欠けているもの
たとえ、私たちがすべてを所有し、しかもそれらすべてを神からの賜物として受けているとしても、それでもなお私たちには本質的な何かが欠落しております。「コヘレトの言葉」は、これを、「人の上にある大きな悪」(6の1の直訳)①と呼んでおります。新国際訳では、これを、「人に重くのしかかっている」何ものかであるとしております。これまでは人生における空しさの理由づけを人生それ自身から取り上げてまいりました。すなわち、金銭の欠乏、権力不足、あるいは単純に人生それ自身の何かの不足といったようなものからです。その欠けていた要素は、私たちの手の届く範囲内にありました。確かに、それは常に私たちのものではないかもしれませんが、それは、この人生の一部を構成しておりました。もしそれが、私たちの手の内になく、それが他人の手中にあったとしても、それは、少なくとも私たちに約束されているものであるか、あるいは重労働を通して私たちが利用可能であるかのどちらかであったのです。
しかし、これらすべてが、神からの賜物として与えられているものでない限り、すべての取得物は空しいものであったことを、「コヘレトの言葉」は明らかにいたしました。さて、再び同じトラック上でありながら、しかし自分自身としては反対方向と見える方向へと更に進み行きます。彼、コヘレトは言います。たとえ私たちが願ったすべてを、すなわち、富や長寿や多くの子供たちといったものを手にすることができたとしても、そしてまた、たとえ私たちがこれらすべてを、合法的に、しかも神のお恵みの故、その御手からの祝福として受けているものであったにせよ、あたかも何も得なかったかのような事柄があるのだと告げております。それはなおも空しい(6の2、3)ことなのだと言っております。そしてそれは、いっそのこと、何も受けとることがなかった方が良かったのだ(6の3)と言うほどまでに、「コヘレトの言葉」の著者は進み行きます。常に欠けている何かが人生にはあるものです。このことを「「コヘレトの言葉」は、人生の両極である生誕と死からと、すべての人間存在のより深いところに存するものから推論いたします。
死という事柄
最初の議論は、自分自身の体験から啓発されております。「コヘレトの言葉」は、富、財宝、名誉(6の2)に言及しながら、それがソロモン王自身の生涯であることをほのめかしております。このことは、ソロモンに対する神の御約束を直接的に示しております。「わたしは富と財宝、名誉もあなたに与える」(歴代誌下1の12)と神は言われました。ですから、これらは、神がソロモンに紛れもなく与えられた純粋な神よりの賜物です。ソロモン自身は求めさえもしなかった賜物です(歴代誌下1の11)。一方、これらの与えられたものの楽しみの果てがどうなるかが、平行聖句である列王記で暗示されております。「わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたって……」(列王記上3の13)と、ソロモンは神から言われていますが、この聖句中の「生涯にわたって」とあります句は、「ただあなたの人生の間、そしてそれを超えることはない」ということを意味しており、そのような意味では、彼の王国が崩れて行くことへのほのめかしが見られ、その王国が外国人であるヤロブアムに渡されることが暗示されているのです。ソロモンは富、財宝、名誉のすべてを神から受けました。彼が望んだものすべて、それは何ひとつ欠けることはありませんでした。それは、「コヘレトの言葉」が自分自身を描写して言っているようにです(2の10)。実に、ソロモンは明らかに列王記上のここの聖句の部分を自分自身にあてはめているのです。そうした中で、彼の評価は否定的です。「これまた空しい」、なのです。
この自叙伝からの教訓は、豊かで充足している神のもろもろの賜物に囲まれていてさえ、尚、空しさにとどまり続けるということです。私たちは死にます。そして私たちが富や知恵や名声において得たすべては、消えうせるか、他の誰かの手に行くこととなります。この空しさの理由は賜物それ自身ではありません。しばしば、その贈り物は受益者を生き抜かせます。その贈り物は神から来ていて、完全な賜物でさえあるかもしれません。しかし、もしも私たちが、それを楽しむため、もはやそこにはいないとするなら、その賜物はどのように善となり得るでしょうかということなのです。
死によって、自分の所有物の割譲を余儀なくされるほど苦しみを与えるものはないということなのです。しばしば、愛用して着用していた洒落たシャツを着る彼はもはやここにはいないのです。そして、私たちがこれを着たとき、私たちは肌で空しさを覚え、また故人をしのぶことになることでしょう。ですから、私たちが理解したことは、賜物の空しさではなく、賜物を享受した人の空しさです。従って皮肉にも、私たち自身が空しいということなのです。その贈り物が空しくなるのは、単純にそれを受ける者自身が空しいからなのです。
