【サムエル記解説】人はいかにして滅びに至るか【サムエル記上24章、26章〜サムエル記下1章解説】#8

*この記事はサムエル記上の解説記事の続きになります。

目次

徐々に堕落する

ゆるされない罪は聖霊の導きを絶えず拒むことから来ます。霊的破滅への堕落は,悔い改めを求める主の訴えに積極的に応答することによっていやされます。

恵みによる救いは人間の応答を要求する 今週は,サウル王の悲劇的な晩年について,またダビデとの最後の出会いについて学びます。ダビデは軍人でしたが,とくにサウルに対して示された彼の人間愛は,当時の暗い時代にあってひときわ輝いて見えます。

サウルはなぜ滅びの道を選んだのでしょうか。人を永遠の滅びに導くものは何でしょうか。救いには二つの要素があります。(1)神が罪人の心に働かれること,(2)罪人が神の救いの働きを選ぶこと,つまり神の恵みの力によって神の戒めに従った生活をすることがそれです。主はすべての人を救おうとされます(Ⅱペテ・3:9参照)。同じように,主はサウルを救おうとしておられました。主はサウルの心に十分な導きをお与えになったのでしょうか。答えは明らかです。サウルはふさわしい応答をしたでしょうか。今週の研究がその答えを与えています。

Ⅰ. 寛大なダビデ(サムエル記上24:1~22, 26:1~25)

ダビデは二度にわたって,同じような方法でサウルを助けてやっています。どちらの場合においても,ダビデはサウルに彼のいのちを奪う意思のなかったことをはっきりと示しています。どの場合も,サウルの悔い改めは長くは続きませんでした。彼は長いあいだ悪い感情をほしいままにしていたために,理性を働かすことができなくなっていたようです。

サムエル記上24章に記されたダビデとサウルの出会いを,その場所と状況に注意しながら読んでみましょう。ダビデはどんな行為によって,彼がサウルに危害を加える意思のないことを示しましたか(4節)。ダビデはのちに自分のした行為に対してどんな思いを抱きましたか(5~7節)。

エンゲデの野山に隠れているダビデと彼の600人の部下は,サウルの3000人の軍勢にとっては物の数ではありませんでした。皮肉なことに,サウルはダビデの隠れているほら穴に,用を足すために一人でやって来ました。明るい太陽になれた彼の目には,ダビデたちの姿が見えませんでした。しかし,ダビデの従者たちにはサウルが見えました。彼らにとって,それは千載一遇の好機でした。

ダビデはサウルのしうちに対する怒りの心から,この機会を生かす誘惑にかられましたが,主の油注がれた者に対する深い尊敬の念が彼をとどめました。「ダビデはあとで,王の上着を切ったことを心に責められた」(『人類のあけぼの」下巻342ページ)。

ダビデはサウルに何と呼びかけていますか(サム上2 4 : 1 1 )サウルは何と応答しましたか(16節)。

サウルはダビデの義父でした。しかし,ダビデが2回目にサウルのいのちを助けたときには,ミカルはほかの男性のものとなっていました(サム上25:44)。ダビデがサウルを父と呼ばないで,王と呼んでいることに注意してください(サム上26:17)。

ダビデはどんなたとえによって,むなしい追跡を続けることの愚かさをサウルに悟らせようとしましたか。

サム上24:14,26 :20

ダビデの意図は明らか 真の敵であるペリシテ人が非常な勢いでイスラエルの国境を侵しているというのに,サウルは一匹ののみを追うようにダビデを追うことによって時間を浪費していました。

しゃこを追うというダビデの言葉は痛烈なものです。うずらの仲間で,大きさも同じくらいの砂しゃこは,死海の西側の荒野にいる烏で,足が速く,岩から岩へと跳び回ります。あまり速く走り回るので疲れてしまい,すぐにつかまることもあります。

ダビデは追跡の終わる日を待ち望んだ 彼はサウルとの和解を望みました。追い回されることに疲れたのでした。恐怖に圧倒されることもありました(詩64:1,142:3参照)。

絶えずつきまとう敵に対する恐怖の念は,たぶん敵そのものよりも耐えがたいものだったでしょう。一時の感情にかられて出たサウルの優しい言葉が王の本心から出たものではないことを,ダビデはよく知っていました。彼が「敵の恐れ」から救われるように祈ったとしても決して不思議ではありません(詩64:1)。

ダビデが自分の後継者であることを認めたうえで、サウルはダビデにどんな約束をするように求めましたか。

サム上24:20~22

サムエル記上26章の物語を24章の物語と比較してみましょう、

出会いの場所(5~7節)
サウルを殺そうとした人(8節)
ダビデの応答(9,11節)
公表の方法(12~16節)
サウルの応答(21,25節)

ダビデの鋭敏な良心は彼につぎのように命じました。「その行為がいかに悪く,無分別であろうとも,神によって選ばれ,油注がれた指導者を攻撃する権利はだれにも与えられていない」(デービッド.F・ペイン「サムエル記上・下」137ページ)。

