「試み」
さて、私たちの人生は、今や「検証」されることになります。「コヘレトの言葉」は、「試み」という特別な用語を用いております。「さあ……お前を試みよう」(2の1、口語訳)と。そして、このテストは、人生における三つの価値、すなわち、快楽、事業、そして知恵とに関係いたします。私たちは、これらの事柄において、何か(良い)ことがあるかどうかを確かめるために、それらの一体何が、私たちの人生を耐え得るようにし、有益ならしめ、有意義なものにしているかを、テストしてみようということなのです。これが、「試み」の目的です。すなわち、「人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまで」(2の3、口語訳)です。「コヘレトの言葉」という書において、天地万物の創造という出来事が重要であることを踏まえ、始めに、「良い」(へブル語の「トーブ」)という語が、本書の中ではどのように理解し得るかを知るため、それが創世記ではどのように用いられていたかを調べてみることにいたします。
創世記では「良い」は「見る」という語と関連して7回繰り返されております。それは、決まり文句、「神はこれを見て、良しとされた」(1の4、10、12、18、21、25、31)としてです。「コヘレトの言葉」の中でのテストは、創造の時のあの「良い」御業から、残されている何らかのものがあるかどうかをチェックすることとなります。結果は否定的です。彼は常に同じ結論、すなわち、「空しい」という一点に帰着するのです。この「空しい」は、創造の物語の時の決まり文句と同様、「コヘレトの言葉」の中で7回繰り返されております(2の1、11、15、19、21、23、26)。このようにして創造以前を描写している状態である「へべル」を、七度思い出させられます。創造以前の混沌状態を表しているこの「へべル」は、人間としての経験を特徴づけているものです。
快楽、それは空しい
幸福のすべての面は、次のテストに含められています。すなわち、快楽、楽しみ、愉悦(2の1)、笑い(2の2)、そして、酒でもって肉体を刺激すること(2の3)。
「コヘレトの言葉」は自分がテストを実施する人であると指定いたします、「わたしは自分の心に言った、『さあ、快楽をもって、おまえを試みよう』」(2の1、口語訳)、「わたしは笑いについて言った」(2の2、口語訳)。「わたしの心は何事も知恵に聞こうとする」(2の3)のように、「コヘレトの言葉」の著者自身が、自分をテストすることになるのです。
彼自身の観察から、そして彼の知恵の助けによって、「コヘレトの言葉」は愉悦は空しく(2の1)、笑いは狂気であり(2の2)、快楽は何も遂行するものではなく(2の2)、また、酒は愚行であるとの結論に到達しております。どんな理由づけも、議論も、また証拠となるものも提示されてはおりません。「コヘレトの言葉」が正しいのだとする唯一の保証は、知恵が常に彼と共にあったのだと主張している点だけです。彼は決して自制心を失っていません。歓喜が、恍惚の域に達し、分別のない状態に至っても、そして、その歓喜の最中にあっても、常に頭脳明晰の状態であり続けている著者でありました。
それで、快楽は空しいものであるとの教訓を導き出したのは、彼自身の内面からであり、主体的なものでした。「コヘレトの言葉」が言及する快楽とは、外因的所産ではありません。自己の快楽の創作者であるのは、著者自身です。彼はありとあらゆる種類の快楽の機会を自分に与えております。王として、彼はそれをなす余裕がありました。「目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた」(2の10)のでした。
今日、ソロモンと共鳴するために、私たちは王である必要はありません。私たちの民主的社会において、そして、私たちの快楽を中心におく文明の中にあっては、「どのような快楽」をも入手可能です。ソロモンはそれらの快楽の質や倫理を分別してはおりません。すべての種類の快楽がそこには含まれていて、無害なものも危険なものも、合法的なものも無法なものも、質素単純なものも最先端技術を導入したものも、はたまたテレビの前に座しての快適な夕べの楽しみなどなどのすべてです。危険なスポーツが与えてくれる興奮するような悦び、人生の糧となるような本を読むことから来る愉悦、讃美歌を歌うことから来る霊的悦び、偉大な音楽に耳を傾けたり、一辺の絵を鑑賞することから来る審美的な喜び、異性や花の香りを愛でることや海で泳ぐことなどから来る官能的な悦びなど。そして、私たちはここで、罪作りなもの、非倫理的なもの、犯罪の快感などに属するようなもろもろの快楽には、言及したくありません。