「コヘレトの言葉」の言う要点は、私たちが欠落しているものは、私たちが所有しているものではいかんともしがたいことなのだということです。むしろそれは、私たちの存在と関わる何かであり、そこには、決して存在しない何かであり、しかもいつも欠落している何かなのです。「コヘレトの言葉」では、明示的ではありませんが、彼は単純にそれへの渇きに注目しているのです。
生まれるという事柄
次に展開される議論も、ソロモンの経験から引き出されていますが、今回は「コヘレトの言葉」は、彼の生誕にまつわる愛憎相反する感情のような経験をほのめかしております。この不安な体験における肯定的側面は彼の人生の激しさに関係しております。「人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする」(6の3)と著者は言います。神によって約束されましたように(列王記上3の14)ソロモン王は長寿に恵まれました。そして、彼が多くの妻を持っていたことを考えに入れますと、「百」と言う数字に暗示されているようなたくさんの子供をもうけていたに違いありません。
否定的な側面は、バト・シェバとダビデとの間の最初の子供の死と関連しております。ソロモンの誕生は、その悲劇と直接関連しております。ダビデの息子の死を発表した直後、聖書は告げております、「ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた」(サムエル記下12の24)。ソロモンの生誕は、多くのその後に続いて与えられる誕生の可能性を考えさせるのですが、その誕生は、過ちの結果としての生誕とその子供の死とに結び付けられているのです。
ソロモンは、彼の論議の中に、この緊張関係を持ち込み、そしてそれを、祝福であったものを呪いに、そして更に、その呪いを祝福に変換したりするために用いております。たとえ彼が、「長寿を全うした」としても、なおも②「その心が幸福に満足せず」(6の3、口語訳)の状態にあります。ここの聖句は、死の先延ばしを期待しながら、彼が墓を持っていなかったことをさえ示唆しているのかもしれません。③彼の長寿は、満たされた実りの多い生涯でしたが、それでも、流産のように陽の目を見ずに死んでいった子供よりも価値がなかったというのです。④誇張した仕方で、流産の子と数千年の長寿とを秤にかけております。「(流産の子は)太陽の光を見ることも知ることもない。しかし、その子の方が安らかだ。たとえ千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう」(6の5、6)。最初の論議で、「コヘレトの言葉」は、死を空しいことの理由づけにいたしました。今や、彼は、たとえ死がなかったとしても(墓もなく、しかも2000年の長寿であったとしても)、そのことはいっそう悪いと言っております。私たちは全然存在しなかった流産の子の方がはるかによいというのです。
それでは一体、何が欠けているのでしょうか? 一体何が「コヘレトの言葉」の著者にため息をつかせているのでしょうか? もしもそれが、富や財宝や名誉ではなく、長寿の祝福でもないとしたなら、一体それは何なのでしょうか? この問いは、虚空の中に宙吊りにされたままになっております。「コヘレトの言葉」は今、ただその不満足の重さに気づいているのです。
ノスタルジアという事柄
次の段落の最初の節は、連祷のような響きをもっております。それは「コヘレトの言葉」の教えの序文となっていた創世記に関する歌を思い出させます。類似点に留意してください。「人の労苦はすべて(コル)口のため(レ)だが それでも魂は⑤満たされない(マレー)」(6の7、傍線は著者挿入)と、「川はみな(コル)海に(エレ)注ぐが海は満ちることなく(マレー)」(1の7、傍線は著者挿入)との間には用語の類似性が多数観察されます。この二つの節の平行性は、魂(脚注5を参照、訳者注)の無限の不満足という特性が示されております。ちょうど、川が海に流れ下り、しかしなおも海は決して満ちることがないように、人の労苦は口のためであるが、その口は決して満たされることはないというのです。
勿論これは隠喩です。本節は、決して満足しない大食家のことではなく、より深い現実に関わっているのです。本性的に、人は決して満足しないでしょう。どれほど多量の食料を口に入れようとも、それは決して満足させられないでしょう。口が大き過ぎるからでも、満足しない食欲のためでもありません。それは必要が決して満たされないからです。渇きがいつもそこにあるからです。
