全世界の成り立ちの原点に立って【コヘレトの言葉解説 〜すべてはむなしい〜】#2

目次

コヘレトの言葉と創造

「コヘレトの言葉」は、聖書自身がそうでありますように、世界の創造時という原初から始めております。すなわち、この世の創造からです。本書のモットー(標語)であるヘブル語の「ヘベル」(「空しい」)を七度繰り返した後、著者は、修辞的質問、「太陽の下……すべての労苦は何になろう?」と問います。これは、私たちをして、世界的視野の下(「太陽の下」)に位置づけます。「コヘレトの言葉」は、天地創造時のすべての基本要素、すなわち、太陽、地、風、水、人間を、フル回転で活動している形で描写し、私たちの好奇心に刺激を与えるように意図されております。それらの活動にもかかわらず、本当のところ、新しいことは何も起こらないのです。ある意味で、どんな優越も得られません。すべては、無目的のようにさえ見えるのです。世界の「すべては空しい」とするこの美しい詩は、本書全体を貫いている著者自身の思想の潮流を決めている詩句です。

詩人としての著者の技量と、哲学上の意図とが、本書のスタイル及び詩の構成の中に散りばめられております。まず、言葉の繰り返しが見られます。「一代過ぎればまた一代が起こり……」(1の4)、「日は昇り、日は沈み……」(1の5)、「風は……風は……」(1の6)、「川はみな……どの川も……」(1の7)、「海……海……」(1の7)のようにです。多くの動的動詞も繰り返されます。「行く」、「巡る」、「昇る」などです。これらの繰り返しは単調さを回避し、意図されているお勧めにもある種の効果を与えることになります。①

この詩②が言わんとしていることの要点は、すべては繰り返すのであり、それは常に始めに戻って行くのだということなのです。

更に、これらのすべての動作は、決して無作為に列挙しているのではないという点は注目すべきです。これらの動きは、創世記第1章から第2章にかけて見られる創造の物語(創世記1の1~2の4)の連続した順序を反映しております。それはあたかも、歴史がその出発点に戻り、再びやり直しているかのようにです。

1の2 「すべては空しい」            ──創造前の状態(創世記1の1、2)
1の3 「太陽の下」            ──光と大空(創世記1の3~8、第1日、第2日目)
1の4 「大地」           ──「天の下」の地(創世記1の9~13、第3日目)
1の5、6 太陽の昇り沈み、北風と南風           ──昼と夜、季節(創世記1の14~19、第4日目)
1の7 川と海の動き           ──水の中の生命(創世記1の20~23、第5日目)
1の8 見、聞き、話す人間           ──人間の創造(創世記1の24~31、第6日目)
1の9 「新しいものは何ひとつない」           ──創造の完成(創世記2の1~3、安息日、第7日目)

創造された諸要素が、一歩一歩順を追って、絶えることなく、運動を続けているというこれらの例から見ますように、「コヘレトの言葉」は、首尾一貫したメッセージを引き出しております。すなわち、すべての運動は一貫してその原点に戻るのであり、それゆえ、定められた地上という原点を超えて運動することはないというメッセージです。「すべては空しい」(1の2)という標語が、このようにして確証づけられております。「すべて」(ヘブル語の「コル」)という語は、創造の物語の中では鍵となる用語の一つです(創世記1の30、31、2の1、2、3、5)。それは創造された全被造物を包含いたします。この世の諸要素の運動を示すことを導入するにあたっての質問の中で、再び、全世界的視野が打ち出されております。「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦は何になろう」(1の3)。「すべて」という語が、ここではアダム(「人」)との関係で用いられており、全体が「太陽の下」に置かれております。

太陽の下、なんという空しさ

太陽への言及は、「コヘレトの言葉」の中では、特に目立っております。全聖書中で、太陽への言及は131回ですが、その内の35回が本書の中に登場いたします。更に、その内の29回は鍵となる句である「太陽の下」という形で用いられております。そしてこの表現は、本書中で最も頻繁に登場する句であり、しかもこの表現が用いられているのは、聖書中本書が唯一の書です。