すべての快楽が、彼の診断の下に置かれています。そして、それらすべてが空しいというのです。このことは、奇妙で衝撃を覚えさせられるものであるかもしれません。しかし、この無条件的診断の理由は簡単です。「コヘレトの言葉」は、快楽の道徳的または霊的価値を問うてはおりません。ただその真実性に関わっているのです。実に、快楽は本質的には、内面の経験であり心の状態です。「コヘレトの言葉」では、快楽の体験は心で生起するとしております。「わたしの心は楽しんだ」(2の10)のです。たとえ、それが感情的なものであれ、感覚的であれ、また知的あるいは心情的あるいは肉体的なものであれ、それは、私たちの心の内側での何かであり続けているのです。しかし、それは、実体ではなく、それ自身の内に実体があるわけでもありません。快楽は、夢、または蜃気楼と同じ性質のものです。それは、幻覚であったり、想像や自己欺瞞の産物であるかもしれません。そのようなわけで、「コヘレトの言葉」は、自分自身の内側からそれを評価し、それが空しいのであることに、その自己の内面から気づくことができたのです。
快楽は、また、時間的要素のゆえに空しいのです。それは、長続きしません。快楽に関する彼の評価は、今という時に属していて、楽しみの経験がなされている間だけ意味のあるものとされます。彼の知恵と洞察力とは、彼をして目覚めさせ、悦びの瞬間を十全に自覚させますので、悦びの本質は今という次元に存在するということになります。それは、刹那的な楽しみです。実に、快楽の体験は短いのです。瞬く間に、悲しみの生活、普通の現実の生活に引き戻されるのです。そして、その悦びの経験が、強烈であればあるほど、その後に訪れる空虚さは、なおいっそう痛ましいのです。
ですから、なぜ多くの人々が、彼らの快楽を持続させるための人工的手段を使おうとするのかを、私たちは理解できるのです。ある人々は、酒を飲みます。「コヘレトの言葉」が快楽と酒とを関連づけておりますように、今日、多くの人々は飲酒の理由として快楽を挙げております。勿論、瞬時に高揚の状態に持っていくような、他の人工的薬物をも追加することができるでしょう。私たちは、これらの快感は偽りであることを知っております。欺瞞と死で満ち満ちております。これらの人工的なもろもろの悦び方は空しさを典型的に示しております。
笑いということでさえ、「コヘレトの言葉」は審査の対象としております。それは、「狂気」であると診断されております。笑いには、不合理な何かがあります。道化師がつまずいたり、冗談に際し、私たちが笑う時、それは、笑いを生み出す状況が、馬鹿げているからです。「コヘレトの言葉」は、正しいのです。笑いは何も遂行しません。それは、生産的ではなく、役立ちもせず、また長続きもしません。たとえ、私たちが良い時間を過ごしても、笑いは、単純な空しさを残すだけです。それはまた、欺瞞的です。道化師の仮面や、あるいは、私たちの爆笑の背後には、しばしば、深い悲しみがあったりもするのです。「コヘレトの言葉」によれば、私たち自身の手によって開始され具現化された、これらすべての悦びは、私たちの敬意や注目に値しません。なぜなら、それらは価値を有しておらず、それらの内には真実性が存在しないからです。
見よ、この手の業、労苦の結果はどれも空しい
業の空しさは、業自身の中にあるのではありません。それは、経験するすべての仕事、すべての蓄財などが、結局は誰か他の人の利益となってしまうだけではないかという危惧の心の中にこそあります。「コヘレトの言葉」では、相続ということが想定されております。「コヘレトの言葉」では、四つの語句の中で(2の12、18、21、26)、この心配事に言及されていて、その内の特に18節に、その理由が明示されております。「後を継ぐ者に残すだけなのだから」と。
ここの聖句は、ソロモン王をほのめかしており、王の業績の概要を示しているようにも思われます。もろもろの壮大な仕事(2の4、9。列王記上10の23と比較せよ)、すばらしい富(2の7、8。列王記上3の11と比較せよ)、彼の銀と金①(2の8。列王記上10の14~29と比較せよ)、彼の牛の所有(2の7。列王記上8の5と比較せよ)、そして、彼が数多くの女性を所有している(2の8。列王記上11の1と比較せよ)といったことどもがそれです。これらに基づいて、前述の(2の12、18、21、26)四つの聖句を考えますと、それは、ソロモンが当面していた相続の問題と、それを取り囲んでいる政治的混乱に関する彼の悩みを反映しているのだと考えることもできます。