ダビデは最後にサウルに何と訴えましたか。

サム上26:24

これは二人のあいだで交わされた最後の言葉となったかもしれません。いのちを尊ぶダビデの態度は,神との親密な関係から来ていました(詩8:4~8参照)。一時的にこの関係を失ったとき,彼は人間のいのちを尊ぶ心も失いました。この事実は彼の生涯に起こる次の出来事のうちに例示されています。

◆あなたがダビデのような立場にあったなら,どうしますか。イエスの勧告(マタ5:43~45)に従って行動しますか,それとも自分の望みに従って復讐しますか。

Ⅱ.ダビデのうそ(サムエル記上27:1~28:2,29:1~11)

サウルとの最後の会見ののち,ダビデはどうしましたか。彼がこのような不思議な決定をしたのはなぜですか。その結果はどうでしたか。

サム上27:1~7

ダビデと彼の部下たちは絶えず逃げ回っていることに疲れていたことでしょう。彼は逃亡生活の重圧についに負けてしまいます。そして,神の導きを求めないで,サウルの主権の及ばないガテの地にふたたび向かいます。イスラエルの最大の敵に保護を求めることによって,ダビデは自分自身と自分の民を危険な状態に置いたのでした。彼は一生,この決定を後悔することになります。

ダビデはどのようにしてアキシをだましましたか。

サム上27:8~12

アキシはおそらく,ダビデがペリシテ人の雇い兵としてイスラエルの町々を攻め,戦利品を取り返すという条件で,彼にチクラグの町を与えたものと思われます。しかし,実際には,ダビデはアマレク人などのイスラエルの敵を滅ぼすことによって,自分の民を助けていたことになります。彼はペリシテ人をことごとく殺すことによって,自分のうそがアキシにばれることがないようにしようと考えていました。

そのうち,ペリシテ人はイスラエルの民と戦うことになります。アキシはダビデを信頼していたので,ダビデの軍事的支援を全く疑いませんでした。有名な詩人,サー・ウォルター・スコットは言いました。「一つのうそをつくとき,私たちの織る織物はからまったものとなるのだ」。

主はどのようにして,ダビデが自分の民と戦わなくてもすむようにされましたか(サム上29:1~11)。ダビデがこの試練のあいだに経験した思いについて考えてください。

ダビデは王位を失いかねない重大な過ちを犯しました。もし彼がここで自分の民と戦っていたなら,彼は明らかに彼らの王となることができなかったことでしょう。

しかし,神は人の心をごらんになります。人間に見ることのできないものをごらんになります。ダビデの信仰はぐらつき,神の目的を見失いましたが,その心にはなお神に真実でありたいという思いがあることを,神は知っておられました。ダビデはこのように言うことができました。「主よ,あなたの怒りをもって,わたしを責めず……わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。……主よ,かえりみて,わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより,わたしをお助けください」(詩6:1~4)。

◆以上の物語は神のあわれみとゆるしについてどういうことを教えていますか。

Ⅲ. チクラグにおける悲劇(サムエル記上30:1~31)

ダビデと彼の部下たちは北に向かい,アペクにいるペリシテ人の軍勢に合流します。そこから帰った彼らは,アマレク人がチクラグを攻め,町を焼き払い,女と子供たちを捕虜にしたことを知ります。

ダビデと彼の部下たちはどうしましたか。ダビデはどこに助けを求めましたか。

サム上30:4~8

ダビデは自分の愚かな行為の結果に苦しみ始めます。一つの誤った決定は別の誤った決定を招きます。大切なものをすべて失った彼は,荘然として立ちすくみます。怒りと悲しみのあまり,民はダビデを石で撃とうとします。そのような極限状態にあって,「ダビデはその神,主によって自分を力づけた」のでした(サム上30:6)。

ダビデは自分のとるべき道をだれに相談しましたか(サム上30:7)。

その結果はどうでしたか(9~20節)。

戦利品の配分をめぐってどんな争いが生じましたか(サム上30:21,22)。ダビデはこの問題をどのように解決しましたか(23 ~31節)。

ここに,ダビデの無我の精神がはっきりと示されています。ダビデは荷物のかたわらにとどまっていた者たち(「銃後の守りを固める者」-24節,リビングバイブル)に応分の分け前を与えたばかりでなく,ユダの長老たちや放浪生活において自分たちを助けてくれた多くの人々にも贈り物をしました。

Ⅳ、魔術に頼るサウル(サムエル記上28:3~25)

一変する光景 サウルが彼の「のみ」(ダビデ)を追いかけているあいだに,ペリシテ人は着々と戦いの準備を整えていました。ここまでは,戦いの大部分はイスラエル人の有利な山岳地域でなされていました。ペリシテ人のすぐれた武器,とくに戦車などは,平地でしか用いることができませんでした。そこで,彼らは今,エズレルの谷の北側に攻撃の手を向けていました。山越えをしないで海岸地域からヨルダン川に到達するためには,どうしてもここを通らなければなりませんでした。