一方「太陽の下」という表現は、古代エジプトではひとつの慣用句で、それは、一般には、「下」を表す前置詞の上に置かれた太陽の象形の形で、描写されておりました。太陽の巡りを想起させるこの表現は、ただ単に私たちを、全世界の視点下に置くだけではなく、その循環の継続的な繰り返しを指し示しております。重要なことは、エジプトの慣用句では、「規則的に」とか、「毎日」を意味していたという点です。太陽の下での私たちの状況は、無限の繰り返しと、しかも、私たちは、何ひとつ新しい生産物の決してないところに追いやられている状態なのだ、ということなのです。

ですから、「太陽の下」というとき、著者はただ空しさのみを見るのです。「ヘベル」(「空しい」)が用いられている位置を、創造の物語と平行させて比較してみますと、興味深い事実がわかります。「ヘベル」は創世記では、創造が始まる直前の状態、創造以前の段階(創世記1の3)に相当するところを表すのに用いられております。この創造以前を、創世記では、「地は形なく、むなしく〔トーフー ワボーフー〕、やみが淵のおもてにあり」(1の2、口語訳。新共同訳では「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」、訳者注)と描写しております。「ヘベル」の同じ意味が、聖書の他の場所で確証づけられております。それは、「形なく(トーフー)」と「暗闇(ホシェク)」とに、「ヘベル」が関連づけられているところにおいてです。イザヤ書の中で、「トーフー」(「うつろに」と訳出)が、「ヘベル」(「空しく」)と、同義的並列で関連づけられております。「わたしは……うつろに〔トーフー〕、空しく〔ヘベル〕、力を使い果たした」(イザヤ49の4)。同様に、「コヘレトの言葉」では、死産の「その子は空しく〔ヘベル〕生まれ、闇〔ホシェク〕の中に去り」(6の4)とあります。

もしも私たちが、「ヘベル」という言葉を、これらの関連の中で解釈するなら、それは単なる「空しい」以上のことを意味することとなるでしょう。それは、創造以前の状態を指していることになります。私たちは、「トーフー ワボーフー」を超えては活動していなかったのです。それは、あたかも創造という出来事は、起こらなかったかの如くです。世界のすべては、空しい状態なのです。この見方が、この世界の実験場で試験されることになります。世代から世代の代替わりや、太陽、風、河川、そして言葉においてです。

ただ移り行く世代

ある世代が来ますと、すぐにそれは過ぎ行きます。来ると行くというこの周期的な考えは、ヘブル語の「世代」(ドール)の中に、すでに内包されていて、その主要な意味は、「円」です。③そして、世代のサイクルは、継続的に更新されます。この過程は永続的です。それはいつの時代でもこの様になるでしょう。世代という言葉を通し、ヘブル語は、永遠という概念を表します(「代々」〔出エジプト記17の15〕を参照。口語訳は「世々」で、17の16、訳者注)。しかし、「コヘレトの言葉」においては、「世代」は永遠を意味しません。そうではなく、「一代過ぎればまた一代起こり」(1の4)という動きは、各世代をいつも過ぎ行かせてしまうという意味なのです。

この、移り行くという動きを描写しているもろもろの言葉は、「死」を表す概念に属します。「行く」という言葉は、しばしば死を意味しますし(1の4、3の20、5の15等)、この言葉が、ここでのように、「来る」との概念の言葉と一緒に用いられる時には、それは常に死を意味します(5の15、16、6の4、11の9、10)。「コヘレトの言葉」においては、世代が代わるとは、死を表していることなのです。

「永遠に耐えるのは大地」(1の4)と「コヘレトの言葉」は言います。ただひとつ残されるのは大地だけであると。しかしこれは、古代エジプト人が信じたような、現在の命が永遠にまで延長されて行く命の、永遠ではありません。むしろ、命の空しさと人類歴史の地上的空しさに、起因している永遠です。すなわち、死の永遠性であり、永遠でないものの永遠なのです。