「魂は満たされない」(新英語欽定訳〔NKJV〕6の7。3節とも比較せよ)の句が、繰り返されております。この魂は、ギリシャの哲学者プラトンによって提示され、それ以来多くのキリスト者やユダヤ人によっても信じられているような、肉体とは分離している存在で、しかも肉体の内に閉じ込められているような霊的要素と考えてはなりません。ヘブル語原語の「ネフェシ」は明瞭に、生きた存在全体を指します。創世記では、「ネフェシ」は、神の創造の力動的なプロセスにおける最終結果の存在として理解されており、人間の身体の中に挿入された別個の要素としてではありません。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。こうして人は生きる者となった」(創世記2の7)。ここで「者」と訳出されているヘブル語原語が「ネフェシ」であり、「コヘレトの言葉」はこの語を用いているのです。魂という時、聖書も「コヘレトの言葉」も、理解しているのは、これは生きている人そのもの、すなわち私たち自身以外の何者でもないのです。
「人が魂を持っているのではなく、彼が魂である」と言われているのです。同じヘブル語の「ネフェシ」が、6章2節で用いられていて、これを新英語欽定訳(NKJV)の聖書では、「彼自身」と訳出しております。⑥その言葉において、人間のすべての次元が暗示されております。本節はこのことをはっきりと証明しております。魂は、肉体的欲求ばかりではなく、霊的熱望も持っております。魂は彼が望むすべてを何ひとつ欠けることなく持っています(6の2)。これには肉体的なもろもろの欲求を含みます。食べ物(6の7)への欲求、あるいは何か見えるもの(6の9)、しかし、それはまた、「名誉」(6の2)、あるいはどのようなものであれ何か「幸福」(6の3、口語訳)であるものを待ち望むといった、霊的願いをも含みます。
人のすべての部分が、その願いということに関係していることは注目に値します。口(6の7)、目(6の9)、そして包括的に人(6の2)です。従って、「コヘレトの言葉」が「魂は満足しません」と言うとき、それは人間全体が、充足していないことを意味しているのです。その必要は、もっと多くということではなく、ここにはない何かであり、他の何かに対してなのです。
魂のこの憧れを表現するために、「コヘレトの言葉」は、「(魂の)欲望のさまよい歩(き)」(6の9、口語訳)という慣用句を用いております。これは、魂(私たちの全存在)が比喩的に別な他の場所に行くことを示唆しております。聖書では同様の感覚で心を引用いたします。預言者エリシャがゲハジに「わたしの心がそこに行っていなかったとでも言うのか」(列王記下5の26)と尋ねたとき、彼は自分の思いがある所にはどこへでも自分の心は赴いているという考えを示しております。同様に、「コヘレトの言葉」では、指摘されている欠落は、ここから、すなわちこの人生からではありません。更に、これは常に欠落しているのです。この必要感自身は無限という資質を持っております。誰もその満たしを提供できません。賢い人でさえ不可能です。愚かな者より賢明であるにせよ、この事柄については愚かな者以上のことをなすことはできないのです。(6の8)。神の神秘に近づくことができる(少なくとも彼はそうできると考えている)神学者さえ、知ることはできません。
そうであるなら、この主題に関し、「言葉」⑦を増加させようとする努力は不合理で、愚かしいことです。なぜなら、これらのすべての言葉は、まさに「空しさも増す」事以外の何ものでもないからです。もしも、私たちがヘブル語の「へべル」(「空しい」)が、実際は「蒸気」を意味していたことを思い起こしますなら、私たちはここに、生きた皮肉な隠喩を持っていることになります。それについて、話せば話すほど、ますます蒸気が立ち込めるのです。そしてそれは、それ以外の何ものでもないのです。高邁な神学的説教は助けにならないのです。それらはまさに、混乱に新たな混乱を追加するだけとなりましょう。
欠乏しているものとは、それは、他世界の秩序に属しているものなのです。賢い人も愚かな人も共に同じ問題を持っているのです。彼ら両者は、同じ無限の不満足というもので巣くわれております。彼らは共に、決して得られない何かを欠乏しているのです。決して抑えられないこの渇望はすべての男性とすべての女性にとってそうなのです。
新約聖書において、主イエスはサマリアの女性との会話の中で、この渇きをほのめかしております。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ4の13、14)。黙示録の中で、この渇きが再び言及されており、それは何かというと、神を求めてやまなかった人類の渇望であり、それが遂に征服されることになるとの預言です。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21の6。22章1節とも比較のこと)。このイメージは、「スコト」(仮庵の祭)の文脈の中でも現れております。その祭で、ユダヤ人たちは人生の中の一時的特性ということとの接点を持っている時であり、空しい感じの暗示があります。その祭りでは習慣的に、祭司が朝夕の犠牲の捧げものの時間帯に、金の水差しの器にシロアムの池から水を汲んだのです。人々は「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」(イザヤ12の3)と歌いつつ、その祭司の帰りを迎えました。⑧ここでは、すべての人間に共有される一つの徴候に、私たちは触れさせられるのです。すなわち、時折誰をも捕らえる小さな抑うつ、それは私たちの間の最も強靭な人でさえも陥る状況です。私たちすべての者は、同じ心の渇きの訪れ、同じ心のピンチに当面し、それによって、私たちの本質的なものは、この世界からではないことを思い出させられ続けるのです。本節のメッセージは、C・S・ルイスの言葉の中に共鳴しております。