それでも、この自序伝的注解を超えて、私たちは、より普遍的な真理に気づくことができます。金銭であろうと、財産であろうと、私たちのなすすべての蓄財は、墓まで持っては行けないということです。自分のために蓄財した愚か者に関する主イエスのたとえ話を思い起こします(ルカ12の21)。彼が死んだ時、蓄えたすべては、彼にとっては無となるのです。
「コヘレトの言葉」は、別の危惧を追加いたします。慎重に蓄えられた宝は、ある日別の者の手に、おそらくは敵対する者の手に渡されてしまうことがあります。彼の業がただ単に、ましな使い方ができないような誰かに相続され、楽しまれるというだけではなく、すべての業が損なわれたり、破壊されたりすることさえあり得ます(2の19)。これらすべての理由の故、蓄えられた富も、何の役にも立たなかったのと同じことになるのです。これもまた、空しいことです。
ソロモン王は多くのことを達成した非常な働き者でしたので、彼自身の業が空しいとする告白は、劇的です。聖書は彼が偉大な建築家であるとして記録しております(列王記上7の1~12、9の15~28)し、「コヘレトの言葉」も数多くの彼の業績を列挙しております。4節から11節までの間に、自分の業績を描写するため、「アサアー」(英訳でmake「つくる」「なす」に相当する語)というへブル語を7回(2の4、5、6、8、11)用いておりますが、②「コヘレトの言葉」は、これらすべてを空しいとしております。
興味深いことには、「アサアー」は、創造物語の中でも、重要な語であります(創世記1の11、12、16、25、26、31、そして2の2、3、4)。しかしながら、両者には根本的な違いがあります。創世記では、「アサアー」の主語が神であるという点です。「コヘレトの言葉」では、「わたしは……建て(る)」(2の4、口語訳)の句が象徴しておりますように、「アサアー」の業の主語がソロモンであり、神に成り代わっております。この句は神殿を造営したことを報告している聖書のテキストの中でも、重要な用語となっております。列王記上第8章13節から20節において、この「建てる」という語が、神との関連において7回使われております。「わたしは……主の御名のためにこの神殿を建てた」。「コヘレトの言葉」では、しかしながら、この句は、ソロモン自身に関連していて、「わたしは自分のために家を建て」たという使い方になっております。ですから、ここの聖句は、神殿の建築でさえも空しいリストに入れられるべきであるとする理由を示しているように思われます。これが、ここで感知されるべき皮肉(あざ笑う蝶を思い起こしてください)な結果なのです。「コヘレトの言葉」がすべての彼の業績が空しいと言っているときに、それらは、しばしば、自己中心の所産であるので、聖なる業でさえも空しいものになってしまうかもしれないのだと言っております。私たちの「神殿の建物」、私たちの敬虔で宗教性に富んだもろもろの業も、実は、自分自身の興味、また、自分自身の栄光のためであるかもしれないのです。
業のその「秘められた」意図が、その働きを無にするものなのです。私たちは、懸命に働くかもしれません。最も偉大で高尚で霊的な事柄のため、そして神のためにと言ってです。しかしながら、私たちのその業が、本当の興味が自分自身にあるのですから、単純に空しいものとなるのです。それで、「コヘレトの言葉」によれば、自分のためであるこれらのあらゆる業は、空であるというのです。それは自分のためと言って努力して得たすべてが、究極的には、誰か他の人のための利益となってしまう故でもあります。
仮に想像してください。私たちが、自分のキャリアを活かし、成功に向け苦闘し、良い評価を得ていたとします。また、神よりの御祝福を得んがため、そして聖なる未来、パラダイスを獲得するため、熱心に努力してきたとします。しかし、そうした中で、自分の将来が、危うい状態にあるということを私たちが知ったときどうなるでしょうか。そうすると、ただ単に私たちの働きの目的が揮われるだけではなく、私たちの人生すべてが揮われます。もし、このすべての熱心な努力が空しいものであったとするなら、私たちは自分の一生を無駄にして歩んでいたことになります。
「コヘレトの言葉」によれば、次のことも、私たちの業が空しいとする別の理由です。すなわち、「一生、人の務めは痛みと悩み、夜も心は休まらない。これまた実に空しいことだ」(2の23)。あなたは人生における自分の成功にとても関心がありましたので、それゆえ、あなたが大切にしようとしたその人生に失敗したのです。あなたは、自分の幸せを求めて、あまりにも懸命に努力したので、あなたはその努力から来る幸せを失ったのです。睡眠や美しい夕陽を見る楽しみ、グルメ向け食事の美味な味わい、または深い瞑想のための機会などを逃していたのです。あなたはまた、あまりにも聖なる働きに全身全霊を傾けていたので、あなたの妻や、子供たち、また友人たちとの関係の質を犠牲にして苦しんで来ました。このような聖なる御業のためとて、人生を楽しむことに失敗することは、正確には、あなたの聖なる業を無にする以外の何ものでもないものにしてしまうのだと、「コヘレトの言葉」は告げるのです。