太陽の昇り沈みと風の巡りの繰り返し

太陽、それは地球の果てにまで行きますが、それにもかかわらず、それは常にその出発点、すなわちそれが昇った所、東に「あえぎ戻り、また昇る」(1の5)のです。④太陽のこの循環は、再度それが始まったところですべてが終わるとする、「コヘレトの言葉」の意図していることを示しております。著者は、太陽が東で始まり東で終わると言います。一方私たちは、エジプトの伝統的考えがそうでありますように、⑤それは西で終わると言われるのを期待します。太陽は、目的地である「その場所」というゴールを目指して、あえぎ苦闘している競技者と比較されております。「場所」と訳出されるヘブル語は「マコーム」で、それは一般に、世界という文脈の中で使われていて、それは発祥の地(創世記13の14~17)、あるいは約束の地(エゼキエル21の35)を指す可能性があります。⑥太陽は東方に、すなわち、発祥の地、約束の地に向かって、あえぎ急ぐのです。アクセント全体は、この到着地点である「その場所」におかれております。しかし、期待はずれで、私たちは、今なお同じ場所、すなわち、日の出という同じ段階に戻っただけなのです。すなわち、何も成し遂げられてはいないのです。皮肉にも、人生の希望に対するもろもろの理想を、日の出と結びつけて考えるエジプト伝統に反し、ここでは日の出は、再び、私たちをこの世界の出発点に連れ戻すのです。そこは、創造が未だ始められていない原点です。「空しい」ということが永久に貼りつけられてしまっているような、絶望という概念が伝達されている地点へなのです。

太陽が、日々の過ぎ去りを生み出しますように、風は季節の過ぎ去りを生み出します。ヘブル語原典における6節には、「向う」とか「巡る」などの動詞に主語がありません。この節では、風の動きが南に向かいと言われておりますが、本節の動詞の主語が、太陽である可能性もあり、そのようにいたしますと、6節は可能性としては、5節の太陽の動きの延長であるとも考えられます。しかし、この可能性を考えますと、6節の意味がわからないままになります。この太陽と風との間の関係は、風の向きに関し、ただ南と北の方向だけが、言及されているという異常な事実によっても、考えさせられるところです。このことから、南と北の風の動きと、東と西の太陽の動きとは、互いに補完関係にあり、これらによって世界の全方向を示しているとの提案も考えられております。

その上、南と北の方向の風の動きと、東と西の方向の太陽の動きとの間の類似点は、気候の性質の一致を示唆しております。太陽の熱と光をもたらす東は、南に相当し、そちらの場は、熱及び光度(ヨブ記37の17)に関係いたします。夜の冷たさをもたらす西は、北に相当し、そちらの方向は、冷たさと暗さの場であり、雲と雨(箴言25の23)に関係いたします。過ぎ行く日々のように、季節も変わり、最終的には、その出発点に戻る(へブル語の「シャブ」)のです。実に、風の四度にわたる行きつ戻りつの動きは、その出発点は北であり、その最終的方向がまた北であることを示唆しております。それは次のようです。

1 「風は南に向かい」──南方向へ(北から)

2 「北へ巡り」──北方向へ(南から)

3 「めぐり巡って吹き」──南方向へ(北から)

4 「ただ巡りつつ、吹き続ける」──北方向へ(南から)

このすべての撹拌(かく はん)は、一体何なのでしょうか。何も無いのです。これらすべての季節の変化は、私たちを前進させるものではないのです。なぜなら、私たちは、なおも、出発点で終わるからです。北、そこは、風が元来出て来たところだからです。さて、聖書的伝統からしますと、北風は、破滅と関係しております(エレミヤ1の14、46の20)。⑦私たちは未だ、破滅を特徴付けている混沌の段階にいるのであり、地のゼロ地点を越えて前進してはいないのです。重要なことは、破滅をもたらす風、北風は「ヘベル」と同じことなのです。

