすがる者が,なんと少ないことであろう」(「各時代の大争闘』下巻395ページ)。

V. 敬けんな一婦人の影響(サムエル記上25:2~42)

ナバルの職業,身分,個性について考えてみましょう。

サム上25:2,3

ナバルの職業,身分,個性について考えてみましょう。

対照的に,アビガイルはどんな特性を備えていましたか。

つむじ曲がりの夫と一緒にいながらも,アビガイルは御霊に満たされた美しい生き方をしていました。彼女は夫によって自分の魅力と思いやりに満ちた心を汚されることがありませんでした。彼女の影響力は花の香りのように,親切心,平和,敬けんさをかもし出していました。

ダビデがナバルを攻撃しようとしたのはどんな理由からですか。

サム上25:4~13

人をもてなすことは今も昔も,東洋においては一種の義務でした。加えて,羊の毛を刈る時期は,いわば収穫の祭りでした。贈り物をすることは当然のことでもあったのです。ナバルがダビデの一行に食物を提供することを拒んだことは,当時の慣習に従えば,人を侮辱すること,一般的な礼儀を無視することでした。

ナバルがわざとダビデを無視したことは(サム上25:10),彼の粗野で敵対的な精神の表れでした。この時には,ダビデの一行のことはよくわかっていたはずです。ナバルのしもべたちはダビデの一行に感謝の意を示しています(14~16節)。のちにアビガイルも,ダビデの事情を知っていたことを認めています(28節)。

ダビデは王位を失っていたかもしれない こうした背景があったとしても,ダビデの性急な行動は正当化されるものではありませんでした。「有名なユダヤの一住民に対するダビデの激しい攻撃は,確実に彼の王位を犠牲にし,サウルに対する早急な反逆となっていたことであろう。ダビデは分別と道徳心をもって,この侮辱に耐えるべきであった。いかにもっともなことであれ,怒りは必ず過剰反応につながるものである」(デービッド.F・ペイン『サムエル記上・下」130,131ページ)。

アビガイルは直ちにどんな行動をとりましたか。

サム上25:18~23

アビガイルは賢く,美しかっただけではありません。彼女は行動の人でもありました。たいていの女性は,ナバルのような男と一緒にいれば,おどおどした,物おじする人間になっているものです。しかし,アビガイルは勇気と独創力を発揮します。彼女は危険もかえりみずにダビデの一行に会いに行きます。

アビガイルはダビデにどんなことを求めましたか。

サム上25:24~31

アビガイルの品性のすばらしい点は,自発的に夫の罪を負おうとしていることです。愚かな夫の罪の身代わりになろうとしている点において,彼女はイエスの糒神を反映しています。「どうぞ,はしためのとがを許してください」(サム上25:28)。

アビガイルの嘆願はつぎの一二つの意味において,ナバルに報復することは得策ではないという確信をダビデに与えました。

1.もしダビデが主の戦いを戦っているのであれば,神は彼のために敵に報いてくださるはずです(サム上25:26,28)。サウルは個人的な仇討ちをするという過ちを犯していました。ダビデはこれと同じ悲惨な過ちにおちいってはならないのです。

2.ダビデは流血という過ちによって自分の記録を汚してはならないのでした(サム上25:31)。権力を乱用したときに,サウルの堕落が始まりました。ダビデも同じ過ちを犯すところでした。

アビガイルの忠告に対するダビデの応答は,彼の品性についてどんなことを教えていますか。

サム上25:32~35

ここに初めて,ダビデの真の向潔な精神が表されています。彼は非難され,とがめられたとき,‘兼そんな精神を表しました。一方,サウルは非難されたとき, 相手を責め,正当化し,偽りの信心によって取り繕いました。ダビデは,神が賢明な女性を用いて自分を悲劇的な過ちからお救いになったことを謙虚に認めました。

どんな事情のもとで,アビガイルはダビデの妻となりますか。

サム上25:36~42

聖書は一夫多妻制を許しているわけではなく,ただ事実をありのままに記録しているだけです(「神は,このような無知の時代を,これまでは見過ごしにされていた」〔使徒17:30〕)。ダビデは多くの妻をめとることによって,その報いに苦しみました(「人類のあけぼの』下巻351,352ページ参照)。それでも,彼のアビガイルとの結婚はほかのどの結婚よりも知恵と先見の明に満ちています(サム上25:43,44参照一サム下3:14~16比較)。この敬けんな女性はその影響力によって,将来のイスラエルの王に祝福をもたらしました。南の諸部族に対するダビデの名声は,ナバルの裕福な未亡人との結婚によって高められるのでした。

まとめ 

狂った王に追われるダビデの生涯は,嘆きの詩篇に記された彼の救いを求める叫びを理解する助けになります。これらの詩篇は,私たちが悩みに直面するときに慰めと励ましを与えてくれます。

*本記事は、1991年第1期安息日学校教課『危機、変化、挑戦ーサムエル記 上・下』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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