知恵、これも空しい
「コヘレトの言葉」は、一貫して、真正直ですので、はっきり物事を考え、真理の見分けを手助けする、まさしくその知恵でさえ除外いたしません。確かに「コヘレトの言葉」は、知恵の優れた価値を認めております。「わたしの見たところでは光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる」(2の13)というのです。「コヘレトの言葉」にとっては、闇は死を意味しておりますので(5の16、6の4、11の8)、知恵は、私たちが死を超えて生き抜くための助けになるものと考えられていることを意味します。もしも賢明な人とは、頭の後ろに目が二つあるような人で、一方愚かな人とは、闇の内を歩くような人というのなら、これは賢い人とは、死に耐えて生きることができ、他方、愚かな人とはそれに耐え得ないということを意味するのです。知恵とは、不滅を達成するための「魔法」の処方のようなものであるとみなされています。これがエバを誘惑したポイントでした。知恵を求め、不死の状態に到達し、そして遂には神のようになる、これがエバを誘惑した願望でした。このような思想は、古代エジプト文化では一般的な考えでした。賢人は、彼の知恵の言葉によって、不死の存在とされるのだとする考えです。③
しかしながら、「コヘレトの言葉」の場合、このような考えではないことを告げております。賢者、愚者の、「両者に同じことが起こるのだということを」(2の14)知っていると言っております。愚者同様、賢者も、共に死ぬのです。ですから、賢くあることの妥当性について「コヘレトの言葉」が問うているのは、極く当り前のことなのです。すなわち、「より賢くなろうとするのは無駄」(2の15)ではないかと。彼は人生について、次のような言葉を語るほどまでにこれを問題視するのです。「わたしは生きることをいとう」(2の17)。ヨブは、同様の結論に至りました。彼のあらゆる良い業と知恵とが全く役に立たないと断定した(ヨブ記16の17、3の1、20、10の8)後、自分の人生の価値に疑問を抱くようになった結果の結論でした。ヨブ同様、「コヘレトの言葉」の著者は、自殺を試みたでしょうか? 私たちにはわかりません。しかしながら、確かなことは、ヨブと同様に彼は、元来の理由づけを逆さにするような真理を理解するに至ったということです。あなたの知恵は、あなたを救わないのです。あなたの神学的知識も、「真理」についてのあなたの霊的理解でさえもそうなのです。最大の知恵であっても、それは愚かな人や邪悪な人たちに対してさえも、あなたを優位に立たせることはないのです。あなた方すべては死に至るのです。そのような視点に立てば知恵も空なのです。
神からの賜物
創造の時に起こった悲劇的教訓を私たちに教えるため、「コヘレトの言葉」は、天地万物の創造の時の活動のたとえでもって、説教を始めました。神による創造当初の「良い」(「トーブ」)ものであったあらゆるものが、「形なく、空しい」混沌の、「まだ成ってない」状態、実にそれは、人間の業と同定されているのであるが、その「へべル」という状態によって取って代わられたのです。その文脈の中では、快楽や業や知恵も無とみなされております。ところが突然一転し、今扱っている聖句(2の24~26)に至って、この同じ悦びや業や知恵が、今や「神よりの賜物」であると確認されるのです。「コヘレトの言葉」は言います、「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる」(2の26、3の13も参照のこと)と。
快楽や業や知恵が再び登場してまいりまして、この度は天地万物創造時の積極的側面の状況下、直接神に起因していた「良い」(へブル語では「トーブ」)と「与えます」(へブル語では「ナタン」)という、二つの言葉との相関関係の中で現れてきております。これらの二語が一緒に成って、始めて出現するのは、実は創造の物語の文脈の中においてです。ちょうど「良い」という言葉と同様、「与える」という語は、創造物語の中では重要な鍵となる言葉であり、神と創造と生きた人間との間の最初の相関関係を表すのに特別に用いられております。「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。』そのようになった」(創世記1の29、30)。