同じような川の流れと尽きない言葉

川の絶え間ない流れ注ぎにもかかわらず、海は決して満ちることはありません(1の7)。この考え方は、古代中近東の世界観を代表しており、人々は、すべての川が流れ込むような巨大な原始の海洋(「海」)によって囲まれている大地を思い描いておりました。⑧

これは、世界創造時の構成要素によって他のところで教えられたのと同じ教訓です。すなわち、これらすべての絶え間ない活動にもかかわらず、私たちは進歩しません。私たちのあらゆる苦闘の終わりに至っても、未だ創造以前の段階なる世界のゼロ地点にいるのです。しかし、このイメージは、より悲劇的様相をもたらします。まず第一に、この運命が不可避であることがわかっているという点です。なぜなら、もろもろの川の水は、その元来の性質上、原始の混沌と同じだからです。それゆえ、彼らは、新しい何ものをも生み出し得ないのです。それらは原始時代からの水に端を発しているだけではなく、彼らはまさに原始の水なのです。しかし、第二に、そしてもっと重大なことは、その川が元に戻っても、そこには、絶望が横たわっているだけです。確かなことは、すべての川は海に戻るということです。歴史は完全に失敗です。最後にたどり着いた時の景色は、始めの時のそれと同じなのです。神が混沌と言われた時の(創世記1の1)、あの水で覆われただけの空しい状況と、今なお同じなのです。

最後にもう一つ、人間は今尚、同じ苦境の内にいるということです(1の8~11)。言葉の繰り返し並びに、7節の「川はみな海に注ぐが海は満ちることなく」と8節の「語り⑨尽くすこともできず」との間の構文上の平行関係は、もろもろの川の継続的流れと人間活動との相関関係を示唆しております。海に絶え間なく注ぐ川のように、人間の知恵を表現している「語ること」は「使い尽くされています」(新国際訳では「疲れている」)。語られている言葉は、際限なく無限に注ぎ出されます。それは無数の言葉と概念です。海を決して溢れさせることのない川の流れのように、これらの言葉は決して満ち足らせることはありません。そして海のように、耳は聞いても決して満たされることはないのです。深海の中に永遠に消え去るこれらの川の流れのように、言葉は、人のする論議に何らの寄与もしていないのです。ですから、遂には、人は「語り尽くすこともできず」で、無言となるのです。

人間の言葉を水の要素と関係づけ、従って、これを創造以前の段階と同一視しますと、人の言葉は無であることを意味することになります。言葉が永遠の力を有し、全歴史を支配すると考えた古代エジプトの律法学者たちとは異なり、「コヘレトの言葉」は、言葉の無力さを嘆き悲しむのです。言葉は何も付加しません。言葉は何も言わないのです。このように、人の言葉は、空しい蒸気のような単なる息の域を超えることはなく、何の痕跡も残さないのです。

始まりで、「コヘレトの言葉」は、「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦は何になろう」(1の3)と、問いました。その質問において、「コヘレトの言葉」はこの人間の努力が何かに寄与することができたかどうか、すなわち、何か新しいものを生み出し得たかを問います。その答えは否定的です。「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(9節)というのです。「コヘレトの言葉」のこの答えは、全世界を包含しております。「何ひとつ」(へブル語の「コル」、「すべて」の意)という語は、ここでは、「新しい」を修飾しておりますが、他のところでも、この「何ひとつ」とか「すべて」は、この言葉が用いられるに先立って語られるすべてのことを、包含する語として用いられております(2、3、7、8節)。知恵でさえも、何も新しいことを生み出すものではないと10節で付け加えております。そして、誰かが、新しいことを語るのだと誇ろうとするなら、11節で言われているように、すでに語られていたことを、単にこの人が忘れていたか、あるいは世代の推移の中で、心に留められていなかったからに過ぎないのです。そして、もし知恵の言葉がすでに言われていたとするなら、その知恵ですら、始めにあったことを超えていないことを意味しております。知恵でさえ「ヘベル」なのです。