「生き物たちは、彼らの欲望への充足が存在しない限り、欲望を持って生まれてはきません。赤児は空腹を感じますが、それはそこには食べる何かがあるからです。アヒルは泳ぎたいのです。そうです、そこには水のような何かがあります。男は性的衝動を感じます。そうです、そこには性の何かがあるからです。もし私たちの内にこの世でのどんな経験も満足させ得ない願望を見いだすなら、最も可能性のある答えは、私たちは別な他の世界のために創られていたのだということです。」⑨
言い換えると、この世界でのどんな体験も満足させることができないこの願望は、ここ私自身の内に、「別の世界」の何かがあるという証拠となるということです。
第6章の最終行は、「太陽の下」での「影」(6の12)のイメージを用いて、同じ教えを示唆しております。「コヘレトの言葉」は人生の日々を影と比べております。「コヘレトの言葉」が人間の一生の後はどうなるのかを教えてくれ(6の10)との問い、すなわち影の後に来るものを⑩修辞的に問う時、彼は別の現実の存在という希望を指し示し、それを断言しているのです。それは、失われた創造時の「良い」ものへのノスタルジア(望郷)でもあるのです。⑪同じ節の中で、「コヘレトの言葉」の著者自身はその「良い」ものに言及しております。しかし、彼はこの世では、それを捉え得ないと言っております。「幸福とは何かを誰が知ろう?」(6の12)と。この誰もいないのだとの否定的答えを想定しての修辞疑問は、また自分に向けての皮肉です。なぜなら、幾たびとなく「コヘレトの言葉」はその問いに答えているからです。彼はまさに、同じことを次章でもなそうとしているのです。
参考文献
① 新共同訳では、「不幸」という語が用いられているが、原意は「悪」の意味の語である。訳者注。
② これは、強調の「ワウ」である。Bruce K.Waltke and Michael P. Oconnor, An Introduction to biblical Hebrew Syntax (Winora Lake, Ind.: Eisenbrauns, 1990), 649を参照のこと。
③ 聖書中、ここの聖句の他で、墓がないことに言及されている唯一の聖句は、モーセの墓に関するもので、それによって彼は死を知らなかったということを暗示しているという(申命記34の6)。
④ ダビデ王の初子は死産ではなかった(この子は生まれて七日目に死んだ)が、この子は生まれる前から、死ぬとの宣告を受けていた(サムエル記下12の14)。ヨブが「流産の子」を語ったようにして、「コヘレトの言葉」の著者は、誇張法的手法をもって、著者自身を死産の子として、表そうとしていたのかもしれない(ヨブ記3の16、11をも参照)。
⑤ 興味深いことに、日本語の口語訳も新共同訳も共に「食欲」と訳出しているヘブル原語は「ネフェシ」で、新英語欽定訳(NKJV)はこれを極自然に「魂」と訳出している。文脈からは日本語の諸訳も可能ではあるが、NKJVの訳の方が原語からすればより原義に忠実な訳と言えよう。そして、デュカーン博士はこのNKJVの訳を基にして、更にはヘブル原語を考慮に入れて論をすすめている。訳者注。
⑥ 口語訳では「心」と訳出。新共同訳では「人」に含む形で訳出している。訳者注。
⑦ ヘブル語の「デバリーム」の訳(NKJVの「もの」とは異なる)。新国際訳(NIV)の「言葉が多くなればなるほど、意味が少なくなる」(6の11)と比較せよ。
⑧ Babylonian Talmud, Taanith 5a; Tanhuma, Pekudei, 1を参照。
⑨ C. S. Lewis, Mere Christianity (NY: Simon and Schuster, 1966), 121.
⑩ NKJVでは「彼の後」と訳出されているこの句は、人間か影かのどちらかに関連づけることができます。あるいは両方でもあり得ます。人間は影だともいえるからです。「太陽の下」 という表現における太陽という事への喚起はまさに太陽そのものを参照せよと言っているのかもしれません。
⑪ 使徒パウロの次の言葉は同じ事をいっているのです。すなわち、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔を合わせて見ることになる」(Ⅰコリント13の12)。
この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。