興味深いことには、この最初の相関関係は、食べ物に関係しております。それは、人の主要な楽しみで、「コヘレトの言葉」の2章24節で言及されております。「人間にとって最もよい〔トーブ〕のは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは 神の手からいただくもの」。天地万物創造という光の中で、神からの贈り物という新しい視点で捉えるとき、快楽も業も知恵も新しい意味を持つようになるでしょう。
快楽の賜物
快楽はもはや、自分自身に良い時を合法的に与えるために、人間によって、人工的に調合された、主観的な人間の経験といったようなものではありません。それは、人間の努力の実ではありませんし、私たちがそれにふさわしいとして自分自身に与える褒章のようなものでもありません。それは神からの賜物なのです。それは恩恵です。快楽の価値を高めるためと言って、人生の理想として、究極の善に至る個人的楽しみを高めるのであるとした快楽主義的考えを、「コヘレトの言葉」が促進しようとしているわけではありません。むしろ、「コヘレトの言葉」が教えようとしているのは、受けることの価値なのです。快楽とは、私たちに与えられているものを見る能力、そして、それを受けとめる能力なのです。
まず第一に、「コヘレトの言葉」では、私たちが、私たちに与えられているもので満足することを学ぶため、謙遜に、また感謝を持って、その賜物を受け取るべきであることを教えております。嫉妬あるいは妬ましく思うこともなく、心の平和と信仰と希望とを持って、私たちは神からの賜物を受け留めるのです。しかも、その賜物を完全に受け取るべきであると、「コヘレトの言葉」は言っているのです。多くの宗教的な人々、とりわけ多くのキリスト者たちは、与えるということに条件付けられ、そのことに余りにも関心を向けさせられていますので、彼らは受け留めるという感覚を失っております。彼らは悦び楽しむことを恐れ、また恥じとさえ感じるのです。自然界に対しても歪んだ見方をしておりますので、彼らは幸せであったり、人生を楽しんだりすることが、罪であると思っているのです。グノーシス主義的異端者であったマルキオン(紀元2世紀の人)による微妙な影響が今なお見られ、多くのキリスト者たちは、物質や美しいもの、また肉体や食べ物、更には笑いなどを悪とみなしているのです。何世紀もの間、キリスト者たちは、万物創造の祝典である第七日安息日を拒絶するように教えられてきておりました。代わりに、日曜日を採用するようにと勧められてまいりました。その日曜日とは創造からの救出を宣言している日だというのです。それゆえ、霊的価値の名において、創造を軽んじるように教えられて来ているのです。
この考え方は、第七日安息日を守りたいと思っている多くの人々にも決して無縁ではありません。ある人々にとって、その幸せとは、自分たちの幸せを意図的に拒絶するところにあります。苦しみを味わえば味わうほど、そして、悲しみを深く味わって行くほど、そしてそれが重大であればあるほど、より聖なる者になって行くと彼らは感じ、より幸せになると思うのです。実際は、これが「コヘレトの言葉」が空しいと呼んでいる種類の楽しみなのです。より正確には、それらは、自分の手によって産み出された喜びであるからです。むしろ、その悦び楽しみは、「コヘレトの言葉」が言うように、「神の手からいただくもの」(2の24)であるべきなのです。
しかしながら、このことは、どんな内容の楽しみであっても受容できるというものではありません。神からの賜物としての快楽という視点からして、私たちの悦び楽しみは、これもまた私たちの創造主からの賜物である倫理的な、人の歩むべき道筋に順応して、それによって照らされるべきなのです。「コヘレトの言葉」は、この条件を後になって、詳しく述べることになります(11の9)。人生を楽しむということは、飲酒することではありません。食欲をほしいままにしたり、また、不適切な性的関係にふけるようなことでもありません。創造主から、私たちは、快楽の賜物を受けるのですから、主が私たちに与えられたように、それを楽しむのです。神の御手からの快楽とは、神のコントロール下にある快楽なのです。
業の賜物