全世界の疲れを知らないような絶え間ない活動から、深遠な知恵の言葉に至るまで、「コヘレトの言葉」では、すべてを免れさせることなく、すべては空しいと言うのです。あたかも、最初から、いやもっと厳密には、天地創造以前の時以来、何も起きることがなかったかのようにです。それはあたかも、私たち自身が、今なお「形なく、むなしく」(創世記1の2、口語訳)あるかのようなのです。世界の運行は、「かつて起こったことは、これからも起こる」(1の9)という教えを確証づけております。エジプトあるいはギリシャ的世界観における歴史の周期を、「コヘレトの言葉」は、ここで考えているわけではありません。著者が考察を加えていますのは、周期ではなく、静的です、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(1の9)のです。このような、新しいものが何もないとの否定の著しい強調は、聖書の思想とは異質なものです。聖書思想では、むしろ新しいものを確信させることを良しとしております(詩編96の1、エレミヤ31の1、イザヤ43の19)。一方、エジプト文化では、この新しい事柄の拒絶は、非常に一般的な考え方です。しかしながら、エジプト思想では、この考えは永遠という概念を表明しながら前向きであるのに反して、「コヘレトの言葉」では、それが否定的なのです。著者の考えからすれば、歴史は進展しないのです。何も新しいことは起こっていないのです。それゆえ、すべては空しいのです。

「コヘレトの言葉」が熟考しているのは、ただ単に自然界、すなわち日没や、海流についての瞑想的詩であったり、あるいはまた人生の不合理性や馬鹿らしさについての実存的考察というものでもありません。むしろ、著者の視点は、世界全体をその視野に入れております。ですから、彼の論議は、天地創造の物語と共に始めており、この世の存在は悲劇的流産のようなもので、失敗という状況にあるのだと私たちに告げようとしているのです。私たちすべては、創造以前の「混沌」の状態、「すべては空しい」状態にあるのだと告げるのです。この全世界の「トーフー ワボーフー」(「形なく、むなしく」口語訳)という地球の原始時点に立って、熟考する様にと、「コヘレトの言葉」は、私たちを招いているのです。

「コヘレトの言葉」の序論(1の2~11)では、三人称単数で書きすすめられていたのですが、12節からは、一人称単数での描写へと移ります。これまでの、天地創造の御業から寓話や実物教訓を、という論調を片方に置いて、ここからは「コヘレトの言葉」は、知恵について考えるため著者自身に戻ります。わたしは、と著者は言います、「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探求し、知恵を尽くして調べた」(1の13)、そしてまた、「私は心をつくして知恵を知」(1の17、口語訳)ろうとしたというのです。

知恵の探求を極めた結果は!

「コヘレトの言葉」にとっては、この世界の状態は、とても悲劇的なので、知恵を用いることは助けにならないということになります。すなわち、「曲がったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない」(1の15、口語訳)。この世界は絶望的です。知恵は役に立ちません。この世界を良くしようとする人間のいかなる試みも滑稽です。それは何にもなりません。「コヘレトの言葉」は頑強にこれを主張いたします、「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」(1の14)のだと。

では、前述のことは、自らの品性を向上させるために、新年ごとになされるあらゆる抱負や努力は空しいことを意味するのでしょうか。苦痛を柔らげたり、戦争や飢えまた圧迫されている人々を解放したいとする心の、あらゆる高尚な動きや手の業すべてが、空しいということを意味しているのでしょうか。歴史の流れを変えるようなあらゆる偉大な革命は、何も成し遂げていたわけではないとし、これらもまた空しいということを意味するのでしょうか。神の福音を宣教し、世を救うために努力した宣教師たちのあらゆる努力、活動は空しかったということを意味しているのでしょうか。

全くそういう意味ではありません。そのような注解は、道徳的にも、霊的にも到底受け入れられません。このような考え方は、無責任を助長することとなるでしょう。しかも、そのような思考様式は、世の不幸に無関心であるか、単純に別世界を夢見ているような人々にとっては魅力的であるかもしれません。