サウルは恐怖におびえました。ダビデがそのなかにいることを知っていたサウルは,ペリシテ軍を迎え撃つ用意をします。神を拒んだ者たちによくあることですが,万策つきたサウルは神の助けを求めます。しかし,神は彼にこたえられませんでした。

サウルはどんな三つの方法によって神のみこころを知ろうとしましたか。

サム上28:6

神から離れたサウル「それは王が,彼自身の行為によって,神に問うことができるあらゆる方法の特典に浴されなくなったからであった。彼は,サムエルの勧告を拒否した。彼は,神が選ばれたダビデを追放した。彼は,主の預言者たちを殺した。天の神が定められた伝達の方法を切断しておきながら,神の答えを期待することができるであろうか。彼は,罪を犯して,恵みの霊を去らせてしまった。彼は,夢または幻によって主の答えを得ることができようか。サウルは,へりくだって悔い改め,神に立ち返らなかった。彼が求めたのは,罪の許しや神との和解ではなくて,敵からの救済であった。彼は,自分自身の強情と反逆によって,神から切り離された」(『人類のあけぼの』下巻359ページ)。

サウルとエンドルの口寄せとの出会いがどのように描かれていますか(サム上28:7~14)。その結果はどうでしたか(15~20節)。

サウルは先に自分で布告したどんな法律を,いま自ら破っていましたか。

レビ20:27(申命18:9~14,サム上28:3,9比較)

神が実際にサムエルを通して語っておられたと考える人は,いくつかの重要な点を見落としていることになります。ご自身が定められた方法を通してサウルに語ることを拒まれた神は,こ‘自身が禁じ,それを破る者に死の刑罰を宣言された方法によって語られることがあるでしょうか。

魔術,占い,死者との交信は,当時の大部分の異教の基礎になっていました。死者を神聖視し,崇拝することは,神の厳しいさばきを招きました。「これらの憎むべき事のゆえにあなたの神,主は彼らをあなたの前から追い払われるのである」(申命18:12)。

さし迫った危機の成り行きを知ろうとする絶望的な思いから,サウルは老預言者の姿をした悪霊に伺いをたてました。そこで与えられた非難と報復の言葉はサウルの滅びと死を早めただけでした。

「サウルは,暗黒の霊に問うことによって,自分を滅ぼした。絶望の恐怖に苦悩する彼は,軍勢を勇気づけることができなかった。….こうして,不吉な予告は実現されるのであった」(「人類のあけぼの』下巻365ページ)。

V. サウルとヨナタンの死(サムエル記上3 1 : 1 ~1 3 , サムエル記下1 : 1 ~2 7 )

サウルの死についての悲しい物語を読んでみましょう。サム上31:1~10

三人の勇敢な息子たちが戦死するのを,サウルは見ます。自らも敵の矢に傷つき,動けなくなった彼は,生きたまま敵の捕虜になるのを望まず,自害します。「彼の生涯は失敗であった。彼は,神のみこころにさからって,自分の邪悪な意志を主張したために,不名誉と絶望のうちに世を去った」(『人類のあけぼの』下巻365ページ)。

ヤベシ・ギレアデの住民は,かつて自分たちを助けてくれた王に最後の敬意を示すために,何をしましたか。

サム上31:11~13

ダビデはどのようにしてサウルとヨナタンの死を知りましたか(サム下1:1~10)。サウルを殺した若者はどうなりましたか

13~16節。

ダビデはここでも,主の油注がれた者に対して深い敬意を表しています。彼はサウルによって憎まれ,追われていましたが,イスラエルの王としてのサウルの地位を尊ぶ心を決して失いませんでした。

ダビデはサウルとヨナタンの死の知らせを聞いて, どうしましたか(サム下1:11,12,17)。ダビデが彼らの死をたたえて書いた「弓の歌」(19~27節)を読んでください。この歌はダビデの精神についてどんなことを教えていますか。

ダビデはサウルとヨナタンの死を心から悲しみました。それは真の寛大さと同情心の表れです。ダビデが自分を苦しめた人をゆるすことができたのは,彼自身,何度となく神のゆるしを受けていたからでしょう。彼が神のみこころにかなう者,またのちにご自分を十字架につけた者たちをおゆるしになるキリストの型と言われるのは彼のこうした特性のゆえです。

まとめ

ダビデは何度か重大な過ちを犯しましたが,神の導きに対する絶対的な信頼を失うようなことは決してありませんでした。一方,サウル王は信仰と悔い改めの心を失い,次第に誤った道へとそれていきました。一時は悔い改めの態度を見せますが,神に心から従うことがありませんでした。彼の悲しい生涯は,かたくなに神のみこころに背くことに対する警告です。

*本記事は、1991年第1期安息日学校教課『危機、変化、挑戦ーサムエル記 上・下』からの抜粋です。

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