神の賜物としての業、働きは、もはや、私たちを殺してしまうような、成功を目指してひたむきに競争させるような、そのようなものではありません。私たちの家族を我慢させ、また、私たちの仕事の真の理由をぼやけさせるのは、もはや威嚇的なライバルではありません。ここに、神聖な業に従事している行政家たちが瞑想すべきひとつの古いユダヤ伝説があるのですが、それは、バベルの塔に関するものです。その物語によりますと、一つのレンガが落下すると、彼らの神聖な建築(彼らは神殿を建造していたのです)を完成するためのその貴重な素材を取り戻すため、働き人たちは突進したと言います。しかし、ひとりの人が落ちた時には、その人間の安全性も人生も考慮することなく、彼らは働き続けました。働き人たちが、人間の尊厳やその人生よりも、働きの神聖さに人々の関心があると神が知られた時、神は怒られ、その者たちを罰するため地に降りて来られました。
人間を犠牲、踏み台にして神のために働くことは危険です。それは、「ジハード」(聖戦)的考え方や十字軍を引き起こす思考様式へと導きます。同様に、私たちは神の御業に従事しているのだとし、それを、「私たちの聖なる御働き」であるとするような熱心さは疑わしいのです。そうすることによって、私たちは、ただ自分たちと同じように見れる人々、私たちのように考える人々だけを周りに集めることに意義があるとし、他の人々は、神の御業のためこれを除外すべきであると信じるようになりますので、究極的には、民族中心主義や親類縁者びいきのような生き方、あるいはファッシズムをもたらすこととなるでありましょう。実に、ナチス・ドイツのモットーは、「ゴット ミット ウンス」(「神は我らと共に在ます」)でありました。
聖書を見ると、神がイスラエルのために働いておられるのです。神が「彼らのために……戦っておられる」(出エジプト記14の25)、それは「イスラエルが自分自身に栄光を帰することがないため」(士師記7の2、新英語欽定訳)です。創造から、主イエスのご生涯まで、更には、新天地が成るまで、聖書は人類のために働かれる神の物語を記述しております。神のための働きとするいかなる私どもの側での試みも、まさに途方もないことであり、それは、どこにも導いて行くようなものではありません。それはまさに空しいのです。神よりの賜物としての業こそが、神より嘉納される働きです。それゆえ、そのような働きは、情熱と確信と注意深さと責任とをもって遂行される業です。しかし、それはまた、信仰をもって実施される性質のものでもあります。なぜなら、その業においては、そのすべてが、必ずしも私たちに依存しているのではないからです。
ここで、再び、私たちは、神からの賜物の経験を特徴づけている倫理と恩恵との間の緊張関係に遭遇いたします。神の贈り物としての業は、空しくなることはできません。それが神の御業であるからです。安息日が始まる時、たとえ、私たちの働きが未だ終了していなくても、後事は、すべて神のお計らいに託して、ともかくも、私たちは休息に入ります。このことは、安息日を遵守するということに内包されている主要な御教えです。それは、私たちのための神の御業、私たちのための神の賜物を、私たちに思い出させる合図です。安息日は、御神のすべての恩恵の記念となります。その時、私たちは、神が私たちのために、すべてをなしておられることを理解すべき機会を持つのです。
神が人類のため、万物を創造なさっておられた時、そこには、神のために働く人間はひとりもいなかったのです。安息日は、神の御業による、受けるに値しない私たちへの休息という賜物のしるしです。皮肉なことに、時折、安息日の真理を有していると主張している人々の中には、安息日遵守に余りに熱心になる余り、安息という神の賜物を受けそれを楽しむというよりも、その日を神のために聖なる業をする忙しい一日に変えてしまう人たちがおります。「コヘレトの言葉」は、この種の人々に対する警告です。神のための私たちの業は空しいのです。
「コヘレトの言葉」のメッセージは、仕事中毒やストレスまた現代社会の立身出世主義的傾向から私たちを救う倫理を包含しております。働きが神からの賜物であると知ることは、緊張を和らげ、ストレスを取り除くでしょう。その上、この認識はまた、私たちの社会を、貧しさや飢えから救済することになるでしょう。なぜなら、もし、働きが本当に神からの賜物であるなら、その働きの実を、私たち自身のためだけに保持しておくべき理由はなくなるからです。神の賜物としての業は、慈善の義務を内包しております。そして、たとえ私たちが、あり余るほどの富を有していても、また人生に成功を収め、更にまたそのために懸命に労力を費やし努力したということで、それゆえ、それを保持するに値するとするあまたの理由づけがありましょうとも、それらはすべて、なおも神の賜物であることには変わりありません。それゆえ、それを自分の誇りとすることは、きわめて不適当なことです。私たちはただ、自分の手の業だけを誇ることができますが、そのことは空しいこととなるでしょう。その業について心配することもまた、不適当でありましょう。思い煩うということは、すべてがわが手の内にあると考えていることのあかしであり、私たちのなしている働きを再び空しいものの一つに変えていっていることになるからです。