しかしながら、そのようなことを、「コヘレトの言葉」は、言っているわけではありません。この世のため何かをすることから私たちが身を引くべきだなどとは、ここでの教えが決して言っているわけではありません。「コヘレトの言葉」が言わんとしている要点は、私たちの業そのものの価値についてではなく、その業をなす人間の知恵の価値ということに焦点を合わせているのです。人間の知恵が、諸問題の解決に寄与し得るとする幻想について考察を与えているのです。「コヘレトの言葉」は、世界の運命に関する限り、人間のいかなる知恵も役に立たないのだと主張しているのです。人間の知恵は、あたかも、神の御業に敵対しているかのようであると論じているのです。そして、実に、同じ質問が7章13節にて、再度なされております、「神が曲げたものを、誰が直し得ようか」と。この節では、「神の御業を見よ」と、この世界の運命を明快に「神の御業」に当てはめております。人類の堕落後に神が地に宣言された呪い(創世記3の17、18)を指摘しながら、地の破壊の定めは神によるのだとしているのです。それゆえ、人間のいかなる知恵も、この世界の悲劇的状況を逆転させる助けとはなり得ないのです。この状態は神御自身によって定められているのです。それは、「神の御業」なのです。ここで、「コヘレトの言葉」の著者がその心に思い描いていることは、この世の悪に対する私たちの責任ということでは決してなく、むしろ、私たちの人間的業、あるいは知恵が、この曲がったものに影響を与え得るかもしれないとする考えの愚かしさという点なのです。神が定められた地の運命に関して言えば私たちのいかなる知恵も空なのです。

このような視点は直ちに次節で確証づけられております。この節で、「コヘレトの言葉」は、再び自分自身の人間的知恵ということに言及し、「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは……大いなるものとなった」(1の16)と言います。それは、あたかも、「もし、伝道者であるわたし、すなわち、私以前の誰にもまさって知恵のあるわたしが、その問題を解決できなかったのであれば、より劣るお前たちの知恵が、問題解決に有効であるなどとはいささかも考えてはならないのだ」と宣言しているようなことなのです。ここに、この伝道者はいささか皮肉をこめて告げているのです。彼は10節で、誰も、前に存在したいかなる人物よりも、自分が賢明であるなどとは考えてはならないと、私たちに警告したばかりでした。さて、自分自身でそのわなに陥ったふりをして、また彼は人間の知恵についての優越の主張を無効にすることを望みつつも、そのような賢明さを主張する人が必ず現れる可能性を予想しております。しかし、その知恵がどれほど偉大でありましても、人間の知恵は、私たちの根本問題に解決をもたらすことはないのです。

それどころか、人間的知恵の探索はより多くの問題を生み出すに至るのであると、「コヘレトの言葉」は主張いたします、「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(1の18)と。ただ単に知恵が問題を解決しないばかりではないのです。それゆえにそれは空しいのです。そして、より多くの問題をむしろ生み出してしまうのです。知恵の探索はそれゆえ空しいのです。しかし、このことは、知恵の探索、すなわち、理解のための知的探求などはやめてしまいなさいという意味でしょうか。これは、ものぐさや知識人不信への弾みともなるべき考えなのでしょうか。否です。そのようなことを「コヘレトの言葉」はその思いの中で、考えていたわけではありません。彼は決して人の知的努力を無にしようとしていたわけではありません。それはできません。ただ彼は、この業は、神聖なものであることに気付くに至ったということなのです。知的努力は、本質的には人間的なものであるとはいえ、それは神によって人間に課せられた宗教的義務としての資格が与えられているということなのです。「神はつらいことを人の子らの務めとなさった」(1の13)のです。

「コヘレトの言葉」にとって、知恵に対するこの警告は、知恵それ自体を探求することに対してではなく、「悲嘆」とか「悲しみ」といったような、知恵がもたらしている予期せぬ所産に対するものです。現状どおりの現実を明瞭に見る能力は、私たちをより幸福にはいたしません。それどころか、むしろ、それは、怒りや反逆や苦痛をもたらすのです。私たちをして、より批判的にし、あるいはより厳しい者にしてしまいます。確かにそれは、私たちをより服従的でないようにさせるか、より恐れさせたり、苦しみを味わうようにさせたりさえいたします。仮に私たちが、生命を脅かすような重大な病を見いだしたり、あるいは配偶者の不忠がわかったような場合はどうでしょうか。私どもの知恵が増し加われば(すなわち、このような気がかりな真実を知るに至れば)、即、自動的に心配事と苦しみとが伴うことになります。

そうであるなら、しばしば、知らない方が望ましいということになるのではないでしょうか。このような生き方は、しかし、臆病であり、自己欺瞞ということになりかねません。人間存在として、私たちは無知であることによる幸福感より、むしろ、知ることから来る苦痛を選びます。この選択は、私たちの人間性を反映しております。哲学者パスカルは、この知識は、私たちをして自然界や動物を超えた存在とし、私たちを存在させているものであると言っております。「人は自分が死ぬべき存在であることを知っている。動物は知らない」。実に、知的でそれゆえに不幸な人であることの方が、満足していて愚かな者であるよりははるかに良いのです。

「コヘレトの言葉」の教えには、別の真理が含まれていて、文明の中で生きている者たちの心に、衝撃を与えます。過去のいつの時代にも勝って、私たちの歩みでは、毎日のように、狂気と皮肉に満ちている以下の観察の妥当性に遭遇しております。私たちは、知恵と知識の実である近代化と進歩発展とは、もろもろの問題を解決してくれ、私たちの生活を簡素化し、安楽にしてくれるであろうと期待しました。しかしながら、知識が増大すればするほど、ますます「悩みは深まり」(1の18)、より多くの問題を生み出し、更には人生をより複雑なものにして行くことを経験して来ているのです。

20世紀への変わり目においては、科学は輝かしい約束に満ちておりました。私たちの問題の多くに終わりをもたらすことになるであろうと期待し信じておりました。しかし実際は、確かにある種の問題は過ぎ去りましたが、古き良き時代の過ぎ去りを悲しませるような、一連の他の付随したものがやって来ました。その時には、働きは遥かに容易であったし、より人間味を帯びた交流があり、また、一般的に言って、遥かにストレスの少ない歩みでもありました。進歩ということから来る損失を嘆き悲しんでいる、この望郷の念の歌がいつも歌われております。「コヘレトの言葉」は、そのことを示しているのです。その時以来何も変わってはおりません。私たちは前進し続けまた言いわけをし続けております。あたかも、忘却してしまっているかのように、あるいはまた、今なおより良いことを成し得ると信じているかのようにして歩んでおります。しかし、歴史が証言していることによるならば、進歩と知識の増大に関する限り、正と負の両面価値ということが避け得ないパッケージの一部であることがわかります。従って、二つの相対立する力の間の微妙なバランスを「賢く」保って行くことに望みを託して、進歩による生活を楽観的に受け入れていった方が良いことと思います。

古い風刺的な漫画のひとつに、飛んでいる飛行機を見上げながら、飛行機と一緒に歩いている一人の男を描いているのがあります。彼は空気中にこのような物体を浮かべていることの安全性について怪しんでおります。しかし、上を見上げて余計な心配をして歩んでいる内に、彼は地上に空いていた穴に落ちて死んでしまいます。ですから、私たちは、あまり要らぬ心配をすべきではないということになるでしょう。勿論、進歩の否定的な側面が優勢になったり、また突然に、進歩のもろもろの武器によって残酷にも進歩が止められてしまったりするに至るまでのことですが。今日、いよいよ、かつてなかったような大量破壊兵器の時代に入って、この種の心配は、全世界的広がりで騒がれるようになってきております。「コヘレトの言葉」の告発から除外されることのなかった、あらゆる進歩の災難に加えて、全世界的な悲劇の展望が、彼の論議の地平線の彼方に横たわっております。すなわち、地球の原点への帰還です。