知恵の賜物
神の賜物として考えられた知恵は、無とはならない唯一の知恵であり、実質を有する唯一の知恵です。その理由はまったく単純でかつ明らかです。すなわち、他者から受け、かつ学ぶ能力を持つ者のみが、賢明であり得るからです。古代のラビは、これを次のように言い表しました。「賢い者とは誰か? すべての人から学ぶ人のことなり」(ピルケ アボス 四、一)と。聖書は知恵と知性の座を耳に据えております(イザヤ書50の5、ヨブ記12の11、ネヘミヤ8の3。黙示録2の7と3の22とも比較せよ)。古代エジプト人は冗談に、良い学生の耳は背中に置かれていると強く主張しました。それは、このような良い学生は、背中の方に先生の来られる気配を感じるや否や、そちらに注意を向け、耳を傾けて聴く用意をするからです。④ソロモンは、知恵とは、聞くことのできる能力であると定義いたしました。知恵を神に求めて、「どうか……僕に聞き分ける心をお与えください」(列王記上3の9)と祈りました。彼は、自分に知恵がないことを認めて、知恵を求めていたことに注目してください。この態度はすでに知恵者のしるしです。賢くあるためには、自分自身が賢くないことと、私たちは外からの助けを必要としていることとを知ることです。
聖書の御教えからすると、この聴く技術を修得する唯一の方法は、神からの賜物を通してです。「見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」(列王記上3の12)。この種の知恵は、啓示という範ちゅうに属します。それは、「神の知恵」(列王記上3の28)と呼ばれております。知恵が「主を畏れ敬う」(詩編111の10、箴言1の7)ことと等価であるとされていることは、不思議でも何でもありません。ソロモンにとって、この種の知恵とは、神の御旨に注意を払い、これを「聞き分ける心」であり、それは「善と悪とを判断する」(列王記上3の9)能力を彼に提供したのでした。神から離れて、しかも、知恵者であろうとするいかなる誘惑も、エバを罠にかけたと同じ混乱に導かれてしまうこととなるでしょう。エバは、蛇の陰険な提案の下で、彼女がひとりでそれをやってのけて、このようにして、神のようになる処方を取得し得ると考えたのです。この、自分たちは自分の力で知者になり得るとの考えへの試みは、人類のこうむった最初で、しかも確実に最も根本的な試みなのです。この誘惑は、単に過去の話であるとか、抽象的な神学ではありません。それは今も私たちの内に存する心的傾向であり、態度であり、ひとつの生活様式でさえあるのです。私たちが解決を知っているとしたり、神の国は我が手の内にありとしたり、善と悪との選択が、私たち自身の理由づけだけによって、決定されるとすることは、大いなる錯覚です。
「コヘレトの言葉」はこのような知恵を空しいとしているのです。なぜなら、それは、私たちをして、創造以前の段階まで連れ戻すのです。それは、天地万物の創造はなかったとし、また神は万物の創造者ではないということを暗示している世界なのです。正反対に、神の賜物としての知恵は、「善と悪」とを判断する課題のすべては、神の御手の内にのみあるとし、また救いは神が解決くださると考えるのです。なぜなら神は創造者であるからです。実に、与えたもう神、創造主なる御神の御存在という視点からのみ、唯一、私たちは、「へべル」(「空」)となってしまっている、しかし元来は、「トーブ」(「よい」)であったものを回復することが可能であるとすることができるのです。
参考文献
① 銀と金といった書き方の順序に注目せよ。ペルシア時代になるまでは、銀のほうが、金よりも価値があるとされていた(出エジプト記20の23,申命記17の17を参照のこと。エゼキエル書16の13とダニエル書11の38、43などとも比較のこと)。この事実は、「コヘレトの言葉」が、ペルシア時代以前に書かれた書であることを暗示している。
② 動詞形だけではなく、名詞形をも数えて7回。日本語訳では、まったく判りづらいが、11節以外では各1、11節では3回登場する。訳者注。
③ Lechitheim, vol. 1, 99を参照のこと。
④ Adolf Erman, Life in Ancient Egypt (NY: Dover Publications, 1971), 331を参照のこと。
この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。