「コヘレトの言葉」はこの空しさを呼び覚ましております。倫理がもはや抑制不可能になった時、そして人間が知恵によって仕えられるというより、知恵が目的化しもはや手段とはなり得なくなった時、その時には、人間生活やその尊厳の聖性が、知恵という祭壇に犠牲としてささげられるようになります。「コヘレトの言葉」は知恵のなすこの究極的な結果に関心を抱いております。それは、知恵が究極的解決を提供するとする欺瞞的な考えについてです。知恵の有する究極的誘惑は、知恵それ自身であり、神が私たちに植え付けられた知恵の探求という課題に取り組むことの中で、その賢さをして神のあるべき位置に知恵自身を取って代わらせようとしてしまう誘惑にかられるという点にこそあります。

これが、エデンの園において、エバを試みた誘惑でした。「神は知っておられる」のだと蛇は論じました。「(もしあなたが)それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」(創世記3の5)。エバはそのような考えに魅了されました。このようにして、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ」(同3の6)てしまうに至ったのです。それから後の物語は、私たちの良く知るところです。そして、それが「コヘレトの言葉」の物語であり、私たちの物語でもあるのです。

参考文献

①        C.L.Seow, Ecclesiastes: A New Translation with Introduction and Commentary, the Anchor Bible (NY: Doubleday, 1997), 111, 112を参照のこと。

②        1の2から11までは詩の形。訳者注。

③        この意味は、アラビア語においては確認されており、ヘブル語の「ドール」と関係しているアラビア語の「ダウル」は、「段階」とか「期間」の他に、「回転」とか「革命」とか、または「サイクル」をも意味していることがわかっている。Johannes G. Botterweck,”dor” in Theological Dictionary of the Old Testament, ed. Johannes G. Botterweck and Helmer Ringgren (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1974), 172を参照のこと。

④        「コヘレトの言葉」1の5の新英語欽定訳(NKJV)は、And hastens to the place where it arose(直訳では「それが昇ったその場所に急ぐ」のような訳文になっていて、新共同訳よりも、よりヘブル語原文に近い訳である。尚、原文では、ここで「場所」と訳出したヘブル語「マコーム」が、1の5、6、7で繰り返し使われている(口語訳はこれを「所」と訳出しているので参照、訳者注)。

⑤        エジプトの伝統では、太陽が沈む西は、到着と理解されている。Jan Assmann, Egyptian Solar Religion in the New Kingdom: Re, Amun and the Crisis of Polytheism, Studies in Egyptology (London: Kegan Paul International, 1995), 63を参照のこと。

⑥        Ganberoni, “maqom” in Theological Dictionary of the Old Testament, ed. Johannes G. Botterweck and Helmer Ringgren (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1974), 536を参照のこと。

⑦        エジプト文化の伝統の中では、北風は生命の出発点に関係していることは興味深い。北から来るさわやかな風は、生命の最初の息のシンボルである。エジプトの死者の本(183章の1、5~7)では、死の神オシリスは、北風の息を受ける時に蘇生する。「コヘレトの言葉」の著者は、エジプト人たちのこの伝統的考えを心に描いていた可能性があり、その場合、ある人たちは、創造が未だ始まっていないとする考え方と、北風のこの考え方との相関関係は、意図的ではなかったにせよ、空しいということへの微妙で、皮肉っぽい、暗示ではなかったのかといぶかる。

⑧        Christian D. Ginsburg, The Song of Songs and Coheleth (Commonly Called the Book of Ecclesiastes), The Library of Biblical Studies (NY: Ktav Publishing House, 1970), 363を参照のこと。

⑨        へブル語の「デバリーム」は「もろもろの事柄」と「もろもろの言葉」の両方を意味している。しかし「語り尽くすこともできず」にいる人間、それは口を前提としており、また目や耳との関連に基づき、「もろもろの言葉」との訳をここでは採用することにしている(1の1をも参照)。

この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。

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